3.破滅への足音
3.破滅への足音
神官長と、皇太子、そして女神の末裔であるイザベラが証人となったことで、少女の出現は神殿側から正式に『奇跡』と発表された。
――――『奇跡』――――
それはエルギア帝国の歴史を語るにおいては、無視できないもの。
稀に現れる人智を超えた力が働いたとしか説明できない、事象や出来事の類である。
そのため人々は『奇跡』を神の啓示だと受け取ることが多々あった。
今回もその例に値するだろう。
茉奈、と名乗る少女は奇しくも薔薇のエンブレムが胸に刺繍された制服を着用していた。
彼女の後見人となったグリフィスは、それに目を付けて彼女こそが『聖なる薔薇』ではないかと主張し始めた。
そうしてこうも主張したのだ。
その『聖なる薔薇』である彼女が帝国皇后妃になるべきではないか、と。
意見は二つに割れた。
いや、正しくは少数の貴族とグリフィスだけが意見を異にしたというべきだろう。
『聖なる薔薇』がどちらか、という議論にだけ関していえば、グリフィスに味方する人数も少なくはなかった。
しかし、未来の国母を決めるとなるとわけが違う。
帝国史上最高の令嬢と讃えられるイザベラと、かたや髪色だけが珍しいこの国のルールを知らない少女。
主に有力貴族と皇族を中心に、議会はグリフィスの主張を退けた。
そこに彼の父帝であるシルヴェニアスの力添えがあったことは確かだ。
なぜならイザベラは、帝国皇后妃に必要な教養もあり、この国の中でも屈指の高貴な血を持つからである。
貴族社会では、血統というものが重視される。
それを抜きにしても、無知な少女を国母の座になど据えれば、下心のある者や、彼女をいいように操ろうとするものが彼女に群がるのは火を見るより明らかだ。
イザベラを帝国皇后妃に就けないという選択肢で得られる利益はほぼ皆無に等しい。
論争はそこで終わるかに見えたが、事態は急変する。
第27代エルギア帝国皇帝シルヴェニアスが急死したのだ。
シルヴェニアスの後継者は、一人息子であるグリフィスただ一人。
彼が当然帝位に就き、グリフィスは反対を押しのけて茉奈を帝国皇后妃の座に据えた。
そこからは早かった。
グリフィスはこの帝国皇后妃の決定に反対した多くの貴族を、強引に処刑し、恐怖政治を作り上げていった。
勿論、先頭に立って異を唱えたのは、イザベラの実家であるエルバート公爵家。
イザベラの実父であるエルバート公爵家当主は、進言の二日後には斬首されている。
王家の分家であるエルバート公爵家当主を処刑することは、すなわち国力を削ぐこと。
しかもかの家は経済と外交の柱である。
当然、この判断に対して苦言を呈する貴族も多かった。
だが、誰も表立って真っ向から若き皇帝を避難する者はいない。
ある人物を除いては。
貴族たちが自身の保身に走るなか、もう一つの王家の分家である公爵家の当主が宮殿に直参し、諫言した。
彼は一度、エルバート公爵家筆頭と共に、イザベラの降格に反論したものの、当時敵国と交戦中だったエルギア帝国軍統帥という立場から、処刑を免れる。
だが、二度目の処刑は免れ得なかったようだ。
グリフィスは臣下が止めるのも聞かず、その公爵を他と同じように斬首の刑に処した。
結局、後継ぎが僅か6にも満たない女児のみで、しかもその子供は公爵の処刑と同時期に姿をくらましていることから、その公爵家は王家に吸収合併され、事実上の改易蟄居となる。
当主を慕っていた多数の家臣たちは国外に逃亡。
『鬼の統帥殿』と恐れられた公爵なしでは騎士団の統率力は上がらず、そればかりか崇拝していた彼の処刑で騎士団をやめるものが続出する始末。
さらに、だ。
国外へと逃亡した家臣の中には、主人の命を容易く切り捨てたグリフィスの器量に見切りをつけ、当時交戦中だったアヴァリィティア王国に寝返った者たちもいた。
