物語壱-3
璃枝の房を出た琳狗は、父珂栄の執務室へと向かった。既に夜も更けて常ならば就寝している時間ではあるが、例の伝令があって以来、珂栄は明け方近くまで新たな情報と書類に追われていた。
叩扉するとすぐに返事があったので、房内に入る。
「琳狗か。……どうだった」
「……爆発して手がつけられない、という感じ」
姉の様子を窺ってくる、というのは事前に父に報せておいた。璃枝が琥城を慕っていたのは明白だったし、あれ以来房から出てこない璃枝を、邸中が心配していたのだ。
「……そうか」
「というか、あんな姉さん初めて見た」
珂栄が、あんな、とは一体どうした、と目で問うてくる。璃枝が癇癪を起こすことはそう珍しいことでもない。
十九という歳に見合わず、琥城にべったりで甘ったれで、璃枝は姉ではなく妹ではないのかと、琳狗は幾度となく思っていた。年頃の同じ女性たちはとっくに嫁いで母になっているというのに、璃枝はいつまでも琥城に甘えてばかりで、琳狗は恥ずかしかった。
『璃枝も連れてってよ!』
琥城と琳狗が父の視察に同行すると言えば馬に乗って追いかけてくるし、模擬試合の練習に励んでいれば混ぜてくれと言ってくるし、琥城が勉強をしていたら自分にも教えてくれとせがんでくるし、何かにつけて、奔放な姉だった。
『おにいちゃんばっかりずるい!』
挙句には、琥城が役職を与えられたときには、自分にも役職が欲しいと言い出す始末。
『璃枝は女子なんだから、役職に就く必要はないんだよ?』
琥城に散々言いくるめられて漸く諦めたのか、その後は静かになったが、他の我儘は続いた。あれがしたいだのこれが欲しいだの、よくもまあそれだけ思いつくと感心するほど、璃枝は様々なことを要求した。
それなのに、父も母も、璃枝の我儘を咎めようとしない。
一度だけ、苦言を呈したことがある。璃枝は草家の長女なのに、嫁がせなくて良いのか、と。
『あれを今のままで嫁がせたら、そちらの方が問題だろう』
そう返ってきたときには、だったらあの我儘娘をなんとかしてくれよ、という反発しか生まれなかった。せめて社交界くらいは出させろ、成人して数年経つのだから、と。
同世代の友人たちと共にいると、必ず一度は璃枝のことが話題に上る。領主の一人娘なのに、いつまでも実家に居座っているのは如何なものか、と。
その度に、琳狗は恥ずかしい思いをしてきた。
あんな姉の所為で、何故自分がこうも惨めにならないといけないのか。
今回のことで、実は内心、ざまあみろと思っていた部分もあった。我儘を通した結果がこれなら、今度こそ大人しくなるのではないかと。
しかし思いの外、璃枝の憔悴ぶりは激しく、琳狗は姉を嘲笑ったことを後悔した。
そんなに純粋な想いだったのかと思うと、何とも言えず気まずい気持ちが湧いてくる。見舞いでも行けば、この気持ちも少しは晴れるかと思い様子見を買って出た。
ところが姉の房に行ってみれば、そこにいたのは普段の璃枝からは想像もできないような姿だった。
天真爛漫でころころと笑い、幼い口調で平気で我儘を言っては我を通し、自由気儘に振舞う〝頼りない姉〟はどこにもいなかった。
代わりにいたのは、鋭い眼光でこちらを睨み、強い口調で抗議する、一人の〝女〟だった。
『これ以上何を言わせたいの?!』
あれは、知っている姉じゃない。
「……姉さんは、従兄さんの事情を知っていたみたいだ」
「知っていた?」
「というより、気付いていたって感じみたいだけれど」
失礼な話だが、璃枝があんなに頭の回る人間だとは思っていなかった。いつも幼い喋り方をしていたから、思考もその程度だと思っていた。
『誰も教えてくれないから考えたわよ!』
いったいいつから気付いていたのだろう。琳狗の記憶では、璃枝は常に琥城の傍をくっついて回っていて、とてもそんな重要なことに気付いた風には見えなかった。自分が父から知らされたときには動揺してしまったから、特にそう思う。
成人してすぐ、父の後継と正式に目されるようになってからのことだった。珂栄は琳狗を呼び出して、決して口外するなよ、璃枝も知らないことだ、と前置きした上で告げた。琥城は実兄ではなく、従兄だと。そしてこの国の皇太子だと。
かなり動揺してしまっていたので、翌日には琥城本人にばれた。
今まで通りに接して欲しい、兄弟として暮らしてきたのだから、と軽く言われて、少し戸惑った覚えがある。
でも周囲に内密ということは以前通りにする他なくて、時間をかけてなんとか割り切った。
琳狗は璃枝と違って琥城に甘えたり甘やかされたりしていたわけではないから、兄弟ではなかった事実よりも、皇族であったことの方が衝撃だった。
常日頃から好意を隠しもせずにくっついて回っていた璃枝は、真実に気付いたとき、どうしたのだろう。
琳狗は、気付けなかった。
琥城の事情にも、それに璃枝が気付いたことにも。
打ちのめされた感が否めない。
「姉さん、別人みたいだった」
癇癪を起こすことはままあることではあったが、あんなに怒鳴り散らすところなんて見たことがない。あんなに鋭い視線を向けられたこともない。激しい感情を向けられたことも。
琳狗に言われただけでは、想像もつかないのだろう。珂栄は首をひねっている。琳狗だって、この目で見ていなければ信じられない。
あれがあの甘えたな姉だなんて。
夢でも見たと思いたかった。