15:サイファー その弐
15:サイファー その弐
時間は四時間前にさかのぼる−−−−
学校を飛び出したまでは良かったが、さてこれからどうしようと思った。まさかあんな場面で睦月の体を乗っ取れるとは。不意の出来事で俺としても計画不足だったものの、まぁ結果オーライといったところか。
それにしても、こんな真昼間から選手交代できるとは予想外だ。状況としては面倒になってきようだが、俺個人の成長からすればとても素晴らしい成果だろう。もしかしたらこれ以降、俺がこの体の主導権を握っていられるかもしれない。
ともあれ、今は現状を乗り切らねばならなかった。
俺は槍杉学園からある程度離れて見知った街路へ出ると、そこからは逃亡の身にも関わらず優雅に歩いた。そして考えるのは、置いてきた泉とカデンツァの事だ。
(カデンツァの奴、邪魔をしやがって。奴がいなければ今頃は……)
今更ながら、泉を殺さなかったことをちょっぴり後悔する。だがそのおかげなのか、カデンツァは俺を追ってきてはいないようだ。
(フム。それにしても連中(穏健派)は、一体どれくらいで動き出すものかな。インビュードハンターの気まぐれに付き合ってなどおれんからな。あの女が泉を始末しなかった場合……それはつまり悪いパターンだが……それを想定して考えるか。そうすると、泉は今すぐにでもレイに連絡するかもしれない。となると、レイはすぐさま部隊を動かしてきやがるだろう。それともいったん、部隊を基地に集結させるだろうか? さぁて、どうだろうな。あの用心深いレイのことだ。多分全員にフル装備させるため、基地へ戻す可能性が高い。なんだかんだで奴は仲間思いだからな。出会い頭のエンカウントじゃ、どう考えても俺に分があるってことは承知だろう)
考えていると、俺は街灯にくっ付いている装置を見つけた。(おっと危ない。そうか監視カメラか)全く目立たないそれは、外見だけだと監視カメラと気づかない人もいるだろう。俺はそれの視界に入らないような位置取りで歩く。(つまらん小細工だが、厄介だな。コレはいたるところにあるぞ。もしかしたら既に、どこかで映ってしまった可能性もある。……今はまだいいか。行き先だ、バレちゃーまずいのは)そうしてまた歩き出した。
(しかしレイの奴は本当に部隊を集めるだろうか? 今現在散らばっているメンツを、そのまま探索に当たらせるかもしれん。いやそれ以前に、桜桃県城壁へは。……それはないか。ただでさえ連中は俺達のことを嫌っている。そんな奴らの中からDSPが出たから探索手伝ってくれなどと言われたところで、お役所仕事みたくノラリクラリとしているに違いない。だとすれば城壁共の手は借りれん。しかしエルベレスのメンツだけでは探し出すことなど不可能だ。とした場合、ほかに誰から手伝って貰えるだろうか? ……例えば、アストラルガンナーズか。あそこの司令官とレイは仲がいい。二つ返事で了承する可能性だってある。そうなった場合、結構厄介かもしれんな。まぁもっとも、俺がこの桜桃県から脱出してしまえば−−)
そこまで考えて思った。俺は一体、これから何をすれば、いや、何をしたいのか。しかしそんなものは愚問であった。
(俺がしたいのは殺しだ。食事だ。なんてこたーない。『スカッとすりゃーなんでもいい』のさ。俺には力がある。何故それを出し渋る必要がある? 誰のためにこの力はある? これは俺のためだ。そうだろう? 相棒よ)
俺の足はガンダーラマンションズへと向かっていた。そして別に調子こいて優雅に歩いていたわけではなく、多少早歩きでだ。
ズボンの右ぽっけから携帯を取り出すと、槍杉学園から脱出して六分ほど経過していた。携帯の電源は切っていなかった。どうせ切ったところで内臓されているGPSのシグナルは消せはしないだろうし、時計はこれ以外ない。そして携帯を何故今も持っているかというと、コレは囮に使えると思うからだ。
(さて、睦月。なんで俺は自分の家に……ん? 『俺』の家ですって? 莫迦言え、『俺』のだ)
鍵を開けて中に入ると、入って一番手前のドアに向かう。睦月はこの部屋を使っておらず、何も無い空き部屋のはずなのだが−−
(どうだい? お前の家に、こんな部屋は無かっただろう)
