4.忠義にして死す
やっと主人公登場です。少し長くなります。
4.忠義にして死す
「レオニール。」
自分をそう呼ぶ声がずっと好きだった。
色あせた金髪と、鈍い灰色の瞳。
ぼんやりとした色に違えず凡庸な顔立ちの自分は、彼女の隣に立つのもおこがましい。
身分違いの叶わない恋。
相手は公爵令嬢で、このエルギア帝国の未来の国母。
かたや自分といえば、生まれも曖昧な一従者に過ぎない。
一目惚れだった。
地獄にも等しい場所にいた自分に、手を差し伸ばしてくれた天使みたいな人。
強く、賢く、美しい女主人のことを心の底から愛し、慕っていた。
この恋は、この想いは決して実らない。
実らせてはならない。
それでも、彼女が幸せなら自分の恋など、どうでも良かった。
(それなのに何故…)
この帝国を支えていたイザベラは目の前で、呆気なく命を落とした。
赤い雨が降りしきる中で、誰にも顧みられることなく放置された遺体。
見るも無残な姿にこらえきれず、見開かれた目をそっと瞼に触れて閉じさせる。
胴体と離れてしまった首を元の位置に戻すと、羽織っていたフードを彼女の亡骸に被せた。
誰もレオニールの所業に気が付かない。
雨足が一層強くなった。
誰かがこの雨は神の怒りだと言った。
だが、レオニールには、自分の体力と気力をすり減らしてまでこの国のために働いたイザベラが、彼女が愛するエルギア帝国の行く末を憂いて流した嘆きの涙にしか思えなかった。
イザベラは誰よりもこの国を愛していた。
エルギア帝国の豊かに実る小麦畑を、民たちの活気で溢れた鮮やかな市場を、子どもたちの笑い声で溢れる街の通りを。
まるで母親が我が子を微笑ましく思うように、彼女は度々視察で訪れる市井をとても嬉しそうな顔で見つめていた。
慈善事業に精を出し、その御礼にと孤児院の子どもたちから送られてきた拙い手紙を、引き出しに大切にしまっていたのをレオニールは知っている。
彼女は優しい人だった。
使用人たちに気を配り、平民の者たちの声にも耳を傾ける。
そんな優しい人だからこそ、誰よりも幸せになるべきだと、幸せになって欲しいと心の底から願っていた。
従者としてずっと見ていた。
彼女が血がにじむような努力を重ねる姿を。
だから知っていたのだ。
イザベラがグリフィスを愛していたことも。
彼女の努力は、彼とこの国を支えるに相応しい女性になるためにあった。
(なのに…)
グリフィスは、劣等感からイザベラの存在を疎ましがり、挙句の果てにはいきなり現れた異界の少女に恋をして――――
イザベラを無実の罪で殺した。
処刑の前日、レオニールはイザベラとの謁見を許可された。
彼女が収監されていたのは、罪を犯した貴族に用意された専用の監獄ではなく、ましてや平民用の牢でもない、大罪人用の冷たくて粗末な檻。
エルギアの長い歴史にも名を残す、極悪人のみが入れられた牢獄だった。
その鉄格子の前で、レオニールは跪いてイザベラに頭を下げる。
『逃げましょう、イザベラ様。』
人払いをした牢屋の前でそういい募るレオニールに、イザベラはふっと息を吐いた。
そうして毅然と微笑む。
『私は、下された勅命に逆らうつもりはありません。』
『どうして…』
愕然とするレオニールに、イザベラは答えた。
『国の法を犯すのは私の信条に反するわ。』
それに、とイザベラは腕に繋がれた枷に視線をやった。
『もう疲れたの。』
『そんな…納得できません。』
『レオニール、私からの最後の命令よ。我が弟、ミルドークを頼みます。残されたあの子が、この国の光となると信じてるわ。』
死を前にしても尚、その姿は凛として美しかった。
『あなたはもう、私の従者ではない。行って。』
『ですが!』
唇に人差し指をかざすその仕草に、反射的に口を閉じる。
『命令、ではなくて最期のお願いよ。聞いてくれる?』
その紫水晶の両目に宿るのは、決して揺るがぬ固い決意。
