2.暴君は悪夢にもがく
2.暴君は悪夢にもがく
「紫水晶は、王家の証」
エルギア帝国の皇族の特徴である、その美しいアメジストの瞳を民たちが称賛した言葉だ。
そして代々の皇帝たちの瞳の色。
例外は七世紀近く続いてきたエルギア帝国の中でもただ一人だけ。
裏を返せば、例外である皇帝、つまりグリフィスにとってはある意味後ろめたさを感じる象徴であるアメジストの双眸が彼を捕らえる。
そこに映るのは憤怒の色ではなく、哀れみだった。
皇帝である自分にそのような視線を向けるとは何たる不敬だろう。
だが、自分がその色に恐怖心を抱いたこともまた事実だ。
右腕がじくじくとひどく痛む。
逃げようとするのに身体は鉛のように重かった。
そうして漸くこれが夢であることを自覚する。
「亡霊が、」
やっとのことで悪態をつくと、グリフィスは相手を見据えた。
「私がいなくなって、国が回らないのでしょう?」
たおやかに笑ってみせたのは、グリフィスが一月前に処刑したはずの、元皇国妃イザベラであった。
「皇国妃となった後も、国務の大半を担っていたのは私でしたもの。」
「…抜かせ、魔女が」
強がってはいるが、最早帝国の中枢が政治機関としての機能を失っているのは明らかだ。
水の中にいるような息苦しさに抗い、吐いた言葉はひどく頼りなかった。
「もうすぐこの国は終わるでしょう。貴方が言う真実の愛によって。」
イザベラがクスリと笑う。
その笑顔は、台詞に似合わず可憐なものだった。
こんなに美しい女だったろうか。
こんなに強い女だっただろうか。
ずっと彼女から目を背け続けていたグリフィスにとって、それは答えなど見つけられない問いであった。
ただ、脳裏をよぎるのは押し付けられた仕事を弱音も吐かずに淡々と処理していく彼女の横顔。
帝国一の美女ともてはやされ、外交の場で注目を浴びていた彼女の後ろ姿。
何も言えないグリフィスにイザベラは悠然と微笑む。
「後悔なさいませ、無能な我が君。」
「黙れっっっ!!」
ぜいぜい、と乱れた呼吸が鼓膜に反響してうるさい。
汗でべっとりと身体に張り付いたシャツの不快感に、グリフィスは顔をしかめた。
雷によって負った火傷がジリジリと疼く。
「っまたか…」
「グリフィス様、大丈夫?」
隣で寝ていた茉奈が起き上がり、心配そうに彼を覗き込んだ。
「…ああ、大丈夫だ。悪夢を見ただけだ。」
「またですか?本当に大丈夫?」
イザベラを処刑してからというものの、毎晩彼女がグリフィスの夢枕に立ち続けている。
帝国の薔薇はその死後もじわりじわりとグリフィスの精神を蝕んでいた。
「本当に大丈夫だ。心配してくれるな。」
彼女の腰を抱き寄せ、エルギアではほとんど見ることがないその豊かな黒髪を梳く。
茉奈は嬉しそうに、グリフィスに頬を擦り寄せた。
(俺は間違ってなどいない。)
自分に言い聞かせる。
そうでもしなければやってられないのだ。
(茉奈こそが「聖なる薔薇」だ。あいつではない。)
茉奈はこんなにも健気に俺をみてくれる。
それに比べあの女は仕事をするしか能がなかった。
才女が何だ、家柄がなんだ。
あいつは俺のことを昔から見下していたのだ。
美しい笑顔の裏で。
そんなやつに皇后の座など渡せるものか。
そうして行き着く結論はいつも同じ。
「あの神託さえなければ。」
エルギアの神を蔑ろにするこの暴言を諌めようとするものは最早いない。
宮殿はグリフィスと茉奈だけの、怠惰な楽園に成り果てていた。
そもそも、何故イザベラはグリフィスの側室の地位である「皇国妃」となり、グリフィスは彼女を憎むようになったのか。
