1.帝国の薔薇の最期
楽しんでいただけると幸いです。
1.帝国の薔薇の最期
(ああ、もう春なのね。)
鼻先をふわりとくすぐる柔らかな風に、女はぼんやりと思いを馳せた。
鉄格子越しにでもわかるどこまでも突き抜けた青い空。
まだ肌寒い季節に薄い粗末な服しか身に着けていない女を温めるかのように、春の陽光が降り注ぐ。
女の白磁の肌に落ちる、楊枝でも乗りそうなほど長いまつげの影。
処刑には邪魔だからと肩で乱雑に切られた絹のようにつややかな銀に近い白金の髪が、陽の光を受けてキラキラと輝いた。
それはさながら、一枚の絵画のようだった。
女が乗っている馬車が囚人護送用の鉄格子の箱でなく、女の服がきらびやかなドレスだったなら、間違いなく高貴な令嬢の外出にでも見えただろう。
否、女は高貴な令嬢だった。
彼女の名前はイザベラ・ヒルス・エルバート。
およそ七世紀近い歴史を誇るエルギア帝国の中でも稀な外交の才と、その美貌で国民から「帝国の薔薇」と呼ばれ愛されてきた女傑。
そして高貴な血を継ぐエルギア帝国双頭筆頭公爵家の嫡女にして、現皇帝であるグリフィスの皇国妃だった。
皇国妃だった、というのは先日その地位を剥奪されたからである。
それも無実の罪によって。
帝都コルディスウルブの大通りを、イザベラを乗せた馬車とも呼べない粗末な馬車がゆっくりと走るとも言えないような速度で走る。
彼女が向かうのは、断頭台が置かれた処刑広場。
普段であれば罪人を乗せた馬車には罵声と石が飛び交うが、今日は誰もそんな素振りは見せない。
通行人たちから投げかけられるには、同情と憐れみと悲しみの視線のみだった。
「イザベラ様、どうして…」
だが、当の本人は小さな鉄カゴの中で背筋を真っ直ぐに伸ばして、ただ正面を見据えていた。
それがかえって痛々しく、馬車の両脇を固める近衛兵たちはうつむきがちに歩を進める。
しばらくすると、馬車がカタンと音を立てて止まった。
キィッと錆びついた鉄格子の扉が開かれ、外に出るよう促される。
処刑広場に着いたのだ。
イザベラが足を踏み出した途端、人垣がサッと割れた。
手首と足首に繋がれた枷が鎖とぶつかってジャラジャラと耳に楽しくない不協和音を奏で、それが広場一帯に響く。
処刑は一種のエンターテイメントだ。
本来は熱気と怒号が渦巻き、お祭り騒ぎが起きる。
しかし、今日は違っていた。
イザベラを見る民たちは沈痛な面持ちで、まるで国葬の様を呈していた。
啜り泣く者の姿すら見て取れる。
「ああ、なんとおいたわしい。」
「皇帝陛下はご乱心か。」
「しっ。聞こえたらお前も殺されるぞ。」
イザベラは近衛兵に促されるまま、石造り階段を裸足でヒタヒタと登っていく。
一段、また一段。
死へといざなう階段は、上に行けば行くほどツンっと鼻を刺す錆びた鉄の匂いが濃くなる。
その頂上では、多くの罪人をあの世に送ってきたギロチンの刃が、鈍い光を放っていた。
ふいに視界が開けた。
断頭台のてっぺんまで登りきったのだ。
静かにイザベラが振り返ると、その美しいアメジストの双眸に飛び込んできたのは、広場を埋め尽くす、人、人、人。
誰もが沈痛な面持ちでいる中、一人だけその様子を楽しげに見つめる男がいた。
彼こそが、グリフィス・ロッカルド・エルギア。
若くしてこのエルギア帝国を治める、第28代目の皇帝である。
眩しい金髪と、空を切り取ったかのように透き通った瞳。
十人中十人が美丈夫だと答える容姿を持つ彼は、皇帝の特権である見物台の革張りソファにどっかりと身を任せ、他よりも高い場所からイザベラの一挙一動を眺めていた。
