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どこにも行けない

作者:犬井作
本作は2017年織田作之助青春賞に応募し、最終候補作の一つに残った原稿を掲載しています。
ウェブ掲載にあたって改行などを変更しております。

この場を借りて校正作業に協力してくださった方々への感謝の意を表明します。狼子由様、月ノ瀬静流様、小日向清二郎様、本当にありがとうございました。
 顔を洗って部屋に戻った少年は、ベッドのそばのカーテンに留まっているジガバチを見つけた。数日前に家に迷いこみ、以来行方知れずだったやつだとすぐにわかった。少年はそっと窓を開けた。

 そよ風が部屋に流れ込み、カーテンがふわっと持ち上がる。それでもジガバチはひしっと捕まったまま、一向に動こうとしなかった。ただじっと、青空を見つめていた。

 少年は、ジガバチが死んでいるのだと気づいた。手を離して後退ると、畳まれたままの茶色い羽を透かす朝陽が、部屋に濃い影を作り出している。不吉な予感を覚えて、少年はランドセルを手に階段を降りた。

 薄暗いリビングに異国の言葉が響いている。トーストが用意された食卓の向こう、ソファに寝転ぶ母の手にはスマートフォンが握られている。浅黒い肌が画面の明かりに照らされている。母は少年を見向きもせず、ドラマに夢中になって、虚しい笑みを浮かべていた。そのそばの床に、もう使わなくなった黄色い帽子が落ちている。

 最後に母と会話したのがいつだったか、少年は思い出せない。

 日本に来て十年が経っても母はまだ日本語がおぼつかなかった。そのせいで息子とうまく会話できず、そればかりか、一人では生活もままならなかった。言葉の通じる父は仕事でほとんどいない。少年が物心ついたころには、母はたまに食料を買うほかは外出せず、画面の中の故郷にすがりつく日々を送るようになっていた。

 かつては不満を漏らしていた少年は、父に繰り返し言われ、なにも言わなくなった。

「母さんも辛いんだ。我慢してあげなさい」

 不意に、帰ることができないまま、ついに死んでしまったジガバチが母の姿に重なった。少年は目をそらした。不吉な予感を払うように顔を振り、時計を一瞥して、慌てた。物思いにふけっている間にいつも家を出る時刻をとうに過ぎていた。もしかしたら遅刻するかもしれない。

 味気ないトーストを詰め込むと、少年はなにも言わず玄関を出た。初めはしていた出掛けの挨拶も、とうにしなくなっている。
 雲ひとつない気持ちのいい青空に目を細めると、少年は元気よく走りだした。

 街外れにある家から南に下ると住宅街に出る。そこを抜け、大通りを道なりに進むと小学校に着く。長い道のりだったが、まったく苦だと思っていなかった。その道すがら、ずっと誰かと一緒だからだ。

 通学路にごった返す同級生たちの中で、友達と他愛ない話をしているとき、誰かとつながっている喜びが少年の心を満たした。学校に行けば優しい担任もいて、もっと多くとつながることができた。方角の関係から利用している小さく狭い北門も、輝いて見えた。

 少年は朝が大好きだ。重苦しい沈黙に満ちた家を出て、光に満ちた世界に帰ることができたから。
 住宅街に差し掛かるあたりでいつもヒロオと合流する。今日もきっとそうなるだろうとわけもなく考えた。どんなことを話そうかと考える足取りは、とても軽かった。

 しかし少年の歩調は次第に重くなっていった。道にはランドセルを背負う人影はなく、ヒロオの姿もない。子供たちの喧騒のない街は、大人ばかりが目についた。

 まるで見知らぬ土地のようでひどく頼りない気持ちになった。周囲を落ち着かない様子で見回しながら、少年はひとり、街を歩く。

 視線を感じて振り向くと、右手の玄関口に立っていたおばさんと目が合った。おばさんはじっと、冷たい瞳を少年の浅黒い肌に注いでいた。少年の彫りの深い顔が緊張した。

 咄嗟に少年は挨拶した。学校で担任に、笑顔で挨拶すれば笑顔で返してもらえると教わったからだった。

「おはようございます」

 期待は裏切られた。おばさんはひどく狼狽した様子で、会釈するなり家の中に戻った。扉が閉まる激しい音が、深閑とした住宅街に響き渡る。行き交う人々の注目が、少年に集まった。