過去、イザベラがその目つきになってその信念を曲げたことはない。
イザベラは死ぬ気なのだ。
そう悟ったとき、レオニールは彼女の最期の願いを聞き届ける覚悟を決めた。
『わかりました。イザベラ様に女神の加護があらんことを。』
そういってのろのろと扉に足を向ける。
『レオニール。』
ふいにイザベラが名前を呼んだ。
『あなたがいてくれて良かった。』
儚げに笑うイザベラに、限界まで押さえつけていた理性が―――――
吹き飛んだ。
恭しく膝をつき、鉄格子越しにイザベラの手をとる。
『ずっとお慕いしておりました。私の心は永遠にあなたとともに。』
従者として、決して許されない言葉。
レオニールが、彼女と出会ってからずっと独り心の奥にしまっていた言葉。
だけど、どうしてもイザベラに伝えたかった。
貴方は、愛されているのだ、と。
誰にも恋慕されなかったと、愛してもらえないのは仕方がないのだと、諦めてしまっている彼女に。
グリフィスから拒絶され、宮殿中の女性に冷たくあしらわれてイザベラは自分の存在意義を見失いつつあった。
だが、一従者の分際ではいくら彼女に声をかけようが、それは上辺だけの言葉に聞こえていたかもしれない。
だから最後に口にしたのだ。
墓まで持っていくつもりだったこの言葉を。
イザベラは驚いた顔をしたあと、一瞬だけ泣きそうな表情を見せた。
『さようなら、私の従者。』
牢の扉を出たあと、レオニールは泣き崩れた。
その慟哭を止めようとするものは誰もいなかった。
「…イザベラ様」
民衆が立ち上がり、敵国アヴァリィティアが侵略してきたという凶報を聞いたレオニールは、思わず亡き女主人の名を口にしていた。
固く握りしめた拳に爪が食い込み、血が滲む。
「どうしたの、レオ。どっか痛いの?」
「いえ、なんでもこざいません。ミルドーク様。」
自分を見上げる、イザベラの年の離れた弟の目には、心配そうな色が浮かんでいる。
ここは、エルギア帝国帝都コルディスウルブのなかにあるエルバート公爵邸。
レオニールは、ミルドークに教養の講義を施していた。
姉に似て下の者を思いやれるミルドークは、将来立派な紳士となるだろう。
彼はイザベラの死の真相を聞かされていない。
エルバート公爵家の使用人が一丸となってその秘密を死守したのだ。
ミルドークが傷つかないために。だから、彼は父と姉が死んでしまったことしか知らない。
それでも父と姉を立て続けに失い、誰にも悟られぬように涙を流しているのをレオニールは知っていた。
「では、もう一度復習しましょう。」
当主が処刑されたため出ていった家庭教師の代わりを担うレオニールが、ミルドークを促したとき、ミルドーク付きの侍女であるマチルダが息を切らして入ってきた。
「レオニールさん!大変です。」
「落ち着いて下さい。何があったのですか?」
ぜいぜいと息の荒いマチルダを落ち着かせながら、レオニールは尋ねた。
「…皇帝陛下が、こちらに向かっておいでです。あと半刻もすればこちらに到着するかと。」
胸の中がぞわぞわと粟立ち、嫌な予感がする。
「ミルドーク様、逃げて下さい。」
咄嗟に、そう言葉が出た。
「どうして?」
「どうしようもなく嫌な予感がするからです。杞憂に終わればいいのですが。」
グリフィスによる恐怖政治で、処刑された多くの大貴族の家が焼き払われ、後継ぎの子供が殺された。
レオニールはマチルダに向き直った。
「エルバート家の別荘の一つが、ヒューガにあります。あそこなら、帝都からも近いですし、エルバート領でもありますから安全です。ミルドーク様を連れて暫くそこに隠れていてください。何事もなければ、三日後に使用人から手紙を送ります。一週間たっても音沙汰がなければ、隣国のエルバート家の親戚を頼って下さい。ミルドーク様は隣国の王族の血を引いてますから、きっと匿って下さいます。」
