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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

鬼哭き島

作者: 畔戸 直磨

一部残酷な表現があります。

苦手な方はご注意ください。

晴れ渡る澄みきった青い空。

頬をなぶる心地よい夏の潮風。

愉しげに会話するカモメ達の鳴き声。

青白く光る海の絨毯。

その上を滑るクルーザー。

そして、デッキに響く不快音。

「――っうえええ」っとデッキの手すりから海面へ身を乗りだし、

胃の中の朝食を撒き餌の如く吐いている山下信一。

それが、不快音の発生源だ。

俺はその音の発生源――山下信一――へとデッキチェアに腰かけたまま顔だけを向ける。

「だからあれほど酔い止めの薬を飲みなさいって言ったのよ」

信一の横に立つ大友夏希が、不平を溢しながらもその背中を擦っている。

「うるせぇな。コレぐらい平気だっ――うっぷ」

その夏希の言葉に対して信一は反論を試みようとした様だが、

あえなく失敗に終わった。

「全く、あんたのせいでもらいゲロしたらどうすんのよ、このヘタレ」

そんな信一に対し、夏希の反対側に立っていた各務麻由葉が毒づいた。

「この場合はゲロタレ、いやゲタレが的確だろうな」

俺は清々しい気分を害された恨みをふんだんに込めて言ってやった。

「二人とも、それはちょっと酷くない?」と、夏希は信一を擁護する。

「だって事実じゃない、このゲタレ!」

各務さんは言葉だけではあきたらず、信一の尻を蹴りとばす。

「いてっ、あぶね~な。落ちたらどうすんだよまゆっち」

信一は手すりにもたれ掛かり、手の甲で口許を拭いながら各務さんに抗議する。

「おかしいなぁ、落とすつもりで蹴ったんだけど」

「なっ――。くそっ、後で覚えてろよ。うっ――」

信一は、そう呟きながらまた顔を海面に出し、込み上げる朝食との格闘に戻った。

「まぁ、ゲタレなんかほおっておいていいか」

信一弄りに飽きたのか、各務さんは俺の隣のデッキチェアに腰掛け、そして潮風を胸一杯に取り込むように息を吸った。

「はぁ~、空気が美味しい」

そして大きく延びをした。

黒いポニーテールが風に靡く。

「お~い、もうすぐ着くってよ」

ぼうっと各務さんの事を見ていると、キャビンの方から男の声がした。

そしてすぐに、キャビンの出口に頭をぶつけないように身をかがめながら、二階堂晃が出てきた。

今回の旅行の立案者だ。

俺たち六人は、高校の夏休みを利用して晃の親が所有する島へ向かっている。

晃の親は大企業の社長だ。

二階堂グループ。

この国でも五本の指に数えられるほど巨大な企業だ。

元々は製薬会社だったが、今は不動産業や建設業、飲食店チェーン、重工業にと多岐に渡る。

そんな大企業の子息である晃だが、金持ちを鼻にかけた事は無い。

「世の中金だけじゃねぇよ」

それが晃の口癖だ。

今乗っているクルーザーは晃の叔父、二階堂雄二さんが所有するクルーザーで、雄二さんに島まで連れていってもらっている。

今は無人島ではあるが、昔は島内にある製薬会社の研究棟で、新薬などの研究をしていたらしい。

「楽しみね、わたし無人島とか行ってみたかったのよ」

献身的に信一の介抱を続ける夏希が、らんと瞳を輝かせる。

「関東近辺の海と違って人混みなんて無いからな。しかも、今回は親族もいないから他人の目を気にしなくていい」

「それすごく嬉しいよね、ナンパ野郎とか、盗撮変態野郎とかいないから安心できるし」

晃の隣で、風で靡くロングヘアーを片手で押さえながら、鳴沢唯が言った。

過去に嫌な目に遭ったのか、珍しく唯の言葉にはトゲがあった。

「なぁ晃。無人島だからやっぱり海の家は無いんだろ? あったら嬉しいんだけどな」

俺は少し残念そうに言う。別に本心からそう思っている訳ではないが。

「おい秋人。お前なぁ、何当たり前なこと言ってるんだよ。それに、例えあったとしても誰が海の家を切り盛りしてんだよ」

「お前の親の島だろ? そりゃ晃に決まってんじゃん。皆を招待するんだから、準備しておくのが当たり前じゃないのか」

「なぁにが当たり前だ。じゃあ、お前を時給100円ぐらいで働かせるよ」

「ひでぇ、最低賃金以下じゃないか」

俺は別に海の家で働きたい訳じゃない。

かき氷とか、あの普段食べたら別段美味しくないラーメンが食べたいのだ。

「ダメだよ、うちの高校アルバイト禁止でしょ?」

そこに、少しずれた唯の突っ込みが入る。

「そうか、じゃあタダ働きにしよう。それならアルバイトにはならないからな」

「うん、それなら大丈夫だね。私、宇治金時ね」

やはりずれた唯の言葉。

しかし、相変わらず唯はほんわかとした可愛いらしい顔に似合わず渋い趣味をしてらっしゃる。

「だから……、まぁいいや」

俺は否定しようかと思ったが、勘違いの始まった唯の考えを訂正するのには物凄く骨が折れる。

「石川君じゃなく、そこのゲロにやらせればいいのよ。罰としてね」

各務さんが、今だ己の胃と格闘を続ける信一を指差す。

「誰がゲロだよ。それに海の家自体無いし、しかも罰って、俺が何か悪い事したか」

もはや人間扱いすらされなくなった信一が力なく抗議する。

「僕達を不快な思いにさせた。そして、夏希の手を患わせた。十分万死に値するわ」

各務さんの言葉の毒針が信一の眉間に突き刺さる。

「そうね、焼きそばとフランクフルトでも奢ってもらおうかしら」

各務さんの言葉に、今まで信一を擁護していた夏希も乗った。

「ちっ、勝手に言ってろ」

信一は夏希に冷たくあたり、ふらふらと歩きだす。

「ちょっと、どこ行くのよ。あたしは冗談だってば」

その後を夏希が追い掛ける。

「うるせぇ、中で横になるだけだよ。いちいち着いてくんな!」

信一はそう吐き捨てると、船内へ消えていった。

俺は呆然とする夏希の背中を見つめた。

あいつの性格は昔から変わらない。

絶えず誰かの世話をしていないと気がすまないのだ。

昔は俺や晃がその対象であったが、高校に入ってしばらくたった頃から信一の世話を焼くようになった。

正直、そのことで俺は少しほっとした。夏希のお節介焼きはほんとに度が過ぎる。

俺と晃に毎日弁当を作ってくるし、風邪を引いて学校を休んだ日なんかは、夏希自身も学校を休んで付きっ切りで看病をしてくる。

俺が大丈夫だと言っても、ちゃんとおとなしく寝ているか心配だ、といってずっとそばで見張っている。

確かに、休みにかこつけてゲームをしようと思ったりしたことは事実だが、そこまでべったり看病されても窮屈すぎるだけだ。

晃もその被害者ではあるが、基本家族愛に飢えているあいつは、そこまで迷惑では無かったような節がある。

晃を看病する時などは、あいつの家にいるお手伝いさんを締め出してまで看病をしたそうだ。

もはや夏希のお節介は病気と言ってもいいだろう。

しかし、なぜお節介の対象が信一になったのかいまだに良く分かっていない。

俺と晃と夏希、それに唯は同じ中学校の出身だ。だが信一は違う。

信一とは高校に入学してから俺と晃が意気投合し、自然と夏希や唯も信一と交流を持つようになった。

そして、いつの間にか夏希は信一の世話を焼くようになっていた。

各務さんは信一と同じ中学校の出身であり、必然と俺らの中に各務さんも混じった。

しかし、俺自身各務さんとはあまり話したことが無い。

別に嫌いだとか、生理的に合わないとかそういうことでは無いが、二人きりだとあまり会話が弾まない。

「皆見て。島が見えたよ」

唯の歓喜の声に一同が前方を見る。

今まで360度水平線だった蒼い絨毯の端に、木々が生い茂った島が見えた。

「晃、あの島なの?」

夏希が興奮気味に尋ねる。

「ああ、そうだぜ。あれが鬼哭き島だ」

「なんか、あんまり良いネーミングじゃないよね」

幽霊や怪物、魑魅魍魎の類いが苦手な唯が苦言を漏らす。

「うぅ~、わくわくする」

それとは対象的に、夏希は嬉々として身体を揺らしている。

「早まってこっから飛び込むなよ」

俺はそんな様子の夏希を茶化す。

確かに、島に群生する木々の間から見える荒廃した建物が冒険心をくすぐる。

夏希のテンションが上がるのも無理は無いだろう。

「何? あたしと水泳で勝負しようっての? 良い度胸してるじゃない」

夏希は俺の揶揄を果たし状と受け取ったらしい。

俺もそれに負けじと応戦する。

「まさか、河童に勝てるわけ無いだろう」

別に夏希が本当に河童である訳じゃない。

確かにオカッパの様なショートヘアーだが。

夏希は水泳部で、県大会はおろか全国大会でも入賞するほどの実力者だ。

俺も水泳は得意な方だが、レベルが違いすぎる。

「秋人、お前それ地雷だぜ」

晃が呆れた様に肩を竦める。

河童、もとい夏希は一子相伝の暗殺拳の伝承者が如く指を鳴らしながらゆっくりと近づいてくる。

「夏希悪かった、ちょっと落ち着け。目がマジだぞ」

俺は命の危険を感じ、身構える。

「遺言は、それだけ?」

俺にもしスピリチュアルな感性があったなら、夏希の背後に真っ赤なオーラが見えた事だろう。

「分かった。お前の好きなプリン奢ってやるから」

その言葉にピタリと夏希の足が止まる。

夏希は無類のプリン好きだ。

甘い物はプリン以外認めないと言い張るほどのプリン好き。

今度からプリンシパリティとでも呼んでやろうか。

「パティスヘブンの?」

「そうそう、それそれ。あの高いやつ」

パティスヘブン。最近駅前に出来たスイーツ専門店だ。

世界的に有名な三ツ星パティシエが作った店らしい。しかし、その名前とは裏腹に、値段設定は地獄だ。

たったのプリン一個で野口先生が三人も消える。

正直、高校生の小遣いで買うのは厳しい。

それに何より、俺はプリンに対してそれほどの価値を見いだせない。

それでも毎日売り切れるほどの人気ぶりだ。何か中毒性があるのかも知れない。

「んふふ、それなら許したげる」

夏希は不気味な笑みを浮かべ納得したようだ。

例え地雷を踏んでも、信管の外し方さえ知っていれば問題は無い。

まぁ、夏希にしたって本気で怒った訳では無いと思うが。

「夏希ばっかりずる~い」

唯がうらめしそうな声を発する。

「そうね、唯の分も良いでしょ?」

有無を言わせない夏希の笑顔の圧力。俺は渋々頷く。さようなら、今月の小遣い。

「唯の分なら俺が払ってやるよ」

晃が救いの手を差しのべてくる。

おぉ、貴方が神か。

「じゃあ、僕は信一に奢らせよう」

各務さんの小悪魔的発言。女性陣を敵に回すと厄介だと再認識する。

そんな大和撫子とは程遠い女性陣達にこれ以上関わらない様に、クルーザーの進行方向を見る。

既に島は視界全てを覆い隠すほど近付いていた。

明かりが灯っていない灯台。

そして、まるで要塞のような断崖絶壁。

ここは昔監獄島でした、と言われても納得してしまいそうなほどだ。

さらに島が近づき、島の周りをぐるりと回り込む。クルーザーの速度が落ち、

そして、滑るように堤防に接岸した。

「ほら、着いたぞ」

雄二さんが操舵室から現れる。

まるで一昔前のトレンディ俳優の様な風貌。

若大将という言葉がピッタリだ。

「叔父さん、有り難うございます」

晃が代表して礼を述べる。

夏希は信一を心配してか、いち早く船内へと入る。

唯と各務さんもそれに続く。

「いやぁ、青春だなぁ。俺も昔を思い出すよ」

そうい言ってよく日に焼けた顔から白い歯を覗かせる。その仕草が自然で、とても爽やかだった。

「で、晃君は誰狙い?」

前言撤回。

爽やかさの裏に隠された本性が垣間見えた。

一体この爽やかさに何人の女性が騙されたんだろうとふと思ってしまう。

「ちょっと、何言ってんですか叔父さん」

「ははは、冗談だよ。まぁ、存分に青春を謳歌するんだな、青少年よ」

雄二さんは笑いながら晃の肩を激しく叩いた。

そのセリフにジェネレーションギャップを感じる。

「ちょっと~、荷物運ぶの手伝いなさいよ」

先に船内へ入っていた女性陣の文句が聞こえた。

今行くよと告げ、晃と船内に入る。

今まで船酔いでダウンしていた信一が、大量の荷物を持たされていた。

左右の肩にクーラーボックスを提げ、両手にもスポーツバッグを二つ。

そして、腰には空気の入った浮き輪。

誰だ、膨らませたやつ。

「秋人~、晃~、助けてくれ~」

流石に一人でその荷物を運搬するにはとても骨が折れるだろう。

なんせクーラーボックスには三日分の食料がぎっしり詰まっている。

三泊四日、それが今回のキャンプの計画だ。

無人島であるが故、コンビニエンスストアは存在しないし、電気やガス、水道なども今は来ていないらしい。

そのため、必然的に食料や水が大量になる。

俺は自分の荷物と、信一が持っているクーラーボックスの片方を受け取った。

クーラーボックスのベルトがずしりと肩に食い込む。このまま海に落ちたら確実に浮き上がってこれないだろうなと、ひとりごちる。

「そのための浮き輪か!」

俺の突然の発言に一同が首を傾げる。

「秋人、お前大丈夫か?」

今までダウンしていた信一に逆に心配されてしまった。

「いや、もしこの荷物で間違って海に落ちたら沈むだろうなと思って。だから、そのために浮き輪をしてるのかと」

「何だ、そんなことか。違うよ、これは枕代わりにしてたんだよ」

信一がケラケラと笑う。

船酔いしてたのに浮き輪を膨らませる元気はあったんだなと感心する。

「ねぇ早く行こうよ」

早く海で泳ぎたくて仕方ないのか、夏希が囃し立てる。

俺はその言葉に賛同し、雄二さんにお礼を言ってからクルーザーを降りる。

その他の面々も続々と降りてくる。

「それじゃ、存分に楽しめよ」

雄二さんはそう言うと操舵室へ姿を消した。

クルーザーはゆっくりと離岸し、旋回すると島の反対側へ消えていった。

雄二さんも忙しいらしく、迎えに来てくれるのは三日後だ。それまでは外の世界とは遮断されることになる。

日本近海ではあるが、携帯電話の電波も入らない。

試しに携帯電話を確認してみたが、アンテナマークすら表示されなかった。

何事もなければ良いなと、俺は心の中で呟いた。



俺達は浜辺に着くと早速テントを三つ設営した。

一つは荷物用で、残り二つはそれぞれ男女が寝るためのテントだ。

船着き場から少し東へ行った所、そこに浜辺はあった。

以前は人がいたためか、浜辺に至る道は舗装されており、倉庫やトイレ、シャワー小屋まであった。

俺達男陣はテントで水着に着替えた。

女性陣はシャワー小屋へ着替えに行っている。

覗いたら×すからと最上級の脅し文句を残して。

女性の着替えは案外時間がかかるもので、俺達が着替え終わってもなかなかやってこない。

「遅いな、何かあったんじゃねぇの」

「じゃあ信一、お前様子見に行って来いよ」

俺は心配そうにシャワー小屋の方を見た信一に提案する。

「俺はいいよ、秋人が行ってこいって」

「そんなこと言って、お前は覗きたいだけ何だろう?」

俺の提案を拒否した信一に、晃の鋭い指摘が入る。

「ち、ちげ~よ。そんなんじゃねぇよ」

口では否定しているが、顔や態度は否定していない。

それがヘタレたる所以である。

「素直になれよ。いつも然り気無く唯の胸見てるくせに」

俺は止めの一撃をくれてやる。

「み、見てね~よ! し、視界に入るだけだし」

信一は嘘をつくのがとことん苦手だ。

普段と違い、どもるから判りやすい。

「男らしくない。これだからヘタレは」

「あぁ、そうだな」

「お、お前らだって見てるくせに。ちくしょー!」

信一は叫びながら海に向かって駆け出した。

このままここにいると、もっと弄られると判断したんだろう。