 少年は怖くなって、急いで家に挟まれた道を通り抜けた。その間、どこからか向けられる冷たい瞳が、背中につきまとった。

 大通りに出ても子供たちの姿はない。冷たい感覚が肌をチクチク刺した。振り向くと、すれ違う大人が、誰か必ず顔を背けた。まるでいけないものを見たような態度がどれもおばさんに重なった。

 世界は光に満ちているのに、ひどくそっけなく、色褪せている。

 ランドセルのベルトを食い込むぐらいにギュッと握り、少年は駆け出した。はやく学校に行きたかった。
 今日はトラコに会いに行くんだ。そしたらだいじょうぶだ。少年は自分に言い聞かせた。

 門の左手、校舎の裏側を進んでいくと柵に囲まれたうさぎ小屋がある。そこにトラコがいる。トラコは、茶色と白の毛がトラの模様のように混じっているほかは、至ってふつうのうさぎだ。トラコは学校のアイドルだった。

 少年が進級した四月のはじめも、各クラスで一人しか選ばれない世話役を巡って熾烈な争いが繰り広げられた。少年は運良く勝ち抜き、トラコ当番の任を得た。

 昨日は少年がトラコの世話をする日だった。少年は当番をした翌日必ず様子見にいくことにしていた。単なる習慣だった。だが今日は、朝の静けさの中大人しくしているトラコが恋しかった。あのつぶらな瞳を見つめれば、いつもと同じ一日を取り戻せる気がした。

 北門の手前の坂に着いて、ようやく少年は歩調を緩めた。息を整えて顔をあげると、中腹に人影があった。

「ヒロオ!」

 少年は駆け寄ろうとして、立ち止まった。
 ヒロオがあの冷たい瞳を向けていた。そのうえ、学年で一番大きな手をぐっと握って拳を作っていた。少年の笑顔がこわばった。

「おい、なんで今日はおそいんだ」

 おもむろに怒鳴りつけられ、少年は動揺した。ヒロオは少年に詰め寄った。

「言えないのか」
「え、っと、その、……」
「早く言えよ」

 ヒロオはいつも、穏やかな口調で話した。いたずらする子に対しては先生のように怒ったが、そんなときでも調子を崩したりしなかった。一年生の頃に知り合ってから変わらない、茶色い瞳に浮かぶ優しい色に、少年はいつも安心させられた。

 それだというのに、ヒロオはむき出しの敵意をぶつけている。普段からは考えられない態度に、戸惑いを隠せなかった。

「どうしたんだよ。ヒロオおかしいよ」
「おかしいのはおまえだろ」
「わかんないよ……トラコのとこ行かせてよ。そこで話そうよ。ヒロオこわいよ」
「どうしてだ」
「どうしてって、なにが」
「どうしてトラコのとこ行きたいんだ」
「だ、だってきのう、当番だったから」
「やっぱりそうだったんだな。それじゃあ、やっぱり、おまえがやったんだな」

 ヒロオは少年に掴みかかった。少年はよろけて、ヒロオのなすがままにされた。ヒロオは自分の中に結論を持っているようだった。けれどそれがなんなのか解らなかった。

「どうしてだよ、なんでだよ」
「なんのことだよ。こわいよ、やめてよ」
「とぼけんな」
「ヒロオ知ってるだろ。おれが当番したら次の日ぜったいトラコに会うって。だからいくんだよ……なんなんだよ……」
「あ……そうか。そうだっけ」

 ヒロオの手から力が抜けた。少年はヒロオから離れ、咳き込んだ。ヒロオは気まずそうに黙っていた。
 トラコになにかがあったのだ。不吉な予感に、心臓が跳ね上がった。少年は落ち着くと、ヒロオを問いただした。

「ねえ、なにがあったの」
「ほんとに知らないの……」
「なにを。おしえてよ」
「だから、トラコだよ。……知ってたからおそくきたんじゃないの……」
「なにいってんのかわかんないよ。トラコになにがあったんだよ」

 言葉の末尾で声が裏返って、黒板を引っ掻いたような音がでた。少年もヒロオもびくりと体を震わせた。しばらく二人は睨みあった。
 ヒロオが先に口を開いた。

「とにかく、来て」

 少年はヒロオを追って、狭苦しい北門をくぐった。生い茂った木々が朝陽を遮り、静まり返った校舎裏に陰鬱な影を落としている。不吉な予感がますます大きくなる。

 小屋が見えてきたところで、少年は足を止めた。いつもは人がいないのに、柵の周りに子供たちが溢れかえっていた。みな黙って、小屋の方を見ていた。しかし誰も柵の中には入ろうとしていなかった。静まり返った中聞こえる嗚咽が、耳に残った。

