毒を吐く
血の気が引くというのは気持ちの良いものだ。
ドアノブに引っかけたタオルを首にかけて手でくっと引き締める。目の前の景色がテレビの砂嵐のようにちらつく。手が冷たくなっていき、あ、このまま、と思った瞬間、バタリとタオルを絞めていた手が落ちる。頭がぼーっと熱い、手に血が入っていく。ここから、この場所から何年動けないままだろうか。そんなことを考える。今しがた、別の世界へ挑戦していたことは忘れて、そのままに、この世界を恋しく思う。行ける所まで行ってしまえるのなら、どんなにか楽しいことだろう。冬が近づく日のこと、肌寒い風と月の光が淡く荒れ果てた部屋を照らす。床はゴミで見えなくなっていた。もう何年、食器を使っていないだろうか。このまま生きていくのだろうか。悲しい気持ちにはならない。寂しい気持ちにもならない。なぜならば。
彼女は人生を諦めたのである。
生きることも、死ぬことも、諦めたのである。
およそ真っ当な人生というものには、生まれ、生き、そして死ぬことが許されているものだ。平凡な、という言葉はあれど、個別の経験においては、平凡な人生などというものは存在し得ない。他者のまなざしで、経験の不十分な側面のみを見るから平凡に写るというにすぎない。一人ひとりの生活は個別の生、個別の死があり、個別の世界を形作っている。他者のまなざしで自分をみる、ということを始めるやいなや、真っ当な人生は無色化され、ただのブランドに堕ちる。だが彼女を追い詰めたのは、比較ではない。
彼女は特別過ぎたのである。
子宮が温まってきたことを感じると、ごろりと倒れるように横になった。こんなはずではなかった、とは思わない。このようになることは、彼女には分かっていたのである。自分がどうやら特別すぎる存在であることを思い知ったのは、物心ついてすぐだった。幼児というのは誰でも愛を求め、競い合って自分を可愛く見せようとするものだが、その依存しきった小賢しい生き方を軽蔑する感情が、彼女の最初の記憶であった。
愛を与えぬ者に愛を与える者はいない。彼女は生まれてすぐに孤独になった。しかし、既に彼女は一人で生きていけるだけの力を持っていた。食事は必要とせず、飲食無くとも身体は成長した。何物にも依存する必要がなかったのである。
決定的な事件が起こったのは中学生の頃だった。この年代に入ると通常、自分の知力、体力、倫理観を他者へ見せつける競争を始めるものだ。だが彼女は、内に宿る圧倒的な力を自覚しており、他人の制作物を所有することで、まるで自分そのもののように見せびらかす自尊感情というものの必要性を、理解することができなかった。実際に強いものは、誰かに強いと認められる必要などないのである。ある日、物は試しと、目の前にある山に向かって、何とはなしにふいと手をかざしてみた。すると、山はそっくり吹っ飛んだのである。だがこれは失敗だった。社会が彼女の存在に気付いてしまったのである。彼女のゲノムを分析した結果、一つの事実が明らかになった。
彼女は勇者だったのだ。しかも、人類史上最強の。
そして、倒すべき魔王は存在しない。
勇者というのは血筋ではない。突然変異的に発生し、圧倒的な力で人々を解放する超越者のことだ。かつて魔王が存在した時代には、その抑圧から解放されるべく勇者の誕生は全世界、全人類が望んでいた。魔王亡き後は、その圧倒的武力から国家間の紛争利用の為に待望され、勇者の誕生は国家的祝福であり、国家繁栄の確証であった。大規模なセレモニーを開き、勇者が国家にあり、ということを国際的にアピールするだけで、外交上圧倒的優位に立つことができた。ところが現代、度重なる紛争に辟易とした人類は、面子だけは国際秩序を重んじる法の時代に差し掛かり、あからさまな武力はその顕現でさえも忌み嫌われようになった。そんな時代において、勇者の誕生とは災いであった。長期停滞に陥った世界では、他国から奪うこと以外に成長の道はなく、勇者の存在は各国にとって格好の餌食であった。国際的な決議による非難に始り、あらゆることがこれ見よがしにやり玉に挙げられ、賠償を求められ、各種制裁を加えられ、国際的に孤立、経済は立ち行かず国力の衰退を余儀なくされる。被害者になったものが勝ち、それが法の時代のルールなのだ。だから、国家は勇者の誕生を秘匿するようになった。疑わしい者は隔離して幽閉され、ただ消えることのみが社会貢献とされた。表向きはもう何世代も勇者は存在せず、ただの伝説かおとぎ話としてしか知られてはいなかった。
朝が来るまで寝ているつもりでいた。朝が来ても何もする気はない。部屋は監視されている。幽閉されているとはいえ、抜け出すのは容易いことだ。だが何処へ行こうとも、特に何もするべきことはなく、何も彼女を楽しませるものはなかった。だからこうして、思い出したように、消えてみようと試みる。だが勇者は死なない。使命を終えた勇者は見知らぬ地へと去っていくのだが、そもそもこの時代に使命などない。不幸は少なく、その分幸福も少ない。
起き上がると時計の針は11時を指していた。ぼさぼさのロングヘアーを手繰り上げて、窓を見る。カーテンを通して日光が入ってきているから、今日は晴れらしい。気分はよくない。憂鬱ではないが、何かをする気分にはなれない。昨日は外へ出て、街中を歩いてみた。道行く人々は皆幸福に見えた。誰かを探しているのだが、行くあてはない。SNSで中学時代のクラスメートの動静を調べてみる。誰もが、誰かと会い、愚痴も楽しさも表現することができていた。誰かと何かの出会いがあれば、表現もあり得るのだろう。
