物語壱-1
物語 第壱
大陸の南に位置する、鑑国。
数百年の歴史を誇るこの国は、建国から変わらず、ひとつの血筋によって治められたきた。開祖の血を継ぐ皇家の家長は、鑑国の国王として君臨する。
現在の国王は、名字を風雅湟征、御歳四十五である。
国王としてはまだまだ若い部類に入る彼は、数年前から病床についていた。皇城の医師が治療にあたっているそうだが、快復には至らず、国王は病身を酷使して執務を行っていた。
国王がそのような状態になると懸念されるのが後継ぎの問題であるが、この王は自身の子どもを公表していなかった。目に見えるかたちでの後継ぎ――皇太子がいないのだ。
子どもがいないわけではない。
国王には寵愛する唯一の后がいて、二十年程前彼女が身籠って無事出産したことは公然の事実であるからだ。
だが、このとき生まれた子どもはいつの間にか皇城から姿を消し、その後子どもは生まれず、皇城には皇子不在の状態が続いている。后が我が子と共に出奔したのでは、という噂がまことしやかに囁かれた時期もあったが、后の姿は常に国王と共にあって、出奔の噂はすぐに立ち消えた。
代わりに、幼くして亡くなったのではないか、という説が流布した。
皇子が皇城からいなくなった頃、后は毎日のように泣いていたのだという。溺愛していた息子が亡くなって、泣き暮らしていたのではないか、と。
しかし時の流れとは不思議なもので、あれほど騒がれた皇子の行方や生死のことなど誰も口にしなくなって、早数年。国王は、後継ぎのことなど一切口にしないまま、病床についた。
鑑国の危機かと思われたが、国王は病床においても執務に励み、最愛の后はそれを支え続けた。
鑑国の北の辺境・遠遥。
この地の領主館で、領主の長女・璃枝は失意の日々を過ごしていた。
国王崩御の報せをもたらしたと思われた早馬は、実は焦った伝令による早とちりだったことが判明した。正しくは、『国王危篤。意識不明の重態』というものだった。まったく人騒がせである。
しかし、それでも緊急であることには変わりない。
息を吐いたのも束の間、璃枝の周りは一刻を争うような速さで一変した。
遠遥の領主である草家当主・叢藍珂栄は、かねてより鍛えていた選りすぐりの精鋭護衛隊を動かした。護衛対象は、珂栄の甥である玻音琥城。璃枝が兄と慕う青年だ。
琥城は、護衛隊数名を引き連れて、伝令がきたその日、手早く身支度を整えて遠遥の領主館を出て行った。
別れの挨拶すらなかった。
「……こーちゃん」
窓辺にもたれかかって、慕わしい名を呟く。
あの忌まわしい日から三日が経った。琥城がいなくなった今では日課は意味をなさず、それでも習慣で早朝に井戸に向かっては虚しさを味わう。
これまで昼間は、少しでも琥城に近い者であれるようにと、教養も勉強も毎日復習したし、幼い頃ついて回ったときのように武芸の鍛錬も欠かさなかった。
でも、もう何をしても琥城は近くにはいない。遠い存在になってしまった。
璃枝の中心を支えていたものが、一日で崩壊した。
大好きな兄にふさわしくありたい。
その一心で頑張ってきた日々は、丸ごと無駄になった。
本当は、無駄になることは最初から判っていた。でも解りたくなかったから努力した。
父・珂栄が初めて琥城を連れてきた日、あのとき言われた言葉をはっきりと思い出せる。あれは、五歳になるかならないかの頃。
『璃枝、いいか、この方は、この国で一番貴い血を継いでおられる』
立派な大人である父が子どもに対して「この方」などと言うのを不思議に思いながら、璃枝は訊いた。
『とうとい? えらいってこと? えらいひとがなんでここにいるの?』
無邪気な問だった。今ならば、それがどのような意味をもつのか、訊かなくとも解る。
しかし、五歳にも満たない子どもに経緯を説明したところで理解するべくもなく。
珂栄は端的に現状の説明だけをした。
『今日から、璃枝のお兄さんになるんだ』
ただ単純に、大喜びしたことを覚えている。無愛想で無表情ではあるが、だからこそ整った顔立ちが目立つ素敵な男の子が兄になると聞いて、璃枝はとにかく嬉しくて、四六時中〝兄〟について回った。
『おにいちゃん、ねえ、おにいちゃん。どこいくの?』
