4 複雑怪奇な乙女心の理解は遠く及ばず
朝会うのが気まずくて、夜会うのも気まずくて、わざと時間をずらす日を繰り返す。
クライヴとエド様の邪魔をしようとして怒らせた。クライヴに好きな人がいるなら、好きな人と仲良くすればいいと思う。けど、私はどうすればいいんだろ。
残りの人生、お飾り妻として虚しく過ごすか、捨てられて最悪な二度目の人生をスタートさせるか。究極の選択すぎる。
本来なら、私もハンナやアリアみたいに色んな恋愛ができる可能性があったのに。
その日は天気が悪かった。朝から雨が止んだり降ったり。急に雨脚が強くなったり、雷が落ちたり。
不安定な空模様を眺めながら、ソファーの隅っこに丸まりうとうと気味。今日はここから一歩も動けないでいる。
夜しっかり寝たのにものすごく眠たい。いくら食べてもお腹はペコペコ。気だるい体と頭痛は低気圧のせいか、はたまた、毎月来るアレ関係のせいか。
多分、後者。
被らないように、クライヴの帰宅前の夕方に軽食を済ませた。再度ソファーの隅っこにうずくまって眠る。ひたすら眠気がおさまらない。
その眠りが妨げられたのは、軽くトラウマになっている足音がしたから。
「何をしている?」
「……びっくりした」
クライヴが私の部屋に来ている。今まで近寄ったことすらなかったのに。
「質問に答えろ。何をしている? 今日、君は日中ずっとぐうたらしていたと聞いた。どういうことだ?」
「……ご、ごめん」
「その体たらくで僕の妻のつもりか? ハッ、公爵家も甘く見られたものだな」
嘲笑とか侮蔑とか、そういう類の笑いが自分に向けられたのは初めて。何も言葉が出てこなくなるんだな、なんて頭の片隅で感じた。
「僕が直々に見に来ても、その態度を改めないとは。度胸は買うが、そんな女、僕は要らない」
「ごめ、ごめんなさ」
「ついに言い訳もしなくなったか。いいだろう、さっさと出ていけばいい。これを追い出せ」
「わっ」
使用人に腕を引っ張られて立たされた。ふらついて咄嗟に使用人にしがみついたら、斜め上から舌打ちと「尻軽が」というディスが落ちてきた。
これは不可抗力なんですけど? とか言い返す気力もなくて。
半ば引きづられて外へ。土砂降りの夜の空は、月も星も雲すら見えない真っ暗闇。私のこれからの人生みたい。
玄関のひさしの下に投げ出されて、両手を地面につけた。タイルの隙間にあった小さな石ころで擦って血が出てきた。私、弱。
「明日、君の家に使者を出して引き取ってもらう。それまで好きなところで過ごしていればいい」
「……うん」
「最後まで癪に触るな。喚き叫びでもしたら、酒のつまみにできたのに」
俯く顎に靴先が当たって、顔を上に向かされた。憎悪を詰め込んだ目のクライヴがこっちを見てる。玄関の照明と使用人の持つ灯りに照らされて、はっきりとよく見えてしまった。
あーあ。これ、いつかの悪夢に出てきそう。
クライヴが数回瞬きして、目の色に疑問符を浮かべた。さらに瞬きして腰を屈めた。使用人に灯りを近付けるよう言って、私と同じ目の高さに。
またまた瞬きしたあと、場に合わないきょとんとした表情になった。
「いつもより顔が赤く見える。病気か?」
「……や」
「妙に大人しいから変だと思ったんだ。彼女の体温を測ってくれ。医者の手配も頼む」
「いや、病気じゃなくて」
「何だ?」
「その、あの」
手を口元に寄せて内緒話のジェスチャー。クライヴは私に耳をちょっと近付けた。恥ずかしいから周りには聴こえないように、小さな小さな声で打ち明ける。
「お、女の子の日が近くて」
クライヴは体を静止させたあと、しばし考え込み、「あぁ」と目を開いた。
「月経か」
「……ど、どうしてそうはっきり言っちゃうかな」
「では、どう言えば?」
「い、いちいち言わなくていいから」
黙るのは得意技でしょ。
クライヴは無言で立ち上がって家の中に入っていった。玄関で使用人と何か話しているのが聴こえる。私に付いているおばあさん使用人の声もわずかに。何話してるんだろ。
まぁいいや、どうでも。
