7.祝う者、祝われざる者
「レオニール、これを貴方に上げるわ。」
銀に近い美しい金の髪が、少女が動くたびにさらさらと揺れる。
「ありがとうございます、イザベラ様。」
礼を言うと、目の前の天使のような美少女は、その大きな紫色の瞳に喜びをいっぱいに讃えて―――
眩しい笑顔をこちらに向けた。
手に載せられたのは、エルバート公爵家の家紋が隅に小さく入った、白いハンカチ。
エルバートに仕える者なら、誰でも持っているものだ。
レオニールとて、持っていないわけではない。
だが、このハンカチは特別なのだ。
刺繍された家紋が少々不格好な点で。
それはイザベラがレオニールのために習いたての裁縫で繕ってくれた、世界でたった一つしか無いもの。
「ねえ、どうかしら?」
「とてもお上手です。このまま順調に腕を磨き続けなされば、きっと皇太子殿下のお誕生日には、殿下がお喜びになる素敵な作品ができるに違いありません。」
「本当!?」
ますます顔を輝かせるイザベラ。
その顔を見て、レオニールは心の中で溜息をついた。
(やっぱり僕なんか、好きになるわけないよな。)
イザベラに対して発した言葉に自分自身が傷つくという無様さ。
(まあいいや、この人の傍にいられれば。)
そうして、はじめての誕生日はほろ苦い思い出にすり替わった。
(あれが一回目の『祝われた誕生日』だっけ。なんで今さら思い出すんだか。)
苦笑しながら、カーレインは自室の窓から、中庭を見下ろした。
帝都コルディスウルブにあるドレクニオール公爵邸は、いつになく慌ただしい様子である。
それもそのはず。
今日の午後から、屋敷の皆が愛するカーレインの誕生日を祝う茶会が催されるのだから。
広い中庭は、普段はマティオンとカーレインが剣の稽古をするか、アリーヤがのんびりと日光浴をすることにしか使われていないため、少々閑散としているが、今日はテーブルが沢山運ばれていた。
「これほど豪勢に、誕生日を祝われることが当たり前になるなんて、前世じゃ想像もつかなかった。」
ドレクニオール公爵家の嫡男に産まれた当初は、前世が一使用人なこともあり、それらしく振る舞えるか不安で仕方がなかった。
しかし、七年も経てば流石に人の上に立つことに慣れるわけで。
(イザベラ様の従者であったから、良かったんだろう。)
前世の女主人とその父親の背中を思い出す。
イザベラは主人としてもとても立派だったが、そのように育てたのは彼女の父親だ。
カーレインは常日頃彼らの動作を思い出し、それを手本にしていた。
彼らは、一流の支配者だった。
この豊かなエルギアを維持するためには彼らのような上流貴族は欠かせない。
だからこそ前世で救えなかったことが悔やまれるのだ。
(今世は皆が幸せになれるだろうか。)
産まれたのは、高位貴族の嫡男の嫡男かつ現皇帝の甥という、前世では到底考えられなかったような権威の化身。
自分が前世で恋い焦がれた境遇だ。
誕生日にふさわしくない殺伐とした物思いに沈んでいると、部屋の扉が軽くノックされた。
「どうぞ。」
「カール、ジモンから大量の小包が届いたぞ。」
「父上。」
マティオンは普段からまるで肉食獣のように音を立てずに気配を殺して歩く。
それは、息子に届いた贈り物を大量に両腕に抱えても尚、変わらない。
「ジモンは今外交の仕事で国外であるし、ベアトリス様は妊娠中だからな。直接お祝いできない代わりに、とこんなに送ってきた。」
ベアトリスは、ジモンの妻のことだ。
そのお腹には、七年間待ち続けたイザベラの命が宿っている。
ドサリ、と机の上に広げられた小包の一つに、赤い薔薇が蝋に刻印された封筒がくくりつけられていた。
丁寧に開くと、目に飛び込んで来るのは流暢な筆運び。
お祝いの言葉に目を落とすと鼻先を爽やかな香りがふわりとくすぐった。
(相変わらず風流な方だ。)
クスリ、と笑うと他の包の紐をほどく。
現れたのは、たくさんの本と数個の手のひらサイズの小瓶たち。
「なんの本だ?」
語学は人並みのマティオンが、興味深げに手元を覗き込んだ。
「インジュールの歴史書や彼の国で流行っている小説などですね。あ、これは古代神話ですね。これなんか医学本だ。」
おそらくインジュールに外交目的で訪れた際に購入したものだろう。カーレインがインジュールの言葉を習っていることを覚えていたのかもしれない。
ふと十数冊の分厚い冊子の一つに、鮮やかな臙脂の背表紙が視界に入った。
「『女神の供物』…?」
パラパラとページを繰ると、それはインジュールの視点で見たフィオーン公国とエルギア帝国の関係を綴ったものだった。
活字中毒のカーレインが思わず文章にのめり込みかけたとき、マティオンが小包の一つである瓶を太陽光に透かした。
「香辛料か?」
「ええ、恐らく。嬉しいですね。前々からインジュールの特産品である香辛料の実物を見てみたかったので。」
