100.リンダ
かつてのスラットリー男爵領は非常に貧しく、領主である男爵家でさえ、日々の食事がままならなかったと聞きます。
父は貧困から脱することを目指し、当時男爵だった祖父の反対を押し切り、商売をすると決めたそうです。
何の元手もない状態から始めたということでしたから、軌道に乗るまでは大変な苦労をしたと思います。
ただ、おそらく父には商才があったのでしょう。
その規模をあっという間に拡大させ、わずか数年で商会を立ち上げるに至りました。
父は男爵となった後も商会の発展に力を注ぎ、今もなお、領地を豊かにし続けています。
そんな家に生まれた私は、幼い頃から商売のいろはを叩き込まれました。
兄や姉たちは嫌気が差していたようですが、私は商売に面白さを見出したものです。
領内にある商会本部にも足繁く通い、従業員の方々とも顔馴染みになりました。
また、子どもながらに、有能そうな人を見つけては声をかけて回っていましたね。
私はそのまま商会で働くつもりでしたが、ある時、父からイフリート王立学園に入るよう指示を受けました。
学園には貴族の子女が多く通いますし、商会の名を売り出すとともに人脈を作ることが私に与えられた使命だと解釈し、迷わず承諾しました。
ですが、後に母に聞いた話だと、父は私に同年代の友人がいないことを危惧していたとのことです。
確かに周囲は大人ばかりでしたが、特に困っていませんでしたし、むしろ必要ないとさえ思っていました。
まあ、クレアに出会ったことでその考えは改めましたが…
クレアは貴族にしては珍しく、裏表のない子です。
その明るさと優しさゆえ、彼女と親しい仲になるにはあまり時間を要しませんでした。
クレアのおかげで友人の大切さを知ったといっても過言ではありません。
そして、彼女をきっかけとして、学園に多くの友人・知人ができました。
その内の一人にイアンがいるのですが、彼の第一印象は無愛想・不躾・偏屈。
出会った当初は、良好な関係を築けるとはとても思えませんでした。
そんな彼への目の向け方が変わる転機となったのは、精霊祭での誘拐未遂事件。
イアンたちの尽力により事なきを得られましたが、その時の彼の姿に、私は彼を誤解していたことに気が付きました。
偏見で彼を評価していたと自省し、客観的な視点をもって彼の人格・能力・思想などを数年かけて彼を見定めた結果、私の中でイアンは信用に値する人物だと判断したのです。
そういった経緯もあり、イアンには私の行商の旅に同行してもらうことに決めました。
旅が始まると、イアンは戦闘面だけでなく、荷運びや馬車の操縦など様々な面で私たちを支えてくれ、その働きは期待以上のものでした。
さらに、イアンは早々に“鉄の牙”の方々と打ち解け、商隊に和やかな雰囲気をもたらしました。
おかげで旅は順調に進み、商売も上々といった成果を得られ、これ以上になく充実した行商だったと思います。
だからこそ、ミアに裏切られた衝撃はあまりにも大きかったです。
彼女は“血塗れの大蛇”の幹部であり、私を攫うために商会に潜入していたようでした。
商隊の人員の生存は絶望的。
私自身は囚われ、救出の見込みはなし。
薄暗い地下牢に、もはや希望はありませんでした。
しかし、すべてを諦めかけた私の前に、イアンは現れたのです。
彼が生きていたことに安堵したのも束の間、ミアは私を人質にして逃亡しようとしました。
私は首筋にナイフを当てられましたが、不思議と怖さはありませんでした。
なぜなら、イアンの方が恐ろしいと感じたからです。
素人でも感じられるほど強烈な殺気を纏う彼は、大鎌を携えた死神のようでした。
恐怖でミアは微動だにできず、私はあっさりと解放されました。
ですが、その直後のイアンの行動は目を疑うものでした。
なんと、イアンはミアのナイフを奪うと心臓に突き立てたのです。
躊躇なく人の命を刈り取った姿に、オルガさんの言葉が頭を過ぎりました。
さらに驚くことに、イアンは“カラス”と協力し、“血塗れの大蛇”を壊滅に追い込んだといいます。
信じられませんでしたが、洞窟内の惨状を目にしてしまえば納得せざるを得ませんでした。
そして、イアンの指示で“カラス”は姿を眩まし、私たちは近辺にいた騎士団に保護されることとなりました。
その後、チャールズさんと“鉄の牙”の遺体を引き取って、商会の主導で葬儀を執り行いました。
チャールズさんの奥様が涙を流す様子に、私は胸が痛んで仕方ありませんでした。
父からは敵を見極める目を養えという苦言とともに、私が無事でよかったと温かい抱擁を受けました。
その時に溢れた悲しみと悔しさの入り交じった涙の味は決して忘れないでしょう。
一方のイアンは何事もなかったかのように日常生活に戻っているようです。
よほど精神が頑強なのか、ただ冷徹なだけなのかは分かりません。
しかし、イアンには不可解なことがいくつもあります。
なぜ、彼だけが生きていたのか?
なぜ、“カラス”が彼に従っていたのか?
なぜ、人を殺すことに慣れているのか?
なぜ、あれ程のことがあって“いつも通り”でいられるのか?
疑問はいくらでも湧いてきます。
けれど、だからといってイアンへの信用が失われたわけではありません。
むしろ、今回の件で、彼は私にとって絶対的な味方であることが証明されたといっていいでしょう。
ですが、彼に対して一つ不満があります。
そう、クレアとの関係のことです。
クレアがイアンに懸想していることは、一年生の時から知っています。
レイ君に好きになるというのならばまだ理解できますが、なぜ彼を?という疑問を抱かずにはいられません。
イアンへの恋慕はすぐに冷めるだろうという私の考えに反して、クレアはその想いを増大させていきました。
なので、不本意ではありますが、最近では微力ながら彼女の手助けをするようにしていました。
しかし、クレア自身は告白する勇気がないようで、当のイアンもクレアを一友人としてしか認識していないのです。
そのため、多少の不安はありましたが、しばらくは進展しないだろうと高をくくっていました。
今振り返れば、クレアの行動力を舐めていたかもしれません。
まさか、クレアがイアンをデートに誘い、失恋するとは予想外のことでした。
彼女は気丈に振る舞っていますが、傷ついた心が癒えていないのは明らかで、塞ぎ込んだ姿は見ているだけで辛いです。
イアンにどういった事情があれど、クレアの心を弄んだことには憤りを感じます。
次に彼と会う機会があれば、感謝と一緒にこの鬱憤をぶつけるとしましょう。




