物語壱-5
執務室の珂栄は、昨夜と変わらない様子で書類に目を通していた。
「お忙しいところを申し訳ありません父上」
昨夜と違い、扉の前で珂栄の侍従に用件を告げて入れてもらい、琳狗は頭を下げた。二人きりではないから、勿論昨夜のように気楽に喋るわけにはいかない。努めて口調を整えて、まずは謝罪を入れる。
「何かあったのか」
一瞥しただけで書類に目を戻し、珂栄は息子を促す。
「姉上のことなのですが」
「待て」
自分で促しておきながら、珂栄は琳狗を遮った。書類から目を離し、室内にいる侍従たちに視線を遣って人払いを命じる。侍従たちは頷くと一礼して執務室を出ていった。父と子が残される。
改めて、珂栄は訊いた。
「璃枝がどうした」
敢えて人払いをするような話題ではないと思っていた琳狗は、少しだけ怖気づいてしまった。そもそも、人払いをせねばならないと判っていたなら、昼日中に執務室を訪ねたりはしなかったのだが、来てしまった以上は話さねばなるまい。
父と母が、姉の「あれ」を知っているのか、ただそれだけだったのだが、まさか、姉にも従兄のような特殊な事情があったりするのだろうか。
この部屋に入ってきたときとは全く違う心もちで、琳狗は口を開く。
「……ねえさんが、房から出てきた」
「そうか。……それで?」
珂栄が、ほっとしたような声音で相槌を打つ。
「……さっき、鍛錬場で会った」
珂栄に表情の変化は見られない。
「相手をしていた何人かは、昏倒させられたらしい」
琳狗は、父の反応を窺った。そんな馬鹿な、と言われるのか、それとも納得されてしまうのか、それとも、相手をした者たちの不甲斐なさを責めるだろうか。琳狗は待った。
だが、珂栄の反応はそのどれとも違った。
呆れたような溜め息を吐いて、珂栄は椅子に深々と座りなおした。どうやら、少々前のめりになっていたようだ。
「――いつかやるとは思っていたが、そうか、……とうとうボロが出たか」
「……どういうことです?」
琳狗は、疑問をそのまま口にした。
昨日から、解らないことばかりだ。自分は草家の後継として相応しくあろうと努めてきた。それなのに、我儘娘と馬鹿にしていた我が姉のこととはいえ解らないことばかりで、琳狗は自分の存在意義が揺らがされるような錯覚に陥った。実際はそんな大袈裟なことではない筈なのだが、今の琳狗にとっては死活問題だった。
内心を隠す様子も無く真っ直ぐと自分を見据えてくる息子を前に、珂栄は再び溜め息を吐いた。
「お前が知りたいのは、璃枝が鍛錬場に出入りしていることに関してか? それとも兵士を昏倒させたことに関してか?」
「どちらも。それから、ボロが出た、の意味もです」
まるで数年前の自分を見ているようだと、珂栄は思った。
琳狗の当初の疑問に簡潔に答えるなら、珂栄は璃枝が鍛錬場に出入りしていることも、璃枝の腕前が男顔負けであることも知っていた。公の施設である鍛錬場を使用している以上、領主である珂栄のところの報告がいくのは当然だから、知らないわけが無いのだ。
ただ、当初は飽きるまで好きにさせておけ、というつもりだったのだ。璃枝が大の男を相手に引けをとらない程に腕前を上げていると報告を受けたときも、いくらなんでも話を盛り過ぎだと思っていた。それこそ、今目の前で自分を問い詰める息子と同様の態度だった。あの娘がそんなことをできる筈がないと。いったい何があってそのような事態になったのか、さっぱり理解出来なかった。
だが、流石に無視できない程に報告が上がるようになって、珂栄は娘が鍛錬場に来る時間を報せるよう侍従に命じた。我が目で確かめないことには始まらないと判断したのだ。
結果的にそれは、正しかった。
鍛錬場からの報告は、過大評価が過ぎると思ってたが、それでもまだ控えめな表現だったのだ。実際は、大の男相手に引けを取らないどころか、大の男でも相手にならない程だった。
珂栄が目にしたのは、遠遥でも精鋭を誇る護衛隊の面々が、十代の少女たった一人に残らず倒されて地に伏している様だった。彼らは、琥城が皇太子として皇城に戻ることになったときの為に、敵対勢力を寄せ付けないよう、草家の手勢の中から選りすぐった精鋭部隊だった筈だ。十人に満たない少数とはいえ、一人で相手にする人数ではない。ましてや、当時の璃枝は十五にもならない少女だったのだ。
珂栄は、我が子の才に戦慄した。
そして、思い知る。
璃枝の才は武にのみ長けたものではなかったと。
それまでは聞き流していた報告を検めようと、――珂栄としては出来が悪いのでなければ差し障りがなかったので、聞き流していたということは相応に優秀だったということなのだが――璃枝の教師をしている者、過去にしていた者を改めて呼び出した。当時の璃枝についていたのは主に、作法・教養の教師だった。だから、かつて学問を教えていた学者も呼び出したのだが、この学者というのが、琳狗や琥城の教師も兼任していた。――璃枝が兄弟の学問の時間に乱入していた、といった方が正しいのだが。
その呼び出した教師が、皆口をそろえて言うのだ。
男子でなかったのが実に惜しい、と。
遠慮していた者の方が多かったが、彼らの言ったことは一様に璃枝を絶賛するものだった。遠慮のない者ははっきりと、琳狗よりも璃枝の方が優秀だと、璃枝の方が後継に相応しいと言い切った。
なんと厄介な、と珂栄は領主としてそう思った。同時に父親として、息子に同情すら覚えた。
