序
物語 序
それは、ある日突然、やってきた。
璃枝は、毎朝の日課をこなすべく、井戸を前に腕まくりをしていた。
足元には、大きな桶が二つと、それを運ぶ棹が一本。井戸の釣瓶を何度も引き上げて、桶をいっぱいにして持ち帰るのが、璃枝の役目だ。
璃枝の家には多くの使用人がいて、勿論水を運ぶ使用人もいるのだが、毎朝、顔を洗って清める為の水だけは、璃枝が運ぶようにしていた。水の大事さを身を以て味わう為だが、それだけではない。
顔を清めた後の水は、庭の木々や草花に与える。それも、璃枝の役目。
使用人たちは夜明けと共に動き始めるから、璃枝が井戸に来る頃は、既に水運びの者が一度釣瓶を使った後で、親切にも使い易いようにしてある。
出来た使用人を嬉しく思いながら、璃枝は釣瓶に手をかけた。もう春とはいえ、水はまだ冷たい。
「ぅひゃあ冷たッ」
口ではそう言うものの、躊躇いなく桶に手をつっこむ。寝る前に塗った薬草の匂いを流す為にも、入念に洗う。冬の間にできた皸も、そろそろ治りかけていた。
続けて同じ水で顔を洗う。豪快に水を顔にふっかける。
それから、桶の水を一旦草木に撒いて、もう一度井戸から水を汲み上げる。新たな水で今度は静かに顔を清め、腰に下げた手拭いで滴る水を拭う。
今の水も柄杓で花々に撒いて、改めて桶二杯分の水を汲み上げる。
いっぱいにして運ぶとは言っても、あまりなみなみと入れると運ぶときに零れてしまうから、八分目程度だ。それでも、璃枝の細腕で運ぶには重いと思われる。
しかし、長年の日課で鍛えられた璃枝は、手際よく桶を棹に吊るすとそれを肩に担いですたすたと歩き始めた。
行き先は、自室の隣の、兄の房。
「こーちゃん!」
両手が塞がっているから叩扉ではなく名前を呼ぶのも、日課。
程無く扉が開いて、璃枝が兄と慕う青年が姿を見せた。
「毎朝ご苦労さま」
柔らかい笑みと共にそう言われて、璃枝は笑み崩れる。
「好きでやってることだからいいの!」
青年の部屋に遠慮なく踏み入って、水が零れないように桶を床に置く。
女である璃枝と違い、毎日忙しく日程をこなす兄には、こうでもしないと一日中会えなかったりするのだ。
幼い頃は良かった。いつだって兄の傍をついて回っても文句など言われなかったし、一緒に勉強したり武芸の鍛錬をしたりも出来た。
そうではなくなったのはいつだっただろうか。兄の勉強が一般常識だけではなく、特殊なものになっていき、その頃に、璃枝は女だから必要ないと、勉強部屋から追い出された。そしてじきに、体力の差を理由に、武芸の稽古場からも追い出された。
寂しかった。
それまでは一日中一緒だったのに、まったく会えなくなった。同じ邸にいるのに。
だから、璃枝は考えたのだ。
起きたばかりなら、絶対に自室にいる、と確信した璃枝は、その日から水汲みを始めた。別に手ぶらで行っても良かったのだが、朝の貴重な時間にお邪魔するのだから、大義名分がないといけない気がしたのだ。
最初は酷かった。桶一杯ずつしか運べなかった上に、井戸から房までの道程で零してしまったり、それならまだマシな方で、兄の房でぶちまけた事だってある。
優しい兄は笑って、それはもう大笑いして許してくれたが、璃枝はかなり居た堪れなかった。
それでも、兄に毎日会いたい、という一心で頑張った。早起きをして、自分の身支度をして、慣れないうちは失敗することも考慮して時間に余裕をもって水汲みをし、慎重に兄の房まで運んだ。
初めは呆れた目で見ていた父も、ハラハラしながら見守っていた使用人も、今では璃枝の役割と割り切ってくれていて、誰も口出ししない。
そこまでして手に入れた兄との時間を有効に使う為に、璃枝は侍女の真似事まで始めた。兄が仕事着に着替える手伝いを見様見真似で覚え、その間も二人きりでいられるようにした。
ここまでくると流石に父は難色を示し始めたが、兄本人が軽く受け入れてくれたので、結局は何事もなかったことにされた。