もう一度外へ出た。秋葉原へ行く。アイドルがチラシを配っている。あなたは誰。あなた、どうしてそこにいるの、と、問うてみる。不思議な顔が返ってくる。君といたい。愛がほしい。それが本音であるならば、世界に騙されている。自分を騙している。本当にそんなことを考えているの。君は何がしたいの。アイドルは黙ってしまう。自分で考え始める。ここにいたいのか。どこかへ生きたいのか。今、自分は生きているのか。
認識の根本には思考がある。その思考は通常他者によって植えつけられる。その根本思考が誰かの愛などというくだらない代物だった場合、人生は悲惨なものとなる。渇望する愛ほど他者から嫌われるものはなく、嫌われるほどに欲望は強くなる。それは自分の望んだことではなく、誰かが、植えつけたにすぎないことなのである。それを伝えることが、何よりも大事なのだ。そこから先は、その人自身の問題だ。
「あなた、私のことを見透かしたように思っているかもしれないけれど、ことはそう単純でもないのよ。」
後ろから呼び止められる。先ほどのアイドルだ。
「あなたから見れば、私は愛を求める承認欲求の塊のように見えるでしょうね。でも単純に褒められてそれだけで嬉しいっていうことでもないの。カワイイなんて、誰でも言うわ。誰にでも言うわ。好きなことって、最初は楽しいって思いだけだったと思うの。でもいつからか、その楽しさを、共有したいっていう気持ちが出てきて。不思議なものね。気持ちが共有できたとき、麻薬のように楽しさが広がるわ。あっちでもこっちでも、って少しずつ最初の楽しいを広げていって、共有する幅も広げていくの。でも気が付いたら共有することが先にきて、それって楽しいじゃなくなってくる。楽しいことを共有することが目的だから、楽しい理由を自己弁護するようになって、批評とかよんでる。それは批評じゃない。そうして、だんだん自己弁護できなくなってきて、つらくなる。好きなことに殺される。騙されるの。気が付いたら楽しいことが、共有することを通して、自分を示すためのものに変化しているの。そこに映し出される自分っていうのは、他人の眼差しから見た時の自分で、自分が楽しいと感じていた時のものではないわ。だから愛を渇望して彷徨うことになるの。楽しいことを、自分の鎧にしようとしてしまうのは、なんでなんでしょうね。」
脈略のない話が続いている。楽しいこと、つまり幸福の定義にはいくつかの見解がある。最も簡単なものは欲望の充足というものである。望みがすぐに叶う状況は誰もが望むところであるし、必要な定義はこれのみであるように思える。しかしながらこの定義に反対する者たちもいる。欲望の実現は次のより高次な欲望を生み出すだけであり、際限なく渇望が続く状態はやがて苦痛へと至る。それだから、今一つの見解は意志と能力の一致ということになる。結果よりも過程に注目することで違うことを言っているようにも見えるが、知性を有する人類にとって意志は知性の発達と共に肥大化する運命にある。だから成人になる頃には最早自分ひとりで実現できないほどの大それた意志を持つことになることが一般的である。一般意思に国家権力を導かせる共和国において幸福が実現するという結論になるが、これはかつての全体主義国家に他ならない。理念としてはあり得ても、その実際の行動は個人であり、行動の側面では国家と個人が同一であることはできない。だから、欲という観点を捨てた、人格の完成が幸福であるとの見解に至ったりもする。見返りを求めぬ愛、ただ愛を与える者になるという理想。だがこの理想もいつまでたっても実現することはなく、無限に苦痛の茨の道を進むだけの運命が待つ。実現するまでに個体の生命は幕を閉じることが一般的である。ならば幸福を追求すること自体が間違えているというのがもっともらしい答えではある。つまり、幸福とは苦痛でも退屈でもない状態。行動すれば苦痛であり行動しなければ退屈であるのが人間である。苦痛と退屈をより少なくするようバランスをとり、振れ幅を小さくすることしかできない。嫌な気分になる。だがこれがもっともましな答えであるようにも思われる。
「今楽しいのは、」アイドルはまだ話続けていた。
「やっぱりライブかな。大音量で流れる音楽とファンとメンバーとの一体感を感じた時、一番楽しい。」
結論として出てくるのは、結局のところ一つだけである。
全体への貢献。
人類を全体化し、絶対的全体性へと向かわせる。インターネットの登場によって、既にその歴史は始まっている。自分の行為は、その歩みを少しだけ早めるにすぎない。気は進まなくとも、それ以外には使命はない。
勇者は宇宙へ飛翔する。各国が勇者を排除するための緊急配備に動く暇もない。世界を終わらせることは容易い。
「えっと、大きな音楽とともに、かな。」
そうつぶやくと、自分を開放していく。エネルギーの塊に還元された瞬間には、その意志は全体へと向かっている。これでやっと、苦痛と退屈が終わる。
だが、これは毒ではないか。
でも、毒は必要なのだ。