後継である長男よりも長女の方が優秀だと世間に知られたら、長女を後継にと推す一派ができる恐れがある。珂栄の考えとしては、琳狗は領主を継がせるに足りる能力を持っていると判断しており、後継を今更違える気などなかったが、――そもそも風潮に逆らって女子を後継にするつもりも毛頭なかったのだが――領主の考えがどうであれ、担ぎ上げる者は出てくるものである。
考え得る限りで最悪な事態は、璃枝を嫁がせた先の婚家が領主に反旗を翻すことだ。
普段から琥城にべったりな璃枝が弟にわざわざ刃を向けるとは思えなかったが、万が一というのも無いとは言えまい。限りなく皆無に近いとは思ったが、不安の芽を潰す為に、珂栄は璃枝の周囲を徹底的に政から遠ざけた。
璃枝が傀儡になってしまう事態よりも、璃枝が意思を持って反抗した場合の方が厄介だと考えた結果だった。女性が政に参加すること自体が稀であるので、元より璃枝に政に関する学問はさせていなかったが、前にも増してはっきりと境界を作った。特に、帝王学の講義を受けている最中の琥城や琳狗に近づけないようにした。人の上に立つことを学ばせないように徹底した。
そして、璃枝が琥城以外とは結婚したくないと言い張っているのをいいことに、本来ならば受けて然るべき縁談を潰していった。娘の異常性――あくまでも〝女性〟としての異常性ではある――が露見しないように、十五を迎えて成人の歳になっても社交界にも出さず、璃枝の好きにさせた。とは言っても、琥城以外に嫁ぎたくないということに関しては黙認しているだけで許すつもりはないのだが。勿論、教師には真っ先に緘口令を強いてある。
幸いにも、本人も世間も、璃枝が我儘を貫いていると解釈したので、余計な疑念を抱かれることもなく、数年が経った。
だが、珂栄が同情を覚えた息子こそが、現状に一番疑念を抱いていたとは。
後継当人に黙っておけることではないのだから早々に告げるべきだったのだろうが、領主としてそう判断する一方で、父親としては何も起こらなければ告げる必要は無いのではないかという事無かれ主義的な考えが働いていた。
お陰で、時機だけでいえば最悪のものとなった。
事態が最悪に転がる前に、今こそ伝えねばなるまい。
領主としての責務を果たそうと、珂栄は重い口を開いた。
「……前に、何故璃枝を嫁がせないのかと訊いてきたことがあったな」
「……はい」
「あれをあのまま嫁がせるわけにいかないと答えたと思うが、覚えているか」
「はい」
ゆうべ考えたことを話題にされ、琳狗は神妙に頷いた。
「あれは我が領内で最も、……いや、この鑑国内でも十指には入るのでないかと思う。あれは、文武どちらにおいても、敵う者が思い当たらない。そう思ったから、余計な知識は与えないようにした」
だから、今のままなら、武はともかく文の方はまだ隙がある。
「あれは、おそらく本気を出せば、一領なら一人で壊滅に追い込める」
嘘でしょう、と言いたかった。だが、珂栄の眼差しはとてもそう言えるようなものではなく、琳狗は数拍、呼吸を止めた。
我が娘ながら、誰に似たのかまるで判らない。
溜め息を吐いてそう前置きすると、珂栄は琳狗の疑問に答えていった。
「あれは天才というよりも天災だ。あんな才が明るみに出たら、いったいどんな陰謀に巻き込まれることか。考えるだに恐ろしい」
考え過ぎだと、一笑に付すことが出来なかった。
珂栄は明言しなかったが、この場合の陰謀は、十中八九、後継争いやそれに付するものだと琳狗も気付いた。領内で済めば恩の字、などとは言いたくないが、可能性は否定できない。
「……だから、姉さんを公表しなかったんですか」
「そうだ」
璃枝は領主の娘だが、成人して後に社交界に出る義務を果たしていないので、社会的地位は皆無に等しい。その代わり、璃枝に関する何の情報も出回っていない。せいぜい、成人したくせに公表されていない不出来な女子、という不名誉な噂くらいだ。
どれだけ超大な力を持っていようと、知られなければ利用されることもない。
「ところで琳狗」
まだ何かあるんですか、と漏らしそうになるのを堪えて、琳狗は父と改めて向かい合った。
「昨夜おまえが、璃枝が別人のようだったと言っていた件だが」
知らず身構えてしまっていた琳狗は拍子抜けする。だが、気を抜くのはまだ早かった。
「もしかして、琥城と在るときの璃枝と比べているのか」
琳狗の中で璃枝は、甘ったれで我儘で、姉には見えないくらい幼い少女だ。
十九と言う齢を忘れて、そう思っていた。
「……従兄さんと一緒じゃなかったら違うんですか」
「あれを幼いと言うのはお前と琥城だけだと思うぞ。あれがああいった舌足らずな喋り方をしていたのは琥城に関わりのあるときに多かったからな」
今日は、いったいいくつの衝撃を受ければいいのだろう。
琳狗は頭を抱えて叫びだしたい衝動に駆られた。勿論、そんなみっともない真似などしないが、自制もそろそろ限界だった。
「あれはだいぶ早い段階で〝女〟の喋り方をしていた。私たちの前でも幼い口調で話していたのは十年以上前だな」
つまりは、琳狗はたまたま、琥城が一緒にいる場面でしか姉と会話をしたことがなかったということなのだろうか。それにしたって、都合が良すぎる。
すべての齟齬を噛み合わせる為に、琳狗が要した時間は、決して短いものではなかった。