 ヒロオが気にせず進んでいったので、少年は慌てて追いかけた。すぐ近くの教室から聞こえてくる歓談の声がひどく遠い。

「とおして」

 ヒロオが声をかけると、ついてきていた少年に視線が集まった。子供たちはなにかを合点したような表情で少年を見つめていた。
 しばらくののちぞろぞろと人波が割れた。少年は無数の視線を浴びて、溺れるような息苦しさの中、錠が壊された戸を抜けた。

 入口でヒロオは少年に道をゆずった。それでようやく、小屋の中が見えた。薄暗がりに白と茶色のまだら模様が浮かび上がっていた。
 少年は小屋の中に入ると、服が汚れるのも気にせず、冷たく湿った土に膝をついた。昨日そうしたように、トラコに目線をあわせた。

 だがそれは、ただの死体だった。

 意思のない、ただ筋肉がつっぱっただけの表情は、笑っているようにも見えた。なにもみていない瞳は白地に穿たれた穴のようだ。ジガバチの静かな死体とは正反対に、それは雄弁に死を物語っていた。

「なんなんだよ、これ」

 震える声でつぶやいた。あたりがいっそう薄暗くなって、少年は振り向いた。

 いつの間にか小屋の中に子供たちが押しかけ、少年をすっかり取り囲んでいた。その誰もが少年を見下ろしていた。そのどれもがあのおばさんの目を思い起こさせた。冷たい何かを潜めた、理解できないものを見つめる目つき。それがヒロオの言動に符合した。少年はすべてを了解して思わず声を上げた。

「おれ、やってないよ。なにもしてないよ。トラコころしてないよ!」

 だが誰も少年を信じようとしない。言葉はなくとも、子供たちの気持ちが少年にはありありとわかった。誰にもつながっていない孤独感に、お腹の底から寒さが全身に広がる。

 少年は人の壁の中にヒロオを見つけた。すがりつこうと近づいた。だがその途端、誰かに突き飛ばされた。わっと声が上がった。

 少年を突き飛ばした誰かはその拍子に転んでしまったらしい。巻き添えになった子供たちが倒れ、悲鳴を上げた。誰かが抗議の声を上げる。押し合いが始まる。嗚咽が、悲鳴のような泣き声に変わった。

 地面に倒れ込んだ少年は、顔の横に転がるトラコから目が離せずにいた。口元は死んだ魚のように開かれていて真っ赤だった。トラコは一人で死んだ。その寂しさを自分のことのように想像して、少年は泣きそうになった。

 視界に誰かの足が割り込んで、少年は我に返った。慌ててトラコを抱え込んだ。腕の中の冷たい感触と、肉の腐ったような臭いがして顔をしかめた。

 どうして誰もが自分にあの冷たい瞳を向けるのかわからなかった。背中に何人もの足がぶつかる。痛みが走るたび、世界から色が喪われていく気がした。


 ◇


 騒ぎを聞きつけた大人がやってきて、子供たちは解散させられた。

 少年は保健室に運ばれた。手当されている間ずっと、少年は冷たい瞳を向けられるのではないかと怯えていた。教室に行きたくなかった。

 手当が終わっても顔を伏せたまま動けずにいると、保健室の先生が空いていたベッドを整えてくれた。

「寝てていいわよ」

 そっけない言い方だったが、自分を疑っていない様子に少年はホッとした。少年は先生に、毛布がほしいと願い出た。先生は事情を聞かず冬用の毛布を手渡した。少年はお礼を言うとベッドに横になり、毛布を抱きしめ体をくるんだ。

 いつの間にか少年は眠っていた。夢は見なかった。鐘の音で目が覚める。寒気はひどくなっていて、全身が強ばっていた。体を横に向けると、ベッドの側に机が出されていて、トレイに冷え固まったシチューが乗っていた。

 今は何時だろうかとぼんやりしていると、カーテンが開いた。担任が迎えに来てくれた。少年は怖くて目を背けた。
 すると、担任は屈んで、見上げるように少年を覗き込んだ。