インジュールの香辛料については健康に良いと書物で読んだことから、レオニールのときから一度は見てみたかったものである。
嬉しそうに笑うカーレインに、マティオンはじっとりとした視線を向けた。
「父上?」
どうかされましたか、と小首をかしげたカーレインに対する声音は些か不満げである。
「ジモンには希望を伝えているのに、私にはまだ教えてくれないのか。」
しまった、とカーレインは内心で頭を抱えた。
「お前が珍しく誕生日に要望があるから、と待っていれば今日はもう当日だぞ。」
カーレインは基本、ものを欲しがったりしない。
マティオンとしては可愛い息子がめったにしないお願いに対してやる気満々であったのに、出鼻をくじかれた気分なのだろう。
「いい加減、教えてくれないか?」
その言葉に、カーレインの顔つきが一瞬で真摯なものになる。
「今晩、ディナーの後に部屋に伺っても?」
「アリーヤも呼んだほうがいいか。」
マティオンも息子の変化を察知して、鋭い光を双眸に宿した。
「是非、お願いします。」
(最初の試練かもな。)
カーレインは、悠然と佇む惚れ惚れするほど男前な父親の顔を見つめた。
「カーレイン様、おめでとうございます。」
エルギア中の貴族が集められた茶会は豪勢を極めた。公侯伯子男の最上位に位置する筆頭公爵双翼の片方の嫡男を舐められるわけにはいかない。
これはある種の家の力の誇示である。
「ありがとうございます、マヴロ辺境伯。お久しぶりですね。」
「聞きましたぞ。なんでも学問の方では『エルギア開闢以来の鬼才』とまで言われているとか。」
「まだまだです。そういえばナターシャ嬢もかなり頭脳明晰な方だとか。」
「ははは。本ばっかり読んでいると、妻は嘆いておりますが。」
ひとしきり談笑した後、渇いた喉を潤すために果実水を口に含んだカーレインの肩を誰かが叩いた。
「オスカー叔父様!」
「やあ、カール相変わらずだな。」
爽やかな笑みを浮かべていたのは、マティオンの実の弟オスカー。栗色の髪と、神秘的な湖のような瞳はマティオンと同じ色合いなのに、マティオンとは対照的に線が細い印象を受ける。まあ、一般男性に比べればそれでも体格はいいほうなのだが。
「帰国されていたのですね。」
「うちの奥さんも君に会いたがっていたが、振り切ってきた。」
「それは感謝、ですね。」
顔を引き攣らせるカーレインに、オスカーは心底同情的な表情をした。
オスカーは、エルギアの同盟国の一つに、王族の入婿として住んでいる。彼の結婚相手は、その国の第二王女なのだが、かなり個性的な性格をしておりカーレインに対して常軌を逸する愛着を示していた。
「あれは、犬猫を病的に可愛がる類と同等な匂いがする、」
と以前マティオンがこぼしていたほどだ。
「ところで、カール。」
オスカーの声音がぐっと低くなった。
「はい、何でしょう。」
表面上はニコニコとしながらも、カーレインも同様に声音を落とす。
「最近私がいる国で、『ヴォルピュタティムの涙』と呼ばれる麻薬が流行ってるんだ。」
「麻薬、ですか。それはまた物騒ですね。」
「主要都市を主としているから、忠告だけでもと。」
「ありがとうございます。」
ドレクニオール公爵家が治める領地は、エルギア屈指の大都市である。オスカーは、鷹揚に頷くと「兄上の元へ行くよ」と言い残して会場に消えた。
本日の主役たるカーレインは、挨拶にと新たにやって来た貴族の人だかりの隙間から、その栗色の髪を見つめた。
「失礼します。」
深呼吸の後、カーレインは重い木の扉をゆっくりと開けた。
質のいい革張りのソファに、両親は腰掛けていた。
目で、彼らの正面のソファに腰掛けるように促される。
はやる鼓動を押さえ付け、平生を装いながらカーレインは微笑んだ。
「どうだった?茶会は。」
「毎年のことですがとても豪勢で、素晴らしいものでした。なかなかお会いできない方たちに会えたのも嬉しい限りでございます。」
「そうか、それは良かった。」
マティオンは、くつろいだ様子から一転して背筋を伸ばした。
その瞬間、部屋にある種の緊張感が走る。
(来た。)
カーレインはゴクリと唾を飲み込んだ。
「では、そろそろ教えてくれまいか?カーレイン、お前が誕生日に望むものを。」
マティオンが、カールではなくカーレインと呼んだ。ここからは、本気だという証だ。
(守護女神様、どうかご加護を。)
心のなかで祈ると、カーレインは真っ直ぐマティオンの鮮やかな双眸を見据えた。
これから落とすのは、爆弾発言。
無理は百も承知だ。
深く息を吸うと、カーレインは声が震えるのを抑えながら、これまで頭の中で何度も反芻していた言葉をはっきりと紡ぎ出した。
「私が誕生日に望むことは二つ。エルギア帝国騎士団に見習いとしての入団の許可と、私が23歳になるまで婚約者の座を空席にすることへの許可です。」