そして、丁度来た波に向かって飛び蹴りを繰り出す。

しかし、相手は海水だ。

効果はバツグンとはいかず、そのまま海の藻屑とかした。

「あ~あ、先走っちゃって。酷い目に遭うぞ、あいつ」

「秋人、お前がいじり過ぎるからだろ」

「晃だって人の事言えないじゃん」

「確かにな」

お互いにニヤリと笑う。

俺は海面にプカプカと浮かぶ信一を見つめた。

その時だ、

「あぁ~~! あいつ先に入ってやがる」

後ろで怒気を含んだ各務さんの声が聞こえた。

振り向くと、女性陣が着替えを終えて出て来るところだった。

各務さんはゴシックな雰囲気のある、フリルの付いた黒いタンキニの水着。

夏希は水泳部らしい、露出が少なめのツーピースタイプの水着。白地に緑のラインが夏希らしい。

唯は胸元の大きなリボンが特徴的な白いビキニで、腰には淡い黄色のパレオを巻いている。

各務さんは辺りを見回し、側の倉庫に入った。

すぐに出てくると、右手に銛を握っている。

「今夜のディナーは信一か」

「晃、足はお前にやるよ」

なんてブラックジョークを交わす俺達の横を、漆黒のポニーテールが駆け抜けた。

そして、槍投げ選手よろしく、銛を投擲する。

各務さんの右手から放たれた銛は、綺麗な弧を描き、まるでグングニルになったかのように、信一へと向かう。

しかし、グングニルもとい銛は、水面を漂う信一に命中することなく、信一の右側につきたった。

信一は一瞬、何が飛来したのか理解出来ない様子で起き上がった。

そして、自分を急襲した物が何であるか確認すると、慌てた様に浜辺へ上がり、こちらへ駆けてきた。

「マジで危ね~じゃね~か! まゆっち、冗談にも程があるぞ」

「あんたが抜け駆けするからでしょう」

各務さんは悪びれた様子もなく口を尖らす。

「だからって、あんなもん投げるか普通!」

ふんといって各務さんはそっぽを向いた。

この人にだけは逆らわない方がいいかも知れない。

「ちょっと、あんた血出てるじゃない」

夏希が信一に駆け寄る。

夏希のいうとおり、信一の右手から血がポタポタと落ちていた。

「げっ、マジかよ」

信一は自分の手を繁々と見つめて言った。

「ちょっと待ってて」

夏希はすぐさまシャワー小屋へと引き返す。

「まゆはちゃん、ちょっとやり過ぎちゃったね」

唯が憮然と膨れる各務さんをたしなめた。

夏希は、消毒液とガーゼ、それに絆創膏を持って出てきた。

そして、すぐさま信一の指を消毒する。

いてぇと抵抗する信一を、夏希は男なら我慢しなさいと強引に手当てをする。

「さて、皆集まった事だし、ビーチバレーでもするか」

そう提案した晃の手にはいつの間にかバレーボールが乗っていた。そんな物まで用意してたのかと感心する。

「でも、ネットはどこにあるの?」

確かに唯の言うとおりだ。ここは人が賑わう海水浴場ではない。

勿論そんな物を貸し出しているはずもない。

「それが有るんだよ、あそこの倉庫に」

と、晃は先ほど各務さんが銛を取りに入った倉庫を指差した。

「それって、漁師の投網じゃないだろうな」

右手の手当てを終えた信一が聞く。

「いや、ちゃんとしたやつだぜ。この島は親族がよく利用するからな、誰かが持ってきたんだよ」

俺には雄二さんのこんがりとした顔が浮かんだ。

「あたしは海で泳ぎたいな。それに信一は右手を怪我してるじゃない」

また夏希を河童ネタで茶化そうかと思ったが、今度こそ命の保証はなさそうなのでやめた。

「確かにそうだな。他の皆はどうするよ」

晃が周りに意見を求める。

「私は別に構わないよ」

「僕も信一を狙い打ち出来ないのは残念だけど、やってもいいよ」

唯と各務さんが参加を表明する。

「秋人はどうするんだ?」

今のところ参加者は三人。

「じゃあ、俺もやるかな」

俺は特に不満も無かったため参加することにした。それに、いいものが見れるかも知れないからだ。

「よしきた。じゃあチーム分けだな。男対女になると不公平だから、男女ペアにしよう」

晃の提案の結果、俺と各務さん、晃と唯という組み合わせになった。

「よろしく、各務さん」

「よ、よろしく」

やはりぎこちない。信一と接する時とは対照的に、伏し目がちで、歯切れが悪い。

俺は嫌われてるのだろうか。

「晃くん、きちんとサポートしてね」

「おう、秋人なんか俺一人で十分だぜ」

晃が肩を回しながら気合いを入れている。

向こうの士気は高い様だ。

力仕事は男の仕事、と男女平等を唱える政治家が聞いたら怒りそうな晃の発言で、俺と晃がネットを張る。

正確なコートの広さが分からないため、目分量で広さを決めた。

「あれ、なんかそっちの方が狭くないか」

晃がネット越しにコートを睨み付けてくる。

「そんなこと無いよ。同じぐらいだろ」

俺はすかさず反論する。

「いいや、そんなこと無いね。明らかにそっちの方が狭いって」

「うん。私もそっちの方が狭く感じる」

唯も晃に加勢する。

「晃、そんな小さいこと気にすんなって。お前の心が狭いんじゃないのか」

「誰がそんな上手いこと言えって言ったよ」

「じゃあ、場所替えすればいいじゃん」

各務さんの冷静な一言で事態は終息した。

お互いに場所を移動してはみたものの、やはり対して変わらない気がした。

「なんだ、あまり変わんないな」

晃はそう言うと、詰まらないことでムキになった自分が恥ずかしいのか、はははと頭をかきながら苦笑いをした。

基本ルールはバレーボールと同じで、得点は十点先取制、負けたらバツゲームという事で試合が開始された。

意外にも各務さんはバレーが得意らしく、勝負は一進一退の展開となった。

俺も苦手ではないが、球技に関しては晃の方が上手い。

もし、パートナーが唯であったら速攻で負けていただろう。

そんな唯は、一生懸命ボールを追う度、白い水着から豊満な胸がこぼれ落ちそうだった。

本人はそれが動きづらそうだったが、俺はここぞとばかりに凝視する。

隣から何やら視線を感じたが、俺は気にしない。

そこは信一とは違う。あのヘタレと一緒にされては困る。

そして、勝負はいよいよ大詰め。互いに後一点取れば勝利という場面。

「行くぞ、勝利を我が手に」

晃から鋭いサーブが放たれる。

「――それっ」

各務さんはそれを易々とレシーブする。

勢いをなくし、弧を描いて落ちてくるボール。

「頼んだぜ、各務さん」

回転を殺されたボールはコントロールしやすく、今世紀最高のトスを上げることができた。と、素人ながらに思う。

そして、その最高のトスに各務さんがアタックするべく動く。

大きく踏み込み、全身を使いながら跳躍し、体をしなやかに反らせた各務さんのシルエットは、とても綺麗だった。

決して長身では無いが、スラリと伸びた細い手足、だが、痩せすぎではなくほどよく膨らみのある胸。

汗を弾く潤いのある白い肌、太陽光を反射しきらびやかに光輝く黒髪。

そして背中のフリルが、まるで翼のように翻り、その一瞬だけを切り取ったら、

まるで漆黒の女神が飛翔したかの様だった。

俺はその姿に見惚れてしまった。

各務さんのスパイクが決まったことも忘れるぐらいに。

「やった~、勝ったよ」

嬉しそうに跳び跳ねる各務さんを、なおもボーッと見つめる。

「やったね、石川君」

各務さんが、俺に対して初めて見せる笑顔でハイタッチを求めてきた。

「あ、あぁ」

俺は力なくそれに応対する。

「どうしたの? どこか痛めた?」

そんな様子の俺を心配したのか、顔をのぞき込んでくる。

「いやっ、何でもない! 別にどこか痛めたんじゃなくて……」

俺は冷静さを取り戻し、頭の中で言葉を探す。

「じゃなくて?」

「見惚れてたんだ。各務さんに。あのスパイクは惚れ惚れするね。いや~見事だった」

俺は正直に言うのが恥ずかしく、冗談めかして言った

一瞬キョトンとした各務さんだったが、ニンマリと笑い「へっへ~。どういたしまして」と言った。

この反応をみるかぎり、あながち嫌われてるわけでは無いらしい。

「罰ゲームは何にしようかなぁ」

人差し指を顎にやり、各務さんは考え出す。

「くっそ~、負けたぁ~~」

向こう側のコートでは晃が盛大に悔しがっていた。拳で何度も砂浜を叩いている。

「晃君、遊びなんだしそんなに悔しがらなくても」

「いいや、遊びだからって負けるのは悔しい」

晃の負けず嫌いは夏希に匹敵する。

中学の時は、よく二人の勝負や意見の対立に巻き込まれたものだ。

しかも、大概些細な事の方が多かった。

あんまんはこしあんかつぶあんかで争ったり、アイドルポップデュオではあっちの方が可愛いだの、

正直俺にはどっちでも良いだろ、と思える話題ばかりだった。

けど、決まって最後には「秋人はどっち派?」と二人に聞かれる。

そして、俺は決まってこう答えた。

「お互い良いところがあるんだから、最終的には個人の好みだろ」

その言葉に二人はあまり納得した顔にはならないが、一応勝負は引き分けという事で収束する。

俺は、砂の上で胡座をかき、ブツブツとひとり反省会をしている晃はほおっておき、海の方へ目を向けた。

夏希は優雅に背泳ぎをしている。

そのしなやかで健康的な腕は、入り江で泳ぐ人魚を彷彿とさせた。

腕をかくたびはねあがる水飛沫が、太陽光に照らされ、まるで彼女を祝福しているかのようだった。

その時だ、島全体を揺るがす咆哮のような音が轟いた。

「何、今の?」

振り向くと各務さんが辺りを見回している。

「なんか、化け物でもいるのかな。そんなかんじの声だったよね」

「石川君もそう思った? 何かに怒ってるような、ウオオォォォって感じだったよね」

「あぁ、なんかこの島には伝説ドラゴンがいて、そのドラゴンが宝を守ってるみたいに」

「いやいや、実は恐竜がこの時代まで生きてて、放射線の影響で巨大化したんじゃない?」

俺は今の音が何か分からない不安をごまかすため冗談を言ったが、各務さんは逆に楽しんでいる様だった。

「やだ、怖い」

それとは対照的に唯は不安そうな顔を浮かべ晃に寄り添っていた。

「ちょっと、今の何なのよ」

夏希が海から上がって傍らに来ていた。

「本当にここ無人島かよ」信一もいつのまにか集まっていた。

無人島だからって、他の生き物がいない訳じゃないぞという突っ込みを飲み込み晃を見る。

しばらくブツブツとやっていたが、皆の視線を感じたのか、顔を上げた。

「どうした? 皆集まって」

晃は気づかなかったのだろうか、あれほどの音だったのに。

「いや、今の音聞こえなかったか?」

「あぁ、あれか。あれが鬼の哭き声だよ」

晃がニヤリと笑みを浮かべた。

俺は晃のその顔に一抹の不安を覚え、辺りを警戒する。

他のメンバーも不安を感じたのか、その場を不穏な空気が支配した。

そんな俺達を嘲笑うかのように、蝉の鳴き声だけが響いていた。



俺たちは浜辺に円を組んで座っていた。

晃の話を聞くためだ。

真夏の太陽が容赦なくジリジリと肌を焦がす。

「鬼の哭き声ってどういうことよ」

痺れを切らした夏希が口火をきる。

「この島には昔、鬼が棲んでいたんだ」

額に滴る汗を拭いながら晃が口を開いた。

「鬼って、あの桃太郎とかに出てくる?」

「そうだ。角が生えてて、肌が赤いやつな」

不安げに尋ねた唯の問いを晃は肯定した。

「そして、定期的に鬼はあるものを求めて哭いたそうだ」

「あ、あるものってなんだよ」

「信一、何だと思う?」

「わ、わかんねぇから聞いたんだろ」

「生け贄、でしょ」

信一の代わりに各務さんが答える。

俺も声には出さないが頷く。

「そのとおり。島人達は昔、鬼が哭く度に若い娘を生け贄に出してたんだ」

「何でよ、別に生け贄になんか出さないで退治すれば良いじゃない」

夏希が憮然と反論する。

「抵抗した人々もいたさ。だけど、強靭な鬼に人間が束になってかかっても、到底敵う訳が無かった。

そして、抵抗した人達は一人残らず無惨に殺されたんだ」

「じゃあ、何でここは無人島になったんだ?」

生け贄を捧げている限り、島人達は安全なはずだ。

「若い娘だって頻繁に生け贄に捧げていたらいなくっちまう。老婆と男だけになったらどうなる?」

「人口は増えないわね。まぁ、他の所から若い娘を拐ってくればいい話だけど」

足を投げ出した各務さんがどうでも良さげに言った。

「確かにそうなんだが、昔は今ほど交通の便は良くなかった。何せ何百年も前の話だからな」

「じゃあ、その鬼が今でもいるってこと? やだ、私帰りたい」

唯が涙目で訴える。

「まさか、俺達を生け贄にする気じゃ無いだろうな」

「お前はいつから若い娘になったんだ? 信一君よ」俺はくんのイントネーションを強調した。

「そうだ、信一を女装させて鬼に差し出そうよ」

各務さんが面白いことを思いついたかのように顔を輝かせポンと手を叩いた。

「それいいな。夏希の服なら着れるんじゃないか」

俺は各務さんの提案に乗る。

場の雰囲気を少しでも明るくするために。

まぁ、各務さんは本気で差し出そうと思ってるのかも知れないけど。

「おい~、勘弁してくれよぉ」

信一は今にも泣き出しそうな悲痛な声をあげた。

「生け贄ならあたしがなるわ。絶対退治してやるんだから」

夏希は指を鳴らす。どうやら正義の心が燃えたぎっているらしい。

「ぷっくくくく、はっはっはっは」

突然響き渡る高らかな笑い声。

何かに堪えかねたように晃が笑っていた。

「ちょっと、何笑ってるのよ」

自分の発言を笑われたたと思ったのか、夏希は晃に牙を剥いた。

「うそうそ、この時代に鬼なんかいるわけ無いだろう」

そういいながら晃はまだヒーヒーと笑っている。

「だろうと思った」

各務さんの冷静な一言。

俺も少しは疑っていたが、嘘だという確信は持てなかった。それほどまでにあの音はインパクトが有ったのだ。

改めて各務さんの冷静さに感服する。

「じゃあ、全部晃君の作り話なの?」

「作り話だけど、俺が作った訳じゃないよ。あの音が聞こえた後によく人がいなくなったらしい。

だから、鬼の仕業だと思われ、そういう話が出来たらしいんだ」

「そっか、なら良かった」

話が作り物だと分かったからか、唯は安堵のため息をついた。

「そんで、アレは実際は何の音だったんだ?」

俺は、さっきの話を半ば信じていたと悟られないように平静を装った。

「あぁ、あれはな。この島の反対側に、引き潮になると現れる洞穴があって、そこで風が吹くとああいう音が鳴るらしいんだよ」

「伝説って、蓋を開けてみれば大概そんなものよね」

確かに各務さんのいうとおり、科学が発達していなかった昔は原因の解らない自然現象などは、

神や幽霊、人外の生き物などの仕業と信じられる事が多かった。

晃の話が作り話だと分かり、場の空気が和らいだ時、再びあの咆哮にも似た音が響き渡った。

原因が解れば、なんら恐ろしい事は無い。

「確かに改めて聞くと、すきま風の音が大きくなったみたいね」

夏希は納得したように、けど鬼がいなかった事を残念がっているようにうなずいた。

そのうち、その洞穴に行こうなんて言い出すだろう。

「ねぇ、何かいるよ」

唯が突然海とは反対側に群生している木々のほうを指差した。

俺達は一斉に唯が指差した方を注視する。

明確には判別しづらいが、確かに人影の様なものが、木々の間からこっちをじっと窺っている。

はりつめた空気が流れる。夏希は既に中腰で構え、晃は唯を庇うように立て膝をついている。

人影がゆらりと動いた様に見えた時、丁度頭の位置ぐらいの高さで光が反射したようにキラリと光った。

それが合図となったのか、夏希が走り出す。

晃と各務さんもそれに続く。

俺は一瞬迷ったが、各務さんの後に続いた。

「おい、置いてくなよぉ」

走り出した後ろでヘタレた声が聞こえた。