「まだ痛い? 帰りの会には、来れそう?」

 担任の優しい瞳に、少年は安心した。かすれた声で大丈夫と答えた少年に担任は微笑むと、教室まで彼を先導した。

 教室に入ると、幾つもの瞳が少年を出迎えた。少年は足がすくんで動けなくなった。すると視線がさらに集まった。少年は逃げ出したくなった。

 近くの席にいた女の子が、大丈夫、と少年を気遣った。それで緊張が解けた。見渡してみると、無数と思えた視線はまばらだった。少年は女の子に頷いてみせると、席についた。いつも通りの一日を迎えられる気がして、胸が暖かくなる。

 教壇に立ったまま黙っていた担任が、みなさん、と声を出した。生徒の注目が集まると、担任は穏やかな声で切り出した。

「今朝、とても悲しい出来事がありました。……トラコが、死んでしまったのです。
 どうしてトラコが死んでしまったのか、わかりません。けれど、亡くなってしまったのです。トラコと、お別れをしなくてはいけません。……
 みんなトラコが大好きだったと、先生は、よおく知っています。先生もトラコが大好きでした。だから、今日は帰る前に、トラコが天国に行けるように三年一組のみんなでお祈りしてあげましょう」

 途中、担任はなんどか涙の滲む目元を拭った。何人もが頷いて賛成の意を示した。
 担任は少し間を開けて号令をした。

「では、黙祷!」

 辺りがしんと静まり返った。少年も、目をぎゅっと閉じた。

 少年はしばらくなにも考えられなかった。トラコが死んだという先生の言葉が、頭のなかで反芻した。しかし沈黙の中どこかから、トラコ、という小さなつぶやきを聞いた途端、トラコとの思い出が湧きはじめた。

 生きていたころの、暖かかったトラコ。こちらを見つめているとすぐにわかる、意思の強いつぶらな瞳。人参をかじる口の動き。独特の匂い。機嫌の良いときに鳴る、ぷうぷうという鼻の音。……

 少年の胸に後悔が湧いた。昨日、トラコは普段と変わらないように見えた。小屋を出る前に顔を寄せて、また明日と声をかけると、鼻を鳴らして返事をしてくれた。柵の戸締まりをしっかり確認して、鍵を職員室に返して、また小屋に立ち寄ってから帰った。まだトラコは生きていた。死ぬなんて、想像もできなかった。

 腕の中の冷たさと、肉の腐ったような臭いを思い出して、トラコの死を実感した。胸にこみ上げるものがあった。目頭が熱くなった。少年は一心に、トラコのことを思い続けた。

「ガイジン、うそなきやめろ!」

 突如飛んだ罵声に少年は目を開けた。涙に滲む目をこすってあたりを見回した。子どもたちも先生も竦み上がって、荒く息を吐きながら、少年に冷たい瞳ををぶつけている男の子を見つめていた。マサトだった。

 マサトとは、うさぎの世話役を最後まで争った間柄だった。あいこが五回も続く接戦に破れたとき、マサトは涙を流した。彼は去年トラコの世話役をしていた。

 それが友情のはじまりだった。マサトは、折に触れて少年に本で勉強したうさぎの生態やトラコの世話で注意することを教えるようになった。少年が困ったときはマサトを頼るようになるのに時間はかからなかった。マサトは、新しいクラスでできたはじめての、そして一番の友達だった。

 だから少年は、マサトがトラコの死に錯乱しているのだとすぐにわかった。しかし、かけられた言葉の意味がわからなかった。少年はマサトの興奮した赤い顔を見つめた。

「日本語わかるか、ガイジン。わざとないたりすんな!」

 それでようやく、少年は自分がガイジンと言われたのだと気づいた。ぼんやりと、冷たい瞳の正体に気づいた。少年は言い返そうとした。だが喉が引きつり、声が出なかった。

「マサトくん、やめなさいっ」

 震える声で担任は止めた。しかし興奮したマサトの耳は届かなかった。マサトは口を大きく開けて叫んだ。

「ガイジンはおれたちと違うって母ちゃんいっとった。名前だけ日本人でもあいつはガイジンっていいよった! ガイジンやから、トラコころしたことかくしたかったんやろ!」

 マサトの言葉にヒロオが反論した。

「トラコがどうして死んだのか、先生もわからないって言ってるじゃないか」
「お前だってガイジンがやったって思ったやんか、やけん待ちぶせしに行ったんやろ!」

 ヒロオは呻いて、気まずそうに顔を背けた。結局ヒロオも、自分を、ガイジンとしてしか見ていなかったのだと少年は気づいた。

 少年は息を吸おうとした。けれども鼻水が逆流して喉に絡まるばかりだった。マサトは少年に追い打ちをかけた。

「きのうの当番おまえやったやろ! なんでトラコが死んだってかくしたんや!」
「ほんとに、死んで、なかったん、だよ」
「うそつけ! お前がころしたからかくしたんやろ。やっぱりお前がハンニンやんか!」

