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旅行先で目を覚ましたら村上義清になっていた私。そんな私を支えることになったのがアンチ代表の真田幸隆だった。  作者: 俣彦『短編ぼくのまち』
甲斐の虎

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親衛隊

真田幸隆「武田晴信は、自らの周りを固める旗本衆そのものを戦わせることは考えておりませんでした。その理由はただ1つ。戦う必要が無いからであります。」

私(村上義清)「何かあったら板垣や甘利。それに飯富(虎昌)に攻めさせたり、晴信の周りから敵を排除させれば問題無い。と……。」

真田幸隆「はい。」

私(村上義清)「でも規模でかいよな。晴信の旗本衆って。」

真田幸隆「確かに。」

私(村上義清)「人員構成は?」

真田幸隆「勿論皆武芸に励んでおりますので弱いわけではありません。ありませんが、どちらかと言いますと敵を攻めるよりは、味方に対し督戦することを得意としているものが多いかと。あとは占領した場所の戦後処理やその後の統治。更には補給などいくさに付随して発生する事案の処理に通じるものが晴信の周りに在陣しております。」


 のちに重臣石川数正の出奔により武田の軍法を取り入れることになった徳川家康は、関ヶ原の戦いにおいて3万の旗本衆を率いるも、一度督戦のため陣を敷いた桃配山を降りた以外目立った働きを見せなかったばかりか、敵中に孤立した島津義弘が家康の本陣横を通過する際、何もすることが出来なかった(その島津と激戦を繰り広げた井伊直政は、独立した部隊を率いていました)。実際に強かったかどうかにつきましては、15年後の大坂夏の陣において家康の本陣目掛けて突撃した真田幸村により自らの馬印を倒されたことから考えますと……。


私(村上義清)「もしかして見掛け倒し?」

真田幸隆「平時は怖い人たちでしたよ。」

私(村上義清)「それって武田の家臣に対してだろ。」

真田幸隆「はい。」

私(村上義清)「晴信に通じるものたちだからな……。板垣たちとの折り合いは?」

真田幸隆「むしろ板垣の動きに翻弄されていたかと……。今回、武田晴信の本陣を狙うと言う殿の案を聞いた時。もしかすると武田に勝つ可能性があるのか。と……。ただそのためには板垣と甘利を晴信から切り離さなければなりません。殿の案ですと、『1つの部隊を板垣や甘利の生贄に捧げている隙を狙う。』と言うものでありました。その役目を誰に負わせるのかで悩まれておられました。」

私(村上義清)「うむ。そこで手を挙げたのが。」

真田幸隆「私であります。こちらはこちらで先手を留め。あわよくば制圧する案を持っています。ただ敵の本隊まで打ち破る方法は持ち合わせてはおりませぬ。」

私(村上義清)「そこに私の考えを。」

真田幸隆「取り入れたのであります。ただその案は、……もう少し手を加えたほうが宜しいかと……。」

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