6 静かな月夜に二人きりで話すこと
仲直りしたのは一週間ほど前という頃の、ある日のこと。
遅起きが完全に習慣化してしまって、険悪でもないのにクライヴと朝ご飯は別々の日々が続いていた。
だから、朝のやり取りは使用人を介して、または、テーブルに置かれた小さな便箋で。
今日は中折り便箋が一枚。開き読み、紅茶を口に含んでなくてよかった、と心底思った。
『今夜は共同の寝室で寝よう』
な、なんじゃこりゃ。
わざわざ事前連絡を入れて寝室に誘う。ということはつまり、そういうことなんだろうけど。
脳内日記をペラペラめくる。結婚してから約三ヶ月間一切何もなかったのに、今さらなんで? 仲直りしたから? それとも結婚三ヶ月記念とか?
疑問すぎて日中はひたすらソワソワ。窓でクライヴの帰宅が見えた瞬間、私は玄関に駆け出した。
「ねえクライヴ、これ、どういうこと?」
「待て、その紙はわざわざ見せなくていい。どうして捨ててないんだ、こんなもの」
便箋を見せたら取り上げられた。やーん、シーラちゃん大人になりましたって、ハンナとアリアに見せびらかすつもりだったのに。
「それで、急にどうしたの?」
「そろそろ頃合いだと思っただけだ」
私からふいっと顔を逸らす。耳が赤いのは見えてますけど。
照れる気持ちはわかる。私だって恥ずかしいし。
「前もって言ってくれるのは嬉しいけど、朝伝えられると、あの」
「何だ?」
「今から晩ご飯食べるの、緊張しない?」
私たち正面に座るのに。そう言ったら、クライヴはしまったといった顔になった。
クライヴって、時々びっくりするくらいあんぽんたんでおたんこなすなポンコツになるの、なんでだろ。
食後の入浴では、丁寧に丹念に隅々まで洗われた。普段と違う、なんか透け透けのネグリジェで非日常感をひしひし味わう。ぽすんと座るのは、いつもよりずっと大きいサイズのベッド。本当に今夜なんだって実感させられた。
行為の流れは一応実家でお勉強済み。でも、こんなドキドキしてたんじゃ成果が出るかはわかんない。
でも、相手は変なジジイとかじゃなくてクライヴだし。お互い初めてそうだし。なんとかなるよね、うん。初めてがクライヴで良かったかも。
あんまり嫌じゃない。
あ、やっぱ嫌かも。
下はベッド、背中はクッション、目の前にはクライヴ。覆い被さられ、クライヴの強い目力を浴びて、拒否反応が出た。
「ま、待って」
ちらちら揺れるロマンチックなキャンドルの灯りを頼りに、クライヴの腕を押し返す。
「どうした?」
「ごめん、怖い」
「何がだ?」
「手離して。怖い。ちょっと離れて。怖いから」
朝手紙を見たときも、お風呂で綺麗にされてたときも、ベッドで待ってたときも、私、ちょっぴりワクワクしてたところもあったんだけどな。
いざ始めるとなったら、なんか怖気づいちゃった。
その日は風が強く、どこか肌寒い天気だった。その中でも、夜はなかなかに。
月明かりが差すベッドの上で、パジャマのクライヴと大胆なネグリジェの私が向かい合う。クライヴは正座、私は三角座りで。何してるんだろうね、私たち。
クライヴはあちらやそちらをフラフラ見たあと、こちらに蚊の鳴くような情けない声で呟いた。
「……目のやり場に困る。何か着てくれ」
「い、今からもっと困ることするのに?」
「君はしたくないから止めたんだろう。近くに上着は……ないか」
ため息とバスタオルをかけられた。あと、心配そうな眼差しも。
「今夜はやめようか。また別の日に改めればいい」
「なんで? もうちょっと頑張ろ」
「僕はそれでもいいが、君はどうなんだ? 顔色が芳しくない」
私はせっかくクライヴが誘ってくれたから、これは先延ばしにしたくない。
「私は大丈夫」
「無理しなくていい」
「でも、クライヴだって頃合いがなんとかって」
「いや、それはこちらの事情でだな」
事情?