 まくしたてられている間、少年はずっと、マサトに言い返そうとしていた。本当に生きてたよ。おれなにもしてないよ。おれ、日本語しかはなせないよ。おれ、日本人だよ。……そのどれもが嗚咽に上塗りされ、ついに、一語たりとも発することはできなかった。

「マサトくんっ」
「うるさい!」

 マサトは担任の方を見ず、怒鳴り返した。制止に効果はなかった。邪魔されて、イライラが募っただけだった。

 マサトは自分の振るった暴力の意味に気づいていなかった。子供の持つ残酷な無邪気さで、少年が一番傷つくと感じた言葉を選びとっただけだった。だからなにも言い返さず、泣きわめく少年にマサトはよけい苛立った。言葉を何度か遮られたことで、我慢が限界に達した。マサトは衝動のまま、喚きながら椅子を蹴った。

「ガイジン帰れ! 出てけ!」
「そんなこと言っちゃいけません!」

 遅すぎる叫びが、教室じゅうに響き渡った。
 マサトは驚いて、真っ青になった担任を見つめた。それでようやく自分が叱られていたのだと気づいた。マサトは泣き出した。

「おれ、なにもうそついてないやんか! 悪いことしとらんやんか!」


 ◇


 騒ぎを聞きつけて他のクラスの先生たちがやって来た。学年主任の姿もあった。先生たちは、驚いて泣いてしまった子供たちをなだめながら、みんなに帰るよう指示した。その間学年主任は担任から話を聞いた。学年主任はしばらく考え込んでいたが、担任に指示を出すと、まずマサトを連れ出した。

 しばらくして担任は少年に歩み寄ると、肩を抱いた。少年は促されるまま立ち上がり、目元をこすりながら教室を横切った。

 すれ違う子供たちが少年に向ける目は様々だった。哀れみや騒ぎを起こしたものへの不満、中には無関心もあった。しかしどれも、ガイジンへの好奇心を孕んでいることだけは共通していた。少年は、潜められた冷たい瞳をはっきりと読み取ることができた。

「やってないって、おれ、信じるよ」

 教室を出ようとする少年にヒロオが声をかけた。ひどく薄っぺらく、もろい響きだった。少年はなにも答えず教室の扉を閉めた。

 少年は廊下の角の談話室に連れて行かれた。傷の多い扉から低い声が漏れていた。くぐもっていて、なにを言っているかは聞き取れなかった。

 マサトへの説教が終わるまで待たなくてはいけないらしい。少年は、様子をうかがう担任を横目に、廊下にもたれかかって空を見た。

 曇りだした空に夕陽がかかって、血を撒き散らしたように赤い。トラコの口元を思い出した。胸が鉛のように重たくなった。気だるさが少年の体を覆っていった。
 中からの声が小さくなったころ、担任は少年を部屋に通した。中は埃っぽく、蛍光灯の白い光が不規則に点滅していた。幅は教室の半分より狭く、洞穴のようだった。奥でマサトが何人かの先生に取り囲まれている。彼は泣きながら、学年主任の言葉に頷いていた。

 学年主任は少年に気づくと、マサトの手を引いた。学年主任に従ってマサトが歩み寄ってきて、少年は思わず後退った。しかしその肩を担任が押さえた。少年はマサトと向かい合わざるをえなくなった。

 マサトはしばらくなにも言わなかった。少年に目を合わせず、泣き腫らした目になお溢れる涙を、唇を噛んでぐっとこらえていた。なんどか言葉を切り出そうと顔を上げ、そのたびに、力なく俯いた。