「奥様は?」
「奥様は他国の王族の出。エルバート公爵家の実力者である、旦那様とイザベラ様亡き今、この家を潰すことはあっても奥様にまで手を出すとは考えにくい。それに奥様は、エルバート領の中でも王都から最も遠いところで療養中ですのでご無事でしょう。ですが、あそこは私兵の者が少ないのもまた事実。お二人を一緒にしておくよりも、エルバート公爵家の跡継ぎであるミルドーク様は確実に安全な箇所へ避難されたほうが得策かと。」
こくこくと頷くマチルダに対して、ミルドークは泣きそうな顔をしていた。
「レオは来ないの?」
「私はここで皇帝陛下をお迎えしなければなりません。」
「でも…」
レオニールは姉と同じミルドークの美しいアメジストに視線を合わせると、安心させるために微笑んだ。
「エルギアは今過去に類を見ないくらい、荒れに荒れております。それは国だけではなく皇帝陛下も。エルギアでは多くの貴族が処刑され、民は苦しみ、さらに敵国の攻撃を受けている。誰もエルギアの明日を予測できないのです。私もどうなるか分かりません。ですから、ミルドーク様。」
レオニールはかつて女主人がくれたチェーンに通されたお守りの指輪をミルドークの首にかけた。
エルバート公爵家に拾われてちょうど二年目の日に、装飾品を常には付けられない従者のレオニールのために亡き女主人がくれたものである。
「どうか、生きて下さい。そしてこの国の未来を見届けてほしいのです。」
「わかった…」
ミルドークは素直に頷くと、マチルダのもとへ向かった。
「荷物は最小限にして、裏口から出てください。さあ、早く!」
弾かれたように、走り出したミルドークの背中に、神の加護を乞う。
それから、レオニールは屋敷の使用人に告げた。
「これから、皇帝陛下がいらっしゃる。先の例にもある通り、処罰された大貴族の家の中には皇帝陛下が直々にいらっしゃり、屋敷を焼き払われた例もある。わがエルバート公爵家の跡取りはまだ成人なさっていないミルドーク様のみ。残りたいものだけ残りなさい。エルバート家が無事であれば、必ず知らせるから。」
「「「はい!」」」
見事に揃った返事に苦笑しつつ、レオニールは皇帝を迎える準備に乗り出した。
「我がエルギアの太陽であれませる皇帝陛下、ようこそおこし下さいました。」
到着した皇族専用の馬車を降りたグリフィスに、レオニールは優雅に頭を下げる。
金色の髪と、美しい青空を讃える瞳の美丈夫は、先駆けもなくエルバート公爵邸を訪れたことを気にする素振りもない。
「本日はどのような…」
「まだ生きていたのか、男娼が。してお前のご主人様であるあの女はどこだ?」
レオニールの声を遮り、グリフィスが低く吠えた。
その屈辱とも言える発言に、レオニールは唇を噛む。
「イザベラ・ヒルス・エルバート、あの女はどこだと言っているんだ!!」
意味が分からず硬直したレオニールに、グリフィスは高圧的に叫ぶ。
青い空を切り取ったかのような瞳には、理性など微塵も感じられない。
(この男は狂っている…)
レオニールの首筋に冷たい汗が一筋流れた。
不意に、グリフィスの後ろに控えていたこの国の宰相のアイスグレーの瞳と視線がぶつかった。
笑顔を取り繕いながらも、ぎりっと奥歯に力を込める。
『全てはわが祖国のため。』
イザベラの釈放を嘆願しに、彼を訪れたとき、ジル・クナムは無表情でそう言い放った。
視線が外される。
「イザベラ様のお墓はこちらでございます。」
普通、罪人は墓に葬られることはない。
しかし、イザベラも彼女の父も高位貴族でありなおかつ皇族の血を引いているため、特別に埋葬を許可されていた。
広大なエルバート公爵邸の庭の一角に、イザベラの墓はあった。
墓の回りには生前彼女が好きだった、ネモフィラが可愛らしく青い花を咲かせている。
その中を進みながら、レオニールは突然のグリフィスの来訪の意を必死に探していた。
