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16:午後12時42分 交戦場所『廃工場内』

 16:午後12時42分 交戦場所『廃工場内』


 俺が飛影剣陽炎を施してからどれくらい経っただろうか。辺りは依然として静まり返ったままだ。この廃工場に来た頃は、周りの木々や鳥のさえずり、虫の出す音、湿った空気などを楽しむ余裕すらあったものだ。だが今の俺からはそんな余裕などすっかり消え去ってしまい、まだ終わらないのかと焦ってしまうほどになっていた。

 なにより耐え難いのは空腹感だった。瑞穂の奴を喰おうと思い、体を睦月に戻してからかなりの時間が経過したはずだ。喰った後でなら幾らでも、なんなら明日の朝までこれを続けてやっても良かった。でも今の状況は、瑞穂を喰えていない。さっきから何度も腹がぐぅと鳴っていた。胃の調子もおかしくて、なんだか痛い。一体彼はいつまでやらせるつもりなのだろう? コンロに置いたヤカンがグツグツ煮えたぎってくるように、俺はイライラをつのらせていた。

 とうとう耐え切れなくなった俺は、術を施すのを止めて工場内に入った。

「なぁ! 一体いつまでさせるつもりなんだぁ! もうそろそろ終わりでいいんじゃねーのかい」

 勢いよく鉄の扉を閉めたので、バーンとうるさい音が響き渡る。やかましい音を立てたのが気に障ったのか、彼は俺に睨みをきかせた。外から工場内に入ると、冷たい錆と木材特有の匂いをいきなり感じた。

「何をしている。仕事に戻れ」と彼は言う。

「だから腹が減ったって言ってんだよ。これ以上続けるのは無理だ」俺は彼に近づきながら反論する。

 視線を巡らせると、カデンツァの腹には何かが刺さっているように見えた。近づいてローブをめくれば、確かに何本かの角が胴体に突き刺さっていた。「へぇ」俺は興味をそそられて、カデンツァの肩に手を置くとグラグラ揺らしてみた。「ウウゥ……!」思ったとおりカデンツァが痛々しい声をする。

「なんだよ、俺には外で仕事させときながら、あんたは中でSMプレイか?」

「それは向こうに帰ったやるつもりだ」彼はカデンツァを眺めながらそう言ったが、次に俺を見た。

「コイツからは、レイスの情報を聞き出そうとしている」

「レイスですって?」

 俺はその単語は聞き慣れたものだった。もっとも日常生活には不必要な言葉であるため、それ自体を口にすることは少なかったが。

「レイスってなぁ、殺されちまって肉体に戻れなくなったモリエイターのことだろう?」

「そうだな。一般的にはそう解釈されている」

 彼の口ぶりは俺を軽くあしらうようで、俺は多少ムッとした。

「それ以外に何があるってんだい」

「……さぁな。それを聞き出そうとしている。お前の言うそれは、とても身近な現象の話だろう。高位のモリエイターは肉体を失っても、魂とエーテル体はくっついたまま、ある程度持ちこたえる事ができる。だから物理攻撃で死んだモリエイターは、炎だけの状態で時間限定の戦線復帰できるわけだ。まぁ肉体から飛び出す前にとどめを刺すから、基本的にあまり見かけないものだがな。……しかし俺の聞きたいのはもっと広義こうぎでの意味だ」

「広義の意味というと?」

「学者共の話では、レイスは朽ちたモリエイターの成れ果てとはいわずもがな。それは一般的な人間の怨念、いわゆる幽霊なんぞとは一線をした存在ということだ。と言う事は、そんなのがはるか昔からいてもなんら不思議ではない。いや、むしろいて当然であると考えるべきではないのか」

「まぁなんとなく分かる話ではあるけど。でも、だからどうしたっていうんだい」

 俺が問うと、彼は視線を俺に当てながら体の向きを変えた。そして腕組して、少しだけ黙った。その仕草を見たとき一瞬だけ、彼がいつも張り巡らせている殺気にも似た冷たい気配が消え去ったような気がした。

「レイスの気配を我々モリエイターが掴む事はできない。だがインビュードハンターならどうだ」

 彼は言葉を続けた。「……」俺は神妙になった彼に対して、言葉を投げかけることができなかった。

「人の怨念は時代を超越する。故に人はやしろ石碑せきひを建て、悪影響を及ぼさぬよう工夫している。そして『それら』の原因になり得る大元は、姿かたちこそ変われど、当時の記憶、思考をそのままに留めている者が多い……。いいかサイファー。『人間』で『これ』なのだ。では自らの炎を理解し操る『碧炎術士』ならば、いったいどれ程この世界に留まっていられるだろうか」

 彼の言うとおり、肉体を失ってもこの世に残っている連中は数知れない。そしてそういった連中は人に害をなす怨霊だと相場が決まっている(もちろん幸福をもたらす奴だっているが、そんなのはほんの一握りにすぎないだろう)。そして今でも残っている怨霊というのは、非情に強い力を持っている……だとするならば、昔から今まで残っているモリエイター、いや碧炎術士ともなれば、一体どれ程の力を有するものなのだろう?

「アンタは一体、何を考えて、いや、何を企んでんだ?」

 俺も彼のように腕を組んで首をかしげた。確かに考えもしなかった事なので、興味をそそられる話ではある。だが残念なことに、やはり俺にとっては別にどうでもよいことだった。しかしあからさまに関心のない態度とって彼の機嫌を損なうのは配慮不足だと思われたので、俺は大人しく彼の話題に乗ってやる。

「……さぁ、なんだろうな」

 彼は薄く笑うだけで、それ以上のことは言わなかった。それから彼は窓の外を見て、次に閉じている鉄の扉を見た。

「ふむ。サイファー、エルベレスの探索隊はすでにこの辺一体を通過したと思うか?」

「今何時ごろだい?」「十三時を回ろうかといったところか」

「なにぃ! 四時間近く経ってるじゃねーか! そんだけありゃーこの県を一周できるだろうよ! もちろんエルベレスだけならの話だが、桜桃県の城壁や、もしくはアストラルガンナーズが支援していた場合なら、二周は堅いぜ!」

「では、とりあえずの脅威は去ったということだな。俺達の移動は日が落ちてからにする。ご苦労だったな、それまでは好きにするといい」

「そうさせてもらうぜー。ったく、一時間遅れの昼飯だ」

(よし、これで食事にありつけるわけだな)彼はカデンツァのそばであぐらをかいて目を閉じた。刃もよくやっているが、暇があれば集中して、保有するアストラル体に神経を張り巡らせ、自らの錬度を高めているのだ。

 俺は早速瑞穂に戻ってくるよう念じると、すぐに室内へ入ってきた。「ここに座れ--」ちょうど部屋の真ん中に背の低い机があったので、そこに座らせる。瑞穂はぽわんとした表情で俺を見上げた。指の関節でこいつの頬を撫ぜると、やんわりと笑った。

「ふふん。これから何をされるかなど既に検討が付いてるだろうに。なんだ、そんなに嬉しいか?」

 撫ぜるのを止めると、またぽわんとした顔をする。

「……」

 そんな顔をする瑞穂を見ていた時だった。なんだろうか、不思議な違和感を感じた。それは少し考えるとすぐにわかった。(そうか。俺はいつも、恐怖に恐れおののく顔と悲鳴を聞きながら食い荒らしていたんだっけ。しかし今の瑞穂は俺の術中にあるから、叫んだりするはずがない。現に今だって、こんなふぬけた顔になってる……弱肉強食。俺は捕食者の立場だ。餌となる人間を追い回して貪るのが楽しいんじゃないか。そんな俺が、恐怖すら感じない肉人形を喰らうというのはどこか腑に落ちない)

 そう考えると急にイラッとした。一番最初に瑞穂を喰おうとした時、こいつにはハッキリとした自覚があった。だから俺もどうやって接近しようかと色々考えたし、抵抗された時は絶対離すまいと心が躍ったものだ。

(それが、こんな術をつかって、こうも簡単に終わってしまうのはもったいない! さすがに術を解くわけにもいかないが。……とは言え、やはり何も言わない瑞穂を喰うよりも、誰にも届かない悲鳴をあげさせ、笑みがこぼれるくらいのささやかな抵抗を振るわせて、でも何もできぬまま、自分の無力さに涙し、絶望のどん底に落ちて、くたびれた肉溜まりと化す可愛い妹の姿を見せ付けさせれば……睦月の野郎はどう思うだろうね? フッハハ、傑作だ! 『その通り』だ、『どう思うだろうね』! 睦月よ!)

 俺の顔にヘビが走るみたいに口が歪んだ。面白くてたまらなかった。高揚感は全身を襲い、顔をくしゃくしゃにする。俺は瑞穂の意識をちょっぴりだけ開放した。すると瑞穂の目は少しばかりだが光を取り戻したかのように見えた。「手を出せ」次いでそう言う。瑞穂は右手を差し出した。か細い指だ。その人差し指をつまむと、『上』へひねった。

「アッああああアアア!」

 瑞穂の絶叫がこだました。

「くっハハハ」俺は堪えきれずに笑ってしまった。笑わずにいられるだろうか! いきなり口の中に唾液がいっぱいでてきた。いいぞ、その声だ。

 隣の中指も上にひねる。

「アアーー!」

(その顔もいい! 実に!)

 俺はすっかり気分をよくして、それから次々と瑞穂の手を変な方向に曲げていった。可哀相に瑞穂は大粒の涙を蓄えていた。こいつの左手は右手を掴む俺の腕に置かれている。本人としては、がんばって俺を振り払おうとでもしているのだろう。

「やぁ、やめて--」

 それからやっと搾り出したような震える声で、そんなことを言った。ゾクゾクゾク……。俺の全身に鳥肌が立った。

(『これ』だ。絶対的な恐怖を確実に振り払えるわけがないであろう懇願の声! そうだ! これを待っていた! これこそが食事というものだ!)

 俺の目線は瑞穂の喉首に向けられた。そして両肩を鷲づかみ、口の開いた顔を迷うことなく近づけた。

 そんな時である。バシュンとやかましい音を立てて俺の左足から何かが弾けとんだ。その刹那、俺の体は高出力のAOFに纏われたのだった。「なんだっ!?」とっさに瑞穂から離れると、我が身に起こった事態を確認する。これは--(『これ』は、『俺のではない』ッ!)

 遠めにいた彼も目を見張った。「ぬ!--」しかし彼の言葉の途中、俺を取り巻く謎のAOFは青紫色の激しい閃光を発し、一瞬にして室内を満たした。




「……おい、睦月--」

 誰かが俺を呼ぶ声がする……。

 肉体をサイファーとかいうオブリヴィオンに乗っ取られてから、一体どれくらいが経ってしまったのだろうか。数十分? 数何時間? わからない。全身の感覚はあるようでない。生ぬるく、真っ暗闇の中を浮いているような、酷く虚ろな状態である。

 俺は文字通り精魂尽き果ててしまった。どうやらオブリヴィオンを抑制するには、膨大な気合と精神力を使うようだ。学校で肉体を支配された時、俺はがむしゃらに抵抗した。この何もない虚無きょむの牢獄に閉ざされてもなお、師匠に言われたような方法であがこうとしていたのだ。しかし、やり方がいけなかったようだ。サイファーは頃合を見計らい、一気にこの牢獄へと俺を押しやりやがった。どうやらここではいつもの方法では駄目なようで、いくらがんばった所で肉体の支配はおろか、指一本動かす事さえできなかったのだ。結局それを知ったのは、家の近くで瑞穂を見つけた辺りだ。その時全力を出して、しかし残念ながら徒労とろうであったことが、俺を失望させ、虚脱きょだつさせた……。あれ以来、俺は力を蓄えられなくなってしまった。意志はあるものの、できないのだ。それはどれほど屈辱的で、歯がゆいものだろうか……。

 それから俺はこうして、どっちが上か下かもわからないような暗闇の中を漂っていた。

 走馬灯と言うのだろうか? 半透明の景色が目の前を泳いでいた。リアルタイムでサイファーが見ている景色はどれなのか分からないが、俺はいくつかの景色を目で追った。例えばイーブルアイと共に車へ乗るところ。森を歩くところ。瑞穂を机の上に座らせるところ--

「目の前にいる、刃の娘を見てみろ」

(なんだと?)俺が眉間にしわを寄せると、いつの間にか瑞穂の右手の指全部が上を向いていた。(なんてこった)サイファーのクソがやりやがったんだろう……しかしながら、どうしたものか、『それだけ』だ。『それだけ』しか思うことはない。本来なら、この野郎よくもやりやがったな、というふうになるのだろうが……俺の感情は風のないみずうみのように、揺れ動くことはなかった。

「助けてやらんのか」

 また誰かの声がした。なんだ? 一体この声は何なのだろう? もしかして、俺の防衛本能みたいなものなのだろうか。それにしては遅すぎる登場だ。

 俺は喋ることがとても億劫な気がして、その問いから数秒をあけて答えた。

「助けて、やりたいさ--」「ではなぜ抵抗しない」

「してるだろうよ--」

 一応、俺は体を動かしてみようという試みを今でもしているつもりだった。

「やはり駄目なのか」

「そうだ、その通りだ……もはや俺にはどうすることもできねぇ。どうすることも……なにをすりゃーいいんだ。力がどこにも入らねぇんだぜ。やり方も分からん。これは……もう、無理だろう--」

「じゃあこのまま、刃の娘がくたばっちまってもいいってのかよ」

「それは不本意だな。でも、無理だ。駄目なんだ。俺にはもう、何もできねぇのさ--」

「くだらん」(……なにぃ?)

