16.ローウェル領③
「パティ先生、それ何ですか?」
イアンは紙に描かれた幾何学模様を指差して尋ねた。
その模様の上には、お湯がコポコポと音を立てて沸騰するビーカーがあった。
「これですか~?これは魔方陣ですね~」
「魔方陣?魔法と何が違うんですか?」
「魔法は術者の魔力を使いますよね~?一方で、魔方陣は空気中の魔力を取り込んで機能を発揮します~。魔法に比べると効果は落ちますが、持続性があるので意外と便利なんですよ~」
「では、その魔方陣はお湯を沸騰させるものですか?」
「正確に言えば、魔方陣の範囲にある物体をお湯の沸騰する温度まで加熱する魔方陣です~。といっても、お湯を沸かすくらいにしか使わないですけどね~」
パティはビーカーを手に取り、そのまま中身をカップに注いだ。
まだ講義中のはずだが、コーヒーのいい香りが漂った。
「魔方陣は俺にも使えますか?」
「魔方陣を描くだけなら誰にでもできますよ~。でも、描くだけじゃ発動はしませんね~」
「発動に条件があるんですか?」
「はい~。魔方陣を発動するには魔力を注ぎ込む必要があります~。だから、魔法を使えなければ魔方陣も使えません~。ちなみに、魔方陣を止めるときは術者の魔力を再度注ぎ込みますよ~」
パティは魔方陣に指先で触れ、少しお湯の残ったビーカーを置いたが、再び沸騰することはなかった。
(魔方陣を使うにも準備が面倒だな。これなら普通に魔法を使った方が早いな)
イアンはそう心の中で結論づけた。
「パティ先生、その魔方陣を写させてもらっていいですか?」
イアンの後ろからレイが顔を覗かせた。
「どうぞ~」
「ありがとうございます」
礼を言って、レイはノートに魔方陣を写し始めた。
「使うつもりなのか?」
「いや、たぶん使わないかな?でも、もしかしたら必要になるかもしれないし、写しておいて損はないと思うよ」
「レイも物好きだな…」
「まさか、あの時の話がこんな形で役に立つなんてな」
「うん、僕も予想外だった。でも、おかげで何とかなったね」
イアンはぐったりとベッドに寝転がり、レイも疲れた様子で椅子にもたれかかっている。
大雪の対応のために領内を駆けずり回り、各避難所にパティの使っていた魔方陣を大急ぎで設置してきたのだ。
馬術部で少しは慣れたとはいえ、長時間の馬での移動はイアンの疲れに拍車をかけていた。
二人が休んでいると、ノックの音がしてクレアが顔を出す。
「二人とも大丈夫?」
「いやあ、さすがに疲れたね。外の様子はどうだい?」
「外はすごい雪だよ。雪の高さがもう一階の屋根を越えちゃった」
「そんなに積もっているのかい?この屋敷の周りはどうかな?」
「それがびっくりすることに、うちの周りには雪はまったくなかったよ」
「それはよかった。ちゃんと魔方陣が機能しているみたいだね」
クレアの報告を聞いて、イアンも安堵した。
魔方陣は板に描いて、建物の屋根と周辺の地面にばらまいている。
この屋敷で機能しているということは、おそらく他も問題ないだろう。
「失礼。レイ君、イアン君はいるか?」
ミックの声が部屋の外から聞こえる。
ただ、イアンとレイは身体を動かす元気がなく、代わりにクレアが扉を開けた。
「クレアもここにいたのか」
「お父さん、どうしたの?」
「レイ君とイアン君に話があるんだが、いいかな?」
「大丈夫ですよ。イアン、身体は起こせるかな?」
「ちょっと時間をくれ…」
ギルバートが興に乗った時の特訓後くらいの酷い疲労感ではあったが、イアンは何とか身体を起こす。
その間にミックはクレアの用意した椅子に腰掛けていた。
「悪いね。休んでいるところを」
「いえ、お構いなく。ところで、お話とは何でしょうか?」
「ああ、そうだったな…」
すると、ミックはイアンたちに向かって頭を下げた。
「この度は二人のおかげで領民が救われた。領主としてここに感謝の意を示す。ありがとう」
「そんな大げさに感謝しなくてもいいですよ。元々、僕らは男爵領には仕事に来ているのですから、このくらいの協力は当たり前のことです」
レイの言葉に、イアンも頷いて肯定した。
「そうは言うが、私たちだけではこの事態にどうすることもできなかった。きっと多くの命が失われることになっただろう。だが、君たちがいたおかげで最悪の未来は回避できた。そう思えば、いくら感謝をしても足りないくらいだ」
ミックは心からの感謝の言葉を二人に投げかけた。
レイは一瞬困惑した素振りを見せたが、すぐに返答をする。
「ここは素直に感謝を受け取っておいた方がよさそうですね」
「そうしてくれると助かる。何か礼を用意しよう。といっても、大した品はないんだが…」
「そうですね。では、品ではなく、提案をさせていただきます。もし僕らが助けを必要とした場合、ローウェル男爵は力を貸すこと、というのはいかがでしょう?」
ミックはレイの発言に息を呑んだ。
娘と同い年の少年が出した提案とはとても思えない上、貴族としてその裏を考えてしまう。
「…それはウィルズ侯爵家の派閥に入れということか?」
「いえ、そんなつもりはないですよ。ただ、個人的に協力してほしいと考えただけです」
「…分かった。それならば、いつでも助けを求めてくれるといい。できる限りの力を貸そう」
「ありがとうございます」
レイはにこやかに感謝を口にする。
その表情は、思惑通りになったというような満足したものであった。
「ところで話は変わりますが、これ程の大雪は過去にもあったのでしょうか?」
「いや、私はこの地で生まれ育ったが一度もない。それに過去にこのような大雪があったとも聞いたことがないな」
「となると、魔女の仕業かもしれませんね」
「魔女だと?」
「はい。確か、“天空”の魔女は天候を操ると聞いたことがあります」
「なるほど、可能性としては考えられるな。しかし、何故この地に大雪を降らせたんだ?」
「それは分かりかねます。何か意図があったのか、あるいはただの気まぐれか。魔女の思考は人間とは違いますからね」
「それもそうか。ただ、魔女が関わっているかもしれないとなると、国に報告を挙げた方がよさそうだな」
「ええ、そうするべきかと思います。それから…」
レイとミックの話し合いはまだまだ続くようだった。
イアンは二人の会話に耳を傾けていたが、睡魔に襲われ静かに意識を手放した。




