9.帝王の色
宮殿の大広間は、いつになく熱気が溢れていた。
それもそのはず、皇太子の誕生に国中の貴族たちが集結したからだ。
その顔は、どれも皇太子誕生という慶事に輝いている。
「皆の者。よくぞ集まってくれた。」
シルヴェニアスが厳かに立ち上がる。
「知っての通り、我がエルギアに待望の皇太子が誕生した。よって、しきたりに従い、恩赦を施す!」
「「「皇帝陛下、万歳!皇太子殿下、万歳!」」」
万歳三唱を終えたのち、シルヴェニアスは、コホンと咳払いをした。
「我がエルギアの栄光を期して、乾杯。」
「「「乾杯!」」」
ワインやシャンパンのグラスが高々と掲げられる。その様子を、カーレインは皇族の上位席から眺めていた。
心中は穏やかでない。
(グリフィス殿下、あなたは今世でどうなさるのでしょう。)
葡萄水をチビりと口に含む。
(二度と負けるものか。)
天使のような微笑みの下の、鋼のような激情に気付くものは誰もいなかった。
エルギア中がお祝いムードの余韻に浸る中、カーレインだけはいつものように朝から剣を振り続けていた。
「…九百八十七、九百八十八、九百八十九、」
(時が、動きはじめた。やっとというべきか…)
丹田に力を込め、腰を安定させる。
「…九百九十、九百九十一…」
決してどちらかに手の力が偏らないように。顎を引き、背筋を伸ばす。こめかみから汗が頬を伝い、地面にポタポタと音を立てた。
(今度こそ、イザベラ様の命を、幸せを守ってみせる。)
「…九百九十二、九百九十三、九百九十四…」
ヒュッと模擬刀の切っ先が鋭く風を切る。朝早いためか、公爵邸の庭には人影がない。
カーレインが剣を握ったのは、僅か二歳の時。マティオンの部下が、公爵家に訪れ戯れに模擬刀を渡すと、カーレインはそれを難なく持ち上げたという。
ちなみに模擬刀は、本番用の剣と同様に作られており、かなり重い。
そこですぐにカーレインに剣を教えたマティオンは流石というべきだろう。カーレインは、国一番の剛の者である父親の指導のもと、その才を磨きはじめた。
「九百九十五、九百九十六、九百九十七…」
これから先、カーレインは死ぬ気でグリフィスを支えるだろう。彼が道を踏み外さぬように。
もう、ただの従者ではいられないのだから。
「九百九十八、九百九十九…」
そして同様に、自分の人生を賭して、揺るぎない地位を築くつもりだ。
全ては大切なものを失わないため。
カーレインは己の内の決意をふうっと吐き出すと、お手本のように模擬刀を振り下ろした。
「…千。」
額の汗を拭うと、カーレインは近くに生えている、大きなシラカシを振り返った。
「…どうでしたか、父上。」
「やっぱりばれたか。」
渋みのある青緑の目を細めて、マティオンは茶目っ気たっぷりに手を広げた。
気配は消していたのに、とブツブツと呟く父親に、カーレインは微笑んだ。
「父上のコロンの香りがほんのわずかにしましたから。」
カーレインの五感は尋常ではないほど鋭い。
「筋はいいがまだまだ甘い。カール、何か考え事をしてただろう。」
若干二十歳そこらにして統帥まで成り上がっただけはある。
「ちょっとだけ。」
「有事においては、剣を振るいながら頭脳を使うことは確かに重要だ。だが、まだ剣が身体に浸透していないうちは、剣と一体化することだけを考えなさい。」
「はい!」
はきはきとした息子の返事に、マティオンは相好を崩した。息子の頭を撫で回していたが、ふっとカーレインを覗き込む。
そこには息子を慈しむ、父親としての表情があった。
「…青い瞳、か。」
マティオンは親友であり、この国を統べる最高権力者からの手紙に、そっと呟いた。
この国の皇族はほとんど紫の光彩を持つ。未だかつて、帝位についた者の瞳が青であることはなかった。
だが、皇太子の瞳は、属国の王女である母親のエレオノーラと同じ青。
それがどんな意味を持つのかは、明白である。
先々代の後宮内での血みどろの争いに終止符を打ったシルヴェニアスが正妃を変えるとは考えにくい。
つまり、皇太子かつ王位第一継承権を持つのは、グリフィスだと確定しているのだ。
「たかが瞳、されど瞳。」
マティオンの悩ましげなため息は誰にも聞かれることなく消えた。
それからさらに二ヶ月後、エルバート公爵家に一人の女児が誕生し、同時に神殿に神託が下された。
『聖なる薔薇が国を導く。』
カーレインの予言通りの出来事に、マティオンはただただ、唖然とするしかなかった。