「くだらねぇつってんだよ。お前みてーなクズを見てるとヘドが出る。なんだいウジウジしやがって」

(……何とでもいいな。どうせ俺はすぐに消える。何もできずに、無様に消えちまうだけ--)

「アホくせぇ。お前はまだ『いる』。それなのになんもしやがらねぇとは。いいか? 睦月。瀕死の獣ってのは一番厄介なもんなんだ。生きる事に必死なんだ。わかるか? なぁ。この先長くないと知りながらも、目の前の脅威からは負けるわけにはいかないと、その名の通り捨て身で挑むんだ--」

(んな話聞きたくもねぇよクソが……どうせ何をしても無駄だ、今の俺に何ができる? もはや体を動かす事もできねぇ。一体何を? どうしようって? もう万事終わっちまった、奴の……サイファーの勝ちだ--)

「……嗚呼ああクソ! これだから『最近のガキ』は!」

 俺の視界が急にグインと動き、喉首を掴まれたみたいな息苦しさを感じた。

「あぁ! どうした睦月、動かせるじゃねーかよオイ!」

 目の前には……誰かが立っていた。それは誰にも似ていなくて、唯一見覚えのある人物といえば……鏡の中にいる俺だ。でもなんだか老けていて、よく見れば俺ではない。そっくりさんがいた。

 そしてこの野郎が動かせるといったのは、喉首を掴む野郎の腕を俺が押さえていたからだ。辺りは相変わらず暗闇ばかりが広がっていて、俺と野郎は宙に浮いたような感じである。

 いきなり俺は脱力感を覚えた。腕を押さえる動作ですら、今の俺には大変な労力だったからだ。耐え切れずに腕の力を抜くと、奴の腕に持ち上げられた体がだらんと垂れ下がった。その様子を野郎は見たはずなのだが、俺を睨んだままである。

「もう終わりだ、なにをしても。全部だめなんだ」

 俺は既に敗北を感じていた。そしてそれを言葉に出した途端、心のわだかまりみたいなものが消えたような気がした。たぶん俺の中で、この野郎に同情して欲しいと思うところが少なからずあったのだろう。体ひとつ満足に動かせない俺へ、さらに鞭打とうというのか。

 野郎は俺から手を離した。普通なら地面に落ちるが、この牢獄では宙に浮いたままだ。

「ダメか。なにをしてもダメか。そうだな。ダメか。そうだろうよ。今のお前自体、すっかりダメになっちまってる。完膚かんぷなきまで敗北を味わって、一計いっけいを案ずる力すら失われた。手も足もでねぇってのは、俺にだって分かるよ……でもな、睦月。肉体こそ支配されたものの、まだお前の意識はかろうじて残ってるんだ。それは凄い事なんだぞ? こんな牢獄に長時間入れられてたら普通、もう消えてなくなるはずだ。でも、お前はまだいる。存在しているんだ」

 俺は浮いたまま野郎の話を聞いていた。俺だって、なんでまだ意識が残っているのか不思議だ。消えたいと思えばすぐにでも消えてしまうのだろうが、それだけは嫌だった。ただそれだけの理由で、俺は未だに未練がましく留まっているのか? 何もできないというのに……しかし時が経てば、そんな考えすら消えてしまうのだろう--

「それくらい『お前って奴』は、強いんだ。たとえこんな牢獄にぶち込まれても、隙あらば牙をむこうとしている。今は前回からの失敗続きで、億劫になっちまってるだけだ。ほんの少しの、ちょっとした好ましいきっかけさえあれば、お前は前みたく力を取り戻せる。取り戻せるとも! だから俺が声をかけたんだ。お前にはもっと生きていて欲しいからな。それにそう思ってるのは俺だけじゃーない、みんながそうだ。睦月。お前の仲間、全員が」

 目の前には俺の思い出みたいな景色がいくつか現れた。知った顔ぶれがコッチを向いている。野郎もしばらく黙り、それらを眺めていた。

「いいか? 睦月。 お前はもう連中と会えないって思ってるんだろうが、そんなのは違う。会えるさ。必ずな。どうすりゃいいのかは言うまでもない。睦月が、もう一度、集中すればいい。ただそれだけだ。造作もないことさ。ここは睦月の、おまえ自身の牢獄なんだ。ほら、辺りに気をやってみろよ。真っ暗に思えるだろうが、ドコまでも見通せるはずだ。そして必ず突き当たりはある。無限に広がってなどいやしないよ」

 静かな口調で俺をさとす。その言葉は、俺の心に染み込んでいた途方もない不安の陰りを取り除いてくれるようであった。

 俺は周囲に気配を巡らせてみた。だが、すぐに止めてしまった。それというのも、暗闇の奥にいけばいくほど周りが見えなくなり、体が冷たくなるのを感じたからだ。何より、意識を飛ばしてしまうと野郎と離れることになる。何故かそれが嫌だった。えらく久しいと思える他人との会話だったので、一人になってしまうのが、なんだか怖かったのだ。それから何度も試したのだが、やっぱりだめだった。怖いというのもあるし、寒気さむけがするのも恐ろしい。それは感覚をともなわず消滅するとは違う、苦痛によってもたらされる死のイメージがあったからだろう。

「だめだ、なんにも見えない」

 俺は弱音を吐いた。それは本音だ。何故かこいつには、自分の弱さを見てもらい、慰めて欲しいと思えていた。何でかはわからない。多分、本当に俺は参っているんだろう--

「大丈夫だ。お前は消えやしない。俺が見ているぞ」

「だけど……なんかやっぱりだめだ。何度やっても。まっくらなんだ」

「大丈夫だって。集中してみろ」「やってるんだよ、精一杯。でもよ--」

 俺はあと一言だけ優しい言葉をかけて貰えたならば、どこまでも見通せるような気がした。それこそ捨て身になって、自分が消えてもいいと思えるくらいに。しかし俺がいつまでも弱音を吐いていたせいか、だんだんと野郎の口調が荒っぽくなるのが分かった。俺の聞きたい言葉とはま逆である。おかげで、俺のモチベーションは徐々に下降していった。もっともこうなる原因を作ったのはウジウジしていた俺のせいなのだが、今となってはもう遅い。一時は野郎のそばにいると安心感すら覚えたものの、今ではすっかり嫌になってしまった。早く消えて欲しい。それが叶わないなら、逆に、俺が消えてしまおうか?

「睦月。時間をかけてやりゃもっと楽なんだろうが、残念ながら俺に残された時間は少ない。今しかないんだ。それに、お前一人じゃ絶対無理だ」

「なんでんなそう言いきれるんだ。大体お前は一体何者--」

「余計な事は考えるな。集中しろ」「俺の質問は完全スルーかよ……」

「それは--」野郎は一瞬たじろいだように思えたが、すぐに言い返してきた。「そんな事はいずれ分かる。絶対にな。でもここから出なきゃ、永遠にわからんだろう」

「……話にならんな」俺はワザとらしくため息をついて、心底がっかりした。

「この--」

 悪態をついた俺を見て、野郎が叫んだ。「ガキが!」

 そしてあろうことか、そう言うやいなや俺のどてっぱらにボディーブローをぶち込みやがった。「フッグ!」俺は堪らず声を漏らす。野郎はそんなのお構いなしで、体制の崩れた俺の背後に回り込むとヘッドロックをかました。

「話にならんだとォ! そうなのはお前の方だろうが! 自分のことは棚に上げて、求める事しかしない! お前の子供じみた御託ごたくを聞いてる暇なんぞねぇ、言ってるだろうが、時間がねぇんだ! これ以上余計な事をぬかしやがったら、俺はお前を見限る! わかったな! オラァ! よく見やがれ!」

 突如としてブチギレてしまった野郎の怒鳴り声と共に、俺の顎が無理やり上げられる。目の前には瑞穂がいて、俺からいいように弄ばれていた。

「いいか! 刃のむすめがこんなふうに蹂躙じゅうりんされてくたばっちまうのは、『いいか』。お前のせいだ。なんでだかわかるか!」

「て、てんめぇッ--」

「わかるよなぁ? お前は今みたいに、なにもできないよ~、とかくだらねー御託ごたくを並べて、塞ぎ込んでるだけなんだからよォ!」

「う、うるせぇ。どうしろってんだ--」

 俺の目の前にあった瑞穂の姿は消えた。だが、半透明の景色がまたすぐに現れた。こんどは正光がいて、サイファーを持った俺から斬り殺されるシーンが映し出された。

「このまま放置すりゃ、次にくたばるのはお前の友人だ! 睦月! お前のせいでな!」

「やめろ! こんなもん見せるんじゃねぇ--」

「はん! よく言えたもんだな、えぇ! こいつぁぜーんぶ、お前が想像する事態だ! そしてお前はこんな一大事を想像しておきながら、ふて腐れて寝てやがる! 何故ってそりゃー、不甲斐ない睦月君は、力不足のために、自分の体を取り戻す事ができなかったから。だろぅ! あぁ! どうだい!」

「黙りやがれ! お前は--」

 目の前では、正光を殺した俺が辺りを見回していた。そして目に留まったのが師匠だ。俺は流暢りゅうちょうにサイファーを構え、師匠も同じ構えをとるが……俺にはわかっていた。予想できていたのだ。師匠の背後から静かに近づく、イーブルアイの存在に。

「よっ、よせーーー!」

 俺は想像の中の師匠に叫んだ。イーブルアイは刀を抜き、一瞬にして近づくと師匠を貫く。

「なんてこった、刃。可哀相に--」

 背中越しに野郎もつぶやく。

 しかし、師匠はそれで終わらなかった。背後へ向けて刀を振るうと、強引にイーブルアイを引き剥がす。だが胸部に受けた致命傷のため、地面にひざまずいてしまう。

「師匠……」

 俺は目の前の景色に見入ってしまい、嫌な動揺と共に泣きそうになっていた。師匠が死ぬ。俺のせいで。

「おいクソガキ。見ろよ、刃の目。あの目をよーく見ろ」

 野郎の声に反応を見せなかったが、俺は言われたとおり刃の目を見た。その目はまだ諦めてはいない目である。致命傷を受けてしまい、明らかに劣勢で活路すらなく、身動き一つできそうにない状態なのに、刃の目はまだ死んではいない。

「いいか。多分次の一手は、どうやっても刃にはさばききれないだろう。ほぼ百パーセント刃の負けだ。それでもまだ、あんな目をしてやがる。まったくどうかしてるぜ、狂ってるよ。莫迦だぜ。アイツは死ぬのが怖くないのさ。死よりも怖いのは誇りを失う事だ。……そして、お前は。それを失っている」

 俺を呼ぶのと同時に、野郎は強く言った。俺は瀕死の師匠を見つめるあまり、言葉を返す事ができない。

 野郎がまた腕に力を込めた。「グオッ!」またしても俺はうめいてしまった。

「ったくよォ! 紫電もなまっちょろく育てたもんだ! やいクソガキ! 俺はアイツみたいに優しい言葉なんざかける気はサラサラねぇからな! 悲しい時は泣けなんて言葉は嘘だ、悲しいならいかれ! 激怒しろ!」

 眼前にある半透明の景色は目まぐるしく変わった。どれも俺の仲間が無残に殺されていくシーンが移っている。

「お前のせいで全員が死ぬ! お前のせいでだ! 無様に! 全員がくたばっちまう! それを甘んじるわけかァ! ぬるま湯のおぼっちゃんよォ!」

「ふざけんな! 俺に何ができるってんだ!」

「ハッ! 何ができるだぁ! いかる事もできねぇのか、ガキが!」

 言われるまでもない。さっきから言いたい放題の野郎にはとっくにキレている。

「うるせエエエエエーー!」

 俺が野郎の腕を引き剥がしかけると、野郎はなんとAOFを展開させて束縛を継続させようとした。

 野郎に対抗すべく、俺もAOFを展開する。……驚いた事に、サイファーにあらがおうと一人でAOFを展開させた時は酷い倦怠に襲われたものだが、今回それはなかった……もっとも、今やサイファーのことなどどうでもよく、俺はただ背後にいるクソ野郎をぶち倒してやろうとしか考えていなかったのだが。

 二人のAOFから発生したアストラルストームは、周囲の暗闇を流動させるようであった。まるで大時化おおしけの海原の如く、辺りの空間が激しく入り乱れる。同時に、それは俺の心境も同じであった。そして不思議と活力が沸いて、高出力のAOFを展開することで感じる疲労すら、清々(すがすが)しいと思える。

「非力だなぁ睦月!」耳元で野郎が吼えた。俺の喉首を締め上げる力はより一掃強まる。「どうした! 俺の腕一本動かせねぇのか!」「ぐっ、くっそがァァッ--」

 挑発に乗って出力を最大限まで強めた時、俺はハッとした。俺が発生させたアストラルストームが牢獄の一番端っこまで到達したのを直感したからだ。この牢獄は野郎の言う通り無限ではなかった。行き場をなくしたアストラルストームは、牢獄内で勢いを増し続ける。しかしそれでいて、未だに俺は野郎の腕をぴくりとも動かせずにいた。それが悔しくてたまらなく、俺は高出力を維持したままAOFの整波性せいはせいを強めようと試みた。その行いはイマジネーターならでわの特技みたいなもので、AOFの硬度と肉体強化が高められる。物理的な力が増すことで、野郎の腕がより引き剥がしやすくなるわけだ。

 目の前にはまだ先ほどの景色が残っていた。しかしアストラルストームの影響からか、はたまた俺の激情によってかはしらないが、酷いブレを起こしている。だが映っている内容は変わっていない。師匠を挟み込むようにして俺とイーブルアイが立ち、ジリジリと距離を詰めている。

「睦月、いいのか! 刃が殺されちまうぞ!」

「いいわけねえだろうが!」

「ハハー! その通りだ、睦月! よく言った!」

 野郎の言葉にすぐさま反論したのだが、野郎は何故か、いきなり肯定をしめした。

「ここまでくりゃーあとは分かるだろう、お前の知りたがっていた『やり方』ってのがな! もう小賢しく肉体の支配権を取り戻そうなんて考える必要もねぇ、このクソも面白くねー牢獄をぶち破ってみせろ!」

 風景の中で俺が動きを見せた。それはほんの些細な動作に過ぎないものだったが、俺にはわかった。あれは殺しに掛かる動作だ。それを見たことで俺は更に力む。すでに牢獄の中は強烈なほど圧力が加わっていたので、覆っている外壁にビシビシとひびが入り始めた。その箇所からは眩いほどに金色の光が差し込んでくる。俺と野郎を照らし出すその光はなんとも暖かく、『ここから出られる』という希望を十分なくらいにもたらしてくれた。

(あと少しだ!)そう思いながらも、俺は風景を凝視していた。(絶対に抜け出してやる、この中からっ、絶対に!--)風景の中で、俺とイーブルアイが同時に動き出した。その標的である師匠はピクリともしない。俺は目を見開いた。

「さァァせるかああああアアアアアーーーー!」

 俺が叫ぶと、周囲を渦巻いていたアストラルストームが一斉に外側へと風向きを変え、外壁を完璧に吹き飛ばした。俺は光に包まれて、目の前が真っ白になった。




 光が消えた途端、俺は強烈な重量感を感じて、両手とひざを地面につけた。さっきまでは暗闇を浮遊している状態だったので、俺はどうやら立つ事を忘れていたようだ。(む! いや待て、地面があるだと! ということは--)

「うおォッ!」

 眼前には瑞穂がいた。小さな体を震わせながら、自分の右手首を左手で掴んでいる。

「お前は瑞穂かっ、では。正光は、師匠は!」

 俺の頭は多少混乱していたが、嬉しいという感覚がどこからか湧き出していた。それはさっきまで、味方が殺されてしまうところを見せ付けられていたからだ。なんというか、タイムスリップしたような気分だ。(まだ師匠も、正光も、瑞穂も。『殺される前』か!)