「唯を頼む」

サンダルを履きながら信一に告げる。

チラリと見たかぎり、信一は腰を抜かしている様だった。

そんなヘタレに唯を任せるのは心許なかったが、人影の正体を確かめたかった。

足をとられる砂浜を駆け抜け、道路を横切り森へ入る。

夏希はかなり先を行っているのか、晃と各務さんの後ろ姿しか見えなかった。

枝をかわし、落ち葉を蹴散らしながら後を追う。

しばらく直進すると森が開け、再び道路に出た。

しばらく人の手が入っていないせいか、道路は所々ひび割れていた。

その道の途中、昇り坂に差し掛かる辺りに夏希は佇んでいた。

「おい、何か分かったか」

その背中に声をかけたが夏希は首を横に振った。

「どこかで見逃したか、見間違いだったって事だな」

晃がやれやれといった感じに肩をすくめる。

「それより早く戻ろうよ。僕は唯が心配だよ。一緒にいるのはあのヘタレだし」

「そうだな。夏希、行くぞ」

じっと坂の上の方を見ている夏希の背中に声をかける。

「う、うん。分かった」

そう言いながらも夏希は動こうとしない。

俺は夏希の隣に立ち、夏希の目鼻立ちの通った横顔を見つめる。

夏希の視線の先には、クルーザーの上から見た、あの荒廃した建物が遠くに聳えていた。



浜辺に戻ると二人の姿は無かった。

「おい、信一。どこだ?」

俺は焦る感情を抑えながら辺りを探す。

その時トイレから唯が出てきた。とりあえず唯は無事だった様だ。そのことにほっと胸をなでおろす。

「あっ唯。信一はどこに行ったか知ってる?」

夏希が唯に駆け寄る。

「えっ? さっきまでそこにいたよ」

しかし、唯が指差した先には浮き輪が有るだけだった。

全員で手分けしてテントや倉庫、トイレなど近場を探したが信一の姿は無かった。

「ヘタレだからねぇ。逃げ出したのかもよ」

各務さんが呆れたようにつぶやいた。

「逃げ出すったってどこに? 船が無きゃこの島から出られないんだぜ」

「とにかく他を探そう」

俺と各務さんの会話を断ち切り晃が提案する。

「そのうち戻って来るんじゃないか?」

「僕もそう思うよ。この状況で単独行動出来るとは思えないし」

俺も各務さんと同じ考えだった。ヘタレの信一が一人で遠くへ行ったとはとても思えない。

仮に迷子になったとしてもそれほど広くは無い島だ。いずれはこの場所に戻ってこれるだろう。

「じゃあ、二手に別れましょ。あたしと晃と唯は信一を探す。秋人とまゆははここで待機」

夏希はいてもたってもいられないという具合に提案する。お節介焼きとしては信一のことがとても心配なのだろう。

確かに捜索するのであればそれが一番ベターだろう。

全員で探しにいった場合、入れ違いになる可能性が高い。

それに、島の地理を知っている晃が探しに行った方がいい。

「分かった。連絡手段が無いのは心配だけど、何か有ったら戻って来いよ」

「あぁ、秋人こそ勝手に動くなよ」

そして、日が暮れる前には戻ると言って、晃達は信一を探しに行った。

「さて、と」

俺は万が一に備え、武器になりそうな物を確認する。まず、料理用に持ってきた包丁、そしてサバイバルナイフ。

虫除けスプレーも目眩ましには使えるだろう。

まな板や鉄板等も投げれば武器にはなるだろうが、あまりあてにならない。

釣竿も武器としては期待出来ない。

俺は次に倉庫内を確認する。

トタンで出来た簡易的な倉庫で、二畳ぐらいの広さは有るだろうか。

その中には各務さんが投げた銛と同じ物が数本、投網やロープ、救命ベスト等が置いてあった。

埃っぽい倉庫内を奥に行くと、使い物にならなそうなビーチパラソル、そしてスコップがあった。

「さっきから何をしてるの?」

倉庫の入り口から各務さんの声が聞こえた。

「もし、本当に鬼がいたらと思って、武器になるような物を探してるんだ」

重なりあうロープやら網やらをどかすたび埃が舞い上がる。

「あれ? 石川君は二階堂の話し、信じてるんだ」

倉庫の中は薄暗かったためはっきりとは見えなかったが、各務さんはニヤニヤと笑っているようだ。

「いや、そういうわけじゃ無いけど。さっきの人影も気になるからさ」

「なるほどね。でも、鬼に包丁は効くのかな」

「分からないけど、無いよりは気分的に違うでしょ」

昔話に出てくる鬼の体は強靭だ。相当の業物でないかぎり、傷を負わせる事さえ難しいだろう。

かといって丸腰で挑むのは無謀だとも思える。

他に目ぼしい物が見つからなかった俺は、汗と埃を流すため、海へ向かった。

寄せては返す波間が、白い砂浜を黒く染める。

俺はゆっくり海へ入り、軽く泳いだ後、信一にならって仰向けに浮かぶ。

波に揺られる感覚が心地よい。

何もかも忘れてこのままでいたいと思った。



晃達は夕方になっても帰って来なかった。

もちろん信一もだ。

俺と各務さんは、昼間の日光を避けるため、テント内で待っていた。

入り口から見える水平線は茜色に染まっている。

「あいつら遅いな。日が暮れる前には戻ってくるって言ったのに」

「そうだね、あまりにも遅いよね。僕、お腹空いたよ」

「確かにな。皆の分も用意して先に食べちゃうか」

あまり気は進まないが、昼もまともに食べていないため、最早限界に近かった。

「うん、そうしよう。でも、作るのは二人分で良いんじゃない? もし今日中に帰って来なかったら無駄になっちゃうし」

各務さんの言うことも一理ある。

しかし、晃達は信一を探している訳だし、信一も何かトラブっているかも知れない。

それなのに先に食べるのは皆に失礼では無いか。

俺が各務さんにそう告げると、「石川君は真面目過ぎ。もう少し気楽に行こうよ」そう言われてしまった。

確かにそうかも知れない。

最早今日中に戻ってくるのか来ないのか分からない状況であり、いざと言うときに空腹では何も出来ない可能性もある。

俺達は手早く夕飯のカレーを作ると黙々と胃に流し込んだ。

各務さんは料理が得意らしく、作るのに手間取る事は無かった。

もし、パートナーが唯であったら、こうは行かなかっただろう。

唯が料理を作ると、見たことの無いものが出来上がる。

その味も、独創的だ。

クラスの中で女子には秘密裏に行われた、『恋人にするなら、結婚するなら誰だ』選手権で、唯は見事結婚したい女子一位に選ばれた。

奥ゆかしく可愛らしい。そして、その場を癒す様なほんわかとした空気が主な理由となった。

しかしそれは建前で、ほとんどの男子の目的はその見事な胸だろう。

だが、唯の事を良く知る俺や信一はその結果に首を傾げた。

唯との結婚生活は恐らく悲惨な物となるだろうことが安易に予測出来る。

唯の手からは、これは食べ物ですか? と言いたくなるようなものが生まれてくるからだ。

「どうしたの? 一人でニヤけて」

正面に座る各務さんに指摘されてハッとする。

どうやら俺は思いだし笑いをしていたらしい。

「いや、唯がクリームシチューを作った時を思い出しちゃって」

食べ終わったカレーの皿を砂浜に置き、水を一口飲む。

「それがなんで可笑しいの?」

「各務さんは、唯が料理苦手なのは知ってる?」

話しには聞いたことある、と各務さんが頷く。

「あいつはただ苦手なんじゃないんだ。既存の概念に囚われない、創造的で独創的な物を作るんだ」

「それって普通、上手いってこと何じゃないの?」

各務さんが首を傾げる。

俺は、唯の作る料理がいかなるものか説明をした。

焦げたというレベルではない、真っ黒なクリームシチュー。

辛い不気味な形のチョコレート。

酸っぱい味噌汁等、唯が作った芸術品はまだまだある。

「確かにそれは独創的ね」各務さんはそう言いながら笑った。

いつの間にか、自然と会話出来ている事に気づく。

あれほどギクシャクしていたのに。

俺達はそのまましばらく談笑をしていたが、夜遅くになってもだれひとり帰って来なかった。



深夜、俺はあの鬼の哭き声で目を覚ました。

いつの間にか眠っていたらしい。

体にはタオルケットがかけてある。

自分でかけた記憶はない。多分各務さんがかけてくれたのだろう。

俺は夕飯を食べ終えた後、浜辺に寝そべり、星を見ながら各務さんと話をしていた。

しかし、晃達は一向に帰ってくる気配はなく、夜も更けてしまった。

身体を起こし辺りを見回すが、各務さんの姿は見えない。

俺は尿意を感じたため、トイレに向かう。

コンクリートで出来た、どこにでも在るような簡素なトイレだった。

小便器で用を足しながらぼーっとする。

その時、微かに誰かの声が聞こえた。

耳をすます。

「どう………よ…日が…………帰っ……くる……じゃない」

壁越しのためか、よく聞き取れない。

俺はとっくに用を足し終わっていたが、そのまま聞き入る。

「こっちは……よ。そっち…どう………信一…………たの」

何とか信一という言葉を聞き取る事は出来たが、やはり何を言っているのかは不明だ。

声は正面の壁の向こう側から聞こえる。

シャワー室からだろうか。俺は素早く手を洗い、シャワー室の前まで移動する。

シャワー室は女性陣の更衣室として使われている為、中には入らず入り口の前で息を殺す。

「……の計画……じゃない。これ以上は待てないわ。………戻って来ない……僕が………行く……」

先程よりかは明瞭に聞こえるものの、何を言っているのか判然としない。

声の主は各務さんで間違いないのだが、他に誰かいるのだろうか。

しかし、各務さん以外の声は聞こえない様な気がする。

中に入ろうか、それとも声をかけようか迷っていると、各務さんが姿を表した。

互いに驚き、一瞬硬直する。

「石川君! ど、どうしたの?」

「い、いや、目を覚ましたら各務さんがいなかったし、その、トイレにいったら声が聞こえたからさ」

「もしかして……全部聞こえた?」

「ぼそぼそ何か言ってるのはき、聞こえたけど、何を言ってるかまでは聞こえなかったよ。誰か、いるの?」

俺は各務さんの後ろをのぞきこむ様にする。

「だ、誰もいないよ。僕の独り言だから気にしないで」

各務さんにしては珍しく、慌てた様に両手を振り否定する。

「なんだ、そうなんだ。それにしても晃達、どうしたんだろうな。こんな時間になっても戻ってこないなんて」

左手にはめている腕時計は午前二時過ぎをさしていた。

「さ、さぁ。道にでも迷ったんじゃない? とにかく、起こしちゃってごめんね。僕ももう寝るから」

各務さんは少し慌てた様に、シャワー室の中へ戻って行った。

「ふぅ、俺も寝るか」

各務さんの様子も気になったが、再び寝ることにする。

朝になっても帰って来なかったら探しに行こう、そう思いテントへ入った。

無人島の為、盗難等の心配はないが念のため入り口のジッパーを閉めることにした。

先ほどのタオルケットを体にかけ、横になった。

そして、しばらく物思いにふける。

各務さんの言っていた言葉。

あれの意味する所は何だろうか。

「計画」「待てない」「行く」

各務さんは、何かの目的があってこの島に来たのだろうか。

「鬼退治かなぁ」

俺は思わずその独り言に笑ってしまった。

そもそもが作り話であり、晃と親しい俺でさえこの島を知ったのはつい最近になってからだ。

それを、各務さんが以前から知っているとはあまり考えにくい。

「じゃあ、何のためだろう」

まさか、信一をこの世から消すためだろうか。

確かにこれ以上のチャンスはまたとないはずだ。

各務さんは、常日頃から信一には「死ねば?」とか「殺害するよ?」とか言っている。

信一に向かって銛を投げたのも、実は本気だったのかも知れない。

そうすると、信一が姿を消したのは各務さんの仕業なのだろうか。

しかし、あの時各務さんは俺達と行動を共にしていたし、信一と一緒にいたのは唯だ。

「唯もグルという可能性は……」

無いだろう。

あいつがそんな野蛮な事を手伝うとは思えない。

明日、各務さんに直接聞くべきだろうか。

しかし、今までギクシャクしていた感じが、この島に来てから無くなった。

その良好な関係は壊したくない。

そんな事を考えていると、だんだん瞼が重くなっていった。

しばらくうとうとしていた時だ。テントの外で、唸り声のようなものが聞こえた。

俺は眠気をこらえ、耳に意識を集中させる。

まるでゾンビのようなその唸り声は、段々と近づいて来ている。

さざ波の音に紛れて、砂の上をする様に歩く音も聞こえる。

信一が戻って来たのだろうか。

しかし、それにしては様子が変だ。

俺は目を閉じたまま息を潜めじっとする。いざというときのために、手元にあった包丁を握りしめた。

じわじわと近づいてくる唸り声。

もう、すぐそばまで来ている気配がする。

しかし、突然唸り声がやみ、足音も聞こえなくなった。

どうしたのだろうか。

俺の幻聴だったのか。

俺は飛び起きたい衝動を堪え、うっすらと目を開ける。

そこで、信じがたい物が目に入った。

月明かりがテントに作った影だ。

それは普通の影では無い。二本足で立つそのシルエットの、額と思われる箇所に存在する突起。

鬼だ。鬼が実在したのだ。俺は震え上がった。

晃の話は作り物なんかじゃなかった。

今、俺の目の前に鬼がいる。

俺は喰われてしまうのだろうか。

しかし、生け贄に捧げられていたのは若い女性だ。

各務さんが危ない。

俺は咄嗟にそう思った。

けれど、萎縮してしまった今の心では、この場を動く事すらままならない。

シルエットがこちらに近づいてくる。

俺は瞳を閉じ、息を殺す。テントのジッパーが少しずつ開かれていく音が聞こえる。

見たい衝動に駆られるが、俺はじっと耐える。

ジッパーを開く音が止む。

中を伺う気配。

見られている。

俺は今、確実に見られている。

しかし、俺には寝た振りを続ける事しか出来ない。

永遠に続くかと思われた時間。

しかしそれは、ほんの数秒の事だったかもしれない。鬼がテントから離れる気配を感じた。

俺は極度の緊張が解けたためか、安心した瞬間、気を失っていた。



目が覚めた時、既に陽は高く昇っていた。

俺は飛び起き、包丁を握り締め身構える。

ゆっくりと外へ顔をだし、辺りを伺う。

しかし、人の気配はしない。

「夢、だったのかな」

テントの外に出ると、その考えは簡単に砕けた。

砂浜に残る足跡。

そして、荒らされているもうひとつのテント。

俺は、荒らされたテントに近づく。

食べ物や飲み物を置いていたテントだ。

テントは破かれ、空になったペットボトルや、お菓子などが食い散らかされていた。

「なんだ、これは。何なんだよ畜生!」

俺は思わずそう叫んでいた。

およそ三日分の食料。それらが全て荒らされていた。

雄二さんが迎えに来るまで、飲まず食わずで耐えるしかない。

この炎天下の中をだ。

開けられていない物は無いか探したが、全て開封され食い荒らされていた。

俺は手に掴んだペットボトルを、力任せに投げる。

少し残っていた水が砂浜に染みを作り、カコンと小気味の良い音をさせて、

ペットボトルはシャワー室の建物に当たった。

「そうだ、各務さんは? 彼女は無事なのか!」

俺は慌ててシャワー室へ駆け寄る。

「各務さん! いたら返事をしてくれ。各務さん!」

俺は叫んだが、中からの返答は無い。

「くそ、こうなったら仕方ない」

女性陣が更衣室として使っていた場所に入るのは気が引けたが、緊急時だから仕方ないと自分に言い聞かせる。

「各務さん、入るからね」

俺は中に聞こえる様に言い、足を踏み入れる。

外からは見えない様になっている入り口を右に、そして左に曲がる。

正面には木でできた正方形の台があった。

台の上にはカバンが三つ置かれている。

そのうちの一つ、黒いカバンの口が開いており、中身が台の上に散乱していた。

