10.不穏分子
本当はずっと怖かった。
この世界では、愛して止まないあの人が、生まれて来ないのではないのか、と。
生まれてから七年間、その恐怖に怯え続けていた。
今世の人間は、誰も前世の彼女を知らない。
当たり前だ。
まだ生まれてもないのだから。
それが無性に不安で仕方がない。
自分が忘れてしまえば、あの美しい人はいないものとして扱われる。
忘れるわけにはいかない。
だから必死に、悪夢にすがり付いた。
それが一番鮮烈だったから。
目の前で愛した人が、粗末な服を着て、美しい髪を切られて、国の未来を願いながら死んでいく。
思い出すたび、苦しくて、切なくて、助けることすら許されない自分が情けなくて。
まるで毒でも飲んだかのように、胸が痛んだ。
どれほど無念だっただろう。
どれほど悲しかっただろう。
だから、だからこそ、今世はーーー
「幸せになってください、イザベラ様。」
貴方のためになら、命など惜しくない。手段すら選ばない。
彼女に涙は似合わない。
確かに、彼女の泣き顔はこの上なく美しいが、それを見るのは嫌いだ。
笑っていて欲しい。
その死の間際まで。
「女神様、優しいあの人をどうか今世では想い人と仲睦まじく添い遂げさせて下さい。」
穏やかな風が吹く。
極上の美少年の願いは、誰に聞かれることもなく、風に運ばれていった。
「…カール、お前を正式に騎士団に見習いとして入団させる。」
イザベラが生まれた日の午後、ドレクニオール公爵家ではなく、エルギア帝国騎士団の執務室に呼び出されたカーレインに、マティオンが重苦しい雰囲気の中告げた。
「尽力いたします。」
カーレインが頭を下げると、マティオンが鷹揚に頷いた。
「それで、急なことだが、拝命式は今日執り行う。悪いが、今すぐ軍服を支給するから着替えて闘技場に来てくれ。」
マティオンの予想外の言葉に、カーレインはぱちぱちと目を瞬かせる。
「今すぐ、ですか…?」
「今すぐだ。」
有無を言わせないマティオンの口調。それに気圧され、カーレインは部屋をあとにした。
騎士には三つの服装がある。
甲冑、軍服、軍作業服だ。
甲冑は戦闘時に、軍服は公の正装として、軍作業服は日頃の鍛練時に着用する。
また、騎士は所属する師団ごとに色が決まっており、甲冑なら帯、軍服と軍作業服なら襟などの縁に使われる刺繍糸を見ればどこの所属か分かるようになっている。
支給された軍服の襟を見て、カーレインは固まった。
「この色は…」
それは、雪のような純白。カーレインの髪と同じ漆黒の軍服の生地とのコントラストがまばゆい。
「第四師団か…」
この国には第一から第六まで計六つの師団がある。第一から第三は『陸の騎士』、第五から第六は『水の騎士』という呼称があるが、第四にはそれがない。
名前から分かるように、有事のとき『陸の騎士』は陸軍、『水の騎士』は海軍の役割を担うが、第四師団は裏工作を担うため呼称がないのだ。
だが、騎士団の人間は通常第四師団をこう呼ぶ。
『影』、と。
平時の第四師団の主要任務は、「大規模な犯罪組織の調査及び解体」。それだけに、かなりの実力者たちが集うことで有名である。
「これが父上の真意…」
軍服に袖を通しながら、カーレインは決意を固めた。
「カーレイン・アッシュバルク・ウィザンツ・ドレクニオール、本日をもってエルギア帝国騎士団、第四師団の騎士見習いとしての入団を認める!」
「拝命いたします!」
王都にある闘技場に、マティオンとカーレインの声が響く。
左胸に手を当て、キッチリと四十五度の礼をしたカーレインにパラパラと拍手が送られた。
闘技場にいるのは、カーレインとマティオンを含めた十人。
エルギア帝国騎士団統帥マティオンを始めとし、『陸の騎士』、『水の騎士』の両騎士団長、第一から第六までの全師団長とそうそうたる面子である。