(来たぞ--)その喜びもつかの間--(AOFを展開しろ--)野郎の声が頭に響いた。(右からだ)瑞穂の恐怖におののく顔もそちらを向いていた。その瞳には接近するイーブルアイが映っている。

 言葉なくして俺はAOFを展開(実際は既に展開されていて、俺はそれに気づいていなかった。再展開させたかたちとなる)、抜刀し、インテュイントが呼びかける危機に向けてやいばを振るう。一手目、左の上段は牽制。二手目は再度左からの逆袈裟斬り。三手目はやいばを返しての中段。その全てを的確にさばききれたが、何故か俺には余裕があり、イーブルアイが放った三手目の次に攻撃を割り込ませることができた。奴はピョンと跳躍して距離を取る。それは楽勝で回避されてしまったが、剣で防がず遠のいたということは、出鼻をくじいたというわけだ。

(なんだ……この感覚は)

 今のやり取りは実に二秒くらいだったものの、所要時間の問題ではない。俺はまさしくこの瞬間、驚愕したのだ。イーブルアイ相手に余裕を持っていられるとは。それに、驚くべき事はそれ以外にもある。

 まずこのAOFの出力。どういうことだろう、いつもの数倍以上ではないか! よく見るとAOFには若干『赤色』が混じっており、紫色になっている。ついでに、何も考えずに抜刀したわけだが、この剣。

(こいつは、サイファーか!)俺は右手に持つ剣をチラ見した。(そうだ)野郎がすぐさま肯定する。

(お前はあの牢獄を完全にブチ破った。それほど勢いある魂を、オブリヴィオン風情が押さえ込めるはずがない。それこそ奴は、自分が消えてしまう事態を想像する暇すらなく、消滅しちまったろうよ)

(てことは、俺はサイファーに、オブリヴィオンに勝ったというわけか?)(その通りだ睦月。よくやった)

 俺と野郎は長々と会話しているように見えるだろうが、実際は一秒も経ってはいない。奴とのトークは言葉で言い合っている訳ではないが、後で思い出そうとすれば、きちんとした言葉として思い出すことができるだろう。なんというか、雰囲気でそう思えるような感じだ。

(このAOFは--)(コイツはお前がエーテルドライブした証拠だ)俺が考えると、すぐに返事は返ってきた。(俺が? エーテルドライブを? しかし、普通は金色になるはずだが)

 多少驚いたが、不思議と俺は冷静だった。目の前にはイーブルアイがいるので、それどころじゃないからである。

(金色になるのが一般的だが、オーラの色は人によって違う。気をつけろよ、コイツを展開するってことは、エーテル体も消費し続けるってことだ。分かるな)

 俺の脳裏には、以前正光がエーテルドライブして昏睡状態になった時の姿がよぎる。

(アストラル体のソウクはもちろん、エーテル体の肥大化にも目を光らせておかないと、酸欠では済まされない、即死級の事態を招くってわけか)(そうだ。エーテル体の含有量がんゆうりょうが少なくなれば、その分魂も小さくなる。結果として、パトス不足、エーテル体の肥大率低下、身体機能の停止なんて悪循環が起こる。しかも今のお前には、エーテル体の肥大化を促進させるなんて芸当はできねぇ。行動とエーテル体のリチャージを、上手く天秤にかけろ)

(言われるまでもねぇ)

 視界の端っこで瑞穂を捉えた。すると、なんともいえない後ろめたさみたいなものを感じた。どうしてアイツがこんな目にあわなくちゃいけないのだろう。(クソ!)全ては--(全ては俺のせいだ、俺が! クソ! どうしてもっと早く出てこれなかったんだ!)

(言うな! 睦月。何もお前だけのせいではない。刃のむすめにだって悪かった部分はあるさ)(なんだと)(アイツは無防備すぎる。警戒心の欠片もない。だからお前の体をいいように使われて、こんな結果になったんだ。今回の件は、いい薬になったろうよ)

(ちがう、『そうじゃない』! 『アイツはそれでいいんだ』、薬なんかいるか!)

(いいや睦月。ダメだな。……お前の言いたい事はわかるが、『俺達』に必要なのは力だ。優しさじゃーない。そうだろ? では優しいだけのカス野郎に一体何ができる? 何が? そんなもんはゴミだ、負け犬の言い訳みてーなもんだ。力のない奴は死ぬ。それこそ、上の連中からいいようにされてな)

 野郎の言葉は……俺にとっても正論だった。ムカつくほどに俺と同意見のことを言う。普段の俺だったのなら、「その通りだな」と肯定してしまっていただろう--しかし今は、そう思わなかった。何故だろう? いつも以上の力を俺が今持っているから天狗になっているのか? それとも牢獄を抜け出し、ピンチを脱した高揚感からそう思えるのか? 答えは分からないものの、だが確かに、俺はその言葉を否定したかった。

(違う。瑞穂みてーな奴は必要だ。たとえ力がなくてもな! アイツは確かに莫迦だ。お人よしで世間知らずの垢抜けないガキだろうよ。しかしだ、アイツは……瑞穂は、ちゃんと他人のことを考えられる奴なんだ。自分だけじゃない、周りを、大事にできる。俺にはできねぇ……俺が剣を折られてへこたれてる時だって、アイツがいてくれたからどうにかやってこれたんだ! 不機嫌な俺からさんざん嫌味言われても、アイツは俺を見捨てないでくれていた! そんな奴をっ、カス呼ばわりすんじゃねえ!)

 言葉を繋いでいると、なんとなく俺の答えのようなものが分かった気がした。やはり『必要』なのだ、そういった人達は。俺には他人に優しくする事なんてできない。だから力を欲し、それで他人に優しくする必要も、される必要も無くしてしまおうと考えていた。

(ほほー、自分のケツすら拭えねぇカス以下の雑魚から、足を引っ張られてもいいって訳かい?)

 俺の反論を聞いてもなお、野郎の態度は変わらない。(いいさ)俺の考えはまとまった。もう折れることはない。

(俺はそのお前の言う雑魚から生きる『力』をもらった。命を救われたようなもんだ。だからソイツのためになら、命を懸けてやってもいい。もともとソイツから救われたんだ、ソイツがいなかったら、今の俺だっていやしない)

(ふーむ! なかなかにして言うじゃないか、睦月よ。どうやらお前にも、力を欲する理由ができたみてーだな。それでいい! その弱くせぇ連中は、お前みたいな奴の背中を見て成長する。そしてお前は、力を持つことで少しずつ回りに目が行き届くようになる……いいか睦月。今言った自分の言葉を、決して忘れるんじゃーないぞ。俺との約束だ)

(……)

 一体この野郎はどういうつもりなんだろうか? わざと嫌味を言って、俺を奮起させようとしたのか? もし俺が逆方向に走っていったらどうするつもりだったのだろう。まったく喰えない野郎だ。

 俺は今度こそ、しっかりと瑞穂を見ることができた。指を折られた程度じゃ死ぬ心配は無いだろうが、拷問にも似た陵辱を受けた。気立てが優しいぶん、もしかしたら心理的に大きな打撃を受けたかもしれない。

(まったく、コレだから女子供ってやつは脆いよな。……おいおい、冗談だ。怒るな。もう野暮なことは言わねーよ。悪かったな……まぁ、だからだ。睦月。『力』を欲せ。そしてお前が、守るんだ)

 俺はイーブルアイへと顔を向ける。奴は眉間にしわを寄せて険しい表情をしている……ひょっとしたら思い違いかもしれないが、なんだが少し焦ったような、戸惑とまどった感じに見えた。何故そんな顔をしているのだろうか。そういえば確かに、俺とイーブルアイは数十秒の間動かないままでいた。だから俺は現在の状況を確認できたのだが、その間奴はずっとその顔だった。奴もなにか思うところがあるのだろうか。

「何故だ--」

 奴は得物を構えなおして言う。やはりその言葉は戸惑いを含んでいる。

「お前は、紫電の血族だというのか」「なに?--」

 俺は奴の言った事が少しの間理解できなかった。

(どういうことだ、奴は何をぬかしてやがる)

 そう聞いてみたものの、こういう時にかぎって野郎は一言も喋らない。(てめぇ、やっぱり何か隠してやがるな……)やはり無言だ。(クソ、いいだろうよ--)

(よせ! 語る舌を持つな)

 次に俺が何をするのか察したのか、野郎は言った。だがもう遅い。(ふん。だんまりをこく野郎には何を聞いても無駄だ)

「よくわかったなぁイーブルアイよー。ご褒美として、どうしてそれがわかったのか理由を聞いてやるぜ」

「……」

 俺はそう言ったが、何故か奴は黙った。俺の声だけが空しく室内に響き渡り、結局静かになった。(なんだこれは。なんつーか……すべったのか俺は)

「フン」

 イーブルアイはちょっとだけうつむくと目を細め、鼻で笑った。

(あ、あの野郎。俺を笑いやがったぞ)俺はある程度恥ずかしかったので、奴に対する怒りはあまり湧き起こらなかった。(当たり前だ莫迦野郎。余計な事を言ったせいで、奴はお前が自分について何も知らないと悟っちまったんだ)(なにぃ!)

 どうやら、ここぞという時に余計な事を言ってしまったようだ。イーブルアイは目を開けて顔を上げる。その表情から戸惑いは消え去っており、冷たく突き刺さる殺気にも似た眼光を放っていた。

 俺もその目を見て構えをとる……不思議なことに、何気なく構えたそれは飛影剣、龍のツガイであった。いつの間にか俺は、左手にもう一本のサイファーを出していたのだ。

(いいぞ。常に奴より有利な構えをとれ)野郎が言う。我剣流に対して有効なのは飛影剣だ。本来なら得物は両刃刀形態になるはずだが、俺はこっちのほうが得意なのだ。

 数秒間、静寂が辺りを包んだ。AOFによって攪拌かくはんされたアストラル体のうねる音が響く。

 その音がちょっぴり静かになった時……ふと、俺はイーブルアイの後方にぶら下がっている何かを見つけた……それは今までボロ布か何かが引っかかってるとばかり思っていたのだが--

(なんだ? 両端から鎖が伸びてるけど、布ん中は……手首?--)

 俺の目線がイーブルアイからそれた瞬間、奴が突進した。(来たか!)俺は目線こそ布きれに向けたがそれは『わざと』で、奴にキッカケを与えてやったのだ。俺もAOFを背中から噴射して突進する。

飛影龍牙双走ひえいりゅうがそうそう!」「我剣滅龍葬牙がけんめつりゅうそうが!」

 俺は突進と並行へいこうして地面から二メートルほど浮き上がり、二本のサイファーによる空対地の振り下ろしを放つ。それに対してイーブルアイは地面をそのまま疾走、足元をえぐるほどの威力を持つ斬り上げを放った。残念な事にこの場合イーブルアイにがある。(『よしッ』!)しかし俺はそれを予想していた。サイファーは本体ではなく、奴が両手で握り締めている恐ろしく長い野太刀にのみブチ当たる。「スレイブエッジ!」

 空中で斬り上げをさばき、スレイブエッジを六本、イーブルアイの周囲六十度で囲むように設置した。俺はさばいた反動を利用して、前転するようにイーブルアイの頭上を通り過ぎる。「!」奴はそれが設置されたのを捉えると、一瞬だけ目を大きく開いた。

 俺が『サイファーの席に座った』となれば、当然サイファーの能力も俺のものとなる。それは以前ホイットニーから聞いた通りだった。俺にはスレイブエッジがどのような過程でモリエイトされるかが手に取るように分かり、実際に使用できたのだ。

 透明なクリアグリーンの切っ先がイーブルアイ目掛け飛来した。立体で包囲されたイーブルアイに逃げ場はないのだが……イーブルアイは無言のまま得物を鞘へ収めると、瞬く間に全方位のスレイブエッジを居合い斬りの連打で叩き落してしまった。

「なにィーマジかよ!」(莫迦、今だ、あそこを狙うんだろ!)俺が驚いていると頭の中で野郎が吼えた。でもあんな速技を見せられた俺は臆病風に吹かれて、とても間合いに飛び込む気になれない。

 体勢を立て直したイーブルアイがこちらに突っ込んでくる。「来た……ッ!」俺はまたAOFを噴射して地面から足を離した。

 俺の我剣流では本家であるイーブルアイに到底かなわないだろうが、我剣流の脆弱性を、飛影剣の習得にあたりなんとなく理解していた。

 我剣流には便利な地対空の技が揃っているものの、それはほとんど飛影剣用に編み出されたされたものだ。しかし飛影剣にも、それらに対する対抗策が練られているので、先ほどのように絶対うち負けるであろう技のぶつかり合いでも、対策をとれば弱点を逆手に取ることが可能だ。しかもうち負けたとはいえ、龍牙双走は陸戦をおもとする我剣流にとってかなり嫌らしい攻撃である。

(弱点を知ってるからこそ空中戦をしてやるぜ!)