ドクロプリントのシャツ。所々ダメージカットされているショートパンツ。

白黒のニーハイソックス。そして、爪の先が赤い、ピンクの熊のぬいぐるみ。

持ち主は間違いなく各務さんだろう。

チラリとカバンの中に下着が見えたため、俺は視線を反らす。

ここも、テントを荒らした奴が来たのだろうか。

ますます、各務さんの安否が気になる。

室内を見回す、特に怪しい所は他に見当たらない。

俺は左手のシャワー室へ入る。

簡素なシャワーが二台設置してあるだけで、怪しいものは何もなく人の気配は全くしない。

俺は急いで外へ出た。

「各務さ~ん! 晃~!」

力のかぎり叫ぶ。

「夏希~! 信一! 唯~!」

しかし、俺の叫び声はけたたましい蝉の歌声にかき消される。

俺はその場にへたりこみ、叫んだ事を後悔する。

「畜生、喉が渇いた」

持ち込んだペットボトルの水は無い。

絶望的だ、そう思った時、ふとあることを思い出す。

「そういえば昨日、トイレの水出たよな」

しかし、あの時は寝起きであったし、ボソボソと聞こえる声が気になり、記憶が定かではない。

俺は立ち上がり、トイレに駆け込む。

所々錆が浮いてる蛇口を捻る。

すると、勢いよく水が出た。

「やっぱり、昨日の記憶は間違ってない」

流れてくる水を両手で掬い、口へ運ぶ。

「……不味い」

鉄の味が口の中に広がる。しかし、この状況では背に腹はかえられない。

食料に関しては、昨日の夜しっかりと食べたため、しばらくは平気だろう。

いざというときは、唯のカバンの中を改めさせてもらう。

何かしらお菓子類が入っているはずだ。

唯は普段から自分用のお菓子を持ち歩いている。

チョコレートや一口サイズのビスケット、カップ型のスナック、そういった携帯しやすい物を好んで持ち歩いている。

だが唯は、常日頃からお菓子を食べているのにも関わらず痩せている。

クラスの男子の間では、全ての栄養は胸に行っている、とよく話題になる。

しかし、俺は知っている。

唯が合気道を習っている事を。

「でも、お菓子食べたらものすごく怒るだろうな」

普段はおっとりとしており、周りをほんわかとした空気にするが、嫌な物に対しては情け容赦ない。

いざというときが来ないように祈ろう。

そう思った。

「さて、これからどうしたものかな」

晃にここで待機しろと言われていたが、このままここにいても、恐らく何も解決しないだろう。

しかし、無意味に歩き回っても、体力を消耗するのは確かだ。

「やっぱり、あそこに行くしか無いか」

俺はTシャツ、そしてズボンを履き、サンダルから靴へ履き替える。

倉庫へ行き、なるべく錆びていない銛を一本掴んだ。

よし、と気合いをいれた。

倉庫を出て、昨日たどり着いた道路を目指す。

木々の間を抜け、一直線に進む。

昨日は周りを見る余裕が無かったが、木々の至るところに、カブトムシやクワガタ、カナブンなどが群がっていた。

中には見たことの無い虫や、遠くに蜂の巣も見える。

普段であれば、物凄く冒険心をくすぐられる所だろうが、今はそんな気分ではない。

不安や孤独感。

それらが胸の中を支配している。

何者かが潜んでいるかも知れないと思い、なるべく音を出さないように歩く。

自分が踏んだ枝がおれるたび、体が強ばる。

時間にしては十分ぐらいだろうか、昨日と同じ場所へ着いた。

左手には、廃墟となった建物が聳え立っている。

俺は、その建物に向かって歩き出した。

ゆるい坂を登り、道が二又に別れている場所にたどり着いた。

廃墟は真正面に見えているが、道は左右に別れている。

「どっちだ、どっちが正解だ」

辺りを見回しても、標識の類いは無い。

どちらを選んでも、いずれはたどり着けそうな気がしたが、俺はふと右の道を見た。

「――あれは、信一の?」

道の端、草むらのすぐそばに見覚えのあるサンダルが落ちていた。

信一の履いていたサンダルの片方、まるでこっちへ来いと言わんばかりに。

俺はそのサンダルを横目に、歩を進める。

相変わらず蝉の鳴き声がうるさい。

まるで、一人残された俺を嘲笑っているかの様だった。

しばらく景色の変わらない道を歩いていると、建物が見えて来た。

「きれいな家だな。まだ新しいのか?」

俺は小走りで近づく。

鉄の門から玄関まで飛び石の小道が続き、手入れされた植木、広いバルコニー、その二階建ての洋館は、

別荘と言うには豪華な作りだった。

左手のほうにも道があり、遠くには廃墟が聳え立っている。

しかし、今はこちらの洋館を調べるのが先だ。

中に入ろうと、鉄の門に手をかけた時だ。

洋館の方から、あの鬼の哭き声がこだました。



俺はゆっくりと鉄の門を開け、身構えながらジリジリと玄関へ近づく。

鬼がこの近くに潜んでいる可能性があるからだ。

「いや~~~~っ!」

小道を半分ぐらい来た時だ、耳をつんざく様な、女の叫び声が聞こえた。

「なんだ? 何がおきてんだ」

俺は走り、玄関の扉のノブを勢いよく掴む。

扉には鍵がかかっておらず、すんなりと開いた。

玄関の中にはたたきが無かったため、土足のまま上がる。

そして、左手にある階段を勢いよくかけあがった。

廊下には、唯が力なくヘタリ込んでいた。

「何があった!?」

俺は駆け寄り、肩を揺する。

他にも聞きたい事が有ったが、今は状況を確認するのが先決だ。

「あ、秋人君」

唯は顔をあげると、驚いた様に目を見開いた。

そして、震える手を持ち上げ、正面の部屋を指した。

そこには、呆然と立ち尽くす晃の背中があった。

「晃!」

「あぁ、秋人か。お前、来ちまったのか」

晃は振り向くと、力なく笑う。

しかし、その目は笑っていない。

悲しみや怒り、そんな物が混じった光を放っている。

「一体何があった?」

俺は立ち上がり、部屋に足を一歩踏み入れた。

「うっ。何だこの臭い」

鼻をつく異臭。思わず手で鼻を覆う。

汚物や精液、血液や魚の腐敗したような臭い。

それらが混じりあい、部屋の中に充満していた。

「おい、晃」

俺が問いかけると晃が視線を前方へ移した。その視線の先を追う。

そこには、夏希がいた。

いや、夏希だった物があった、といった方が正しいだろう。

手足を投げ出し、裸でベッドの上に横たわる夏希。

仰向けで横たわる彼女の周りは、おびただしい量の血液で赤く染まっていた。

そして、その腹は無惨にも切り裂かれ、内臓と思える物は残っていないように思われた。

顔は苦悶に歪み、驚いた様に見開かれた瞳は、既に生気を失っている。

「何だよ、これ。何なんだよ! 晃、誰がこんなことした!」

俺は晃の肩を揺すり怒鳴っていた。

自分でも押さえきれないほどの感情。

怒り、悲しみ。

それを、晃にぶつけてしまった。

「俺だってわからねぇよ」

俺とは対照的に、晃は冷めた態度だった。

「何だよその態度は! お前は悔しく無いのかよ。分かってるのか? 夏希が殺されたんだぞ!」

「悔しいし、こんなことした奴は、例え誰だろうと許せない。けど、今泣きわめいたって仕方ないだろう」

そういって握りしめた拳は、ブルブルと震えていた。晃が本気で怒っている証拠だ。

俺はそれを見て冷静さを取り戻す。

「このままじゃ、可愛そうだよな」

俺はベッドに近づき、足元に丸まっていたシーツをとる。

それを体にかけてやるとき、足の付け根に付着した液体が目に入った。

俺は、いたたまれない気持ちになり、全てを隠してやるようにシーツをかけた。

「とにかく、詳しい話を聞かせてもらうぞ」

「ああ、分かった。下のリビングへ行こう」

晃と一緒に部屋を後にし、立てない唯の肩を両方から支えながら階段を降りた。

リビングのソファーには、各務さんが座っていた。

「か、各務さん! 良かった、無事だったんだ」

各務さんは服に着替えており、麦茶を飲んでいた。

「石川くん!? そうか、来ちゃったんだ」

各務さんは残念そうに肩を落とした。

「各務、もうそれどころじゃ無くなった」

唯をソファーに座らせ、感情を押さえた声で晃は言った。

「どういうことよ」

「夏希が死んだ。いや、殺されたんだ」

「ちょっと二階堂、僕にもドッキリを仕掛けようっての?」

「いや、晃が言ってる事は本当だよ」

俺は、二人の会話を理解は出来なかったが、晃にばかり辛い話をさせまいと思い、夏希が殺された事を説明する。

「そんな――。僕、見てくる」

そういうと各務さんは駆け出し、制止する間もなくリビングを出ていった。

しばらくすると、青ざめた各務さんが戻ってきた。

「一体誰が……。どうしてあんな残酷な事ができんのよ」

目に涙を浮かべ、力なくソファーに座った。

「とにかく、話を整理しないか。それから、今後の事について話し合おう」

俺は全員を見渡し、落ち着いた声でそう言う。

「あぁ、分かった」

テーブルを挟んだ正面の晃がうなづいた。

声こそ落ち着いているものの、その挙動は忙しない。

貧乏揺すりをし、膝を指で叩いている。

唯は精神的ショックが大きく、晃の隣で横になっている。

俺の隣に座る各務さんは俯き、ぶつぶつと何かを呟いていた。

「まず、何で晃達がここにいるんだ? 俺はこの家の存在すら知らなかった。いや、聞かされていなかった」

途中の分かれ道で、右側を選んだため偶然発見したようなものだ。

「この家は、親の別荘だ。お前には無人島だと説明したが、実は電気も生きてるし、水も出る」

水が出るのは既に知っている。

「ここに俺たちがいるのは、お前をびっくりさせるためだった」

そう言うと晃は立ち上がり、奥の扉へと向かう。

「秋人、ちょっとこっち来てみろよ」

その言葉に促され、俺も立ち上がり、晃の後についていく。

扉の奥はキッチンだった。大きいテーブルには、レースのテーブルクロスが敷かれ、銀で出来た燭台、

色とりどりの花、そして、作りかけの料理が所々に置かれている。

真ん中には、見事にデコレーションされたワンホールのケーキが置かれていた。

「何だよこの料理。俺に内緒でパーティーでもするつもりだったのかよ」

「パーティーはするつもりだったけど、別にお前に内緒って訳じゃないよ」

「まさか……」

「そのまさか、さ。明日、お前の誕生日だろう。それを皆で祝おうとしてたわけさ。サプライズでな」

俺はすっかり忘れていた。誕生日が夏休みであるがゆえ、今まで友達に祝ってもらった事が無かった。

だから、晃達がそんな計画をしていたなんて事も思い付かなかった。

「そのケーキ、僕が作ったんだよ」

振り向くと側には各務さんが立っていた。

力作だよ、と言って少しうつ向いた。

俺は、言葉を発する事が出来なかった。

俺のためにケーキを作ってくれたのは嬉しい。

しかし、状況が状況であるがゆえ、手放しに喜ぶ事は出来ない。

「ごめん、浮かれてる場合じゃ無いよね。夏希に悪いもんね」

各務さんは、俺の態度を察したのか、そういって瞼を擦った。

「いや、有り難う」

俺はそれしか言えなかった。

「とにかく、俺の誕生日パーティーを計画していたのは分かった。最初から、こういう計画だったのか?」

「いや、それは違う。最初はもっと上手くやるはずだったんだ」

晃は初めの計画を話し始めた。

最初に企画を思い付いたのは夏希であること。

本来ならば、順番で抜け出し準備するはずだったこと。

信一がいなくなったために計画が狂ったらしい。

「あいつが抜け駆けした、最初はそう思ったんだ。だけど、ここに信一の姿は無かった」

信一を探しながら準備をしたため、夕方には戻ってこれず、そのまま別荘で夜を明かしたらしい。

「けど、今日の明け方、あいつがここに来たんだ」

「なんか、すごい具合悪そうだったよね」

顔は赤くむくみ、苦しそうに唸っていたらしい。

「熱も凄かったからな、客室で寝かせたんだ。それで、夏希が付きっきりで看病するって――」

晃がそこまでいいかけた時、各務さんが「あっ!」と大声をあげた。

「信一のやつはどこ行ったのさ! あそこの部屋に寝かせたはずでしょ?」

その言葉を聞き、晃も思い出したように口を開いた。

「そういえばそうだ」

晃はソファーで横になっている唯の側には駆け寄ると、体を優しく揺すり

「お前が部屋に行った時、信一はいたか?」と尋ねた。

唯は身体を起こし、しばらく考え込んだ後、首を横にふった。

「あまりよく覚えてないけど、いなかったと思うよ」

「そうか分かった。起こして悪かったな」

晃はそういうと唯の頭を優しく撫でた。

唯は気持ちに良さそうに目を細めると再びソファーに横になった。

「鬼の、仕業かも知れない」

俺はそう呟いた。

「石川君、まだそんなこと言ってるの? あれは二階堂の作り話だっていっ――」

「見たんだ! 昨日の夜! 鬼が唸りながら俺の寝てるテントを覗いて来たんだよ!」

俺は必死に説明する。

「俺は特に何もされなかったけど、昼に目が覚めたら、もうひとつのテントが荒らされてたんだ」

「うそ、僕知らないよ。僕がここに来ようと外に出たときは何とも無かったし、鬼なんていなかったよ」

「俺は各務さんが心配になって、更衣室を覗いても誰もいなかったから、てっきり……」

「ちょっと、更衣室に入ったの?」

「緊急時だったから仕方ないだろ。もしもの事があったら、と思って」

「変な事、してないよね?」

各務さんがジロリと睨んでくる。

「するわけ無いだろう。異常が無いか見ただけだよ」

各務さんの言う変な事が具体的にどんな事かは分からないが否定する。事実、何もしていない。

「なら、良いんだけどさ」

どうやら、各務さんは納得してくれたらしい。

「んで、信一もその鬼にやられたってか」

晃が肩をすくめる。

「その可能性が高い。俺がここに着いたとき、あの鬼の哭き声が聞こえたんだ」

「だからあれは、風の音だって二階堂が言ったじゃん」

それは分かっている。しかし、それだけでは無い。

「よく思い出してくれ。まず一回目に聞いたのは昨日の昼前だよな」

「そうね、僕たちが二階堂をコテンパンにした時だよね」

各務さんが頷く。

「そして、俺はその日の夜中、その音で目が覚めた」

「僕も聞いたよ。丁度二階堂達と無線で連絡とってる時だった」

やはり、あの時は独り言では無かったようだ。

「問題はそこだ。おかしいと思わないか? 風の音は潮の満ち引きで鳴る。つまり、昼に干潮だったとすると夜は満潮なはずだろう、本来ならあの音は聞こえるはずが無いんだ」

「だからって鬼が実在して、信一と夏希を殺したってか? そんな話し誰が信じるんだよ」

晃が呆れたようにかぶりを振った。

「悪いけど、僕も信じられないね。現実的じゃないし」

ではあれは、俺の見間違いだったのだろうか。

鬼ではなく信一が帰って来ただけかも知れない。

じゃあ、一体誰が夏希を……。

そして、信一はどこに行ったのだろうか。

「とにかく、信一を見つけない事には始まらないな」

俺は立ち上がり、壁に立て掛けておいた銛を手にした。

「ちょっと、どこに行くの」

「信一がいないか、外を探してくる」

「一人じゃ危険だよ。僕も行く」

そう言うと各務さんは立ち上がり、部屋を見回した。

晃の親の趣味なのだろうか、部屋の隅には甲冑が飾られ、壁の至るところには、装飾された剣や盾が飾ってある。

各務さんは壁に近づき、その内の一つを手にする。

「よし、これで良いかな」

彼女が手にしたのは、派手に装飾されたフルーレだった。

「鬼退治といったらこれだよね」

胸元で剣を構え、二、三回振るう。

「何で鬼退治にフルーレなのさ」

普通、鬼退治と言えば桃から生まれた男と、その家来の犬、猿、雉だろう。

しかし、ここにはどれも存在しない。

「あれ、一寸法師を知らないの? 針で鬼の目を突っついて退治したじゃん」