部屋の中は小奇麗に片付いた、まるで誰かの部屋のようだった。というか、これが俺の部屋だ。フローリングには絨毯が敷かれ、横になれるほどのソファが設置されている。木製の戸棚もあり、中にはハンドガンやアサルトライフルが何丁か収められ、その他にはナイフや手榴弾、高性能爆薬などがあった。壁には日本刀や近代型の硬質ブレードが飾られている。
(こういうのは集めだしたらキリがねぇな。お前と同じさ。……しかしだな? まったく。どうしてお前は、こんな部屋が出来上がっちまってることに気づけなかったんだ? どうしてだい? 一体)
俺は戸棚に向かうと、手榴弾などが入っている引き出しの中から小ぶりの結晶を取り出した。それは五百円玉くらいの大きさで無色透明だが、プリズムのように綺麗な色を放っている。
(この部屋を使えるようになったのは、お前が瑞穂を追っ払った頃からだ。アイツは部屋を勝手に掃除しやがるからな、まったく余計なことばっかしやがる。だがアイツがこなくなったおかげで、やっとここを使えるようになったんだ。お前のおかげさ)
結晶を左手に持つと、モールス信号みたく規則的に間隔をあけて、右の中指でトントン叩く。
(それにしてもお前、頼んでもいない通販の商品が届くことにおかしいと感じなかったのか? それとも見慣れすぎてて、意識すらしていなかったのか。まったくズボラな奴だぜ)
信号を打ち終えると、しばらくしないうちに結晶のアストラル体が定期的に光を発し始めた。通常の視覚では見えない青い光が出たと言うべきか。
俺は意味もなく部屋に戻ってきたわけではなく、これを使ってイーブルアイと連絡を取るためだった。今俺が発信したのは『体を手に入れたぞ』『緊急事態』といった二つの合図。受信したのは『今から向かう』といった具合の合図だ。
(俺の持ってるこれ。なんだか分かるよな。通信用のつがい石だ。なんでもお手製なんだってさ。まったく、自分でこんなもん作れるなんて羨ましいぜ。俺も今度教えてもらおうかな。さて問題だ睦月君。一体誰に、教えてもらうのかな……?)
ふざけやがって、なめんじゃねえ!
「うっ!?」
いきなり睦月が暴れ始めた。奴の声と共に一瞬だけだが肉体の制御を奪われ、手に持ったつがい石を窓に向けて投げる姿勢になった。目線は窓を飛び越え、向かいの部屋に焦点が合う。正光の部屋にブン投げようって訳か。「クッ……む、無駄だ−−」とっさに俺は全身に神経を集中させ、睦月の制御を無理やりねじ伏せる。
(チッ。まったくとんでもねえ山猫だぜ。すでに俺の存在から押しつぶされてもいい頃だってのに、一体どうしてお前は、まだそこにいれるんだよ)
そうは思ったが、今のは正直ヒヤッとした。たかが一秒程度の反抗だったが、もし大事な場面でそんなことをされたらたまったもんじゃない。とにかく睦月が消滅するまで、気を張ってなければいけないだろう。しかし奴め。考えたものだな。もしこの結晶がブン投げられていたら、結晶は砕けてしまうだろう。そうすればごく僅かな欠片からでも通信相手の場所を特定をされてしまう。
そんな風に考えていると、引き出しの中にあった爆薬を見てにやりと笑った。(睦月の莫迦が。置き土産ってなぁ、こういうのがいいだろ)そうして置いてある爆薬を手に取る。
(コイツが何かは言うまでもないよな? ラインセルだ)
それは厚さ六センチ、長さ十四センチほどの円柱をした鉄板だった。一見して地雷にも見えるが、これは壁にくっつけることで威力を発揮する設置型の爆薬だ。特徴は爆風が周囲に飛び散らず、設置面に対して一直線に伸びる点である。そのため周囲に破片を散布する通常の爆薬と違い、殺傷力を収縮させるため非情に高い。一発限りの超巨大なショットガンとでも言えばよいのだろうか。とにかく至近距離で喰らえば、モリエイターといえど即至急のダメージを被ることになるだろう。
俺はそれを持って玄関に向かった。多分においてここも調べられるはずだ。その捜査官に対して、俺なりの歓迎をしてやるのだ。
トラップ設置に時間はかからなかったが、俺はまた携帯を見る。あれから八分が経過していた。
そろそろ携帯を処理せねばと思い、バルコニーから飛び降りた時だ。また内側に押し込めたはずの睦月が暴れ始めた。
(睦月の奴っ、まだ暴れる力が残っているとはな! まったくあっぱれな奴だぜ……ん?)