 地走して攻撃に転じる際は鋭く跳躍するイーブルアイに対し、俺は滞空しつつ剣舞を舞う。もちろんAOFは無限ではないので、息継ぎのために着地しなければならない。その隙を攻撃されないようタイミングをずらしたり転がったりするわけだが、空中戦をすると意気込んだにも関わらず、俺は飛影剣の致命的な欠点を自らが披露してしまった。

(畜生ッ、狭いなっここは!)

 天井が高く広々とした工場ではあったが、それでも室内での空中戦は限度があった。等間隔で並ぶ鉄柱は、移動の際に邪魔くさくて仕方がない。我剣流に対して空中戦は有利だが、地の利は我剣流にあるようだ。(では、外におびき出してやろうか?)そう考えたものの、すぐにダメだと思った。何故なら室内には瑞穂がいる。俺だけ逃げれば、奴は瑞穂に矛先を向けるだろう。どうやら瑞穂は自力で部屋の隅に行ったようだが、放心状態のようで、気を利かせて外に逃げようなどと考える余裕は無いみたいだ。

「飛び回るスズメが--」

 立ち止まったイーブルアイは野太刀を左に向けて腰を低く構える。それを見た俺はゾクリと鳥肌が立った。

(左に回りこめ!)「我剣、獄将迅ごくしょうじん!」

 海中を泳ぎ回る魚のように機敏な空中制御を行う俺に、イーブルアイは恐ろしいまでの加速で接近、そのまま斬り抜けをかます。野郎の的確なアドバイスがありながら、俺は速すぎるそれを見切れなかった。「ぐあガッ!」エーテルドライブしているはずのAOFを容易く切り裂いた奴の切っ先は、俺の両腕の肉を深くえぐり取る。そして後方に吹っ飛ばされたが、その先には鉄柱があり、そこまで把握していなかった俺は勢いよく激突した。

「今の感触……フン、盾のようなものをモリエイトして防いだか。よく反応できたものだ……だが!--」

 よけられないと悟った俺はすかさずカウンターシールドをモリエイトしたが、イーブルアイの得物はそれすらも貫通したようだった。(しかしこいつがなかったら、胴体がくっついちゃいなかった……防御した反動で距離をとろうとしたが、まさか、吹っ飛ばされた先に。くそったれ、鉄柱があるなんてよぉ……!)

「死ねエエエエエーー!」

 背中を強打した俺は、まだ立ち上がれてすらいない。イーブルアイは間髪いれずにこちらへ突っ込んでくる!「やべぇ--」立ち上がろうとした途端、こんな時にめまいが起こった。(な、なんだ--)

(AOFを持っていかれたせいで、エーテル体も一緒に消失したんだ。どうやらお前のエーテルドライブは機動力をいちじるしく強化するようだが、整波性の強化はいまひとつみたいだ。まさか一撃防いだだけで、これほど消耗するとはな……!)

(まずい、この場を動かねーと--)(いや、『この場所でいい』。迎撃しろ!)俺は一刻も早い離脱を提案したが、頭に響く声は反撃を即した。(理由はすぐ分かる、ぶち込め!)その言葉に不思議な確信を覚える。俺は覚悟を決めた。(スレイブエッジ!)

 背中にそびえる鉄柱。これの裏側にスレイブエッジを八本モリエイトした。イーブルアイからは死角となり見えないはずだ。同時に射出させてる暇は無いので、とにかく出来た奴から左右ランダムに射出させた。

「喰らえエエェ!」

 隠しだまのスレイブエッジは、俺がイーブルアイの射程に入る前に到達した。だが奴は突っ込み速度を落とすことなく得物を振るう。緑色の破片を辺りに撒き散らしながら、スレイブエッジは一本、二本と、次々に打ち落とされてしまう。俺はその間にがんばって立ち上がろうとしていた。

 全て打ち落とされる頃には、既にイーブルアイの射程距離内であった。「クソッ--」またしてもよけきれないと思った俺は、再度カウンターシールドをモリエイト--「遅い! 我剣斬刹刀がけんざんせつとう!」

 我剣斬刹刀は左に斬り払う逆袈裟斬りから右の横薙ぎに繋ぐ、一手にして二手の殺人技だ。その初速は凄まじく速く、次の瞬間、俺の体を四分割にしたどころか、後方の鉄柱すらも貫通、切断していた。

「ぐッぬ……!」

 あまりのスピードと威力に、俺は驚愕の表情を浮かべたが--

「なに--」

 俺の体が鏡でも割ったかのように粉々に砕け散った。さすがのイーブルアイも驚いたようで、その足をほんの少しばかり止めた。

(どうだ、すぐに分かったろう)野郎が言う。俺はイーブルアイの真上に滞空していた。(なるほど。スレイブエッジの破片で視界をさえぎって、その隙にクリスタライズで俺の偽者を投射させるか。でもとっさにこんな方法を思いつくなんて)(お前のAO、クリスタライズならできると思っていたさ)

 すぐ真下に隙を晒した奴がいる。確実に一手ぶち込める距離だ。俺は二本のサイファーをくっつけて両刃刀状に変形させ、急速に降下する。まだ奴はこちらを向いてはいない。

飛影操糸断ひえいそうしだん!」

 サイファーの切っ先がイーブルアイのAOFに到達した。(もらった!)直撃を確信した俺だったが、切り裂いたイーブルアイのAOFから、突如として竜巻のようなものが発生した。それは俺のインテュイントでは拾い上げられないほど突然現れたもので、気づいた頃には俺を通り過ぎて、同時に体の右半身が強引に持ち上げられる。

「なッ……なんだとオオオオオオーー!」

 突風にあおられた俺は空中できりもみ状態になった。そして走り抜けた鋭い痛覚……鋭利な刃物で斬られたような切断面を残して、俺の右腕が綺麗になくなっていた。切り傷はそれだけでなく、突風を喰らった右半身には無数の切り傷が残されていた。イーブルアイはやっとこちらを振り向く。奴は笑っていた。(なんだッ、今のは!)

(そんな莫迦な、今のは……我剣流ではない……イーブルアイのAOだ。奴も我剣流だけでなく、自分のAOを使ったんだ)頭に野郎の声がする。何故かその声を聞くと、酷く動揺しているように感じられた。

「莫迦め--」

 イーブルアイが無防備になった俺めがけ得物を振るう。今の俺には左手しかない。「サイファアアアッ!」きりもみになりながらも俺は左手にサイファーを再度モリエイト、横に伸びた柄を握ると、イーブルアイの一手をトンファーのように腕で受け止めた。サイファーは諸刃なのだが、自分がモリエイトしたAOは本人を傷つけたりしないので、そのやいばが自分の腕にめり込むような防御行為をしても大丈夫なのだ。互いの得物が激しく火花を散らす。

「我剣崩!」

 次いで俺は防いだと同時に我剣崩を使った。本来なら相手の反動を増大させる技だが、アレンジしてその反動を自分へ帰ってくるように仕向けたのだ。物凄い衝撃が俺の体を吹っ飛ばして、イーブルアイから距離を離すことができた。しかし右腕を失った体は不安定で、上手く空中制御ができない。俺は変な風に滑空して着地した。

(や、『やっちまった』、俺の、利き腕が--)俺は考えもなしに吹っ飛ばされた自分の右腕を目で探した。ブジュリと嫌な音を出しながら、俺の右肩は鮮血を水鉄砲みたく吐き出す。(動揺するな! 来るぞ!)フラつく俺に叱咤の声が飛ぶ。何度かまばたきをすると、イーブルアイがここぞとばかりに接近してくるのを見つけた。(飛べ!)

 俺は野郎の指示よりちょっと遅れて跳躍した。滞空していればイーブルアイの攻撃をある程度制限させることができる。しかし右腕がないとAOFを均等に調整するのが難しく、五体満足の時のような巧みな空中制御は困難だった。

 地走しながらイーブルアイは俺に揺さぶりをかける。(ぐ……やべえっ!)焦った俺は奴の動きに翻弄されてしまい、着地際に接近を許してしまった。イーブルアイの慈悲なき一手が俺を襲う。

「まだだッ、オラア!」

 着地と同時に俺は地面を左手で殴りつけた。すると攻撃態勢に入りかけていたイーブルアイの足元から巨大な四角いクリアグリーンの岩がいきなり飛び出してきた。「う!」岩はイーブルアイを空中に打ち上げると、盛大に吹っ飛んで飛散した。直接的な攻撃ではなかったが、これで奴の一手をしのげた。

我剣滅龍葬牙がけんめつりゅうそうが!」俺は奴を見上げ、左腕で我剣流の対空斬り上げを放つ。

「ハアアァァ! 我剣裂破山月衝がけんれっぱざんげつしょう!」打ち上げられたイーブルアイは、空中で体勢を立て直すついでに体を一回転させながら両手で得物を振るう。

 俺の滅龍葬牙は慣れない左腕であったために十分な威力はなく、イーブルアイの裂破山月衝にかき消されてしまった。それどころか、イーブルアイのそれは凄まじい威力を発揮して、かろうじて回避する事はできたが、俺の立っていた場所はおろか、背後にある壁や天井をごっそり切り裂いた。

「ぐううッ」

 回避したとはいえ、裂破山月衝の近くにいた俺には、殺意に満ちた激しいアストラル体の波により、立ちくらみのような眩暈が襲った。(敵は--)(目の前だ、構えろ!)衝撃と大量出血のせいで足が大げさなくらいに震える。イーブルアイは着地と同時に突進、得物を構える。

「む!」

 イーブルアイがハッとして足を止め、ちょっとだけ視線を逸らした。天井を支える鉄柱や壁がいくつかぶっ壊されたことで、工場全体がうるさい金属音を出したのだ。頭上からは鉄錆の粉みたいなものが辺りに降り注ぎ出す。その影響なのか、奥で布切れを吊るしていた鎖が一本、ジャラリと地面に落ちた。それを察したため、イーブルアイはそちらを見たのだ。(奴が目を逸らしたぞ)野郎が言う。

「わかっているッ、喰らえェ!」

 左腕とはいえ、イーブルアイが目線を戻す前には十分に到達する斬撃を放った。俺のサイファーは予想通りイーブルアイに直撃したが……またしてもイーブルアイのAOFに切っ先が触れた途端、その箇所からこちらに向かって竜巻が発生した。

「オォオオッ! おがアアアアアーー!」

 竜巻は鋭い突風となり、俺の左腕を通過していく。今回は腕まるごと持っていかれることはなかったが、左手の指を幾つかと、前腕から上腕にいたるまでの肉がそぎ落とされ、場所によっては骨が露出するまでにいたった。(な、なんだよ、こいつァ--)俺には一体どういう仕組みなのかまるで理解できない。(見えていないはずの攻撃を、何故イーブルアイは反撃できる……!)

 イーブルアイが俺に顔を向けた。やはり顔にはむかつく笑みが浮かんでいる。俺の左手はもはやサイファーを握れる状態ではなかった。「ぬん!」逃げようとしたが、イーブルアイは俺の胴体に得物の柄をめり込ませる。「ごぶゥ!」肋骨が折れるほどの衝撃をモロに喰らい、俺は血反吐を吐きながら後方にある壁に激突した。不運なことに頭部を強打して、目に映る景色がぼんやりとゆがむ。(コイツのAOは……『と、とてつもなく、ヤバイ』……!)

「俺は昔こう言われた。『お前は隙が多い』と--」

 地面にぶっ倒れた俺に対し、イーブルアイは自慢の得物を見せびらかしているのか、または自分が見とれているのか、野太刀の両面を見せるような仕草をしながら言う。それから、ヒュンと空を斬らせて下に向けた。

「確かに俺はあの頃、『弱かった』。兄や、刃とは比べ物にならない程に……。だが俺は変わった。力を手に入れたんだ、そう、あの時……忘れもしない、睦月。お前の使う飛影剣が、我剣流を駆逐したと知った時だ……あの時、『手に入れた』んだよ。『力』を。『愚死風滅ぐしふうめつ』を」

「…………」

(莫迦な、やはり。コイツは--)

 頭の中に響く野郎の声は、またしても俺に動揺を感じさせた。

(睦月、イーブルアイの愚死風滅とかいうAOは、アイツに発生したオブリヴィオンが持っていたものだ。お前みたいにな。奴はそれを使っているんだ)

(なんだと……?)(イーブルアイにはもともとあんなAOはなかった。ただ自分の剣をモリエイトするだけの能力しか持っていなかったからだ)

(何故それを知っている)

(……俺は奴を、知っている……)

 野郎は思わせぶりな口調のわりに言い渋る。どうやらこの声の主は、イーブルアイと関係のある野郎らしい。

(だが……どうする、絶望的だ……。今はあのクソに余裕こかれて生かされちゃーいるが、俺にはもう攻撃手段がねぇ……それに、奴が手に入れたというAO……)

(そのAOの事だが、セコンド側である俺が考察するところ、二回使われた時の共通する点を見つけることができた)(マジかよ、どんなものだ)(どちらとも、イーブルアイが視線を逸らしている時に発生していた。もしかしたら自分が意識していない状況でなければ、発動しないのかもしれん。でなければ、あれほど使い勝手のいいAOを出し惜しみする理由がない)

(意識していない状況ですって? AOFが勝手に自動防御するってのかよ)(今はそう考えるべきだ……まるで戦車のリアクティブアーマーのように、奴のAOFは接触した敵意を攻撃によって跳ね返している……という事はつまり、イーブルアイをやるには、正面からの『奴が防ぎきれない攻撃』か、死角からの『竜巻よりも高出力な何か』を叩き込むしかない)

 イーブルアイがゆっくりと歩み寄ってきた。俺は頭を上げて奴を見ることはできたが、AOFの出力を上げれずにいた。エーテル体が消失したことで魂も減少し、身体機能、特に思考能力が低下していたのだ。それに両腕から流れ出した血液も多い。俺は自分で作った血溜まりの中にいる状況である。

(……さ、『最高』だぜ……そんな攻撃はいったい、どうやりゃーできんだ……)

 がんばれば動くことは可能であろう。だが、本当に動くことだけだ。イーブルアイはまだ射程距離外だが、口を歪めながら地面に向ける得物のやいばを返した。白光しろびかりする野太刀は血まみれの俺をその身に映し出す。その光景は、今から喰らう獲物をじっと見つめる獣のようだ。息を殺し、その身が獲物に喰らい付く瞬間を待っている。

 ジャララ。と、奥で金属音が聞こえた。布きれを吊っていたもう一本の鎖が地面に落ちる音だった。もうその音にイーブルアイは興味を示さなかったが、俺は何気なく目を向けてみた。観察すると、その布はローブのようなものだったらしく、フードとなる部分がめくれて中にいた人物の頭部が露出していた。うつ伏せに倒れてはいたが--

(……!)