「マーティン坊の家に騎士団に入団したいという物好きがいると聞けば、こんな美少年だったとは。」
『陸の騎士』団長、ダンカンが物珍しそうな顔で、カーレインを見つめた。
「赤子の頃に一度会っただけだが、覚えとらんだろうな。しかし、七の歳にしては随分でかいな。」
わしゃわしゃとカーレインの頭を撫で回したのは、第二師団長のイグネイシャス。
マティオンの部下であり、恩師であり、友人である彼らはこの国一の戦士の息子を興味深げに眺めた。
「カール、こちらがお前がお世話になる第四師団長のウォルター・ヴァル・デイナレルだ。教官でもあるからしっかり学べ。」
「お願いします!」
「教官と呼んでくれ。」
ウォルターは、デイナレル侯爵家の次男であるためか、振るまいが実に優雅である。
癖のある赤髪をサイドに撫で付けた彼は、老齢のダンカンに変わる次代の『陸の騎士』団長候補と名高い。
ウォルターとカーレインは、何度か社交界や宮殿で顔を合わせていた。
「しかし、こんなに急いで拝命式を行わなくてもいいのではなくて?」
騎士団の幹部の中では唯一の女性騎士である、第三師団長、ルイーズが口を開いた。賛同する騎士たちに、マティオンは渋い顔をする。
「まあ、いろいろあるんですよ。」
口をはさんだこの場の最年少、第六師団長のロアが、悪戯っ子のようにカーレインに微笑みかけた。
「急いだ理由、君なら分かる?」
「私の推測ですが、口に出しても?父上。」
マティオンを見上げると、「言ってみなさい」と返された。
「私が次代皇帝に担ぎ上げられないようにするためです。」
マティオン意外が目をみはる。カーレインの洞察力を知る父親だけは、予想していた息子の発言に大きく頷いた。
「お生まれになったグリフィス皇太子殿下は、皇族の特徴である紫眼ではなく青い瞳だと聞きました。
不敬ではありますが、帝国皇后妃に同盟国ではなく属国出身のエレオノーラ様が在位し、そのお子が帝位に就くのを良くは思わない不貞の連中がいるのもまた事実。
そんな彼らにとって私は都合のいい御輿でございましょう。
幸か不幸か、私は現皇帝の甥にして、ドレクニオール公爵家の嫡男。さらに、ほとんどその誕生が伝説化している『黒竜の子』となれば野放しにしておくよりも、早々に騎士団に所属させ、貴族の手が届きにくくするのが妥当かと。
現状、グリフィス皇太子殿下は、今日お生まれになったエルバート公爵家の令嬢を婚約者としてその地位を固めるでしょうが、三柱である我がドレクニオール家が私を国に忠誠を誓う騎士にすることで、それはさらに磐石なものとなるのです。」
つらつらと並べられるカーレインの言葉に、一同は閉口した。
「…カール、私はジモンの家に生まれた子供の話はしてないよな?」
マティオンがおそるおそる尋ねる。
「はい、なので推測だと先に申しましたが、違いましたか?」
「いや、違わん。その旨の手紙を受け取ったのは、お前が着替えていたときだったから驚いただけだ。」
こめかみをグリグリと揉むマティオンに、『水の騎士』団長のメレディスが妙なものをみるような目でカーレインを指差した。
「本当に、お前さんの息子は七の歳かのう。というよりも本当にお前さんの息子か?」
「我が息子に会った人間はみんなそういう。が、カーレインは間違いなく私の息子だ。頭の出来がいいのは、まあ、先祖の誰かに似たんだろう。」
「…僕、初めて子供を怖いと思ったんだけど。これが伝説の『黒竜の子』か。君に野心が成さそうで良かったよ。」
ロアがひきつった笑みを浮かべる。
「まあ、とりあえず、カーレイン・アッシュバルク・ウィザンツ・ドレクニオール。そなたの入団を歓迎しよう。」
『陸の騎士』団長、ダンカンの言葉で拝命式は幕を閉じた。