その時、俺は気づいた。睦月は俺の感覚を共有、いや盗み見る事ができる。俺も以前からそれをしていたからだ。だがそのおかげで、睦月はどうやらあるものを見つけたようだった。(ほほー、なるほど−−)そして俺はニヤリと笑う。(だから突然力が沸いたのか。それともがんばって搾り出したのかな。まぁどちらにせよ、墓穴を掘ったようだな、相棒)
今の体は本来の俺、サイファー形態を取っている。だがちょっとした思いつきにより、意識はそのままで、体のみを睦月の形態に戻す事にした。肉体を形成する骨や筋肉が急速に退化し、それらは熱となって放出される。いきなり熱くなった俺からは汗がドッと出て、急激な空腹感を覚えた。だが俺の顔は笑っており、口はヘビが這うように歪んでいる。これから味わうだろう至極のご馳走のためなら、これくらいは必要だろう。(美味い飯を喰う前にゃ、腹をすかせねーと、ってね)想像しただけで口の中は唾液で溢れた。
俺はガンダーラマンションズから歩いて数十歩のところに身を潜める。そしてしばらくじっとしていると、向こうの曲がり角から瑞穂が姿を現した。そこからは壁の向こうから霊視によって観察をする。瑞穂はいつものピンク色したお出かけ衣装で、右肘には女が好んでよく使う、小さくて一体何を入れるのかよく分からない小ぶりのバッグをさげている。左手にはどこかで買い物でもしたのか、ビニール袋が持たれていた。一応バッグの中身も確認したが、CSGの類は入っていない。まったく無用心な事だ。
(なんだか楽しい気分だなぁ! どうだね! むつきぃ、えぇ!?)
体中に鳥肌が立つくらいに不思議な高揚感を感じる。今まではただ食事を済ませるだけの行為としか思っていなかったが、どうしてだろう。相手が瑞穂となると、俺は異常に興奮した。それにこうも気分が高ぶってしまっては、追っ手のことなどどうでもよくなってくる。
あの可愛いむすめがここに到達するまで、あと十秒。九、八、七−−
(ヒャア! 我慢できねぇ、ゼロだ!)
不本意ながらも俺は後先考えずに、身を潜めていた場所から瑞穂の前に姿を現した。
「オッス瑞穂」
そして睦月の口調と声で喋る。自然と湧き出る笑みと相まって、我ながら実にさわやかな発声であった。
「あれ!? 兄様!」
瑞穂は案の定驚いた顔をした。
「えっ? なんでなんで、学校はどうしたんですか?」
そしてそんな事をいう。俺はその反応を聞いて、状況は良いと思った。もしエルベレスから連絡があったならば、こんな反応はしないはずだ。いやむしろ、買い物から自宅に戻っている時点でそれはなかったのだろう。あの時は気づけなかったが、まぁ、これは、実に好都合だ……。
「いやお前、何も聞いてねぇの?」「何かあったのですか?」再度確認してみたが、やはり何も知らないようだ。と言うことは、まだ泉は連絡を入れていないという事になる。それとも瑞穂はしらを切ってるのだろうか? ポーカーフェイスに定評のある瑞穂だが、この俺が見てもそうは思えない。
「フム。とりあえずあれだ。ちょっと携帯貸してくんねーか? 気になることがある」
「いいですよ?」
俺の言葉を疑いもせず、瑞穂はバッグの中にある携帯を差し出した。電話やメールの履歴を確認したが、今日のは何もない。だがその潔白さが逆に、小さな不安要素を肥大化させてゆく。疑うべきなのだろうか。いや、だが−−
「瑞穂、こっちこい」携帯を自分のぽっけにしまうと、俺は瑞穂の手を握って人気の無い住宅地の隙間に入り込む。「えっえっ? 兄様−−」疑うべきなのだろうが、ダメだ。俺の中の衝動はもはや抑えられない。
流石の瑞穂も、いきなり狭くてじめじめした場所に連れてこられると、俺を見て困ったような顔をした。だが抵抗といってもそれだけだ。「ほら、向こうむけよ」焦った口調ながらも、俺は瑞穂の小さな両肩に手を置いて背を向けさせる。なんということだ、それすらも瑞穂はされるがままだ!
「あにさま?−−」
息を荒げる俺を不振に思ったのか、瑞穂は小首をまげて俺を見上げ、不安そうな可愛い声を漏らした。ゾクリ。(これはヤバイ、ハハ、も、もうだめだ、どこから喰う。く、首か。喉か。そうだな、悲鳴を上げられたら周りが気づく。なるほどなるほど−−)
だがそんな風に考えた途端、いきなり瑞穂が持っているものを地面に落として、肩に置いた俺の両手を払いのけた。勘付きやがったか!?