 その人物とは。

(いったい、これは……な、なんで、どういう、ことだ……みッ、見覚えがあるぞ! あ、あの、しっとりとした髪。あのまつげ。あの、柔らかそうな唇と、頬……う、うそだ、あの人が。こんな事が、あぁ、なんで、どうしてっどうして! どうして! どうしてアンタがこんなとこにいやがんだよ! 『薬師さん』!)

 感情が高ぶったために、切断された右腕からはビューと鮮血が飛び出した。秒単位で体内の血液が減り、頭と両足の先端が冷たくなっていく感覚が分かる。だが、俺の胸にこみ上げる何ともいえない『切なさ』を止めることなど、できやしなかった。

 薬師さんから反対の出口側に視線を向けると、相変わらず放心状態の瑞穂がいた。正座を崩したような女の子座りをしながら人形のようにピクリともせず、俺と目が合っても呆然とこちらを見つめ続けるだけだ。

 俺に沸き起こるとめどない激情は、エーテル体にとってこの上ないかてとなった。全身を覆っていた倦怠や絶望感が振り払われて、急速に周囲のアストラル体をソウクし始める。

「消えうせろ。飛影剣と共にぃ。なァ! 睦月ィィーーー!」

 イーブルアイが得物を振るう。(足掻け、睦月)野郎の声がした。(このクソがぁぁ……ッ!)切っ先が迫る。

 俺は目をぎらつかせてそれを凝視した。切っ先は目の前いっぱいに広がって、鳥肌が立ってしまうような金属の擦れる嫌な音がうるさく響き渡る。

「……ッ! 睦月っ貴様、『まだやれる』だと--」

「アァーマァー、レイトォォ……ッ!」

 俺から向かって左側から振り下ろされたイーブルアイの得物だったが……うなり声を上げた俺はボロボロになった左腕にアーマーレイトを装着し、白刃しらはを手で握って受け止めていたのだ。現在はエーテルドライブしている状態である。そしてアーマーレイトは直撃を喰らう事を前提にしたAOなので、直接攻撃に対して非常に有効だ。結果として、強化されたアーマーレイトにより、俺は奴の一手を受け止めることができた。

 更に俺は、本来右腕があるべき箇所にもアーマーレイトをモリエイトした。インテュイントとイマジネートが神経系と連動し、その鎧は本来の腕と同等に機能する。「はっ!」イーブルアイは自分の得物を俺の手から引き抜こうとしたが、がっちり握り締めた左手はそれをさせない。

「なにィイイイイーーッ!」「サイファアアアアア!」

 立ち上がりながら右腕のアーマーレイトにサイファーをモリエイト。イーブルアイは自分の得物を消すことで俺の束縛から脱し、同時にバックステップする。俺は同じ距離を踏み込んでサイファーを振り払った。それは再度モリエイトされた奴の得物でガードされる。

「我剣崩!」

 次いでイーブルアイがサイファーを弾き飛ばした。「ギイイイッ!」その衝撃は、右腕はおろか俺の全身が吹っ飛びそうになる程だ。俺は力むあまり声を出してしまったが、インテュイントは奴の行動を直前で捉えたため、体を右回転させるようにして、衝撃を何とか受け流すことができた。同時にサイファーを左手にモリエイト。

飛影碧華乱翔ひえいへきからんしょう!」

 回転運動を逆手に取り、左右のサイファーを右上に回転しながら斬り払ったのち、二本同時に振り下ろす。イーブルアイは我剣崩と同時に後退したがっていたものの、俺が体ごとぶつかって行く気持ちで突っ込んだおかげで、距離は最適に保たれたままだ。「グッ!」左右の斬り払いは受け流されたが、ラストの振り下ろしは得物を横に向けてガードされた。(奴はまだ我剣崩を使えない、押し込め!)頭に声が響く。野郎の言う通り、我剣崩は自分の剣に負荷がかかるので、十数秒くらい休憩させなければならない。俺はイーブルアイの得物を力任せに押し込むと、一気に両手のサイファーを自分の後方へと振り払う。「飛影!--」重心移動により多少前のめりになった俺は顔を上げ、前髪の隙間から奴をに睨み付けた。

百花繚乱ひゃっかりょうらん!」

 そしてここぞとばかりに、二本のサイファーによる乱舞をぶち込む!

「オオオォォォーーーー!」

 至近距離でこの技を出されては、さすがのイーブルアイもたまらず声を上げた。幾重にも重なる怒濤の如きやいばの洗礼は、奴の肉体を容赦なく切り裂く。剣一本ではどうしても防ぎきれないタイミングを狙い、俺は手を出し続けた。「ぐッ! ぬううウウウ!」両腕、腰、胴、顔、その他あらゆる箇所を斬りつけられ、イーブルアイは苦悶の表情をあらわにする。(そろそろ来るぞ)また頭に声が響いた。「我剣崩!」イーブルアイは絶妙なタイミングでサイファーを弾く。『このこと』だ。

 弾かれたのは右手のサイファー。俺はそれを見通して、我剣崩と同時に右手をぱっと開いた。そうすると当然サイファーは遥か彼方へ吹っ飛んでいくわけだが、サイファーを既に手放しているため、俺の体に衝撃は伝わらなかった。

 我剣崩を無駄撃ちさせたのは非情に好都合だ。俺は再度手を出そうとしたが--

「うっ!」

 突然、全身に脱力感が襲った。いきなり足の力がなくなって、今この瞬間にも倒れてしまいそうだ。それは過度の出血と、本来ないはずの腕を作るという不慣れなモリエイトのためである。AOFはいまだにエーテルドライブした状態だが、機能のほぼ全てをアーマーレイトに割り当てているため、肉体強化における自己治癒能力が全く機能していない。

(右の中段!)頭に響く助言と共に、イーブルアイの得物が俺のわき腹に迫った。とっさに左手のサイファーを右手へ再配置して、横に伸びた柄を掴んで前腕で防ぐ。「我剣崩!」更にイーブルアイの得物を弾き返した。本人のAOF圏内にあるモリエイトされたAOは、AOFに還元、再モリエイトすることで、両腕を動かすことなく持ち替えることができる。先ほどのイーブルアイも、俺から掴まれた得物をいったん解除、再モリエイトすることで、俺の一手をガードしたのだ。

 体の脱力感は収まったようだが……妙な感じだった。まるで夢の中みたいな、ぼんやりとして、フワフワした、戦闘中にはあるまじき感覚がしている。率直に言えば、これは集中力が極度に低下している証拠だ。(まだだ--)イーブルアイの構えは崩した--(『まだァッ、終わるな!』)俺は自分に言い聞かせ、右手のサイファーをクルリと回して真下の柄を引っつかんだ。

我剣斬鬼刀がけんざんきとう!」

 俺はがむしゃらに突っ込んで技を振るう。しかし重みこそあったがいいかげんな太刀筋で、イーブルアイは体勢が整ってないにも関わらず、それを強引にガードした。(頭だ!)野郎が叫んだ。「飛影碧華乱翔ひえいへきからんしょう!」間髪いれず、小規模のアストラルストームができる程にAOFを足元へ噴射、左回転しながら一メートルほど飛び上がる。サイファーは一本しかなかったが、至近距離で両手持ちの斬り上げをぶち込まれた奴は体制を立て直せずにいた。「我剣獄将迅がけんごくしょうじん!」次いで斬り下ろしを省略、サイファーを左に構え、離脱もかねたすれ違い際の一手を放つ。必殺の斬り抜けは奴のガードが間に合わなかったようで、左目に喰らいついたサイファーの切っ先は後頭部に向かって突き抜けた。

「グギイイイィィイイイーーー!」

 振り返りながらイーブルアイは、よだれが飛び散るくらいに歯を食いしばって唸り声を上げる。手で左目を覆うがその傷は深く、とめどなく鮮血が流れ出している。俺はそのまま空中に躍り出た。

(口惜しいな、奴が機転を利かせてとっさに振り向かなけりゃ、刀身は脳まで達していた……まぁいい……どうやらお前のアーマーレイトで、上手い具合に止血ができているようだな)

 空中でイーブルアイを牽制する俺に野郎が言う。

(そのようだなっ、だがそう長くは、持たねぇようだ……アーマーレイトのAOF消費は俺のソウク量より多い……エーテルドライブができてなけりゃー、今頃は意識がぶっ飛んでたはずだ……俺が動けるのは、あと一分もない、と思う)(なに、十分だ。それ以上長引けば奴の傷も治っちまう。どういうことか分かるな)(クソ。分かりたくもねぇな。次の二、三手目で仕留めねーと、俺に勝ち目はねぇなんてこたーよォ)

 俺は現状を考えつつも、頭の片隅には薬師さんを案ずるところがあった。何故薬師さんがこんな場所にいるのだろうか。そもそも彼女はインビュードハンターだ。イーブルアイにだって十分な特効を持っているはずなのに、一体どうして?

(もしかしてあの茶色いローブ……聞いたことがあるぞ。強硬派が開発したというAISの噂。まさかソイツを使われたのか)

(何してる! 後ろだ!)

 ちょっとでも別のことを考えてしまった俺は、ハッとしてイーブルアイがいたはずの地面に目をやる。だがもうそこにはいる訳がなく、既にイーブルアイは俺の側面から得物を振るいかけていた。

我剣裂破山月衝がけんれっぱざんげつしょう!」

 振り向いたときには、殺意に満ちたアストラル体の波が目の前いっぱいに広がっていた。左斜め七十五度くらいの角度で突っ込んでくる!(やっべェ!)カウンターシールドをモリエイトする暇はない。直撃を覚悟した俺は、裂破山月衝の角度と同じくサイファーの腹を向け、左手のひらを刀身に当ててガード体勢をとる。

「ぐうぅッ!」

 そうしてなんとか受け止めることはできた。だが直撃の衝撃を踏ん張って堪えることができず、俺の体は地面に向かって吹っ飛んだ。

我剣獄将迅がけんごくしょうじん!」

 イーブルアイは距離を詰めにかかる。着地地点に振り払われた奴の得物を、俺は横っ飛びして回避する。奴は俺の動きを読み、一歩踏み込んで袈裟斬りを放つ。「くおォッ!」そこで俺の防衛本能が反射的に働き、勝手に前面へ向けたAOFの噴射が起きた。そのおかげで九死に一生を得たものの、たたでさえ酸欠寸前のAOFをその回避行動で消耗してしまい、俺には飛び上がる力がなくなってしまった。

「この莫迦野郎があァッ!」

 俺は吼えながら後方にAOFを噴射、イーブルアイに突っ込んだ。(莫迦なにしてる! 退け!)野郎がやかましく怒鳴る。(うるせえ! どうせもうタイムオーバーだ、AOFが持たねぇ!)確かに後退して体勢を立て直すのが一番だろうが、俺はとにかく焦っていた。AOFは無く、実力差は圧倒的だ……死神はもう俺の肩に手を置いているだろう。もしかしたら今の決断が、運命の分かれ道だったとでも言うのだろうか?

 俺は温存していた最後のAOFを、二本目のサイファーとして左手にモリエイトした。

我剣斬刹刀がけんざんせつとう!」イーブルアイは俺を射程内に捉えると、出の速い技を放つ。『死』を覚悟した俺のインテュイントは冴え渡っていて、その瞬間、迫り来る太刀筋を見切ることができた。「フッハッ!」黄色と緑の火花が飛び交い、その二手を受け流す。ちなみに今の掛け声は熱い物を口に含んだような声だが、腹に力を入れたためそんなふうになってしまった。

飛影龍牙双砕ひえいりゅうがそうさい!」

 サイファーを両サイドに広げ、今度は俺が飛影剣の技を放つ。右手は左に斬り上げる逆袈裟斬り、左手は右に斬り払う上段の横薙ぎ。この次には左右の動きを逆にした斬り返しが待っている。この殺人技はさっぱり動かないので、ちょっと後退されたらもう当たらないのだが、イーブルアイは得物を振り切った状態である。よって回避行動は不可能だ。

「フッ!」

 鋭く風を切る音が一度だけして、俺の両腕がいきなり同時に弾かれた。イーブルアイはこの二点同時攻撃を、たった一本の野太刀だけでさばいたのだ。ちなみに奴の掛け声は不敵に笑った訳ではなく、やはり腹に力を入れたためだ。

「ぐォッ!」弾かれた衝撃で俺はあとずさった。(こ、この莫迦げた反応の良さはッ!)今の動きは全方位にばら撒かれたスレイブエッジを打ち落とした時と同じだ。「飛影剣の殺人技など--」奴の目がギラつく。「子供の遊戯にも劣るわ! 我剣斬鬼刀がけんざんきとう!」

(『マズイ』!--)

 イーブルアイの構えから危機をいち早く察したのは『俺の頭に響く声』だった。そしてどういうわけか、いきなり、俺の体が制御不能になった。長時間あぐらをかいていると足が痺れるものだが、それが全身に、しかも唐突に起こったのだ。

(う!--)

 俺が驚いていると、勝手に体がイーブルアイの殺人技を受け止めようと動いていた。

 一手。

 二手。

 三手。

 四手……『これは俺の動きではない』。

「なにッ!」

 そしてとうとう、最後の突きも華麗に受け流してしまった。それはまったくでたらめでない、実に合理的で洗練された我剣流の動きだ。イーブルアイも目を細めて声を漏らした。

(ぐっう……!)