柱に手を付いて立ち上がる。痛いのは、両膝と両手のひらと、あと胴体の奥のどっか。見える範囲の箇所は血が出てたり、あざになってたり。多分、体内も内出血してる。
手のひらを雨空に向ける。流れる落ちる血を見て、この雨はなかなか止みそうにないなぁと思った。雨降って地固まるとかいうけれど、まず止んでくれないと固まることすら永遠にできないのに。
スカートの裾を持ち上げて膝も雨で洗う間に考える。
今夜、どこで寝ようかな。実家はちょっと遠いし。ハンナのおうちなら近めだけど、私歩いて行けるかな。道順知らないけど。
暗闇に一歩足を踏み出したところで、
「待て、シーラ。すまなかった」
後ろのドアが開いて、クライヴがなんか言い出した。
「僕が異性の体に詳しくないばかりに、酷いことをした」
「いや、もういい」
「今の体調は? とりあえず中に入ってくれ。このままでは風邪を引く」
迎え入れるように扉を開けられ、私の中のだめな部分が、ふつ、と沸き立った。
今日のクライヴは、春に散る花びらの向きとか、夏の夕暮れの天候とか、秋の空模様とか、冬にちらつく暖炉の炎みたい。ぺらぺらコロコロがらっと不安定に揺らいで、私を振り回してくる。
「明日、私の家に使者を出して引き取ってもらうまで、私は好きなところで過ごしていればいいんじゃなかったの」
前髪から垂れる水滴とともにぽろっと落ちたのは、紛れもない嫌味。今度はクライヴにも伝わってしまった。
私から顔を逸らして、クライヴが先に家の奥に戻っていく。使用人への命は短く、「彼女を中に」だけだった。
ぽかぽかお風呂に入れられたあとは、ホットドリンクと果物が用意されていた。あと、クライヴとオジサンのお医者さんも。
入浴後の姿を、どうして見知らぬ人に見られなきゃいけないの。しかも、自分のお気に入りの定位置には、同じく見知らぬ人が我が物顔で占領して。
私は自分の羽織ったガウンを強く握った。
「なんでいるの」
「後学のために君の症状の調査を。個人差があるようだから」
「ちょうさ」
なにそれ。そんなの、今することじゃない。
「発熱があるのはわかった。他には?」
「ない」
「君が昨日から体調不良なのは聞いた。発熱以外にも何かあるだろう」
「ないから」
「本当か? 今なら一流の医者に即座に診てもらえるが」
「本当にないから。お医者様、夜分遅くにお呼び立て申し上げ、誠に恐れ入りますが、問題はございませんのでどうかお帰りください」
帰って帰って帰って帰って。念を込めて、お医者さんに頭を下げる。彼はクライヴと少し言葉を交わして出ていった。ついでに使用人たちにも出ていってもらった。
二人きりになった部屋で、クライヴが心底不思議そうな顔をする。
「何故?」
「逆に、なんでわかんないの?」
「僕に女性の気持ちがわかるとでも?」
普段なら受け流せる上から目線の態度も、今は今だけは、とんでもなく無性にイライラした。ちょっとくらい、相手の気持ちを自分で考えようとしてよ。
「私は、自分のデリケートなことを初対面の人に誰彼構わず言えるほど、ガサツで大雑把な人間じゃないから」
「デリケート……。そうか、女医のほうがよかったか」
「違う。これは性別とか関係なくて」
頭にぼんやり浮かんできたのは、クライヴの恋について。
「秘密にしたいことを言いたくないのは、あなただって同じでしょ」
エド様とのこと、言う素振りもないもんね。パーティーに行くこともドレスのサイズも、黙ってばっかで誤魔化すもんね。
私がベッドに向かっているとき、後ろからクライヴが声をかけてきた。
「シーラ、僕は冷静じゃなかった。おそらく君も。後日、きちんと話をしよう」
「……ごめん。しばらく会いたくない」
ベッドに潜り込んでやや経ってから、クライヴが「悪かった」とかなんとか言って、出ていく足音がした。
今さら中途半端に優しくしようとしないでほしい。もっとちゃんと私のことを嫌ってる人だったら恨めたのに。
毛布を頭から被っても、窓に叩きつける強い雨音が脳に響く。
今日の雨、すごいな。枕にまで降ってきてる。