クライヴは「あー」とか「えー」とか随分ためらって、やや俯いて言いにくそうに、
「僕の家が世継ぎを、と催促がしつこくて」
とだけ。
急に意識の差を感じた。今夜誘ってくれたのは、ようやく打ち解けてきたから、とかなんかじゃなくて、おうちのため。そっか、クライヴが嫡男だもんね。
「あなたはおうちのためにするってことね」
「そうなら気遣いをしなくて済んだんだが」
「ごめんごめん、続きしないとだね。止めてごめん。続きどうぞ」
「待て、シーラ。聞いてくれ」
するりと両手で顔を挟まれた。視界にはクライヴでいっぱい。
「僕は君の意思を尊重したい。君はどうしたい?」
真剣な声色になんだか胸が掴まれた感覚になった。痛むほど苦しいような、けど、この目に見つめられるのは悪くないような。
私は力なくふにゃっと座り直した。
「……も、もうちょっと話してから考える」
「あぁ、そうしよう」
ほっと柔らかい顔をされて、心が落ち着かない。でもこれは、心地良いドキドキだ。
サイドテーブルにおつまみやワインを用意。灯りは月とキャンドルだけで、大人っぽいロマンチックな雰囲気は抜群。
クライヴが一人がけソファーに腰掛けて軽くグラスを傾けるのを、私はベッドの上でクッションを抱きしめ、これまたクッションにもたれながら見ていた。
お、一気飲み。クライヴは喉を鳴らして、ぐるんっと勢いよく私を見た。
「ところで僕が怖いとは? 心外なんだが。この僕のどこが怖いんだ」
「言っていいの? 泣かないでね」
「待て、君はそれほどの暴言を吐くつもりなのか?」
暴言のつもりはないですけど。
「まずね、中断する前、呼吸が荒くて嫌だった。気持ち悪くて」
「……普通に悪口じゃないか、それ」
ただの感想ですけど。怖い原因を考えて、こう思っただけですけど。
クッションを抱く力をぎゅっと強くする。
「あのとき目付きも怖かった。怒ってたときと似てた」
「怒ってたとき?」
「うう、追い出されて傷付いたな。えーんえーん」
「わ、悪かった。反省している。泣かないでくれ。僕は上手に慰められない」
焦り出したクライヴに向けて、べっと舌を出す。クライヴはスンといつもの真顔に戻った、ちょっと安堵したような息を吐いて。
「それで、目付きが似ていたとのことだが、おそらくどちらも散瞳していたんじゃないか。興奮によって瞳孔が開くという現象だな」
「そんなの言われてもわかんない。やめてくれたらそれでいい」
「それは不可能に近い」
「なんで?」
クライヴはグラスを持つ手の人差し指を私に向けた。そんな表情できたんだと思っちゃうような、ニヤリと口角を上げたしたり顔で。
「魅力的な女性を見ると、そうなるようになっているからだ」
う。不意打ちでそういうことを言うのは、よくない。本当によくないと思う。暗くてよかった。
クライヴは気にも留めずに「これは君が慣れてくれ」と。それこそ不可能なんですけど。
クッションを抱きかかえ直して、クライヴの頭の先から足の先をじろじろ見る。
「次はね、クライヴがデカいのが怖かった」
「また理不尽な言い分だな。これも種族上、仕方ない」
「ガウンもデカいし、手もデカいもんねー」
クライヴに向けて手を伸ばしたら、ぴとっと合わせてくれた。関節一つ分ほど大きなクライヴが、得意げにくいくいっと第一関節を曲げる。デカいアピールはいいって。
私が「あー、怖い怖ーい」と手を引っ込めたら、クライヴは呆れたようにグラスを一回しした。
「一応確認なのだが、先程から言っている『怖い』は恐怖という意味か?」
「怖いは怖い。他に意味ある?」
「まんじゅう怖い」
「はいはい、東洋の語り話ね。全然その意味じゃない」
ぺしぺしベッドを叩く。真顔で言われると冗談か本気かわからないからやめてほしい。
「そう怒るな。冗談だ。さて、他には?」
「手が乾燥しててカサカサしてた。手入れして」
「乾燥などしてないが?」
なぬ、間髪入れず否定とは。
クライヴがベッドに乗り上がり、指の背で私のほっぺたをすり、と撫でた。
「しっとりとした感触がするだろう?」
どうだこれ見たことか、と言わんばかりの顔。何してんだろう、この人。
「しっとりしてるのは私のほっぺただから。クライヴは自分で自分の肌を触らないと」
「……これはわざとだ」
「そっか」
クライヴは、話してみるほどに印象が変化していく。
仏頂面だけじゃなくて表情はころころ変わるし、お堅い性格かと思ったらたまに天然になるし。
かと思ったら、大事そうに私を見つめるし。
「体、冷えたな。まだ夜は寒いだろう」
「クライヴは温かいね」
「酒のせいだな」
「人間湯たんぽ」
クライヴの首に手を回す。もたれかかったら、二人してベッド倒れ込んだ。とろんとした半目のクライヴを見下ろして、ぽかぽか体温の肌に触れる。あ、これならいけるかも。
私が馬乗りになりかけたら、「ま、待て」と慌てた声がした。
「何?」
「僕が下なのか?」
「私が上なら怖くないなって思って」
「いや、これはだめだ」
「なんで?」
「僕は人にまたがられたくない。イライラしそうだ」
とんでも態度に言葉を失う。この期に及んで、まさかの通常運転。さっきまでのふわふわクライヴは一体どこへ。
「…………」
「…………」
私が黙っていたら、クライヴはおもむろに無言で渋々両手を上げた。降参ポーズ。よしよし。
「上失礼しまーす」
クライヴにまたがって、シャツ越しにお腹をペタペタ。意外にも硬い。筋肉あるんだ。
クライヴからしたら、私なんてワンパンで粉砕できちゃうんだろうな。大きな体格差って、やっぱり怖いな。
「突然動いたりしないでね。怖いから」
「あぁ」
「絶対だから。動いたら、ちょん切るから」
「せ、生殖器をか? それはいささかやりすぎじゃないか? 想像するだけで震える。僕は痛いのが苦手なんだが」
「はいはい」
うるさいお口を人差し指で押さえる。じとーっと不満げな上目遣いの焦げ茶色の瞳を、じーっと見返す。
見つめ合って、見つめ合って、見つめ合って。次第に頭をクライヴに近付けていく。クライヴの瞳に映る自分が見える距離まで。
クライヴがぽつりと呟いた。
「初めてのキスだから、僕から」
「初めてじゃない」
クライヴってば、私たちが夫婦なの忘れてる?
「結婚式でしたことあるでしょ」
唇を重ねると、苦い赤ワインの味がした。