(今頃来るとは、彼女を弔いにきたのか。いや、まさかこの国難が迫る時期にそれはないだろう。それに先程の発言…)
「こちらがイザベラ様のお墓でございます。」
戦々恐々としながらも、レオニールはグリフィスを墓の前まで案内した。
(ミルドーク様は無事逃げられただろうか。)
レオニールがそう案じていると、グリフィスはイザベラの墓の前で立ち止まった。
おもむろにグリフィスが腰に帯びていた剣を抜く。
「…?」
次の瞬間、墓前に備えられていた赤い薔薇が凪払われていた。
花弁が飛び散るなか、グリフィスは墓石を蹴った。
雷で右腕を火傷したと聞いたがその後遺症は見てとれない。
「何をなされるのです!?」
レオニールは墓とグリフィスの間に滑り込むと、墓石を背で守るようにたった。
「…どけ!」
「イザベラ様はもう亡くなられたのです。お止めください我が君。」
「あいつのせいで、あいつのせいでこの国は傾いているのだ!!あいつは俺を嗤っているに違いない!」
狂気を宿したグリフィスの眼がレオニールを睨む。
(イザベラ様は死んだ。いや、お前が殺した。)
確かにイザベラはレオニールの前でギロチンにかけられた。あの瞬間をレオニールはずっと夢で繰り返していた。
(死してなお、イザベラ様を貶めるのか。)
さんざんイザベラを辱しめておいて、それでもまだ飽きたらないとでもいうのだろうか。
沸々と怒りが込み上げてくる。
レオニールは、グリフィスをまっすぐに見据えた
「どけといっているだろうが!!」
左肩から右の腰にかけて鋭い痛みが襲う。
見ると、グリフィスの手の中の刃が赤く濡れていた。
がくり、と膝をつき、それでもレオニールは墓石から離れない。
墓石に背中を預けるように、レオニールは女主人が眠る墓を守ろうとした。
心に浮かぶのはなぜ、という言葉だけ。
(イザベラ様、なぜあなたはこんな男を愛したのですか。)
レオニールはグリフィスが単純に羨ましかった。
皇帝という座に付き、イザベラと愛を育むことができる彼が。
彼女を幸せにできるだけの地位が。
彼女とならんでも見劣りしないだけの容姿が。
彼女を守るだけの権力が。
そして同時に許せなかった。
レオニールはグリフィスが七つの歳からイザベラに付き添っていた。
その付き合いは十一年にも及ぶ。
彼の母親が亡くなってひどく落ち込んでいたときは心底同情を禁じ得なかったし、彼が自身の瞳の色に引け目を感じていることに心を痛めていた。
それはイザベラも同じだ。
彼女がどれほどグリフィスを心配し、支えになろうとしていたか。
だが、グリフィスには確かにあった。
その困難を乗り越えるだけの地位も時間も、愛情も。
彼が望み、努力すれば変えられたはずなのだ。
自分など、いくら血反吐を吐くような努力をしても、所詮従者でしかない。
イザベラが愛したこの国を守るにはあまりにも非力だ。
だから許せないのだ。
いつまでも悲劇のヒーローという立場に溺れて、イザベラから目を背け、彼女の愛情と真心を踏みにじった目の前の皇帝が。
(なぜ。)
答える人はもういない。
地面がレオニールから流れる赤を吸収していく。
血に濡れて一層深い赤色になった薔薇の花弁を見て、レオニールは震える指でクラバットに刺繍されたエルバート公爵家の家紋をなぞった。
それは、彼女の代名詞である『赤い薔薇』。
グリフィスが剣を振り上げるのが、ぼやけた視界に滲む。
剣の柄に彫られた、彼の帝紋である炎を纏った双頭の獅子が、太陽の光を受けて煌めいてやけにはっきりとして見えた。
(この国はこれからどんな結末を迎えるのだろう。)
彼女が愛したエルギア帝国は、自分が愛した国でもあるのだ。
グリフィスが腕を振り下ろす。
見上げる空は、イザベラが処刑された日と同じ雲一つない青。
「我がエルギア帝国に光あらんことを」
レオニールの意識はそこで途切れた。