 その時、頭に響く声は何故かうめき声を上げた。それを皮切りに、野郎が苦しみだした途端、両腕に展開されていたアーマーレイトの表面が弾け飛んだ。俺にはできない動きを無理やりさせられたため、『構造的限界』に達したのだろう。

 いきなりまた、今度は俺に体の支配権が戻った。すると目の前がぼやけた。立眩みもする……(ちぃ! つ、つまり『こういうことかッ』、『お前』が、今、『動かした』……!)俺が投げかけた質問は帰ってこなかった。だが無理もない。素早い防御行動によってAOFは出力過少となり、いよいよ酸欠状態に陥ってしまったのだ。こうなるともう、どうしようもない。(むつき、敵は--)野郎の弱々しい声が聞こえた。(動きを止めたってことだろ、畜生!--)そんなことは分かっていた。だが体の動きは鈍く、AOFは消えかけている。

「『テメェ』はアアアーーー!」

 俺は懇親の力を込めて右手のサイファーで袈裟斬りを放った。「うッ!--」それは見事にイーブルアイの左肩へとめり込む……だが柄を持った手に強い抵抗を感じ、五センチほどで停止した。サイファーの切れ味がなくなっていたのだ。「ぐッ!」それどころか、次の瞬間、右腕のアーマーレイト自体が粉々に吹っ飛んでしまった。サイファーはそれを見ると、次に俺を見る。

「クッソがアアアアアア!」

 今度は左手のサイファーを振るおうとした。「甘い!」しかし振り切る前に、イーブルアイの得物がサイファーにぶち当たる。その衝撃でアーマーレイトは緑色の破片をばら撒きながら爆散した。

「うるァアアアア!」

 俺は勢いに任せて右足で中段蹴りを放つ。イーブルアイは防御するまでもないのか、あえて蹴りを受け止めて、わき腹と左腕で抱え込んだ。

「アアアガアアアアァァーーー!」

 右足を掴まれたがそこを軸にして、左足で地面を蹴り上げ、つま先でイーブルアイの顔面を豪快に蹴り飛ばす。「ふブゥ!」俺の最後の悪あがきをモロに喰らい、イーブルアイは口内を切って血を吐いた。だが、それだけだ。

「ぎえアァァ!」

 イーブルアイの掛け声と共に、俺の視界が急速に動いた。奴が俺の右足を両手で引っつかみ、豪快に振り上げたのだ。そして今度は急激な下降を感じた。まるで超短いジェットコースターだ。

「ゴゲァッ!」

 そして俺は地面に叩きつけられた。そうされると悟った時、頭をぶつけてはならないと思い、がんばって体をひねっていたのでそれは避けられた。しかし受身の取れない状態では、どこから落ちても致命的だ。

 グインと、視界が動いた。右足はまだ放されていない。イーブルアイは俺を振りかぶると、もう一度叩きつける。「ゲボッ!」一秒もしないうちにまた視界が動いた。「グベッ!」そして地面に落ちる。また動く。「ビギュッ!」落とされた。また振りかぶられたが、今度の軌道はさっきまでとは違い、イーブルアイの前方に向けてブン投げられる形となった。俺は成すすべなく吹っ飛ばされて、瑞穂が座らされていた机をぶっ壊し、更に勢いあまって何度もバウンドした挙句、出口側の壁に激突した。うるさい音と共に砂塵が舞い散る。

「ブゥッ! ごぶぅ!」

 鎖骨やら肩甲骨やらは楽勝で砕けてしまい、上半身の形状がおかしい。俺はもう動けなかった。内臓関連も酷い損傷を受け、粘っこくて赤黒い血反吐がせりあがってくる……しかし……いったい。どうしたことか……不思議な事が、一つだけある--

(クソ……『なんでまだ、くたばらねぇんだ』……)俺は自分がなんでまだ生きているのか不思議でならなかった。俺の中でどこか、まだがんばっている部分がいまだにあるせいだろうか? そういえばAOFは消えかかっているものの、最小限だが展開され続けている。エーテルドライブも健在だ。何故だ? 俺にはそんな余力は残っていないはずだが……(や、『野郎』か。俺を寝かせねーのは--)頭に響く声はもう聞こえなかったが、不思議と野郎の存在を感じることができた。

「フフ……」

 イーブルアイの笑い声がする。もう両目はかすんで見えないが、ゆっくりこちらに歩み寄っている感じだ。

(終わりか--)

 そしてそう思った時。血のにおいしかしなかったはずなのに、一瞬だけ、ほのかな甘い香りを感じた。

「…………」

 がんばって頭を動かすと、三メートルくらい離れた所に瑞穂らしき姿があった。

「……にさま--」

 そしてか細い、聞きなれた声がする。全身の激痛は限度を超えて、もはや痛みとはいえない『冷たさ』に変わっていた。俺は数十秒もしないうちに、野郎の努力も空しく、確実に絶命するであろう。「あにさま--」だが。この声を聞いていると、『それもいいか』と思えてきた。『だが』。それは悲観的な考えによるものではない。「……」そんな風に思ったら、何故か俺の口がにやけてしまった。

「スレイブエッジ!」

 そして俺の、まさしく全身全霊をかけた最後のAOをモリエイトする。両目の霞みも消えていた。頭を持ち上げてイーブルアイを睨みつける。「オオオオオオ!」辛うじて一本のみモリエイトできたスレイブエッジは、鋭く風を切ってイーブルアイに突進した。しかしイーブルアイはそれを見つめるだけで、さっぱり動こうとはしない。

「……! グブッ! ゴッ! ガッ! アッァッ--」

 スレイブエッジが直撃しようとしたまさにその時、不幸にも俺の口から血反吐があふれ出した。(こっ、こんな時にッ!--)本体の不調によって操作が狂ったスレイブエッジは直前で軌道を変え、イーブルアイの顔面すれすれを通り過ぎてしまった……奴は先ほどと変わらず、ずっとそこに立ったままだ。避けてすらいない。奴のインテュイントが既に知らせていたのだろうか? 当たるわけがないと。

「…………」

 ろくに呼吸もできず、ビクビクと体を痙攣させる俺にイーブルアイが近づいた。

「終わりだァ睦月。ここまでやるとは思わなかったぜ。見事だ……さすがは紫電の血、といったところか。だが……フフ」

 奴は俺に得物を向けていた。顔は地面にへばりつき、両目も見えていなかったが、空気の感触でなんとなく分かる。「死ね」奴の得物が空を裂く。

「死ぬ、のは……テメェだ……イーブルアイ--」

 その時俺が言うと、俺達がいる場所の反対側の壁付近から、まるで可燃性の高い物質が着火したような、『ボッ』という音がした。

「!」

 さすがのイーブルアイも振り返った。『もしや』と思ったのだろう。「『正解』だぜ--」誰にも見えてはいないだろうが、その時。俺は確かに笑っていた。




 睦月が放った最後のスレイブエッジ。それは初めからイーブルアイを狙ったものではなかった。彼が血反吐を吐いた時にヤバイと思ったのは、そこで意識が途絶えてしまいそうであったからだ……イーブルアイが後ろを振り返ると、スレイブエッジはカデンツァを包んでいたデスローブの端っこに突き刺さっていた。そしてさっきの音の正体。それはデスローブが青い炎で燃え上がった音だ。イーブルアイの耳には、デスローブに定着されていた人々の魂が上げる悲鳴が聞こえる。

「いかん!」

 危機を察したイーブルアイは迅速にカデンツァへと駆け寄るが--「ぐぬっ!」突然、彼の体を束縛する『発光する輪』が出現した。それは両腕もろとも胴体に巻きついて、どうやっても振りほどけない。彼はカデンツァをもう一度見る。仰向けに倒れていたはずの彼女も、実は先ほどからイーブルアイを睨み付けていた。

(睦月、貴様! まさかインビュードハンターを解放するために、わざとスレイブエッジを外したのか! あのAISはまだ試作品だった。とはいえ、たったアレだけのアストラル干渉で機能不全を起こすとはな! ねぇい、マーラフの連中め!--)

 カデンツァの上に位置する天井が、直径二メートルほどの綺麗な円状にえぐられて落ちてきた。そして屋外から照り注ぐ太陽の光が彼女を照らし出す。暗い室内には砂塵が舞っていたので、斜めに延びた光の軌道がはっきりと目視できる。青い炎に包まれていたデスローブは見る見るうちに燃焼し、ついにはカデンツァを残して灰となった。

(しかし、俺も甘かった。睦月の奴をすぐに殺せばよかったのだ。やはり俺は未だに、未熟! 未熟だと言う訳か! 肉体的な死角は克服できたが、やはり! 行動のどこかに隙があると!)

「グッ、ぐぬぬぬぅぅ……!」

 イーブルアイは懇親の力を込めて発光する輪を引きちぎろうとするが、さっぱり壊れる様子はない。その間にカデンツァがよろりと体を持ち上げた。胴体には痛々しく何本もの角が刺さっていたが、地面に落下した事でそれらは完璧に体内へめり込んでいる。カデンツァは両膝を付いて多少反りかえり、目を閉じて、上半身と顔全体で太陽をあおぐ。しばらくしないうちに、めり込んでいた角が次々と体内から排出され、傷もぐんぐん治っていった。

「……化物め!」

 未だに束縛から逃れられないイーブルアイは、その光景を見ながら言い捨てる。カデンツァがうっすらと瞳を開いた。

「貴様に言われたくないなァ、オブリヴィオン風情が……」「チィッ--」どうやらイーブルアイの目測では、カデンツァはすっかり全回復してしまったようだ。だが、回復が完了したのは彼とて同じだ。睦月から付けられた目の傷も、いつの間にか治っていた。

(まだだ、考えろ。まだ『先手を打たれただけだ』。状況的には一対一。距離もある。この束縛さえやぶれば!--)

 イーブルアイは無駄に抵抗するのをやめて目を閉じる。そして体に纏うAOFに意識を集中させた。(俺の愚死風滅は意識していない状況でなければ発動をしない……だが『それではだめだ』。アレを使わねば、この束縛を破壊できないだろう--)日光浴が終わったのか、カデンツァは頭を軽く振り、乱雑にだが髪を整える。そしてイーブルアイの後方にいる瑞穂と、ぐちゃぐちゃになった睦月を見つけ、もう一度イーブルアイを見た。

「ぬぐッ! グオオォォォォ!」

 するとイーブルアイは叫びだす。彼を束縛する輪が急激に縮小したのだ。しかしカデンツァはおかしいと思った。彼女は殺すつもりでそれを行なったのだが、イーブルアイはまだ体を切断されていない。彼女としては楽勝でスッポリいくと思っていたので、表情こそ変えなかったものの、ちょっぴり感心した。

「この程度でぇぇッ! 俺はァッ! 殺せんッ! ハアアアアアア!」

 怒号したイーブルアイの全身が竜巻に包まれた。それはアストラルストームにも似ていたが、それにしてはあまりにも細く、密度が高すぎる。イーブルアイは全身のAOFを愚死風滅に変えて、竜巻を発生させたのだ。それは天井を突き抜けて、彼女の作った束縛を破壊した。

我剣獄将迅がけんごくしょうじん!」

 すぐさまイーブルアイは得物をモリエイト、高みの見物をしていたカデンツァに強襲をかけた。最速の一手は彼女の胴に迫る!

「……自分に聞いてみてはどうだ? オブリヴィオン。果たしてこの私に、勝てるのか、どうかを--」

 刀身は直撃寸前でピタリと止まっていた。カデンツァが右手のみで白刃を握り、見事に受け止めていたのだ。イーブルアイはその行動に、最初だけ焦った。だが彼女の手から血が滴り落ちるのを見て、その焦りは消えた。(いや、『いけるぞ』。コイツの能力が高質化する輪だとするなら、何故それでガードしなかった? それでは俺の一手を防げないからだ。コイツはわざと挑発している。俺をあおり、常に自分が優位でいようとしているだけだ。見ろ。今この瞬間! なぜもう一度輪を出さない? それはこの刀を持つので精一杯だからではないのか!)

