第7話 薔薇の花束とサシェ(1)
施療院に厄介になった翌朝。
シャルロットは久々に、爽快な気分で目覚めることができた。悪夢に邪魔されることなく、睡眠時間をたっぷり確保できたためだ。
バレリアンのお茶を用意してくれた修道女はもちろんのこと、ベリルにも礼を言わねばなるまい。
悪夢を見なかったのは、眠りに落ちるまで彼が傍についていてくれたおかげだ。
朝食を取った後、回廊を歩いていたシャルロットは、昨夜の記憶を辿った。
『君がいない生活なんて、もう考えられない。考えたくもない。それぐらい君を必要としているんだって、覚えておいて』
ベリルの台詞を思い起こしたシャルロットは、茹で上がったかのように顔を赤くした。
自らの存在を認めて欲しかったシャルロットにとって、それはなによりも切望していた言葉だった。
飛び上がりたくなるほど嬉しくなると同時に、なんとも形容しがたい気持ちも湧き上がってくる。こそばゆいような、居たたまれないような、今すぐにでも叫び出したいような心地だ。
落ち着かない気持ちを持て余していたシャルロットは、背後からの呼び声に振り返った。
「シャルロット、おはよう!」
「おはようございます」
こちらに駆け寄ってきたのは、レリアだった。
彼女はシャルロットの隣に並ぶと、心配そうな面持ちをした。
「昨日、体調悪くなったんでしょう? もう大丈夫なの?」
「ええ、ちょっと寝不足が続いて調子が悪くなっただけなんです。不眠に効くお茶をもらいましたし、今はすっかり元気になりました」
「そう、それならよかった! ……あ、そうだ」
回廊を抜けて外に出ると、レリアはシャルロットに近づいて声を潜めた。
「ノエラが今、施療院担当だって知ってる?」
「ええ、知っていますけれど」
ノエラとは、聖女候補のひとりである。幽霊捜索の参加者であり、ヴァネッサと特に仲が良い。
ヴァネッサに付いて回るノエラのことを、レリアは子分のようだと揶揄していた。
「ノエラが言ってたんだけど、あなた昨日、マリユス司教に横抱きで運ばれたんだって? 本当なの?」
「本当ですよ。気分が悪くなった時、ちょうど司教が居合わせていたんです。その流れで、施療院まで運んでいただきました」
「そう。でたらめを言ったわけではなかったのか」
レリアは苦い物でも食べたような顔になった。
「シャルロット。ちょっとまずいことになったかも」
「なにがですか?」
「あなたがマリユス司教に横抱きにされたって、ノエラが昨日言いふらしてたのよ。もちろん、大好きなヴァネッサには真っ先に話したでしょうね」
「それに問題があるのですか?」
「大ありだよ! 司教に誰よりもご執心なのは、ヴァネッサじゃない!」
「ああ、そう言えば……」
確かに面倒なことになりそうだと、シャルロットは眉をひそめた。
ヴァネッサはなぜか、常日頃からシャルロットを目の敵にしている。
その理由に心当たりのないシャルロットとしては、ただヴァネッサの神経を逆なでしないよう努めるほかなかった。
しかしその気遣いも、今回のことで水泡に帰した。
ノエラ共々、ヴァネッサはマリユスにのぼせ上がっており、彼に気に入られようと必死なのだ。昨日のことを知ったヴァネッサから、どんな嫌みが飛んでくるかわかったものではなかった。
「とにかく、これからは気をつけてね。今まで以上に攻撃的に接してくるかもしれないから」
「……わかりました」
シャルロットが憂鬱な気持ちで頷くと、レリアが労るように背中を叩いてきた。
「ま、ヴァネッサたちも<剣の聖女>になりたいようだし、滅多なことはしないと思うけどね。なにかしでかしたら修道院長に報告して、聖女候補から外してもらえばいいんだし」
「そうですね」
シャルロットは賛同したが、あまり気持ちは晴れなかった。どうしてか、嫌な予感が澱のように、いつまでも心の内に残っていた。
そしてその予感は、しばらくしてから的中することとなる。
昼食を食べ終え、自室のある客人の館へ向かっていた時のことだ。
年若い女性が、館近辺の小道をうろうろとしていた。修道服を着ていないため、聖職者ではないようだ。
この修道院には巡礼者や聖職者のための宿泊施設があり、修道女以外の人間も頻繁に出入りしている。
しかしその女性は、宿泊のために来たようには見えなかった。
シャルロットは用向きを聞こうと、彼女に近づいていった。
「あの、どうかされましたか?」
シャルロットが声を掛けると、女性は明らかにほっとした表情を浮かべた。
「ああ、よかった。人がいなくてどうしようかと思っておりました」
「それは失礼いたしました。ちょうど今、昼食が終わったところでして」
「そうですよね、昼時に申し訳ございません」
女性は頭を下げて、用件を切り出した。