「確かに、言われてみればそうだけど、それ、針じゃないし」

「細かいことは気にしない、気にしない」

あれはあくまでおとぎ話だ。例え鬼の目を突っついた所で、完全には退治出来ないだろう。

しかし、目を突き抜け、脳まで達すれば話しは別かも知れない。

しかし、確実性に欠ける。

やはり、鬼の存在を信じていないと言うことか。

「どうでも良いけど、それ親のだから壊さないでくれよ」

「分かってるって。そんで、二階堂はどうするの」

「俺は家の中を探すよ。唯を置いて外に行ける状況じゃないしよ」

「そうか。晃、気を付けろよ」

「お前がな」

俺は強く銛を握りしめ、リビングを抜け、外に出た。

外に出ると、夏の熱気が身体中を包み込んだ。

相変わらず蝉達がけたたましく歌っている。

「まずは、家の周りを一週してみよう」

辺りを警戒しつつ、ゆっくりと裏手に回る。

そこには、シャッターの付いたガレージがあった。

「こことか怪しくない?」

各務さんはそう言うと、軽快な足取りで近づき、シャッターの取っ手に手をかけた。

「よっと」

ガレージのシャッターはいとも簡単に開いた。

「ねぇねぇ、見て。高そうな車があるよ」

各務さんのいうとおり、ガレージの中には外車が一台と、青いオフロードのバイクが置いてあった。

「この島に車とか必要なのかな」

俺はガレージの中に入る。車内に誰かいないか確認するが、荷物一つ置かれていなかった。

念のため車の下をのぞいて見る。しかし、猫すらいなかった。

「ねぇ石川君。これ、鍵付いてるよ」

各務さんの言葉に顔を上げ、バイクに近づく。

「本当だ。それにしても、きちんと手入れされてるみたいだな」

ガレージの中に保管してあるのが大きいだろうが、

目立った錆びなどは見当たらずメンテナンスは行き届いているようだ。

バイクのタイヤには土が付着していた。

どこか走れる林道なんかが有るのかも知れない。

俺は、バイクのメインキーをONまで回し、セルスイッチを押した。

するとセルモーターがキュルキュルと回り、エンジンが始動した。

マフラーからオフロードバイク特有の排気音が漏れる。

「おっ。かかった、かかった」

バッテリーは生きていたし、ガソリンも充分入っているようだ。

「すご~い。石川君、もしかしてバイク乗れるの?」

「ああ、乗れるよ。十六になってすぐ取ったからね」

俺はバイクのエンジンを切り、外に出る。

後ろでは「僕も取ろうかなぁ」という各務さんの独り言が聞こえた。

しかし、人がいないとは言え少し無用心ではないか。シャッターはおろか、バイクに鍵が挿しっぱなしだ。

これでは、どうぞご自由にお乗り下さい、と言っているようなものだ。



俺たちは、信一を見つけられないまま、玄関の前に戻って来た。

「あのヘタレ、一体どこに行ったんだ。見つけたら切り刻んでやる」

ヒュヒュと、フルーレが風を切る音が聞こえる。

今の各務さんならやりかねない。そう思わせる気迫が漂っていた。

「しかし、広いよね。とても別荘だとは思えないよ」

建物の外周を回るのに十分ぐらいはかかっただろうか。

その他の場所も慎重に調べていたので、おそらく三十分ぐらいはかかっただろう。

「二階堂が言うには、部屋が二十室あって、三階建てらしいよ」

俺は建物を見上げた。

どうみても二階建てとしか思えない。

「屋根裏、かな」

「違うよ、地下があるんだって」

なるほど、それならば合点がいく。

「地下にはね、ホームシアターとか、カラオケ、ビリヤード台、温水プールまであって、建物自体、

かなり防音設備が良いらしいよ」

すぐいけば海があるのに、果たしてプールが必要なのだろうか。

金持ちの考える事はよく解らない。

「とにかく、中に入ろう。喉も渇いたし」

「そだね。二階堂も部屋をチェックし終わってるかも知れないし」

別荘の中は、先ほどと変わらずしんと静まりかえっている。

整っているという防音設備のせいだろうか。

俺と各務さんは真っ直ぐリビングへ向かった。

「おい、晃。戻ったぞ」

しかし、返事はない。

リビングへ一歩入った瞬間、違和感が身を包んだ。

まるで、変わり果てた夏希が寝てる部屋へ踏み込んだ時と同じ違和感。

「ね、ねぇ。あれ……」

各務さんが震える手である一点を指差す。

それは、ソファーだった。

唯が横になっていたソファー。

そこから、ダラリと腕が垂れている。

ただ寝ているだけではないか。

頭ではそう思っても、胸騒ぎが止まらない。

俺はゆっくりとソファーに近づき、腕以外を隠しているタオルケットを捲った。

後ろで、「ひっ」と息を飲んだ声が聞こえた。

俺は、ソファーに横たわる物に目を落とす。

生きていた時は、鳴沢唯と呼ばれた人物。

その成れの果てがそこにはあった。

服は無惨にも切り裂かれ、首が有らぬ方向に向いている。

「酷い。一体だれよ! こんなことするの。絶対に赦せない!」

俺も気持ちは同じだ。

しかし、晃はこの事を知っているのだろうか。

もし、まだ知らないのなら、俺は何て伝えれば良いのだろう。

「とにかく、晃を探そう」

俺は、唯にタオルケットをかけてやる。

なぜ、夏希や唯が死ななければならないのか。

理不尽すぎるこの現実に、俺は怒りを覚えた。

「そうね。二階堂が犯人かも知れないしね」

各務さんが突然そんなことを口走った。

「そんな! それはない」

俺は即座に否定する。

「どうして言い切れるのよ。動機なんていくらでもあるだろうし、石川君が来たとき夏希の部屋には二階堂がいたんでしょう?」

「それはそうだけど、あそこは信一がいた部屋だし、唯の後に様子を見に行ったんだぞ。そんな時間は無かったはずだ」

「そんなの嘘かも知れないじゃん。唯からは何も聞いてないもん」

「晃達が様子見に行くとき、各務さんもいたんだろう? だったら――」

「僕はキッチンにいたから知らないんだよ!」

各務さんはどうしても晃を犯人にしたいらしい。

「だからといって、俺は晃がやったとは思えない」

「どうしてよ。最後に唯と一緒にいたのはあいつじゃない」

「あいつが、夏希や唯を手にかける事は絶対にない!」

昔から一緒だった俺は知っている。

よく意見がぶつかり合う晃と夏希だったが、二人の間には、誰も触れる事の出来ない信頼があった。

友情と言うより、兄弟の絆と言った方が近いだろう。

そして、晃は。

「あいつは、唯の事が好きだった」

直接聞いた訳では無いが、あいつの言動を見れば分かる。

晃は、昔から親の愛情に飢えていた。

授業参観や運動会、合唱コンクールなどの行事に親が来たことは一度も無い。

いつも来ていたのは、世話役の執事だった。

兄弟とも年が離れており、晃は家の中で孤立していた。

そんな飢えを潤したのが唯だった。

料理はからっきしダメだが、全てを受け止め包み込む様なその母性的な性格は、愛に飢えた晃の心を癒したのだろう。

俺はそう推察する。

「そんな……。じゃあ犯人は誰よ。まさか、あのヘタレがこんなことしたっていうの?」

「それは、分からないよ。他の第三者かも知れない」

「石川君は、まだ鬼が犯人だって言いたいの?」

「あぁ、その方が信一が犯人だと言うより、納得出来る」

鬼がいるという確信は既に無いに等しいが、俺はそう思わずにはいられなかった。

昔の人々が、人外の存在に怯えた理由が分かる。

「この時代に鬼なんかいるわけ無いじゃない! 現実を見てよ。この島には僕たちしかいない。

だったら、姿が見えない二階堂と信一を疑うべきだよ」

「待てよ、そもそも俺達しかいないという先入観が間違っているんじゃ無いか?」

この別荘の全てを調べた訳ではないし、あの廃墟にも人がいないとは限らない。

無人島とはいえ、晃の親族が来ている可能性も考えられる。

それにこんな洋館のある島だ。管理人が常駐していたとしても可笑しくない。

昨日みた人影のような物も気になる。

「確かに、そうかも知れないけど……」

「残念だが、やったのは俺だよ」

突然、廊下の方から声がした。

「全く、びびっちまって情けない。まっ、俺はすましてるお前が嫌いだったんだけどな。秋人君よ」

廊下から姿を現したのは、

「信一……だよな?」

「ああ、そうだよ。信一様って呼んでくれて構わないぜ」

姿が豹変した信一だった。ズボンしか履いておらず、露出した上半身は、真っ赤に染まり、筋肉が隆起している。

そして、額に瘤の様な出っ張りがある。

「何の冗談だよ。僕にも解るように説明しな」

各務さんの握るフルーレの切っ先が、信一へ向く。

「冗談なんかじゃ無い。俺は素晴らしい力を手に入れたんだよ」

信一は恍惚に浸った表情をした。

「おまえらもすぐ楽にしてやるよ。あの二人みたいにな」

「やっぱり、犯人はあんただったのね」

フルーレの切っ先が震える。

それは怒りのためか、それとも恐怖のためか判別がつかない。

「そうだよ。以前からなっちの口うるささにはウンザリしてたんだ。

だから、一番始めに喰ってやった。最高だったぜぇ。おまえらにも見せてやりたかったな、あの泣き叫ぶ姿」

夏希をいたぶった時の事を思い出したのか、信一はくっくと笑った。

「ふざけるな! だからって殺していいはず無いだろう。信一、一体お前はどうしちまったんだよ」

「俺は、お前のその良い子ちゃんヅラがずっと嫌いだったんだよ!」

信一はすごい剣幕で拳を握った。

「出会った時からそうだった。どっか人を見下した態度で、全て自分が正しいと思ってやがる。

本性は見せず、上っ面だけの言葉で人を惹き付け、話題の中心にいないと気がすまない。そんなお前にはへどが出る!」

「そんな、俺は……」

「俺には分かってんだ。人に優しくするのは、結局自分のためだってな。

そんで、美味しい所ばっかり持っていくんだよ。お前の偽善は、結局自己満足にしか過ぎないんだよ」

俺には返す言葉が見つからなかった。

信一が言った事全てが正しい訳では無い。

しかし、的を射ているのは確かだ。

「これ以上石川君を馬鹿にするなら、僕が許さないよ」

各務さんが一歩踏み出す。

「全てあんたの僻みじゃんか! 石川君は悪くない。そんなんだからいつまでもヘタレなんだよ」

「うるさい! 俺を二度とヘタレなんて呼ぶんじゃねぇ!」

信一の剣幕に圧されたのか、各務さんは一歩下がった。

「どうして……どうして唯を殺したんだよ。あいつはお前に対しても優しかっただろう?」

夏希を殺した事に納得は出来ないが、唯をなぜ殺さなければならなかったのかがもっと理解出来ない。

「ああ、あれな。勢いで、ちょっとな」

「勢いって何よ! そんな釈明が許されると思ってるの?」

「最高だったぜ。あの柔らかくて吸い付く感じは。殺すには惜しかったんだけどな。

じっと耐えて、晃の名前を連呼しててな。それで、ちょっと黙らせようと思ったら、力加減を間違えたんだよ」

信一はニヤニヤと笑う。

「俺が唯っちにとって最初で最後の男だったってわけだ」

その時、俺の中で何かが弾けた。

頑丈な理性という錠で封印されていた本能。

その黒い渦が身体の中を駆け巡った。

気がついた時には、信一の腹に銛を突き立てていた。

「くくく、やっと本性を表したな。お前らだって結局そういう奴だよ。かつての友人を刺そうとしたんだからな」

俺のくり出した銛は、信一の腹に刺さる寸前で捕まれていた。

もう片方の手で、各務さんがつきだしたフルーレを眼前で握っている。

「あんたなんか、友人でもないし、最早人間じゃない!」

「だからって殺すのか? 人間じゃ無いから殺しても良い。そんなのエゴじゃ無いか」

「お前は夏希や唯を殺した。人間であっても、例え人間じゃ無くても、許される事じゃ無いだろう」

「俺は喰いたいから喰った、やりたいからやった。本能に従ったまでだ。自然の摂理だよ。

それに従うのが悪だっていうなら、生き物全てが悪って事になるじゃないか」

「それは、違う」

「違わないね。俺は、ライオンが生きるためにシマウマを狩るように、夏希を喰った。

分かるか? 食物連鎖だよ。人間だって、牛や豚、鳥何かを家畜として育てて、最終的には食ってるじゃないか。それなのに、何で俺だけ悪なんだよ、そんなのおかしいじゃないか」

その信一の言葉に俺は、何が正しくて何が間違っているのか解らなくなった。

生きるためには、確かに何かを犠牲にしなければならない。

生物は、生まれながらにして罪を背負っているのだろうか。

「石川君、コイツの言うことに耳を貸さないで」

「全く、その通りだ」

突如、信一の背後に現れた晃が、振り上げた剣を勢いよく振り下ろす。

その剣がレプリカなのか、鬼の強靭な肉体のためか、信一の後頭部から鈍い音が響いた。

後頭部に打撃を受けた信一は、前のめりになり、そのまま床に倒れた。



変わり果てた唯を見つめる晃の背中は、とても悲しげだった。

「途中からだが、夏希も、唯も、信一がやったってのは分かったよ」

唯にタオルケットをかけ、振り向いた晃の顔は、激昂してるわけでも、涙を流しているわけでも無かった。

普段と変わらない晃がそこにいた。

晃は決して人前では弱音を吐かない。

俺と唯を除いてだ。

しかし、この中で一番悲しみ、そして怒っているのは晃だろう。

「何で、何でこんなことになっちまったんだろうな。俺が、この島に来ようなんて言わなければな」

晃は拳をギュッと握り、悔しそうに唇を噛んだ。

「二階堂は悪くないよ。全て信一のせいなんだから」

「いや、俺がずっと唯の傍にいてやれば、こんなことにならなかったはずだ」

「一体、どこに行ってたの?」

「地下室だ。異常が無いことを確認して戻ってきたら、お前らの話が聞こえた」

そしたら信一は一体何処に潜んでいたのだろう。

「なんでこいつは、こうなっちゃったんだろうね」

各務さんがため息混じりに呟いた。

俺達は椅子に縛り上げた信一を見る。

晃の一撃で気絶しているが、死んではいないようだ。

信一からは、まだ聞きたい事が沢山あった。

止めを刺そうとした晃を制し、縛り上げることにしたのだ。

以前の信一の面影を残しているが、別人、いや別の生き物と言っても過言ではない。

赤く変色した肌、華奢だった体は三倍ぐらいに筋肉がつき、額には鬼の象徴とも言えそうな瘤がある。

本当に、どうしたらこうなるのだろうか。

「僕の、僕のせいかな?」

各務さんが、涙ぐんだ瞳で見つめてくる。

「僕が銛で怪我をさせたから。それでこんな風になったのかな」

「俺は、違うと思うよ」

確かに傷口から雑菌が入り、化膿するということはあっても、こんな風に変異するとは思えない。

「姿を消すまでは普通だったんだ。恐らく、そのあとに何かしらあったんだよ」

そう考えるのが一番妥当だろう。

「もしくはそれ以前、だな」

晃が低い声で呟く。

「以前って、どういうことよ?」

各務さんが、晃の呟きに反応した。

「この島に下準備しに来た時だよ。あの時に何かあったのかもな」

「どちらにせよ、問題はこの島にあるって事なのかな」

晃が話した鬼の伝説。あながち嘘では無かったのかも知れない。

それにしても、下準備にも訪れていたなんて。

何となく疎外感を感じてしまう。

「唯なら、今すぐ帰りたいって言うんだろうな」

晃は自嘲気味に笑った。

俺は、それを見ていたたまれない気持ちになった。

「僕は帰らないよ。信一をこんな風にした原因を確かめたいし、夏希達の仇をとりたい」

帰る、帰らないと騒いでみても、雄二さんの迎えが来ない限り俺達は島から出られない。

「俺も、原因が何であるか知りたい」

さっきは衝動的だったとはいえ、いざという時にかつて友だった信一を手にかける自信は無い。

信一をこんな風にした原因が、他の人間だったとしても同様だ。

俺に、俺に人が殺せるのか?