 学年主任が、勇気づけるように彼の背中に手をおいた。そして頑張れと囁いた。マサトは涙をこぼしながら、顔を上げ、少年を見た。

「あんなこといって、ごめんなさい」

 マサトはそう言って深々と頭を下げた。少年は無感動にその様子を眺めた。なにを謝られたのかわからなかった。

 黙っていると、マサトを取り囲んでいた先生の目が少年に集まった。哀れみや同情でごまかされた奥に、冷たい瞳が潜んでいた。
 学年主任は咳払いして、少年の名を呼んだ。

「本当につらかったよね。許したくないって、思うよね。けどマサトくんにはね、濡れ衣を着せられる怖さと、ガイジンって言われるいやな気持ちを、よおく説明してあげたんだ。
 マサトくんはきみがどれだけ傷ついたのかわかって、すっごく、反省したんだ。だからどうか、仲直りしてあげてくれないかな?」

 先生たちが一様に、期待するように少年を見つめた。肩に置かれた手に力が入る。振りかえると、担任が目に涙をこらえていた。

 担任は少年の視線に気づくと目をこすり、まるで許可を出すように頷いた。その口もとには、充実した笑顔が浮かんでいた。

 世界に残っていた最後の光が、冷たい現実に踏み砕かれた。深い失望が少年を襲った。虚しさが口を動かした。

「べつにもう、いいよ」

 先生たちは嬉しそうな声を上げた。マサトも顔を上げ、許された安堵からか、ホッと息をついた。少年は淡々と続けた。

「おれ、日本語しかはなせないし、日本にしかくらしたことないけど、ガイジンなんでしょ。あやまらなくていいよ」

 少年を取り囲んでいた顔がいっせいに青ざめた。担任の手から力が抜けた。学年主任がなにか言おうと口を開いた。

「さよなら」

 少年は遮ると、担任の手を振り払い、薄暗い校舎から走り去った。

 夜の通りを埋める人々が、無遠慮な視線を少年に向けた。少年は冷たい瞳から逃げるように顔を下げた。
 住宅街に差し掛かると、無関係な団欒が道路に漏れていた。世界に広がる無関係な光が、心をずたずたに裂いた。少年は目をつぶった。しかし苦しみからは逃れられなかった。

 マサトの叫びが頭のなかで繰り返されていた。その顔が次々変わっていく。ヒロオが、担任が、冷たい瞳を向けたあらゆる他人が叫び、――最後に、昨日までの自分が叫んだ。

「ガイジン出てけ!」

 少年は鍵の開いた扉を開けて、家の中に逃げ込んだ。笑い声に混じって、異国の声が響いていた。恐るおそる目を開けると、薄暗い廊下にリビングの明かりが漏れ出していた。
 少年は乾いた唾を飲んで、確かめるように声を出した。

「ただいま」

 当然、返事はなかった。少年は目の前の、無関係の団欒に背を向けて、階段を登った。

 部屋に戻ると、宵闇が一面を覆っていた。ベッドの向かいに置かれた棚の上、学校でもらった読書感想文コンクールのトロフィーや写真立てに映る笑顔が月明かりを浴び輝いていた。少年は目を背け、ベッドに横たわった。

 枕に顔を埋めていると、むしょうに泣きたくなった。けれど、涙は枯れ果てていた。

 少年は仰向けになった。視界に広がる薄闇を見つめているとき、これが世界の正体なんだと解った。誰かとつながっていないと逃げられない、底に潜む暗闇こそが。

 ふと少年は、白いカーテンにこびりついた黒い点に目を留めた。ジガバチの静かな死体が朝と同じように、ただそこにあった。

 少年はジガバチに、――そして階下で無関係の団欒を享受する母親に強い羨望を感じた。手の届かないところにあっても、彼らは故郷を持っている。

 では自分は? 少年は、自分が受け入れてもらえる居場所を持っているか自問した。

 今朝までは学校がそうだった。しかしそれがただの思い込みに過ぎなかったことを少年はもう知っている。母は居場所ではない。父は忙しいから、きっとまた我慢するように言うだろう。母方の祖父母とはそもそも言葉が通じない。じゃあ父方の祖父母はと考えて、生まれる前にどちらも亡くなっていたことを思いだす。親戚や、仲の良かった大人を思い出そうとしたが、誰の顔も浮かばなかった。

 トラコの姿が浮かんだ。トラコのつぶらな瞳には希望が残されていた。だがそれも昨日までのことだった。

 頭のなかで、声は響きつづけている。

「どこに行けばいいんだよ」

 答えはなかった。
 少年は目をつぶった。疲れきった体は、間もなく深い眠りに落ちた。
 意識が遠のいていくなか、二度と目覚めなければいいのにと少年は願った。叶うはずがないと、心の底ではわかっていながら。

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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