思い返せば、さぞかし鬱陶しかったことだろうと思う。琥城が当時どう思っていたのか、そのあたりの機微は訊いたことがないし、やりとりの詳細までは覚えていないのでよく解らないが、物心ついて以降、覚えている限りでは琥城に邪見にされたことはない。
琥城は優しいのだ。
だから、今まで璃枝の我儘が通ってきた。
それでも、聞いてくれない我儘もあった、ということだ。
璃枝は、ずっと琥城と一緒にいたかった。大好きだった。今でもその気持ちに変わりは無い。
『おにいちゃんと結婚するの!』
そう言って憚らなかった少女時代。言うだけなら許された。
でも、実際に結婚することは許されなかった。
おにいちゃんと一緒にいるの。だから何処にも嫁がないの。
そう言い張って、持ちこまれる縁談の全てを断ってきた。それがどうしてまかり通っていたのか、きっといつかは諦めると思われていたのだろう。しかし既に璃枝は領主の娘としては嫁き遅れ一歩手前、十九になっていた。
諦める気は更々ない。遠く離れてしまった今でも、琥城以外の男に嫁ぐ気にはなれなかった。
両親はさぞかし呆れているだろうとは思ったが、こればかりはどうしようもなかった。
刷り込み、というヤツだろうか。琥城が父に連れられてきたときに一目惚れしてから、他の異性には目が向かなくなってしまったのだ。たとえ刷り込みであったとしても、今更他の異性に目を向けようとは思わないし、刷り込まれたままでいたいと思う。
琥城以外の男性に嫁ぐなど、考えたくもない。
だが、今の状況下なら琥城は璃枝以外の女性を娶ってしまうだろう。
何故なら、彼は現国王の唯一の皇子であり、危篤の父王に代わって王位に就く為に都に向かったのだから。即位したら、すぐにでも王位に相応しい女性を王妃として迎えるだろう。
琥城の母は、国王の唯一にして最愛の后である葉音雅妃であり、彼女は珂栄の実妹であった。
雅妃は、成人を前にした十四の歳に当時まだ皇太子だった風雅湟征に見初められて、成人と同時に嫁いでいった。それゆえに、社交界に出たこともなかった雅妃は、公的には出自を知られていない。
皇家に嫁ぐときにはそれまでの血縁とは切り離される法令があるため、王妃の出自は明かされないのが慣例だが、それでも嫁ぐ以前の交友関係から推測されてしまうのが常であった。完全に出自不明の王妃というのは、法令通りではあるが珍しかった。
出自不明の王妃を妬む者は多く、彼女を害そうとする野心家は数知れず。身籠る前から既に身に覚えがあった王妃は、子どもまで狙われてはたまらないと、子どもだけを皇城から逃がした。信頼のできる実兄の許へと。
そうして草家に逃れてきたのが、まだ幼かった琥城。
璃枝は、直接事情を説明された訳ではない。
だが、大人たちの漏れ聞こえる話を拾い集めれば、なんとなく事情はつかめるものだ。
この国で一番貴い血、とはっきり言われているのだ。幼い璃枝に言っても解らない、すぐに忘れるとでも思われたのだろうが、あいにくと璃枝は覚えていた。皇家の血をひいているのは明白だ。それから、玻音という名。
王妃の名が葉音というのは、知っていた。〝玻音〟を読みかえれば〝はのん〟になるのにはすぐ気付いたし、〝はのん〟という名の叔母がいることも判っていた。
鑑国の民は、名と字を持っている。
名は、親から貰うもので、家名を表す文字、もしくは親の名の一部をひきついでいる。そして字は、成人の際に自らつける呼称であり、女性は結婚するまで秘するものである。
草家当主の妹である〝はのん〟という叔母なら、草冠の〝葉〟の文字をもっていても不思議は無い。
そこまで推測できるようになった頃には、璃枝は既に琥城のことを慕い過ぎていた。
そして同時に思い知る。琥城がずっとこの家にいることは無いのだと。
だから、気付かなかったことにした。
琥城が行方不明の皇子だということに璃枝が気付いたと判れば、きっと今までのように我儘は言えない。勿論結婚なんて出来ないと諭されるだろう。
そんなのは嫌だった。
嫌だったから、気付いたことをひたすら隠した。
気付かなければ、一緒にいられると思ったのだ。たとえ、ほんの少し長くなっただけだとしても。
病床の国王が快復してくれれば。国王と王妃の間に新しい皇子が誕生すれば。
琥城と一緒にいられる可能性を考えて、ひたすら願った。
しかしすべては無駄になった。
国王が斃れたという報せと共に、琥城は、いなくなった。