「俺は、原因が何であれ、こいつは許せない。本当なら、今すぐこの手で殺してやりたいけどな」

晃は拳を強く握り、憎々しげに呟いた。

俺には、そこまでの覚悟は無い。

心のどこかで、信一が元に戻ると思っている。

確かに、夏希や唯を殺した事は許せない。

しかし、だからといって信一を殺す事は出来ない。

やはり、俺は信一が言うように卑怯なのだろうか。

「石川君、どうしたの? すごい難しい顔してるけど」

「いや、何でも無いよ。ちょっと考え事してただけ」

「そっか、なら良いんだけど」

どうやら、各務さんに心配されてしまったらしい。

「こいつが目覚めない限り、どうにもならないよな」

俺は目の前の鬼を見つめた。

「実は死んでるんじゃないの?」

各務さんがさらりと冗談めかして言った。

その時だった。

椅子に縛られている信一の腕がピクリと動いた。

一気に緊張が走る。

晃と各務さんは立ち上がり、武器を握りしめている。俺は、座ったまま動けずにいた。

しかし、武器はいつでも手に届く範囲に置いてある。

信一が真っ直ぐ俺を狙ってきた場合、間に合うかどうかは分からないが。

信一は椅子をガタガタと揺らした後、顔を上げた。

「なぁ、何で俺縛られてんだよ。ほどいてくれよ」

姿形は鬼のままだが、顔の雰囲気は以前の信一に戻っている気がした。

「それは出来ない相談だな。お前には聞きたい事があるんだ」

晃が憎々しげに睨み付ける。

「そうだよ。あんたは何をしたって許される事は無いんだから」

「まゆっちまで。何なんだよ、俺が何をしたって言うんだよ」

その表情は真剣そのものであり、今にも泣き出しそうだった。

「お前、覚えて無いのか?」

その雰囲気に、もしかしたら元の信一に戻ったのではないかと俺は思った。

「ああ、全く状況が分からねぇよ。なぁ、秋人、教えてくれよ」

信一は本当に覚えていないのかも知れない。

鬼に豹変し夏希達を襲い、そして、今は正気に戻っている可能性もある。

「お前が、夏希と唯を殺したんだよ! 惚けるのもいい加減にしろ!」

俺が答える前に、晃が怒鳴っていた。

「本当に知らないって言ってるだろう。勘弁してくれよ」

信一が泣きそうな声をあげる。

「なぁ、ロープぐらい解いてやったらどうだ?」

「そうだよ。秋人の言う通りだよ。何もしないからさぁ、頼むよ」

椅子ごと体を揺らし、必死に抗議する信一。

「ダメだね。まだ安心出来ないもん」

「そうだ。演技って可能性もある」

頑なに信一を解放する事を拒否する二人。

「二人ともどうしちゃったんだよ。冷静になれよ」

「僕は冷静だよ」

「俺もだ。冷静じゃ無いのは秋人、お前だ」

晃が信一を睨み付けたまま、俺に言った。

俺はいたって冷静なつもりだ。

気絶から目覚めた信一が、いきなり襲って来る可能性があったから縛りつけた。

しかし、今は信一が正気に戻ってると思えるし、ロープを解かない事には話が進まないのではないか。

「とにかく、知ってる事を話してもらう。解くかどうかはそれからだ」

晃が、握りしめた剣の切っ先を、信一の眼前に突きつける。

皆が殺気だっているためか、クーラーがついているというのに、部屋の中は息苦しく蒸し暑く感じた。

「本当に全然覚えて無いんだ。お前らが何かを追いかけて行った後、すごく身体の中が熱くなって、

それで、気持ち悪くなったから岩影に吐きに行ったんだ」

俺達は黙って信一の話しに耳を傾ける。

「そしたら、物凄く頭が痛くなって、目が覚めたら夜になってた。すごく腹がへってて喉も乾いてたから、

持ってきてた食料を食べたんだ」

「テントを荒らしたのはお前だったのか」

「そうだよ。でも、それでも苦しくて、必死にここまで来たんだ。その後の事は……」

そういうと信一はうなだれた。

「自分が、何でそうなったのか。その原因も分からないんだな?」

晃は険しい顔つきのままだ。

「急に気持ち悪くなったんだ。最初はまだ船酔いしてるのかと思ったよ。

だから、何で鬼になったのか何て分からないんだよ」

原因不明の奇病。そういったものだろうか。

「でも、お前が二人を殺した事実は変わらない」

「だから、俺は知らないって言ってるだろ!」

「惚けるな! 夏希や唯を無惨に殺しておいて、知らないだと? ふざけるな!」

「確かに俺がやったのかも知れないよ! だけど、それは俺じゃない。俺の中の何かだ」

信一の本能。それが肥大化し、暴走したのかも知れない。

理性、つまりは人間であった信一が封じ込まれていた可能性もある。

「そんな言い訳は通用しないよ」

各務さんも険しい顔で信一を睨み付ける。

「なぁ、秋人。お前なら信じてくれるよな? 俺は二人を殺して無いし、犯しても無いんだ。無実なんだよ」

俺はどうすれば良い?