 力比べのさなか、そう直感したイーブルアイはにやりと笑う。カデンツァはそれを見て無表情に戻った。そうしていると徐々にだが、刀身はカデンツァの方へ押しやられていく。(やはりだ、コイツは!--)イーブルアイは自分の考えを確信した。

「お前が何を考えているのか知らんが、こうも長く私に接近していていいのか? 私は今、お前をどう屈辱的に殺してやろうか考えていたのだったが……まぁ、いいか。『出来たよ、私の剣が』」

 カデンツァの左手に発光する輪が発生した。それは持ち手の上からぐるぐるときつく巻かれて、文字通り一本の剣を成した。

「よし。もういいぞ? 早速お前の剣舞とやらを、どれ。見せてみろ」

「小娘が!」

 イーブルアイは素早く野太刀を再モリエイトすると、やいばを返して袈裟斬りを放つ。カデンツァは左手の剣でそれを意図も簡単に防いだ。「くッ!」その時彼はしまったと思った。カデンツァの剣は円が螺旋状になったものなので、ぶつかった刀身はデコボコに引っかって思うように引き戻せない。「ちなみに私は右利きだ。できるなら早く、持ち直させて欲しいのだが?」カデンツァはニヤリと笑った。利き腕じゃないにも関わらず、睦月すら必死になるイーブルアイの一手を意図も簡単に防ぎ、その時のしかかるはずの衝撃にすら身じろぎもしない。それはモリエイターに対する特効によるものだ。

 彼女は空いた右手をイーブルアイに向けて払った。「む!」一見何事もないようだが、イーブルアイのインテュイントは飛来する彼女の血液を見つけ、とっさにしゃがんでそれを回避した。頭が下がりきる直前、その血は髪の先っぽに付着して、焼け焦げる匂いと共に跡形もなく溶けてしまった。

「ハッ!」彼はしゃがむ動作と同時に得物を返し、下段の横薙ぎを放つ。カデンツァはそれを跳躍で回避した。「我剣滅龍葬牙がけんめつりゅうそうが!」更に返して斬り上げる。「ぉおぅ」それもカデンツァは、まるで楽しむかのような驚きの声と共に回避した。その回避の仕方も異様だ。例えば空中に舞うホコリを指先でつまもうとすると、質量が小さすぎるホコリは指先が動く時に発生する微小な空気の流れに乗って、スルリと指先から抜け出してしまう。まさにそれと同じく、物理的にありえないことなのだが、滅龍葬牙の作り出したアストラル体の流れに乗り、フワリと避けたのだ。

「なるほど? 確かにこれほど殺意の込められたアストラル体に人間が触れれば、刀身に触れずとも細切れになってしまうだろうなぁ」

 彼女は余裕ありげに喋りながら軽やかに着地して、剣を右手に持ち変える。

(厄介な奴だ、俺の動きでは『コイツとの相性が悪い』。刀での格闘戦は不利か--)

 イーブルアイはそう考えるものの、彼女に向けて再度剣舞を舞う。(ならば早々の離脱だ。結果はどうあれ、睦月は始末できた。この場に留まる理由は既にない!)

 我剣流のイーブルアイに対して、カデンツァは見たこともない剣舞であった。全ての動きが大胆というか大雑把なのだが、しかしそれでも隙を突くにはリスクが付きまとう。イーブルアイが考えるに、カデンツァは剣の心得はない様だが、そのずば抜けた瞬発力とスピードで全部カバーしきっているようだった。

(それにしてもなぜ、このインビュードハンターは先ほどの輪を使わなくなったのだ? どうして剣を作った?)彼は剣舞を舞う最中、そんなことを考えた。(奴は俺に、屈辱を与えると言った。同じ土俵に立ち、そこで勝利してみせるというわけか? ……ふふふ、ハハハ! そうなのか? インビュードハンター! えぇぇ! ハハハハハ! そうであるならお笑いだ、『検討違い』だ! 我剣流の『土俵』は剣舞ではない。『勝つための手段全て』! それが『土俵』だ! 過程や、方法なぞ--)カデンツァの剣を弾き返したイーブルアイは、得物を左に構えて腰を低くした。

「どうでも良いのだアアアーーー!」

 そして移動も兼ねた斬り抜け技、獄将迅をぶち込む。それ自体は彼女から楽勝でガードされてしまったわけだが、彼の目的は攻撃ではなく、驚異的に伸びるその前進能力にあった。

 一瞬にして部屋の隅に移動したイーブルアイは、足元に落ちていた『何か』を拾い上げた。それは真っ黒の四角い棒で、百円ライターを二個重ねたくらいの大きさをしている。頭の所にフタがしてあり、親指で弾いてそれを開くと、中のボタンをグイと押し込んだ。

「はっ!」

 カデンツァはその直後に起こった異変を素早く察した。この工場内には放置された小さな機械や鉄状の箱なんかがその辺に散乱しているのだが、それらの幾つかが動き出したのだ。それらは自動的に周辺のアストラル体を急速に吸引し始め、小規模ではあったがちょっとしたアストラルストームが次々に発生し始めた。

「フン、勘がいいお前は察したようだな。それは小規模ながら、アストラル乱流を発生させる装置『デスボルテックス』だ。しかしただのそれとは違う。人間にも影響がある。その圏内にいた人間はアストラル体はおろか、エーテル体すらも剥ぎ取られる……ついでに、これを導入したのは俺じゃーない、サイファーだった。インビュードハンターに嗅ぎ付かれた時を想定してな……時にお前は、ミキサーで野菜ジュースを作ったことはあるか?」

「ッ!」

 言葉なくしてカデンツァは飛び掛ったが、イーブルアイは直前で工場内から真上に飛び出した。「メビウス!」カデンツァも跳躍し、追いつく前に捕らえようと、発光する輪をイーブルアイに投げつける。「ハアア!」彼は体をくねらせてそれを回避し、いつの間にか持っていた野太い銃を向けて発砲した。「ぐぬッ!」カデンツァはそれを避けきれなかった。しかも飛来したのは散弾状のアストラル体で、直撃を受けた途端、恐ろしく重い衝撃を受けた。それは全長八十センチ、砲塔が三本もあるショットガンタイプのCSGらしかった。彼女はインビュードハンターなのでかすり傷にもなりやしないのだが、その衝撃力はさすがに無効化することができない。

「フン!」

 直撃を確認したイーブルアイは躊躇ちゅうちょなくそのCSGを手放し、今度は自分の得物をカデンツァに投げつけた。

「グボッ!」

 投げられた得物は硬直していたカデンツァの胸部に突き刺さると、地上の跳躍地点まで彼女を押し返してしまった。「ガハッ!」地面に激突したカデンツァは衝撃により肺の空気が外に出た。それと同時に、聴覚や視覚、平行感覚など、全ての感覚器官がいきなりおかしくなった。それは周囲で発生しているアストラル乱流のせいだ。(ま、マズイ!)体を起こそうとするも、体を串刺しにしている野太刀のおかげでそれができない。

「インビュードハンターはアストラル乱流の中では発生できない。その中にインビュードハンターが入り込めば、普通の人間と同じように酸欠状態となってしまうからだ……だが、そのデスボルテックスはエーテル体をも攪拌かくはんする。エーテル体の消失はすなわち、魂の消失と同じ……つまりインビュードハンターも、モリエイターも、人間も。同様に抹殺できる訳だ。殺傷することなくな--」

 イーブルアイは距離をとりつつ工場を見た。普通の人間には分からないが、モリエイターの目には、工場全体が青黒い竜巻に包まれているように見える。「フフ。サイファーよ。どうやら最後はお前に、助けられたようだな……」そしてそう言い残しながら、彼は森の中へと姿を消した。

 一方、工場内では本格的なアストラル乱流が出来上がりつつあった。

(このままではッ、ストラクチャーが形成されてしまう!)

「ぐっ、くっうぅぅ……!」

 体全体を使って、なんとか野太刀を引き抜こうとするも、力が入らずどうしても上手くいかない。「くそォ……!」カデンツァの視界は狭まり、もはやぼんやりとしか周りを見ることができなくなっていた。(してやられた、この私が……!)そんな風にして悔やみながらも、彼女は何度も手を伸ばす。

 すると、自分の腹に突き刺さった野太刀の柄を掴む誰かの手がおぼろげに見えた。

「……お前はっ!」

 可愛らしいピンク色の着物は砂まみれで、同じく汗と砂だらけで髪の毛がへばり付いた顔をしていたが、それはまさしく瑞穂だった。どうやらまだ意識がハッキリしていないのか、指が捻じ曲がっているにも関わらず、瑞穂は懸命にそれを引き抜こうと努力していた。

「うぐっ、グアァッ! アアアアア!」

 そしてとうとう野太刀はもぎ取られた。もっとも、瑞穂は足元がおぼつかない様子でフラフラしていたため、引き抜く際に刀身が斜めになったりして、無用な苦痛がもたらされてしまったのだが。

「よ、よしっ、いい子だね」

 カデンツァはその事に対してとがめなかった。

 瑞穂の肩を借りて、彼女は鉄の扉へよたよたと歩く。歩くのもやっとのカデンツァに対し、瑞穂はまだそれほど影響を受けていないようだ。どうやらデスボルテックスは、モリエイターには少し遅れて効き目がでるらしい。さらにいうなれば瑞穂はイマジネーターなので、肉体とアストラル体の結束を強固にするすべに長けている。そのおかげでこのような状況下でも、ある程度動き回ることができたのだ。

 扉から五メートル付近に来ると、瑞穂はカデンツァを離れて何処かへ駆け出した。カデンツァにはその行動の意図は掴めていたのであえて何も言わず、自分は扉に近づいた。そして開こうとしたのだが、どういう訳か押しても引いてもビクともせず、いっこうに動く気配がない。「クソ!」苛立つあまりコブシで叩いてはみたが、やはり駄目だ。どうやら先ほどの戦闘で歪みが生じ、変な風に曲がってしまったらしい。いつもなら指先ひとつでブチ破れるのだろうが、今の状況では、カデンツァも、瑞穂も。これを腕力のみで強引に開けることはできないだろう。

「メビウ--」

 彼女は自分の能力を使おうとしたが、いきなり立ちくらみを起こしてひざまずいてしまった。もはや平衡感覚は完全におかしくなっており、なぜか体は勝手に前のめりになってしまう--(まだだッ、どうした!)今にも意識を失ってしまいそうだ--(どうした、やって見せろ!)だが自分を叱咤し、地面の砂をギュッと握り締めて--(今だ! 牙をむけ!)顔を上げて憎たらしい扉を睨み付ける!

「メビウス!」

 彼女の叫び声と同時に、鉄の扉は直径二メートルの円状にくりぬかれ、外側に倒れた。そこからまるで、出口はここだと示すように日の光が差し込む。

「よぉし……」

 極限状態ながらも一仕事終えたことで、カデンツァは高揚した笑みを浮かべた。

 隣から、がんばって睦月の足を引きずる瑞穂が寄ってきた。そのおかげで可哀相なことに、睦月の顔面はどうしょうもないくらい砂まみれになってしまっているが、彼の体はそれ以上にぐちゃぐちゃであった。見たところ、既に心肺機能を停止しているようだ……。

「おいで。行こう」

 それでもカデンツァは睦月の背中から両手を回し、後ろ歩きしながら外に出た。瑞穂もいよいよやられてきたのか、カデンツァの袖を握りながらフラフラになっていた。それでもちょっとずつ、工場から離れていく。何度も転びそうになり、意識を失いかけたものの、懸命に足を一歩一歩動かした。丸く開いた扉の中では、既に高密度のアストラル乱流が発生していた。その中で生命は生存、いや存在することができず、全てが飲み込まれ、消滅してしまう。地獄に通じる魔の口から、二人はゆっくりゆっくり足を進めて、着実に遠のいてゆく。次第に平衡感覚や聴覚が治り始め、工場の外周に広がる樹木の根元に到達した頃。とうとうカデンツァは地面に倒れてしまった。


「ハァ、ハァ、ハァ--」

 乱れた呼吸は幾ら続けても治る様子を見せない。だが、ここまでくればもう安心である。彼女は十分に呼吸することで、危機を脱したことを実感した。

(はは、情けない。インビュードハンターが、息切れを起こしてしまうとは)

 ふと、そんな風に考えたカデンツァは、なんだかおかしな気持ちになった。

(不思議な気分だ。まるで私が、一時的に人間になったようだ)

 そういわれてみれば、いつもなら遮断している痛覚や疲労感を極度に感じていた。それはアストラル乱流の中にいたため、感覚の調整ができないせいだった。特に胴体をつらぬいた野太刀の傷は表面上治っているように見えるが、まだ中身は完治していないのか、ズキズキと鋭く痛む。呼吸も乱れはいつまでたっても収まらない。そして全身を覆うなまりのような疲労。それらの全ては、彼女にとって新鮮といえば新鮮であった。(これが『人』か--)それから彼女は疲労が回復していくのを感じた訳だが、この感覚はとても素晴らしいものに思えた。呼吸するごとに体の疲れが癒されていく。『まったくそれだけのこと』が、どうしてだろうか? インビュードハンターである彼女にとって、たかがその程度の過程が、素晴らしく心地よいものに感じられたのだ。

 両目を前に向ければ、そよ風に吹かれて樹木が揺れていた。折り重なる葉の隙間からは、キラキラと太陽の光が輝いている。(まったく。こんなくだらない事件がなければ、きっと素晴らしい午後だったに違いない)木の葉の影に隠れているのは顔だけで、体は日差しの中にある。そうしていると太陽の光を浴びて、ぽかぽかと暖かい感覚がした。そしてたまに吹きつけるそよ風は、いい具合に体を冷やしてくれる……これらは全て、インビュードハンターは遮断している感覚だ。

(我々にはこのような『もの』、必要ないからな--)

 その時、激しい金属音と共に、とうとう工場が崩れ落ちた。その音を聞いたカデンツァはようやく体を起こし、スクラップになった工場を眺めた。アストラル乱流はピークを超えたのか、さっきよりは勢いが弱くなっている。

(……私は--)

 そして今度は、倒れている瑞穂と、睦月を見た。

(私は、必要の無い情報を、いや、知ってはいけない感覚を得ているのか。今……)

 そう考えた途端、カデンツァは腹の奥が痺れるような、なんだかとても切ない、おびえにも恐怖にも似た感覚を覚えた。(そ、そうか。そういうわけか。『だから遮断していた』。『私』は、『我々』は、人にはなれない。人ではない……喜びとは、モリエイターを抹殺する事、そして自分自身が、『私』が、消えてなくなることなのだ。それが、我らの喜び、幸せ……『し、しかし。あぁ……なんということだ』--)

 上半身を片手で支えて、もう片方の手を顔にくっつけた。そしてカデンツァは何度も何度も首を横に振る。彼女がその間に考え、いや、考えたくないのに、勝手に巡り巡った思考の行き着いた先は、『もうちょっとこうしていたい』というものだった。それは別になんてことないように思えるが、『彼女達』にとっては非情に厄介なものだったのだ。つまりそれというのは、『もっと自分でいたい』というものであり、彼女は『自分であること』の心地よさ、素晴らしさを、知ってしまったということだ……。

