物語壱-2
璃枝が自室に籠って五日目の深夜。
使用人に必死に諭されて食事だけは義務的にこなしていたが、一日中何もしていないも同然の璃枝の許に弟がやってきた。床に座り込んで寝台にもたれかかったまま、弟を房に入れる。
草薙琳狗。璃枝の一つ年下の、草家の後継ぎである。
灯りすらつけていない璃枝の房で、琳狗は姉を憐れむように言った。
「……従兄さんは、無事都に着いたみたいだよ。連絡があった」
だから、もう遠い人なのだと、現実を改めて突きつけられる。
「…………そう」
知れて良かった。従兄は無事。
知らない方が良かった。現実なんか見たくなかった。
だってどうせ、大好きな兄はいない。矛盾した想いが、璃枝の口を重くする。
殻に閉じこもったような璃枝を見て何を思ったのか、琳狗はぽつりと呟いた。
「泣かないんだね、姉さん」
その一言で、璃枝の中の何かが崩れた。
寝台に伏せていた顔を上げて、璃枝は低く呻く。
「泣いておにいちゃんが帰ってくるなら泣くわよ。でも、帰ってこないでしょう」
涙の痕ひとつない顔には、代わりに隈が浮いていた。眠れていないのだ。
「泣いて、我儘を言ってどうにかなる問題ならもうとっくに泣き喚いてる。でも、泣いたって叫んだってどうしようもないことも、我儘を言っちゃいけない問題だってことも、よく解ってる」
そう言っているが、表情はそれを裏切っていた。
泣き喚いて叫んで我儘の限りを尽くして引き留めたかった。癇癪を起こして困らせて、何が何でも行かせたくなかった。
でも、出来なかった。
後悔に満ちた絶望の表情は、それを物語っていた。
「理解してても、納得は出来ないに決まってるでしょう?! 私、そんなに物分かりよくない!」
五日間、溜めに溜めまくった本音だった。
五日ぶりに声を張り上げた喉は裂けそうに痛むし、肺も苦しい。
でも、そんな身体の痛みより、心の痛みの方が余程深刻だった。
心の傷は時が経てばいつか癒えるというけれど、璃枝もいつか琥城がいない日常に慣れてしまうのだろうか。そんなのは認めない。忘れたくない。
「……姉さんは、知ってたんだね」
何を、と問い返そうとして、琥城の出自のことだと思い当たる。
確かに、璃枝は直接説明されていない。知らないと思われていたのだろうか。馬鹿にするにも程がある。
そして言葉の意味に気付く。琳狗は知っていたのだ。
弟に嫉妬すら覚えて、璃枝は歯を食いしばる。
草家の草の文字を名に持つ弟が、羨ましかった。璃枝は草冠すら貰えなかったから。
後継ぎである弟が羨ましかった。兄と一緒に政の勉強をすることが出来たから。
次代当主であるゆえに兄の事情を把握して、尚且つ現状も把握できる弟が妬ましい。
私には何も教えてくれないくせに。
璃枝は、吠えた。
「ええ知ってたわよ。誰も教えてくれないから考えたわよ!」
大人は何でも教えてくれる存在ではないのだと、そう学んだ。同時に、大人の会話は手掛かりに溢れていることも学んだ。普段から神経をとがらせて生きていれば、様々な情報が後々役に立つことも。
「馬鹿じゃないんだから考えるわよ! 考えれば解る! 今のおにいちゃんに帰ってきて欲しいなんて思うのはただの我儘だってことくらい」
顔を真っ赤にして、弟を相手に苛立ちを露わにする。
「解るから、我儘言いたいのを我慢してるんじゃない! これ以上何を言わせたいの?!」
まるで、威嚇する猫が如く。璃枝は呼気も荒く怒鳴り散らした。
「……出てって」
「姉さん」
「出てって! ひとりにして!」
琳狗は動かない。そのまま、痛いほどの沈黙が房を支配する。
本当は、琥城を追いかけたい。追いかけて、彼の傍にいたい。一緒にいたい。
それをなんとか我慢しようと懸命に抑え込んでいるのだから、邪魔しないでほしい。
これ以上、本音を暴かないで。
やがて、琳狗が踵を返す気配がする。扉を開く音がして、足音がふと止まる。
「……姉さん」
「…………」
「くれぐれも、早まったりしないでね。……いつもの元気な姉さんに戻るのを待ってる」
そして、ぱたんと扉の閉まる音が響く。
璃枝は一度だけ誰もいない扉を確認して、再び寝台に顔を伏せた。