どちらを信じれば良いのだろう。

「だから、あんたはヘタレなのよ」

各務さんはそういうと口許を歪めた。

信一が「どういうことだよ」と噛みつく。

「いつ、僕達があんたに向かって鬼って言った? それに、二人は犯されたとも言ってないよ」

各務さんの言葉を聞き、信一の顔がひきつった。

「さっき話してたじゃないか」

「だから、さっきっていつなのよ? 少なくとも、あんたが気絶してからは言ってないからね」

言われてみれば確かにそうだった。

信一に対しどうしてそうなった、とは聞いたが、鬼という語句は使っていない。

二人の事を思うと、凌辱されたということを口にするのがはばかれたため、犯されたとも言っていない。

しかし、俺は意識して言わなかった訳ではない。

そこに気づいたということは、各務さんは意識していたのだろうか。

信一は俯くと「くくくく」と笑い始めた。

「ははははっ。うっかり口がすべっちまったな。流石まゆっちだぜ。惜しかったなぁ、

もう少しであまちゃんの秋人を騙せたのによ」

信一は俺を見ながらニヤニヤと笑う。

「嘘、だったのか?」

「そうだよ、嘘だよ。お前なら騙されてロープをほどいてくれると思ったのによ」

俺は、悔しいというより、悲しい気持ちになった。

もう、あの信一は帰ってこない。

「ふん、やっぱりな。これではっきりした。お前は自分の意思で、唯達を殺したんだ」

晃が憎々しげに吐き捨てる。

「臆病で、姑息で、意志が弱いお前を、何で夏希が好きになったのかずっと疑問だったんだよ」

俺もそれは感じていた。

根はいいやつなのだが、たまに人をイラッとさせる何かを持っている。

一番は優柔不断な所だろうか。

しかし、夏希はそんな所に母性本能をくすぐられたのかも知れない。

「へぇ、なっちがねぇ。はは。そうだったのか。まぁ、俺は疎ましく思ってたけどな」

「それだけで殺したっていうのか?」

晃の眉毛がピクリと動く。

意志が弱かった信一にしたら劇的な変化だ。

「そうだぜ。本能が俺に言ったんだ。殺せ、喰えってな。まぁ、その前についでだから犯してやったけどよ。ヒヒッ」

再び、俺の中で、黒い物が膨れ上がってきた。

しかし、それより先に限界を越えた者がいた。

晃だ。

晃は大きく踏み込むと、握りしめた剣を勢いよくつきだした。

しかし、心臓を狙ったその一撃は、分厚い胸板に阻まれ、深く突き刺さる事は無かった。

数センチほど刺さった切っ先から、血が少し流れる。

「なんだ、こんなもんかよ」

信一が余裕の笑みを浮かべる。

晃は剣を引き抜こうとするが、いくら引いても抜けない様だった。

信一の肥大した筋肉が、切っ先をガッチリと掴んでいるのかもしれない。

「先ずは晃。お前から殺してやるよ。その自信に満ちた顔が歪む瞬間が楽しみだぜ」

「ふざけるな、お前ごときにやられてたまるかよ」

「それで、次は秋人だ。じっくりいたぶって殺してやるからな。まゆっちを奪った罪だ」

俺には信一の言っている意味が分からなかった。

「奪ったってなんだよ?」

「ふん、お前が気付いて無いわけ無いだろう? まぁいいや。んで、まゆっちは殺さないで、俺の奴隷にしてやるよ」

「へぇ、あんたが僕を奴隷にねぇ。僕の奴隷の間違いなんじゃ無いの?」

各務さんが不敵に笑う。

晃もそうだが、各務さんの冷静さはすごいなと思う。

信一が鬼に豹変していても、それに臆する様子が無い。

「俺を舐めやがって。まぁ、だからこそまゆっちの前で、秋人をいたぶるんだけどなぁ!」

突如、信一が力任せにロープをほどいた。

ほどいたというより、引きちぎったという表現の方が正しいだろう。

そのはずみで晃は飛ばされ、床に背中を叩きつけた。

そこへ信一が躍りかかる。しかし、信一は晃を襲う事は出来なかった。

各務さんの狙いすました一撃が、信一の片目を貫いたからだ。

凄まじい咆哮を上げ、もがき苦しむ信一。

ビリビリと鼓膜を揺らす。

信一は片目を押さえながら、廊下へ向かった。

「追えっ!」

晃の言葉に俺は慌てて駆け出す。

別荘の外へ出ると、廃墟の方へ逃げる信一の姿が見えた。

しかしその速さは、とても俺の脚力では追い付けるものではない。

それでも、各務さんは信一の後を追うように走り出した。

俺は一人、ガレージへ向かった。



俺は、蔦が複雑に絡まった門の前に、バイクを止めた。

結局信一に追い付く事は出来なかったが、途中で各務さんを拾い、廃墟の前までやって来た。

「やっぱり、ここに逃げ込んだのかな」

後ろに座る各務さんが言った。

僅かに開いている門が、まるで手招きしているように感じる。

「一本道だったから、途中で森の中に入らない限りはそうだろうね」

もし、途中で道をそれていたなら、後ろから襲われる事にもなりかねない。

「ねぇ、あそこ。見て」

各務さんが身を乗り出し、門を指差した。

黒く、艶やかで、柔らかい髪が頬に触れ、甘いシャンプーの香りが鼻孔をくすぐる。

俺は、高鳴る心臓に戸惑いを感じた。

しかし、今はそれどころではない。

目を凝らして、各務さんが指差した方を見ると、蔦の一部が赤く染まっている。

「あれ、血だよね」

俺達はバイクを降り、ゆっくりと門へ近づく。

「まだ、乾いてない」

蔦に付着した血液は、太陽に照らされつやつやと光っている。

そのことから、付着してからそれほどの時間が経過していないのが分かる。

信一がここに逃げ込んだ可能性は高いだろう。

そこで、俺達は丸腰であることに気付く。

急いで信一を追いかけたため、武器は別荘に置いてきてしまった。

しかし、ここで往生してても仕方ない。

「とにかく、中に入ろう」

「そうだね。今度は絶対に逃がさないんだから」

各務さんが気合いを入れた。

俺はまだ迷っている。

中に入って、信一を見つけたとして、俺はどうしたいのだろう。

俺は、気持ちが定まらないまま、廃墟の敷地内へ足を踏み入れた。


門を抜けると、すぐ目の前に今は動いていない自動ドアが待っていた。

人が一人通れるぐらいの隙間が開いている。

俺が先に廃墟に入る。

この建物は放置されてから久しいのか、床のひび割れた部分から、たくましく雑草が生えていた。

そこら辺には、虫の死骸や、鳥のふん、ガラスの破片等が散乱している。

それらを踏みつけ真っ直ぐ進むと、正面にエレベーターのドアがあった。

上を見上げると、地下は五階から、地上は十階まであることが確認出来た。

試しにボタンを押してみるが反応は無い。

左右を見渡すと、それぞれ奥に階段が見える。

左が上階へ行く階段で、右が階下への階段だ。

「ねぇ、どっちに行く?」

各務さんが左右を見渡しながらつぶやいた。

俺は悩んだ。

効率で言えばそれぞれ別行動するのが一番だが、この状況での単独行動は危険すぎる。

「ドラマとかだと、大概追われる人って上に行くよな」

俺は今まで気になっていたことを口にした。

本能的になのか、それともドラマの演出上なのか、追われている人の大半が上へ上へと逃げている印象がある。

「言われてみれば確かに。屋上とか行っても逃げ場無いだろうし、サスペンスだと断崖絶壁だもんね」

各務さんは、冗談が言えるほど余裕があるようだ。

俺は、本音を言えば信一と遭遇したくない。

殺されるかも知れないという恐怖もあるが、いざとなれば殺さなければならないかもしれない。

俺にはまだその覚悟が出来ていなかった。

「右に行こう」

地下は地下で逃げ道があるとは思えないが、怪我をしていた場合、階段を登るより降りる方が楽な気がしたからだ。

「うん、分かった」

各務さんは、異を述べることなく頷いた。

階段へ続く薄暗い廊下をゆっくりと歩き、埃にまみれた手すりを掴みながら、一段づつ降りる。

いつ、踊り場の陰から信一が襲って来るか分からない。

非常灯がぼんやりと光る階段を、踏み外しそうになりながら降りる。

そして、一番下まで降りてみたが、信一と遭遇することは無かった。

それに、これといって目ぼしい武器も見つからなかった。

「行き止まり、だね」

階段から少し先を左に行った所で、道が途切れていた。

しかし、よくみると正面にはセキュリティロックされているであろうドアがある。

ドアのすぐ横にカードリーダーがあり、緑色のランプが光っている。

「行ってみよう」

もしかしたらと思い、俺はドアに近づく。

すると、ドアは簡単に開いた。

やはり、ロックは解錠されていたようだ。

そして俺は、ドアの先から溢れる光に目を覆った。

蛍光灯は煌々と光り、白い壁やリノリウムの床にはひび割れはなく、ゴミ等も落ちてい無かった。

「全然、廃墟って感じじゃ無いね」

隣に並んだ各務さんがポツリと言う。

「うん。ここはまだ、使われているのかも知れない」

しかし、誰が、何のために。

煌々と光る廊下を奥へ進む。

左右には、ガラス張りの部屋が並んでいる。

部屋の中には、名も分からない実験器具ズラリと並んでいる。

「ホルマリン漬けとか、人体模型とか有るのかな」

各務さんが嬉々と目を輝かせ、辺りを見回す。

「新薬の開発をしてたらしいからね。動物実験とかもやってただろうし、もしかしたらあるかも知れないよ」

「そうだよね。なんかワクワクする」

俺は、いつ何が起こるか分からない恐怖を感じていたが、各務さんは余裕があるようだ。

突き当たりを右に曲がると、扉が見えた。

扉に近づくと、中から何か音が漏れてきている。

「誰か、いるのかな?」

各務さんの囁き声が耳をくすぐる。

「分からない。でも、行くしかない」

俺達は足音を殺し、ゆっくりと近づく。

丸腰なのはこころもと無いが、ここで引き返す訳には行かない。

更に扉に近づき、扉のセンサーの範囲内に入る。

するとスライド式の扉は簡単に開いた。

恐る恐る部屋を見渡す。

どうやらモニタールームの様だ。

正面には同じサイズのモニターがズラリと並んでいる。

しかし、写し出されている画像は全て違う。

俺達がテントを建てたビーチ、トイレ、シャワー室。

そして、別荘の内部。

島のありとあらゆる場所が写っていた。

モニター群の下部に操作するためと思われるコンソールがあり、その手前にはキャスター付きの椅子があった。

そこに誰か座っている。

「誰だ! そこにいるのは」

俺達は身構えた。

座っている人物は信一かもしれないし、仮に信一でなくとも急に襲って来る可能性もある。

「やぁ、よく来たね。ただ、ここには近寄らないように言ってあったんだけどね」

俺にはその声に聞き覚えがあった。

クルリと椅子が反転し、足を組んで座っている人物と目が合った。

「雄二……さん?」

俺達をこの島に運んだ後、仕事のために帰ったはずだ。

なのに、なぜここにいるのだろう。

「なかなか、今回のは面白いよ」

そういうと、雄二さんはにっこり笑った。

「どうして、あなたがここにいるんですか?」

「ここは二階堂グループの島だ。俺がいちゃ悪いのかい?」

雄二さんは、なおもニコニコと笑っている。

「そういうことじゃなくて、仕事に戻ったんじゃ無いんですか?」

「そうだよ。とても大切な仕事にね」

組んでいた足を組み替え、更に続ける。

「今回の実験は、なかなか良いデータが録れたよ。素材が良かったのかな」

実験、素材。

雄二さんは何を言っているのだろうか。

「君達も見るかい? なかなか、見応えがあるぞ」

雄二さんはそういうと、椅子ごと横に移動した。

そして、指を差した先のモニターには、何やら映像が流れていた。

「――なっ」

俺は息を飲んだ。

その映像は、信一が夏希の腹を裂いている映像だった。

込み上げる不快感。

怒り、悲しみ、言葉では的確に表せない感情が体を支配する。

「止めろ! 今すぐその映像を消してくれ!」

俺は叫んでいた。

これ以上、夏希を侮辱されたくない。

そう思った。

夏希だって、見られたくない。

そう思ってるはずだ。

「ははは。子供には刺激が強すぎたかな」

それでも、雄二さんは映像を止めない。

「これは貴重な実験映像なんだ。簡単に消す訳には行かないんだよ」

「お願いです。もう、止めてっ――」

涙が溢れ、後半は言葉にならなかった。

夏希や唯の亡骸を見ても、涙は流れなかったのに、今になって突然溢れ出てきた。

「うっ――ううっ――」

俺は、膝から泣き崩れた。

もう、頭が考える事を拒否している。

「秋人君は、もっと男らしいと思ったんだけどな。どうやら見込み違いだったようだ」

雄二さんの呆れた様な言葉が聞こえた。

「あんたに石川君の何が分かるんだか」

各務さんがポツリと呟いた。

「なに?」

「それより、今回の出来事はあなたが仕組んだの?」

「あぁ、そうだよ。新薬の実験でね」

「新薬?」

「そうさ。この薬が完成すれば、二階堂製薬が更に繁栄するんだよ」

雄二さんは両手を広げ力説する。

「この、薬がね」

雄二さんは胸ポケットから、小さい袋を取り出した。

袋の中には、赤い錠剤が二つ入っている。

「動物実験では成功してるんだ。後は本格的な人体実験だけだ。今までは大失敗の連続だったが、今回は概ね成功だよ」

「雄二さん、その薬を飲むとどうなるんです」

俺は何とか冷静さを取り戻し尋ねる。

今は泣いている場合ではない。

「君達も見ただろ? あの友達みたいになるんだよ」

雄二さんはくくくっと笑った。

「本能だけで行動する生き物になるんだ。筋肉は従来の何倍にもなり、恐怖は感じなくなる」

「一体何のためにそんなことを。信一はどうなるんです」

「そんなこと? これは素晴らしい物だ。完成した薬を服用すれば、神に近づけるんだぞ」

俺には雄二さんが何を言っているのかさっぱり理解できなかった。

「ふん、神だなんておこがましいわね」

「そんなことはないさ。死を恐れない鬼神になるんだ。この薬を服用した者を戦場に送り込めば、負ける事は無いだろう。死は恐れず、力は人を凌駕し、人を喰うから食糧物資はいらない。正に最強さ。ただ、欠点がある」

「欠点?」

「そうさ、本能のあまり、敵味方区別なく襲うんだよ。だが、今回は結構理性を保ってる様だな」

あれで、理性があると言っても良いのだろうか。

人を殺すことになんら躊躇いを持たない。

そんな状態が理性的だと言うのだろうか。

「君達のお陰で、完成に近づいたよ」

「ふざけないで下さい! 俺達は協力した覚えはないです」

「君達自信に覚えが無くても、協力した事になるんだよ」

「二階堂も、共犯だったわけ?」

「晃君か? あぁ、彼は知らないよ。後を継ぐ資格が無いからね。何も知らされていないよ。

ただ、今回は俺が利用させてもらったんだよ。君たちがこの島に遊びに行きたいと言うからね、これは実験に丁度良い。そう思ったんだよ」

「一体、いつですか」

「何がだい?」

「いつ信一にその薬を飲ませたんです?」

「彼が船酔いでダウンしてる時さ。良く効く薬だよって言ったら、なんのためらいも無く飲んだよ」

信一が船内に入ったあの時か。

「ずっと、監視していたんですか?」

「あぁ、そうさ、貴重な人体実験だからね。帰るふりしてここに来たんだ」

浜辺で見た人影は雄二さんだったと言うことだろうか。

「少し、お喋りが過ぎたようだね」

後で扉が開く気配がした。

振り向くと、信一が立っていた。

「ううぅ、ぐぐぅぅぅ」

目が血走り、低い唸り声をあげている。

「ふむ。今回はなかなか持ったな」

雄二さんは納得したように頷いた。

「ぐふふ、げひっげひっ」

信一は各務さんの方を向くと、下劣な笑い声をあげた。

「これは運が良い。捕食シーンが生で観られるぞ」

雄二さんは興奮した声で言った。

ジリジリと各務さんに近づく信一。

それに合わせ各務さんは後退する。

「信一、止めろ!」

しかし、俺の声は信一には届いていない様だ。

「喰うんなら俺を喰え! 俺の事が憎いんだろ? だったら、俺を喰えよ!」

それでも、俺は構わず叫んだ。

だが、信一の目には各務さんしか映っていない様だ。

こうなれば、力づくで止めるしかない。

そう思って足を一歩踏み出した時だ。

「貴重なシーンを邪魔するんじゃない!」

雄二さんを見ると右手に銃を握り、銃口がこちらを向いている。

「そこから動くんじゃない。分かったな」

しかし、俺は走り信一の前に立ちはだかる。

銃で撃たれて死ぬとしても、最終的には信一に殺されるだろう。

「目を冷ましてくれよ信一! お前はこんなことが出来る人間じゃないはずだ!」

「う……うぅぅぅぅ」

信一は全身を細かく震わせ唸りだした。

「……知った風…たす…な…けて…口を聞く…秋人…んじゃねぇ」

信一は頭を抱えながら膝をついた。

「…まゆっち…たす………けて」

信一は床に倒れると、のたうちまわり始めた。

「見ろ! お前が邪魔をするから捕食前に羽化が始まったじゃ無いか!」

信一はビクンビクンと体を痙攣させ苦しんでいる。

「何? 何が起きてるのよ」

信一の額のこぶが、うごめき、突起がせり上がって来ている。

大きくのけぞると、信一の動きが止まった。すると、額からズルリと何かが這い出てきた。

信一の額から出てきたのは、昆虫の様な生物だった。

しかも、人の頭ほどの大きさだ。

鬼の角だと思われた部分は頭頂の部分で、体は血や体液でヌメヌメと光っている。

腹の部分は蜘蛛の様にプックリと膨れている。

俺は、そのおぞましい生き物に恐怖を覚えた。

まだ体が上手く動いていない様だが、それも時間の問題だろう。

くそ、どうしたらいい。

今なら、簡単には踏み潰せそうだ。

「おっと、動くなよ。君達にはそいつの餌になってもらうんだ」

銃口がこちらをにらんでいる。

「これは、一体何なんですか?」

「それが、鬼の正体だよ」

「鬼の、正体?」

「そうさ、これはこいつの卵でな」

おじさんは再び、錠剤の入った袋を持ち上げる。

「人の体内に入るとすぐに孵化し、まず血管を破り脳に向かうんだ。そして、前頭葉の部分で成長する。

その影響で寄生された人間は理性を制御され、本来制限されている力を発揮出来るんだよ」

「そんな、じゃあ信一はこいつに寄生されてたって事なのか」

寄生されている間、苦しみは無かったのだろうか。

「そうさ、こいつは主に人間の血を餌にしている。だから、脳に寄生し、人を操り人を襲わせる」

「そんな、じゃあ、一度寄生されたら……」

「そうだ、先は無い。こいつが羽化するまで人を襲い続けるのさ」

「羽化したこの生き物はどうなるんです?」

「人に卵を産み付けるんだよ。そいつの腹にはいま、彼の脳みそがたっぷり入っている。それを養分として卵を育てているんだよ」

蜘蛛と蜂が合わさったようなその生物は、羽が乾き始めていて、腹を蠢かせている。

その禍々しさは、吐き気すら覚える。

その生物は、鳴き声の様な音を発すると、羽を広げ宙に浮いた。

天井すれすれまで上昇すると、ぐるぐると部屋を回り始めた。

俺たちを見下ろし、卵を産み付ける相手を吟味しているのだろうか。

「さぁ、一体誰にするんだろうな」

おじさんは笑みを浮かべている。

「同じように、一体何人の命を奪ったの」

「さぁ、覚えていないな」

「身寄りの無いものを拉致したり、旅行中の事故に見せかけたり、かなりの人数で実験してるはずよね」

各務さんのその言葉を聞き、雄二さんの顔が険しくなる。

「なぜ、知っている?」

「怪しいとは思っていたけど、まさかこんな実験をしているなんてね。自分の謎が解けたわ」

「お前、一体何者だ?」

「僕の事は別にどうでも良いよ」

各務さんは肩をすくめた。

俺は二人の話しについていけない。

「まぁいい、どのみち君達は生きてここから出られないのだから」

その時だ、モニターの一つが警告音を発した。

「やれやれ、晃君まで来たか」

モニターには、門の前で車を降りる晃が映っていた。振り向いた雄二さんの隙を逃さずに、各務さんが前方に跳躍した。

いや、跳躍したかに見えた瞬間、すでに雄二さんの手に握られている拳銃を叩き落としていた。

そして、目にも止まらぬ速さで雄二さんの鳩尾に拳を叩き込み気絶させた。

「さぁ、行くよ」

「えっ? えっ?」

俺は何も理解出来ないまま腕を引っ張られた。

部屋を出るとき、ふと上を見上げると、おぞましい生物は天井に張り付いていた。

通路を走りながら後ろを見たが、あの生物が追ってくる様子はない。

途中の十字路を曲がり、更に進む。

階段を二階ほど登った時、何かにぶつかりそうになった。

「っと危ねえ」

少し驚いた顔の晃が立っていた。

「晃、早く逃げるぞ」

「何をそんなに急いでるんだよ」

「話は後。まずはこの島を出る事が先決よ」

各務さんが晃を急かす。

「わ、分かった」

いまいち状況が飲み込めていない様であったが、晃は頷いた。

俺達は階段をかけあがり、一階へ出る。

「ところで秋人、逃げるったってどこに行くんだ?」

「雄二さんのクルーザーがどこかにあるはずなんだ。それで脱出する」

「クルーザー? それならさっき見たぜ」

「ちょっと、それなら早く言いなさいよ」

「いや、お前らがあまりにも急いでるからよ」

「んで、どこにあるのよ」

「地下一階だったな。その奥にあった」

「とんだ無駄足だったわね」

俺達は今登ってきた階段を再び降りる。

晃の案内でクルーザーにたどり着き、乗り込んだ。

「で、誰が運転するんだ?」

「僕は運転出来ないよ。石川君なら出来るんじゃない? バイクの免許持ってるし」

「いやいや、バイクと船じゃ全然違うよ。晃は?」

「小型船舶の免許はあるが、流石にこれは運転したこと無いぜ」

「そんなの気合いで何とかしなさいよ。ちょっと船が大きくなっただけでしょ?」

「無茶言いやがるぜ。でも、運転したくても鍵が無いぜ」

「鍵ってこれの事?」

そう言うと各務さんは鍵を晃に向かって投げた。

いつの間に手にいれていたのだろうか。

「よし、かかった」

船体がエンジンの駆動に合わせて揺れる。

「しっかり捕まってろよ」

クルーザーはドックから離れ旋回する。

大きく船体が傾いた。

「ちょっと、もう少し丁寧に運転しなさいよ。そんなんだから唯に振り向いてもらえなかったのよ」

確かに晃の女に対する接し方は丁寧では無かったが、流石にそれは言い過ぎだろうと思った。

晃は特に反論する事もなく舵をとっている。

やがて、クルーザーは洞穴を抜け外に出た。

「これでひとまず安心だな」

海に出てしまえば雄二さんも追ってこれないだろう。

俺は安堵のため息をついた。

「なぁ、そろそろ何があったか話してくれても良いだろう?」

舵を握りながら晃が言った。

しかし、何から話したら良いのか。

俺が迷っていると、各務さんが説明してくれた。

信一がどうしてああなったか、それを仕組んだのが晃の叔父であること。

そして、あの生物の事。

「俺に、その話を信じろってのか?」

晃は困惑していた。

むしろそれは当然だろう。

目の前で見た俺でさえ、今もあれが現実であったと信じがたい。

しかし、全て現実に起こった事なのだ。

「仮にそれが本当の話しだとして、その生物やおじさんは生きてるんだろう? だったら、同じ事がこれから先起こるじゃないか」

晃が言った事は正論だ。

しかし、今の俺達ではどうしようもない。

「だから、応援を呼ぶのよ」

「応援って何だよ。警察に言ったってまともに話を聞いてくれるとは思えない。おじさんが仕組んだんであれば、俺の親も知っている可能性がある」

確かにそうだ。警察がこんな話を信じるとは思えないし、逆に俺達が疑われる事になるかも知れない。

それに、今回の実験は二階堂グループ全体が関与している可能性が否定出来ない。

「それについては、僕が何とかするよ」

各務さんの意味深な発言。そして、各務さんに残る謎。

「各務さん、君は一体何者なんだ? 色々と知っていた様だけど」

それに、あの目にも止まらぬ早業。とても人間業とは思えない。

「言ったら、嫌われちゃうかな」

各務さんはそういうと、うつむいた。

やはり、いいづらい事なのだろうか。

「いや、言いたく無いなら無理しなくて良い。ただ一人で抱え込むのは良くないと思うんだ」

各務さんは顔を上げると笑顔を作った。

「有り難う。やっぱり石川君は優しいね」

一瞬、躊躇したような顔をしたが、各務さんは静かに語りだした。

「僕が孤児院で育ったって知ってるよね?」

俺は無言で頷く。

昨日、浜辺で星を見ながら話していた時に聞いた。

「その時から、自分は周りと違うって事に気づいてた。筋力や動体視力が人より優れていたし、傷が治るのも異常に早かったの。初めは皆同じだって思ってたけど、段々自分だけが違うんだって気づいて、孤児院では一人孤立するようになった。

そして、ある日里親になってくれる人が現れたの。それが今の両親よ。最初は自分の力を隠していたけど、

ある日それがバレちゃってね。でも、避難することなく僕を愛してくれた。そして、両親はある組織の一員だった」

「ある組織?」

「そう。この社会には表沙汰にならない様な不正や悪が蔓延っているの。それを調査し、公表しようとしているのが両親のいる組織。そして、僕も所属している」

所属と言っても、高校生が所属するクラブとは比べ物にならないだろう。

「不正や悪って言われても、いまいちピンと来ないよ」

「そりゃそうよ、ほとんど表には公表されないもの。仮にされたとしても、それはほんの一部にしか過ぎないわ。麻薬、ギャンブル、風俗や芸能スキャンダル。政治家の天下りや癒着、政治献金問題。数え上げればキリが無いわ」

「それじゃ今回の事も?」

「そうね。恐らく闇に葬られるでしょうね。だけど、僕はそれを許さない」

各務さんの瞳は真っ直ぐで、それが本気であることを物語っていた。

「それで、各務は今回の件とどう関係するんだ?」

「さっきも言った通り、僕は孤児なの。だから、組織に入ってまず行った事は、自分の身辺調査だったわ。

両親からは禁止されていたけど、どうしても知りたくてこっそり調査したのよ」

「それで、何が分かったの?」

「僕の本当の父親は、二階堂製薬の研究員だった。そして何かのプロジェクトの主任だった、って事までしか分からなかった。けど、途中で謎の変死を遂げたの」

「変死?」

「そう。暫く家には帰らず研究所に籠りっきりだったらしいの。けど、ある日突然家に帰り、そのまま行方不明になった。

三日後、隣町の森の中で発見されたらしいわ、死んだ状態で。そして、不思議な事に脳味噌は空っぽだった」

「今回の信一の状態と似てるな」

「そうね。そして、母親はその後妊娠したらしいの。けど、僕を産んですぐ他界したそうよ。妊娠した日を逆算すると、父親が突然帰ってきた日と一致するの」

「そう、なんだ」

俺はなんて言葉をかけて良いか分からない。

各務さんは生まれながらにして本当の両親を知らない。

俺にはとても想像出来ない事だった。

「母親は、最後に父親とあった時の事を周りにこう言っていたそうなの。疲れていた様だけど、興奮してたのか、体が火照って赤く見えたって」

各務さんはうっすらと笑いを浮かべた。

「その話を聞く限り、各務の本当の父親は、あの生物に寄生されていたとしか思えないな」

「そんな、あれに寄生されたら人を襲って喰うはずだろう」

「あいつが言うには、確かにそうね。けど、母親は無事だった。詳しい理由は解らないけどね」

「でも、でもだからといって寄生されていた事も確かじゃ無いだろう? 家に帰ってきた後に寄生されたかも知れないじゃないか」

「それじゃあ、僕のこの体はどう説明するのさ!」

「そ、それは……」

「人より力は強くて、少しの傷ならすぐ治ってしまうこの体は。明らかに普通の人とは違うんだよ? 