その横で、彼の袖を掴み怯えた眼差しをしているのは、このエルギア帝国には珍しい黒髪が艶やかな少女の姿。
彼女こそがイザベラが処刑される元凶だと言っても過言ではない。
グリフィスがおもむろに右手を上げる。
それを確認した執行官が声を張り上げた。
「元皇国妃、イザベラ・ヒルス・エルバートを皇室法違反と、謀反の罪で斬首の刑に処す!」
イザベラは黙って膝を折り、最期の祈りを神に捧げた。
顔を下げたことでさらりと零れた髪が頬にかかる。
背筋をピンと伸ばして優雅に手を組む様は、これから処刑される人間には全く見えない。
その気高さ、美しさに場の雰囲気に反してあちらこちらから感嘆の溜息が漏れ聞こえた。
―――帝国の薔薇と讃えられた女が自分を慕ってくれていた民に示す最期の矜持であった。
「最期に何か残す言葉はないか。」
グリフィスがうっそりと唇の端を吊り上げて尋ねた。
恐らくイザベラが命乞いをする、または痴態を晒すことを期待したのだろう。
彼にしてみれば、処刑の場で尚、民に崇められるイザベラのことが気に食わないに違いない。
「ありませんわ。」
彼の意に反して、イザベラはきっぱりと答えた。
グリフィスの顔が忌々しげに歪められる。
「罪人、イザベラ・ヒルス・エルバートの刑を執行せよ!!」
吐き捨てるような皇帝の声に応じて、イザベラは処刑台に組み倒された。
ギロチンの刃に結わえられた縄が、切断される。
―――イザベラの首筋に刃が届く刹那、イザベラは声の限り叫んだ。
「我がエルギア帝国に光あらんことを!」
次の瞬間、彼女の願いに呼応するかのように、雲一つない晴天から走ったのは、一筋の白い閃光。
ダーンッッ!!!
一呼吸遅れて訪れた雷鳴が広場の空気をビリビリと震わせ、地響きが起きる。
「きゃああっ!」
「うわああっっっ!」
「何が起こった!?」
騒然とする群衆。
彼らを正気に引き戻したのは、近衛兵が発した叫び声だった。
「皇帝陛下!?」
物見台を仰いだ人々の目に映ったのは―――――
石造りの壁が半壊し、内部がむき出しになった状態で煙を上げている物見台だったもの。
「水を、水を持ってこい!」
「陛下、ご無事ですか!?」
メラメラと炎が勢いを増す。
「ぐあっっっっ!」
周囲にいた近衛兵たちが失神している側で、グリフィスの右の袖に炎が飛び移った。
「グ、グリフィス様ぁっ。」
黒髪の少女がオロオロと情けない声を上げる。
「ええい、水はまだかっ。」
炎と物見台の高さで誰も近づけない。
その時、ポツリと一筋の雨垂れが頬を打った。
数秒後にはザアザアとバケツを引っくり返したような本降りになる。
「雨だ。」
しかし、誰も喜びの声をあげない。
それもそのはず。
降ってきた雨はまるで血のように真っ赤な色をしていた。
「神の怒りだ。」
誰かがそう呟いた。
その声はまたたく間に広場に浸透する。
「神の御子であったイザベラ様を処刑したことで、皇帝は神の怒りをかったのだ。」
「祟りだ。イザベラ様の祟だ。」
これが帝国の薔薇と謳われた、イザベラ・ヒルス・エルバートの壮絶な最期だった。
驚くべきことに、血のような雨はイザベラが処刑された時刻に広大なエルギア帝国の全土で降り始め、三日三晩国土を濡らした。
たちまち皇帝が神の怒りをかったという噂は広がり、それは隣国まで行き届いたという。
だから誰も知らない―――
落雷の直後、イザベラの遺体に近づいて雨に濡れないように、そっと上着をかぶせた青年がいたことを。