「<剣の聖女>候補のシスター・シャルロットはいらっしゃいますか? 私はコベーン統括聖庁の使いの者です」
思いがけない言葉に、シャルロットは驚いた。
「シャルロットは私ですが……」
「ご本人でしたか! ちょうどよかった」
女性は腕に下げていた籠から、花束を取り出した。
「マリユス・エルヴェシウス司教から、こちらをお渡しするようにと申しつけられました」
女性が差し出したのは、八重咲きの薔薇の花束だった。花弁の色は、鮮やかなチェリーピンクだ。
十輪ほどの薔薇には、赤いリボンが結ばれている。
シャルロットは思わずぽかんと口を開けた。
「え……? これを、私にですか?」
「はい。昨日体調を崩されたのですよね? そのお見舞いの品だということです」
シャルロットは信じられない思いで、花束を凝視した。
(あのマリユス司教が、お見舞いを寄越すだなんて)
正直、そんな気遣いができる人間だとは思わなかった。
(いえ、昨日は助けていただきましたし、そのように考えるのは失礼ですね)
自身の考えを打ち消して、シャルロットは眉を下げた。
心遣いは有り難いが、受け取るには少々抵抗がある。体調不良とは言っても寝不足が原因であったし、見舞いの品を贈られるほどのことではない。
そしてなにより、マリユスのことでやっかみを受けようとしている今、彼に関係するものからは遠ざかっていたかった。
(けれど、ここで受け取らないとこの方が困ってしまうでしょうし)
役目を果たせなかったためにマリユスから叱責されるとしたら、非常に申し訳ない。
「あの……受け取っていただけますでしょうか?」
いっかな花束を受け取ろうとしないシャルロットに、女性は不安げな面持ちになった。
シャルロットは慌てて笑みを浮かべると、花束を受け取った。
女性の立場を考えるなら、拒否するという選択肢はなかった。
「はい、もちろんです。ありがとうございます、おかげさまで元気になりましたとお伝えいただけますか」
「かしこまりました」
女性にも礼を述べて修道院の入り口まで送ったシャルロットは、今度こそ部屋へ帰ろうと踵を返した。
客人の館付近まで戻ってきたシャルロットは、視界に入ってきたものにぎょっとして足を止めた。
館の前、先ほどシャルロットたちがいた小道に佇む人物がいる。
(ヴァネッサ)
勝ち気そうな顔を憎悪で歪ませたヴァネッサが、こちらを睨み付けていた。整った面立ちのためか、足が竦むほどの迫力がある。
シャルロットと目が合った彼女は、ふっと視線を逸らすと、館に入っていった。
ヴァネッサの態度に、シャルロットは確信した。
(先ほどのやり取り、ヴァネッサは聞いていたんですね)
胃の中に石を詰め込まれたような心地になり、シャルロットは嘆息した。
せっかく美しい薔薇をもらったのに、素直に喜べないことが悲しい。
シャルロットは俯きがちに、のろのろと館へと歩を進めた。
シャルロットが自室へ戻ると、既にベリルが待っていた。
「おかえり、シャルロット!」
「ただいま戻りました」
にこにこと笑みを浮かべていたベリルは、シャルロットの顔を目にすると眉を曇らせた。
「どうしたの? なんだか疲れているように見えるけど」
「そうですか?」
シャルロットは曖昧に微笑みながら花束を机に置き、椅子に腰掛けた。
「あれ、その薔薇はどうしたの」
「マリユス司教からいただきました。お見舞いの品だそうです」
「ふうん」
ベリルは、どことなく浮かない表情を浮かべた。
「あ、花瓶を借りてこないといけませんね。それか、ドライフラワーにしてもいいかも」
シャルロットはしゃべりながら、ふと思いついた。
(ドライフラワーにして、匂い袋を作りましょうか)
ちょうど、ベリルになにかお礼をしたいと考えていたところだ。
芳香を食べるベリルに、サシェはぴったりの贈り物ではないか。
我ながら名案だと心を弾ませていたシャルロットは、俯いたまま沈黙するベリルに気がついた。
「ベリル、どうかしましたか?」
「え? あ、ううん。なんでもない」
ベリルははっとしたように顔を上げると、ぎこちなく微笑んだ。
「香りの良い薔薇だし、ドライフラワーにすれば長く楽しめていいかもね」
「そうですよね」
――サシェを渡せば、ベリルは喜んでくれるだろうか。
そう考えると、地の底を這っていた気分も幾らか上向いていく。シャルロットの表情は、自然と解けていった。
(待っていてくださいね、ベリル)
じっとベリルを見つめると、彼は不思議そうに首を傾げた。
彼がサシェを受け取る姿を思い描き、シャルロットは知らず笑みこぼれていた。
ヴァネッサって誰だっけ?と思った方へ
第1章第1話に登場する、シャルロットに嫌味を言ってくる聖女候補のことです。