このアヴァリィティア王国というのは、エルギア帝国が同盟主を務める大陸の同盟国の中でも力を持ち、大陸の覇権を虎視眈々と狙っている大国の一つである。
彼の国は、皇族の証である紫眼を持たない皇帝の誕生と共に、エルギア帝国に兵を仕掛けてきた。
統帥のお陰で一時期は情勢が有利だったものの、彼の死が劣勢の引き金になる。
結局イザベラは降格されて皇国妃に収まり、本来は帝国皇后妃たる茉奈の仕事を全て引き受けさせられた。
せめて、帝国皇后妃としての教養を茉奈に教えようとしたが、彼女から学ぶ意志は見て取れず―――。
イザベラは絶望することとなる。
一斉に行われた大貴族の処刑。
軍事の要の死亡。
敵国からの侵略。
ただでさえ、ここ数年不作が続くエルギアの財政を緊迫するような状態が重なっているのにも関わらず、誰もグリフィスと茉奈の散財を止めようともしない。
先日のイザベラの処刑で、当初は茉奈の出現を喜んでいた民たちの心も、皇帝たちから離れているのが現状だ。
『沈まぬ国』と恐れられたエルギア帝国の栄光は、遠い歴史に成り果てた。
「あの女のせいで…」
グリフィスが見当違いな方向に責任を押し付けたとき、彼の寝室を叩く音がした。
「かような時間にいかがした。」
グリフィスが整った眉をしかめると、朝早くの来訪者であるこの国の宰相、ジル・クナムが青い顔をしていた。
「我が君、アストラット、ベアトゥス=二グラム、ピュエリクレモアの三地方で、民たちが反乱を起こしました!今すぐ政の間にお越しを!」
政の間に到着すると、臣下たちが落ち着きのない様子でグリフィスに頭を下げる。
「して、状況は?」
「民たちは数を増しながら、帝都へ向かっております。」
一番近いアストラットから帝都までは10日もかからない。
「兵を導入せよ。殺しても構わん!」
「ですが…」
言葉を濁すジル・クナムに先を促す。
「この国の兵は、今はアヴァリィティアとの交戦にほぼつぎ込んでいます。動かせる兵は近衛兵の五百ほどかと。対して民衆は報告によりますと一万を超えるそうで。」
「領主、領主は何をしているのだ!」
「お忘れですか?蜂起した三地方はいづれとも先の粛清によって領主がいなくなり、王家の直轄地に組み込まれたばかりの地域でございます。」
バキィンッッ!!
グリフィスの手の中でペンが砕け散る。
それを見て、家臣たちはオロオロと皇帝の顔色を伺った。
ガヤガヤと議論がなされる中、広間にボロボロで血だらけになった一人の早馬兵が転がり込んできた。
「我が君!」
「いかがした。」
早馬兵は、蒼白な顔をひきつらせて叫んだ。
「アヴァリィティアと交戦していた国境の砦が陥落しました!!アヴァリィティアはそのまま帝都に真っ直ぐ向かっている模様です!」
グリフィスの手の平から、砕けたペンの破片が落ちる。
静まり返った広間に、それは異様に大きく響いた。
「…属国に兵の要請をせよ。」
「10日前から、戦況が不利であることが確定したため、属国に要請書を送っておりますが、返事はございません。我が国の状況は近年悪く、属国もエルギアが滅びる機会を伺っております。外交を担当していたイザベラ様の力なしでは、要求を呑ませるのは不可能かと。」
ジル・クナムの声が震えていた。
イザベラは傑物だった。
強引な政治を断行するグリフィスの統治下で、エルギア帝国が保っていたのは彼女の辣腕のお陰である。
変わりゆく国際情勢を彼女以上に、うまく読めた人物はいないだろう。
「死んでも尚、あの女は私を阻むのか。」
最早グリフィスには、冷静さなど微塵も残されていなかった。
「今度こそ殺してやる。」
周りの音が遠ざかる。
支持を仰ぐ臣下の声など聞こえず、グリフィスは立ち上がると広間に背を向けた。
「陛下、どちらへ!?」
ジル・クナムの絶叫に近い声にグリフィスは低い声で返す。
「あの女のもとへだ。」