きっかけはエルギア帝国中の神殿を束ねる総本山に下された、一つの神託であった。
『聖なる薔薇が国を導く』
その神託が下された直後、赤薔薇家と名高いエルバート公爵家に一人の女児が誕生する。
その赤子こそが、イザベラ・ヒルス・エルバート。
彼女はその神託故に、生まれた瞬間からグリフィスの婚約者となった。
そうして、皇后教育を受けた彼女は、もともとの才もあってか傑物に成り上がった。
加えて美しい容姿に、祖母を皇族に持つ高貴な出自。
それを鼻にかけない謙虚な彼女は、やがて『帝国の薔薇』とまで呼ばれるようになる。
―――――しかし、これがいけなかったのだ。
前述の通り、皇太子であったグリフィスの瞳は母親の遺伝で透き通るような空の色。
一方でイザベラの瞳はまごうことなき皇室の証である紫。
幼い頃からコンプレックスを抱いていたグリフィスは、周囲の大人がイザベラを称賛すればするほど、劣等感を募らせていった。
唯一自分と同じ瞳をしていた母親の死で、その劣等感はますます歪んだものになる。
自分はいずれこの国を統べる帝王となるのに。
もし彼がその高いプライドを、努力し、己の才を磨くことで保とうとしたなら未来は違っていたかもしれない。
だが、グリフィスが選んだのは、自分の全てを肯定し褒めてくれる人間の言うことだけを聞く道だった。
そうしてお互いの気持が噛み合わないまま、グリフィスとイザベラの結婚があと半年に迫ったある日――――
茉奈が異界からやって来たのだ。
それは、グリフィスとイザベラの結婚式で使う装飾品を、大神殿に預けに行った日のことだった。
帝国の習わしで、皇太子の結婚式では、大神殿で清められた装飾品を身につけることになっている。
グリフィス自体、このときまではまだ、この婚姻に積極的に反対はしていなかった。
というのも、イザベラは絶世の美女であり、帝国中の男の憧れの的であったからだ。
皆が羨む女を手にすることにグリフィスの高すぎる自尊心がくすぐられ無いわけがない。
イザベラを苦々しく思う一方で、彼女は帝国、ひいては大陸中のどんな女よりも優れていることをグリフィスは認めていた。
加えてお互い、幼い頃からよく知る仲。
イザベラへの劣等感はあれど、グリフィスはイザベラを娶ること自体には異論はなかった。
その時までは。
『我がエルギア帝国の守護女神様、あなたの御子が今日も安らかであることに感謝いたします…』
信心深いイザベラが、立ち寄ったついでに、と高い天井と鮮やかなステンドグラスが特徴的な礼拝堂で、女神に祈りを捧げていたときにそれは起こった。
ゴウッッと音がしたかと思うと、いきなり辺りが眩い光に包まれる。
柱に身体をもたげていたグリフィスはとっさに腕で顔を覆った。
『何だ?』
おそるおそる瞼を開けたグリフィスは、光がした方、つまり礼拝堂の高い天井を見て驚いた。
一人の少女がゆっくりと降りてきたのだ。
その髪は、エルギア帝国ではただ一つの例外を除いて見ることのない闇夜のような純粋な黒。
服装は、貴族の令嬢からすると膝上という卒倒しそうなほど短い、見たこともないデザインのスカート。
グリフィスは惹かれるように少女の真下に歩み寄ると、降りてきたその少女を両腕で抱きとめた。
その少女は小動物を思わせるようなとても愛らしい顔立ちをしていた。
『ここ、どこ?私、さっきまで…』
怯える少女の表情は、男の庇護欲をそそる。
常日頃、イザベラへの劣等感をこじらせていたグリフィスにとって、初めて自分により弱く守らねばいけない存在ができたとき、イザベラとグリフィスの長い付き合いにヒビが入り始めた。