今日も今日とて、着替えの手伝いをしようと璃枝は仕事着に手を伸ばした。
「あ、今日はいいよ」
「……え」
顔、手足の清めが終わった兄が、顔を拭いながら璃枝の手を止めさせた。
朝の逢瀬が日課になって以来、初めてのことだった。兄が璃枝のやることを断ったことなんて、今まで一度としてなかったのに。
「なんで、……璃枝はお役御免なの?」
半泣きで呟くと、兄に苦笑された。なんでそうなるかな、とぼやかれる。
「違うよ。今日は一日空きになったんだ。緊急の呼び出しがない限り、今日は自由にできる」
これも、初めてのことだった。
「えっえっじゃあ、今日は一日一緒にいられるのっ?」
「うん。朝食も一緒に摂れるよ」
笑顔で頭を撫でられて、璃枝は舞い上がった。
桶を片づけるのは後にして食堂に行こうか、と兄に手を引かれ、璃枝は有頂天で歩みを進めた。兄と一緒の朝食なんて、いったい何年ぶりだろう。
使用人には、兄の休暇はきちんと伝わっていたようで、いつもは別室に用意される兄の分の朝食も食堂の卓子に並んでいた。
なんて幸せな朝だろう。
自分の席に着いて、璃枝はうきうきと家族が揃うのを待った。璃枝の母、父、と食堂に現れ、いつもは璃枝より早い弟がまだ来ていないことに気付く。
こんなときに限って遅いなんて。
兄と一緒の食卓を、璃枝は待ち切れなかった。
「父様、わたし、琳狗を呼びに」
「大変だッッ」
席を立とうと腰を上げたところで、騒がしい足音と共に弟が食堂に駆け込んできた。
「なんです、お行儀の悪い」
息せききって食堂に駆けつけるものではありません、と母が弟を諌める。
ところが、弟はそれどころではない様子だった。呼吸を整える暇さえ惜しむように、父の席の真横まで小走りで駆け寄る。
こんな早朝に駆けつけるほど大変って、いったい何事……
「事態は火急を要する。早馬の伝令があった。父上、……国王陛下が崩御されたらしい」
じきに正式なお触れが出回るだろう、と付け加える弟の声は、璃枝には届いていなかった。
――国王崩御……、と、いうことは、
「直接話を聞こう。琳狗、伝令の許へ案内しなさい」
「はい」
父と弟が、ちら、と兄を横目に見て食堂を出て行く。
食堂には、璃枝と、母と兄が残された。
「……私たちが焦ったところで何も変わりませんね。朝食を食べてしまいましょう」
腹が減っては戦は出来ぬと言いますし、と母が合掌して食事を始める。それもそうですね、と兄も同様に食事を始める。
璃枝は、暫く、呆然としていた。
国皇崩御? 国皇崩御ってつまりお亡くなりになられたってことでしょう?
「……璃枝、貴女も食べなさい」
母に注意されるまで、食事に手をつけられなかった。
どうしよう。
何も、
なにも覚悟できてない。
久しぶりに兄と同じ食卓についているというのに、味のしない食事を済ませると、それを見計らったかのように、兄が母に声をかけた。
「伯母上、こんなに早いとは思いませんでしたが、今日までお世話になりました」
聴きたくない。
璃枝は耳を塞ぎたくて仕方なかった。
でも、そんなことをしたところで兄は続きを言わないでくれたりなんかしないのは解っていた。兄の声を聞き逃したくない気持ちとそれ以上は聞きたくない気持ちがせめぎ合う。
「ええ、……こんなに早いとは思いませんでした」
何を言われるのかは、解っている。
こうなることは、兄が我が家に来たときから解っていた。……解っていた筈なのに。
璃枝は、ぎゅっと目を瞑った。膝に置いた拳に力がこもる。
「王が亡くなってしまったのなら、行かねばなりません。本当に、お世話になりました。有難うございました」
いや、
聴きたくない――!
「俺は、在るべき場所に戻ります」
璃枝十九歳、幸せな日々は続くものだと確信していた春の日、兄と慕う従兄との別れは、彼女の前に突然にあらわれたのだった。