(莫迦な。な、何を。何を考えているんだ私は。我々は『個』ではない。それにっ、この体の持ち主のことを考えてみろ、私でいつづけたいだと? は、ハハ! なんと滑稽こっけいなことよ! どうかしてっ、私は、どうか……してしまったのだろうか……そ、そうだ、ストラクチャーのせいだ。そうに違いない。アレが私の感覚を狂わせたのだっ、そう、あんなトラップに引っかからなければ、こんな--)

 その時、ちょっと強めの風が吹き抜けた。木々がざわめき、木漏れ日はいっそうきらめいて、青臭い自然のにおいが立ち込める。

(こんな、気分には……ならなかったのだ……)

 カデンツァは今まで、見たり、感じたりしたことのない世界の中にいた。彼女が今までいた世界は、何も感じることのない世界だ。(しかしどうだ? この世の中は。全ての生命が息づいている。全てが……そしてその中には、私という存在も、確かにある--)頭を大きく動かしながら、ざわめく木々を眺めていると、彼女の反対側で鳥が羽ばたいた。素早くそちらに振り向いた彼女は、飛んでいく鳥の後姿を見つけた。今度は視界の端っこに動く何かを見つける。また素早く見ると、たぬきが一匹、逃げていくのを見つけた……そして、自然の中に息づいているのは自分も同じだと思った時。彼女の目から涙がこぼれ落ちた。体は小刻みに震えている。カデンツァ自身は何で泣いてしまったのか理由が分からず、そしてその答えを見つけるには頭が回りきらない。不思議な、優しさと、暖かさを感じる気持ちが胸の奥からとめどなく湧き出して、明瞭めいりょうな人格を備え持つ彼女だったが、すっかり困り果ててしまい、どうしていいか分からず、両手で顔を覆い、肩を震わせ、声を殺しながら泣いてしまった……。

 カデンツァをそこまでさせたのは途方もない『感動』だった。今まで感じた事のないありとあらゆる感情が怒濤の如く押し寄せて、涙になって出てきてしまったのだ。常人には分かりかねる事態ではあるが、今のカデンツァの状態を例えるなら、素晴らしい芸術作品を見た時に似ているかもしれない。今のカデンツァにとってこの世の中全てが、極めて巧妙で、それでいて恐ろしく力強い、超絶なまでものバランスで成り立つ芸術に思えた。全てが息づく世界。悠久の輪廻を綴る、生命に満ち溢た世界! そしてそれらは眼前に広がっていて、その美しさといったらどうだ!

 カデンツァはいつまでもこんな気分に浸っていたいと、心のどこかで思っていた。それは無理もなく、今の気分はとても心地よいものだからだ。しかし、残念なことにそんな気分は徐々に薄れ始めた。アストラル乱流から距離をとったことで、インビュードハンターとしての感覚が蘇ってきたためだ。

(我々の目的はひとつだ。モリエイターの抹殺、すなわち自分自身の消滅……モリエイターを一人殺せば、インビュードハンターも一人消える……私は消えたら、今度は人間として、生まれてくることができるだろうか……)

 涙を拭いて、カデンツァは立ち上がった。カデンツァのすぐ隣には瑞穂がいたのだが、瑞穂は睦月の体に横から覆いかぶさるようにして、彼の汚い顔をじっと見つめていた。それを見た彼女は、瑞穂がおかしくなってしまったのではないかと、ちょっと不審に思う。カデンツァは瑞穂の隣に片膝をついてしゃがんだ。

「聞いてくれるか、瑞穂。理由はどうあれ、お前と、お前の兄は、私を助けてくれた。だからその借りを返したいのだが、我々インビュードハンターが行使する奇跡は、モリエイターにはあまり効果が発揮されないのだ。ちょっとした肉体の再生くらいならしてやれるだろう、だが……この状態では、そんな事をしても無意味だ--」

 瑞穂はその言葉に反応せず、睦月の血で汚れた汚い胸にほっぺをくっつけて、大きな瞳を時々まばたきさせるくらいだった。カデンツァはシカトされたことに対して多少ムッとするところはあったが、ちょっとした考えが浮かんだことで、すぐに気にならなくなった。

「しかし、今の私が、『人間に近い状態』なのであれば……もしかしたら、インビュードハンターとモリエイターとの『摩擦』が、緩和されているかもしれない」

 優しげなカデンツァの言葉を聞いて、やっと瑞穂は反応をしめした。瑞穂は体を起こしてカデンツァを見つめ、そしてその場を彼女にゆずる。

 しかしカデンツァには確証がなかった。やること自体はわかっているのだが……簡単なことだ。肉体を再生し、飛散した炎を肥大化させてやればいい。どうやら睦月の炎は辛うじて残されているようだ。

(よかった……もし魂が消滅していたら、本来ならアストラル体を辿り、飛散した魂をかき集めるわけだが、今の場合はストラクチャーのおかげでめちゃめちゃだ。あそこに吸い込まれていたら、私でも採取不可能であったろう。まったくお前という奴は、つくづく幸運な奴だな。睦月?)

 睦月の顔に付いた汚れを払い、カデンツァはその顔を眺めた。(どうして私は、お前が気になるんだろうなァ……それはお前が、どこまでも真っ直ぐで、『素直』だからだろうか? 私の宿主がお前のことを好きだというのもあるんだろうが……フフ、どうしてだろうな、睦月。お前が可愛くて仕方がないよ)

 今のカデンツァは人間の感覚も持ちえている。だからなのか、またしても、腹の奥がギュッと締め付けられるような感覚がした。そして睦月の顔を見れば見るほど、インビュードハンターとして恥すべき、自分でも罰当たりだと思えるような考えが出てきてしまう。それはどうやっても隠し通せぬ、誤魔化しきれない『想い』で、とうとう彼女はちょっとだけ、それを言葉にするのを許してしまった。

(『お前を殺したくはないよ』、睦月--)

 そして睦月の頬にそっと手を添えたカデンツァは、こうべを垂れて、唇を重ねた……睦月の唇はもう冷たかったが、その柔らかさと『衝撃』を、一体、なんと説明すればよいのやら。それに触れたカデンツァの顔はやけに火照り、全身の先端がビリビリと痺れた……なぜ、そんな事をしたのか、自分でもわからない。でもなんとなく、そうしたほうが効果は上がるような気がする。結果的に見ても、カデンツァは限りなく睦月に接触できたので、彼の心身共に、奇跡を行使させるには十分な効果があったようだ。

 奇跡は神秘的な緑色の光となって二人を包みこんだ。それはアストラル体とエーテル体が織り成す生命の光である。カデンツァは唇を離したが、顔は近づけたままでいた。そして自分はなんと莫迦げたことをしたのだと思いつつ、戸惑いの表情を浮かべながらも、自分の唇を内側に吸い上げて舌で舐める。緑色の光は睦月の体を迅速に再生させ、エーテル体に保有されていた魂もいつも通りの量に戻った。どうやらカデンツァの奇跡は、無事に行使されたようだ。

(よし。いいみたいだ……『強い』な、お前は--)

 奇跡の効果を実感していたカデンツァだったが、いきなり瑞穂が彼女の肩をどついた。

「のわっ!」

 まったく予期していなかったので、カデンツァは無様にも背中から倒れてしまった。そしてカデンツァをどかした瑞穂は、肉体が再生した睦月にしがみ付いて彼女を睨む。カデンツァは小首をかしげ、小さなため息をついた。「なんだいお嬢ちゃん。焼きもちかい? フフフ」そしていたずらっぽく笑う。瑞穂は顔をプイとそむけた。その仕草がなんとも愛らしく、カデンツァは面白そうに瑞穂を茶化す。「おい瑞穂。どうやら口付けを交わしたほうが効果はいいらしいぞ? どれ、お前にもしてやろーじゃないかァ--」そしてニヤニヤしながら四つんばいで瑞穂に近づくが、パッと振り返った瑞穂は彼女から逃げ出した。「こらっ、逃げるな!」

「やだっ! やだやだやだッ! やだやだぁーー!」

 カデンツァは瑞穂の背中に飛びついて、そのまま仰向けに倒れた。瑞穂はジタバタと暴れたが、その時初めて、ハッキリとした声を出した。「大丈夫だよ瑞穂! 心配するな、落ち着け!--」そのままの姿勢で、カデンツァが語り掛ける。

「少し眠るがいい。そして、起きる頃には、また、元気に……」

 ゆっくりした口調で喋り終わる頃、瑞穂はだんだん動くのを止めた。カデンツァはわざとじゃれついた節もあるが、瑞穂にも睦月と同様の奇跡を行使したのだ。いつの間にか瑞穂は眠ってしまった。

 それからカデンツァは瑞穂を睦月の隣に寝かせると、ぐるりと辺りを見回した。相変わらず木々はざわめいているが、もう先ほどのような気分の変化は見られなかった。

 そしてある方向に、急速に接近する何かを察した。それはAOFを使用した長距離移動のようで、インビュードハンターにとっては格好の攻撃対象といえよう。

(この感じからすると多分、睦月の仲間か。あからさまにAOFを展開しているおかげで、どうやら我々の仲間も後方に喰らいついているようだな。私も迎撃してやってもよいのだが……あいにく、『私にはまだやる事が残っている』。よって、こいつらの相手をしている暇はないな)

 カデンツァは最後に睦月を見たが、すぐに見るのを止めた。しかしちょっとだけうつむくと、指先で自分の下唇を軽くなぞる。(なにをしているのかな--)そんな風に考えて、顔は苦笑しつつも、なぞった指先をギュッと握り、こぶしに変えた。

 そうして彼女は顔を上げる。その顔にはもう笑顔は消えていた。

 察するに、接近する何かはやはりこの工場を目指しているらしいので、カデンツァはそれに向かって移動を開始した。すると、十秒もしないうちにそれを目視することができた。

(なんだあれは? 女が少女をおんぶしているぞ?)

 実におかしな光景だったが、彼女にとってそれはどうでもよいことだった。彼女はその二人を追跡していたインビュードハンター達に向けて情報を発信した。

「お前達が追っているのは穏健派のメンバーだ。それよりもハントランクの高い獲物が現在逃走を図っているぞ。どうだ? 一枚噛まないか?」

 インビュードハンター同士は不思議な繋がりを持っており、言葉なくして情報交換が可能なのだ。カデンツァの問いかけに対して、集団の誰かが返答をよこした。

「ほう。見たところアンタ、上級のハンターらしいな。しかしこちらとしても、あんなに目立つ行動を見過ごすわけにはいかない。アンタだってそう思うだろう? それにどうやら、向かう先にはもう二人いるようだ」さらにもう一人が答える。「どうやらあなたは、さっき起こったストラクチャーの近くにいたみたいね。という事は、それを引き起こした張本人を追っているのかしら? だったらその意図は分かるけど、残る二人を殺さずに放置した、というのは理解に苦しむわね」

 それに対して彼女は反論する。

「ハントランクの優先順位に従ったまでだ。それに連中はもとから動けやしなかった。抵抗しない者を殺すほど、私は飢えていない」

「あら? そう。でも私は殺したいわ」「俺も同感だね。そりゃーアンタ程になれば、でかい獲物を狙いたいのは当然なんだろうが」

「バカバカしい。お前達は目の前の『雑魚』ばかりしか見えていないのか? 後方には、それとは比べ物にならないほどの獲物がいるというのに。多勢で雑魚を簡単に仕留めるわけか。そうかそうか。だからなのかな? お前達のランクが低いように見えるのは」

「なに--」

「もし私の話に乗り、奴を仕留める事ができたのならば、それはお前達の成果ということにしてやろう。支援を申し出たのは私だ。利益など無くて当然……いや、むしろこう言うべきなのかな? 『お前達の中の、誰か一人が』--」

「何を言っているの? あなたは--」

「この話に『乗る』のか! 『乗らない』のか! ……お前達の腕前から察するに、これは相当いい話だと思うのだがなァ?」

「話にならないわ。私は--」「それは本当だろうな。だったら俺はいくぜ」

 複数いる人物のうち、一人はカデンツァの話に喰いついてきた。「ただしアンタが常に先行しろ。でなければ数が多いとはいえ、返り討ちにあいかねん」「もちろんだとも。それに返り討ちなど……考えてもみろ。相手は一人だ」その反応にしめたと思い、カデンツァは続けた。「一気に囲んで仕留めればすぐ終わる。そう、その時、『誰か一人』が、とどめを刺すことによってな……それでも二人を追うのであれば、行くがいいさ。『たかが二人』をこんな大勢で追っているほどだ。それこそせいぜい、返り討ちに会わぬようにな。フフフ」

 彼女の『扇動』はその殺し文句によって達成された。反対していた数名も、まるでカデンツァから痛いところを付かれたかのように黙ってしまった。

「上位のハンターには変わり者が多いって聞くが、やっぱアンタも変わってるな。名前は何て言うんだい?」

「……私の名はカデンツァ。終止符の前に、ちょっとしたはなを添える者だ」

 実のところ、彼女達の会話は一秒足らずしか経過していない。視覚的に見れば、カデンツァは地走し、他の者は跳躍しつつ二人を追っていたのだが、カデンツァが集団の直下を通り過ぎた途端、集団もクルリと反転、彼女のあとに続いて行った。

(睦月よ。これで本当に、貸し借りはゼロだぞ……)

 もはや人間の感覚は微塵も残ってないにも関わらず、そう思った途端どういう訳か、もう一度だけ、カデンツァは自分の唇を指でなぞりたい衝動に駆られた。

*読み終わって思ったこと*

イーブルアイ「……ッ! 作者っ貴様、『まだつづく』だと--」

作者「次回をォ、お楽しみにィィ……ッ!」

瑞穂君「もうやめて! 作者のHPは0よ!」

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