そんな僕をどう説明するのよ! まるで……まるで鬼になった時の信一みたいじゃない!」

彼女は目に涙を浮かべていた。

確かに、どう説明すれば良いか分からない。

明らかにあの速さは普通の人の筋力を凌駕している。

「ハイブリッド、だな」

晃が、ぽつりと呟く。

「ハイブリッド? それはどういうことだよ」

「そのまんまの意味だよ。各務は、人間とあの生き物の混合種―ハイブリッド―だ」

「そんな。じゃあ各務さんは……」

「正確に、人間とは言えないな。けど、寄生された化物でもない。恐らく、寄生されると精子のDNAも変化するんだろう」

晃は何やら一人頷いている。

「晃。お前、何でそんなこと知ってるんだよ」

「俺も、ハイブリッドだからさ」

晃は自嘲気味に笑った。

俺は、晃の言葉に耳を疑った。

晃も各務さん同様、人の筋力を凌駕しているのだろうか。

「まぁ、俺は失敗作だけどな」

「失敗作? どういう意味だよ」

「彼は、人工的に作られたのよ」

うなだれていた各務さんは、いつもの冷静さを取り戻した様で、落ち着いた様子で言った。

「そう、俺はあの生物のDNAを使って人工的に作られたんだ」

「そんな、嘘だろう?」

「いいえ、本当よ。彼は十八年前、実験によって作られた。まさか、二階堂本人が知ってるとは思わなかったけどね」

「俺は知らない振りをしていただけさ。こっそり研究資料を見たときは驚いたよ。周りにいた執事達は皆研究員だ。ずっと俺を観察していたんだよ」

俺は話しに着いていけない。

「けど、俺には何の力も無かった。だから、家族からは疎まれ、見放された」

晃は俯くと、拳を握りしめた。

「俺は必要とされない人間、いや、生き物だ。ずっとそう思って来た。けど、その考えを変えてくれたのがお前達、そして唯だ。その唯を殺した信一は許せないが、その原因を作った叔父はもっと許せない」

晃は唇を噛みしめ、ブルブルと拳を震わせた。

「なら、僕に協力してくれない? 二階堂グループの中に潜り込むのは難しいのよ。仲間が何人も犠牲になったわ」

「もしかして、各務さんは、そのために晃に近づいたのか?」

「目的があって近づいたのはそうだけど、仲間に引き込むためじゃ無かったわ。それより、石川君に興味があったの」

各務さんの言う目的とは、恐らく二階堂グループの情報を探るために近づいたのだろう。

しかし、俺に興味があったとはどういう事だろうか。

「俺に断る理由は無いな」

晃は頷いた。

その時、突然船体が大きく揺れた。

俺は近くの手すりに捕まる。

「なんだ? どうした?」

晃は慌てて舵を握りしめた。

「前方に何かある訳じゃなさそうだ」

「何かにぶつかったのかな?」

各務さんの言う通り、船体が何かにぶつかった様な揺れ方だった気がする。

「ちょっと後ろを見てくる」

俺は船尾に向かった。

デッキの上は特に異変は無い。

手すりから身を乗り出し船体を確認するが、特に傷なども無い。

「一体何だったんだろう」

船内に戻ろうと振り向いた瞬間、俺の体は硬直した。ブリッジの上に人が立っていたからだ。

「お前達は逃がさないぞ」

ニンマリと笑ったのは雄二さんだった。

既に島からは結構な距離がある。

服が濡れている所をみると、泳いで来たのだろうか。

服から覗く肌はうっすらと赤くなり、筋肉の隆起がハッキリと分かる。

そして、額にはかつての信一と同じように、突起が確認出来る。

「しかし、この力は素晴らしいな」

雄二さんはそういうと軽く跳躍した。

俺の目の前に迫る巨躯。

太い腕がニュッと伸び、俺は頭を掴まれた。

「う、あ……が……」

まるで万力に挟まれた様に締め付けられるこめかみ。耳の奥でミシミシと骨が軋む音がする。

「石川君!」

「秋人!」

遠くで、各務さんと晃の声が聞こえた。

俺は必死に雄二さんの腕を掴み抵抗するが、抜け出す事が出来ない。

「そこを動くな! 一歩でも動いたらこいつの頭を握り潰すぞ!」

「うああああっ!」

更に締め付ける力が増す。痛い、怖い、死ぬ、嫌だ、死にたくない。

俺は恐怖に包まれた。

もがけばもがくほど、締め付ける力が増す。

脳が痛い、体中から冷や汗が吹き出す。

目の前が段々と白んできた。

俺は、本格的にヤバいと思った。

頭の中を駆け巡る思い出。これが死ぬ間際に見るという走馬灯だろうか。

信一の不貞腐れた顔。唯の優しい笑顔。夏希の膨れっ面。楽しかった思い出がフラッシュバックする。

記憶はどんどんと遡る。

幼少の頃の俺、今まで忘れていた記憶。

どこかの建物の屋上。

隣には一人の少女が座っていた。

黒い髪を左右対称に結んだツインテールの少女。

「あきくんは、人をころしたことある?」

それがその少女との初めての会話だった。

「え? そ、そんな。僕は……無いよ」

俺は少女の質問に戸惑いながらそう答えた。

「そうなんだ。あたしはあるよ」

少女は少し悲しげに微笑んだ。

「お母さんを殺したの」

空を見上げながらポツリと呟いた。見事な茜空だ。

俺は、何て答えればいいか分からず、ただ戸惑うだけだった。

「あたしが産まれたから、お母さんが死んだってみんなが言うの。だからあたしがお母さんを殺したの」

「なんだ、そういうことか。それなら僕もそうだよ」

俺も本当の母親を知らない。

母親は俺を産んで他界し、父親は俺を孤児院に預け、行方をくらました。

「本当に? じゃあ、あたしたちおんなじだね」

少女は笑った。茜色に染まる笑顔。俺はこの瞬間、少女に恋をした。

「ねぇ、あたしと友だちになってくれる?」

少女のその言葉に、俺は照れながら頷いた。

しかし、少女はその後、すぐに里親に引き取られて行った。

孤児院で孤立していた俺は、常に少女の笑顔を思い出していた。

その笑顔が、各務さんの笑顔と重なる。

そして、俺が孤児院で孤立していた理由。

それは。

俺は両手に力を込め、雄二さんの腕を握りしめる。

「ぐっ、な、何?!」

こめかみを締め付ける力が緩んだ瞬間、俺は腕を振りほどき、床を転がった。

直ぐ様体勢を立て直し、身構えた。

「う、うおおお!」

雄二さんは、片方の手首を押さえている。

先ほどの感触からすると、恐らく折れているだろう。

「秋人! 大丈夫か?」

晃と各務さんがブリッジから降りてくる。

「あぁ、何とかな。お陰で、色々思い出したよ」

俺は各務さんに向かって言った。

彼女は笑っていた。

あの時と同じ笑顔だ。

「久しぶり、あきくん」

各務さんはずっと覚えていたんだろう。

しかし、俺はいつの間にか記憶を封印していた。

記憶だけじゃない、人並み外れた力も同時に封印していた。

俺が孤児院で孤立していたのは各務さんと同じだ。

ある時、同年代の男の子と玩具の取り合いになった。

どっちが先に取っただの、どっちが悪いだのは覚えていないが、俺は相手の男の子の肩を押した。

ほんの軽く、ちょんっと押した程度だったが、男の子はふっ飛び肩を骨折した。それがあってから俺は、周りから忌避され、孤立した。

そして、里親に引き取られると同時に、俺は孤児院での記憶を封印した。

「貴様達は何者だ! その力はどこで手に入れた!」

おじさんは手首の具合を確かめる様に、掌を閉じたり開いたりしていた。

骨折はすでに治っているようだ。

「あなたの実験で生まれた、いわば被害者よ」

「被害者、だと?」

「そう。かつてあなたの下で働いていた研究員、桐山光司。僕はその娘よ」

「桐山、だと?」

おじさんは一瞬考え込んだ表情をしたが、すぐに思い出した様だ。

「ああ、あいつか。くくく、お前はあの裏切り者の娘なのか」

「裏切りもの?」

「そうだ。あいつは研究の真相を知った途端に辞めようと言い出した。これ以上研究を続けるなら、公に公表すると言ってな。

だからあいつ自身で実験する事にした。まさか、親子そろって私の研究を邪魔するとはな」

「邪魔じゃないわ、阻止よ」

各務さんが床を蹴り雄二さんに飛びかかる。

流れるような打撃を繰り出すが、ダメージは薄いようだ。

「ふん、蚊ほども痒く無いわ」

雄二さんは鼻を鳴らした。

「これなら」

渾身の正拳突きが鳩尾に決まる。

「こんな細い腕で私がやられるか!」

しかし、その腕を捕まれ、放り投げられた。

「各務さん!」

背中を叩きつけ、床に踞る各務さんに駆け寄る。

「うっ――。だ、大丈夫よ。けど、困ったな。打撃が一切通用しないなんて」

俺は雄二さんを睨み付ける。

各務さんの力で通用しないとしても、俺の力ならばダメージを与えられるかもしれない。

現に先ほど、雄二さんの手から逃れる事が出来た。

しかし、問題がひとつある。

俺は格闘経験はおろか、人を殴った事すらない。

「けど、やるしかない」

俺は自分に言い聞かせ構えた。

もちろん我流だ。

勢いで何とかするしかない。

「今度は君か。さっきは油断したが、今度はそうはいかないぞ」

しかし、口とは裏腹に、その表情からは余裕がみてとれる。

「だっ!」

俺は勢いに任せ前へ跳躍する。

そして、その勢いと体重を右の拳にのせる。

「おっと、危ない」

が、俺の拳は空をきった。その勢いでバランスを崩し、危うく船から落ちそうになる。

体勢を建て直し、再び構え、

距離を詰め攻撃をするが、その全てがかわされる。

「このぉ」

俺は死に物狂いで身体ごとぶつかった。

雄二さんと揉み合いながらデッキの上を転がる。

その時、ゴトリと何か固いものが落ちる音がしたが、気にしている余裕は無かった。

必死で抵抗したが、気がついたら雄二さんが上に乗っていた。

マウントポジションだ。

腕を膝で押さえつけられ、全く身動きが出来ない。

「ぐ、ぐふふふぅ」

雄二さんの顔は既に正気を失っている様だった。

眼は血走り、口角からは泡が出ている。

太い腕が首を掴んできた。

「あっ、かはっ!」

気道を塞がれ、呼吸が出来なくなる。

脳に酸素が届かなくなり、目の前が白くなりかけた時、遠くで何かが破裂した様な音がした。

それはとても乾いた音で、運動会で聴いた事のある音に似ていた。

突然、首を締め付ける力が緩んだ。

「ぎぃやあああぁぁぁ」

上でものすごい叫び声が聞こえた。

霞む目で見上げると、雄二さんが額を押さえてのけ反っている。

俺は全身をバネの様に反らせ、雄二さんの拘束から逃れる。

柔道の授業が役にたったと思った。

雄二さんは床を転がりながら、もがき苦しんでいる。

信一と同じように、羽化が始まったのだろうか。

しかし、信一の時と苦しみ方が違う様な気がする。

それに、あまりに早すぎる気がする。

後ろを振り返ると、晃が拳銃を構えていた。

その銃口は、ピタリと雄二さんにあわされている。

「晃……お前」

晃の表情は至って冷静なものだった。

「あき君! 後ろ!」

各務さんの叫び声に後ろを振り向く。

雄二さんが立ち上がり、俺を掴もうとしていた。

顔は血で濡れている。

身構えようとした時、後ろで銃声が鳴った。

雄二さんは額から血を吹き出させ、よろめきながら後退する。

「ぐ、ぐおおおぉぉぉ」

ガクガクと痙攣しながら雄叫びをあげると、海へ落ちていった。

すぐさま手すりから身を乗り出して海面を確認する。

海面には雄二さんの物であろう血が広がっており、それは海の色と混じり、マーブル模様を描いていた。

再び襲って来るのではと警戒して見つめていたが、浮き上がってくる気配は無かった。

「終わった、のか?」

「そのようね。所で二階堂。あんた、なかなかやるじゃない」

各務さんは腰に手をあて、安堵した様に言った。

「自分でもびっくりしてるよ」

晃は銃を見つめながら言った。

「まさか、こんな特技があったなんて」

「どういうことだ?」

晃は自分自身で失敗作と言っていた。しかし、何かしらの能力があったと言うことか。

「実は、二回とも額を狙ったんだ。銃を撃つのは初めてだったけど、弾丸がどのように飛ぶのか何となく見えた。だから、狙いを外す事なく撃てた」

晃は自分でも信じられないという表情をした。

「偶然って事は無いか?」

「それは無いわね。オートマチックの銃で、あの距離から額のさらに一部、突起の部分だけを狙うなんてプロでも難しいもの」

各務さんが晃に賛辞を送った。

「俺は、失敗作じゃ無かったのかもな」

晃がポツリと呟いた。

「お前は元から失敗作何かじゃない。何たって、俺の自慢の友人だからな」

確かに晃は人工的に作られたのかも知れない。

しかし、人間である以上、失敗作なんてものは存在しないと思う。

それは、夏希や唯、信一も同様だ。

「秋人。ありがとうな」

晃は照れる様にうつ向いた。

「ちょっと、友情に浸っているところ悪いんだけどさ、この船、どこに向かってるの?」

確かにそうだ。晃は今目の前にいる。ブリッジは無人で、この船はあてもなくさ迷っている事になる。

「その……何だ。ここがどこだか、正直判らないんだ」

晃は申し訳なさそうに言った。

俺らは、このまま漂流してしまうのだろうか。

炎天下の中をだ。

「この。やくたたず!!」

各務さんの叫び声が船上に虚しくこだました。



しばらく前に書いた作品です。

ラストや設定の甘さが気になるところではありますが、変にいじると余計ダメになりそうなので、

一部加筆修正にとどめています。

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