「おーっとォドコへ行くんだいッ!?」すかさず瑞穂の長い髪を掴む。「ぎっ!?」瑞穂は勢いよく走り出したが、無様なことに頭がグンと引っ張られて首を変に反らせた。次に瑞穂は右手から下弦をモリエイトさせる。俺もサイファーをモリエイト、そして髪を引っ張って引き寄せ、それを喉元に当てた。
「迂闊だなぁ瑞穂」「ぐっ、くぅ……!?」「ハハ、お前は下弦でどうしようとしたんだぁ? まさか愛する兄様を、ぶった斬ろうとでも思ったのか? えぇ〜?」
サイファーから緑色の光が放たれた。こうも至近距離でまともに浴びれば、瑞穂ごときならば数秒でコロリと寝返ってしまうだろう。案の定瑞穂は右手をぶらんと力なく下げると、下弦を地面に落とした。いつしか目の中の光すら失われて、もはや突っ立ってるだけの人形と化してしまった。
「おやすみ瑞穂−−」
あぁ、これでゆっくりと食事を楽しむ事ができる! 今すぐ俺は瑞穂を冷たい地面の上に押し倒し、両肩を荒々しく掴み、白くて綺麗な喉首に喰らいつくことしか頭になかった。肌の表面は湿っぽくて少ししょっぱいだろう。歯を食い込ませれば、筋肉や神経の節が噛み切ろうとするたびにピーンと張って邪魔をするだろう。大量の鮮血を浴びることになるだろう。いたいけな少女の! 自分を兄様と慕う可哀相なこの少女の! 瑞穂の!
その時だった。視界の上からいきなり『光る線』が降りてきた。「!?」それは俺の首に到達すると、グンと俺の体を動かすほどの勢いで後方に引っ張った。
「アガァッ!?」
俺は瑞穂を手放すまいと思ったが、予想以上の圧迫感により、とっさに両手を首に巻きつく謎の発光体へ伸ばす。触った途端、両手のひらはジュウと焼け焦げるような感覚を覚えた。
瑞穂を手放した地点から二メートルほど引き離されたところで、俺は何者かと背中でぶつかった。瑞穂にしていたのと逆のパターンだ。俺が背中から何者かに捕縛されている。
「なるほど? 人を殺すどころか、捕食までするか」
後方から聞いたことのある声が聞こえた。コイツは……!
「カデンツァか……ッ!?」
途切れ途切れに俺が言うとため息が聞こえた。こちらからは見えないが、小首を傾けて呆れたような表情をしているように思える。
「キサマに名乗る名など無い」ムスッとしたような声がした。「それにしても、なんとも優雅なものだなぁ? こんな所でお食事とは」そして最後にカデンツァは付け加えた。「反吐が出る」
その言葉の直後、俺の体に電撃が走った。「アアアーーッ!」実に五秒程の通電らしき感覚だが、それは俺の身体機能を麻痺させるのに十分だった。無様な事に俺は悲鳴を上げてしまい、それが収まったあとは指一本動かすことができなかった。それを考えればコレは電撃ではなく、それに似た特殊な何かだ。本来なら立っている事すらできないのだが、首につっかえているわっかのせいで首吊り状態である。カデンツァの体が支えになっているのが唯一の救いで、そうしてもらっていなければ呼吸すらできなかっただろう。
「ふーむ。それにしても一体、どうすれば睦月を外に出してやる事ができるのだろうな……」
カデンツァはわざとしているのか、考えを口に出している。「殺しの仕方は分かるものの、そちら方面の知識はさっぱりだ。……睦月よ、聞いているか?」
(クソ、体が動かん……! サイファー一本すらモリエイトできんとは……!)
「一体お前は何を引きこもっているのだ? 早く出てきなさい。それとも相当に追い込まれているのか? こような下衆ごときに−−」
言葉の途中、カデンツァは俺の表情に気づいた。俺がどんな顔をしていたのかというと、瑞穂を見つけた時のような、歪んだ笑みを浮かべている。カデンツァが顔を前に向けた。そこには茶色の分厚い、貴金属で装飾を施されたローブを着た人物が立っていた。頭にはローブと一体化したフードを深くかぶり、口元あたりしか目視できない。
「……何者だ」
そしてそんな風に言う。まったく傑作だ! そして俺は確信した。『アレ』はどうやら確かな性能を有するらしい。そしてカデンツァは、睦月へ語りかけるのに夢中で、今しがた現れた『彼』の存在に、インビュードハンターであろう者が全く気づいていなかった!
彼はズイズイ歩みを進めて俺に近寄ってくる。カデンツァは危機を察したのか、空いた手で光るわっかを作り出すと、それを彼に投げつけた。だがそれは彼のローブにぶつかると辺りに飛散した。
「なに−−」
彼は俺の首に巻かれた光るわっかに触れると、なんとそれも消失した。俺は力なく地面にひれ伏したが、その後、彼はカデンツァの喉首を片手で鷲づかみして壁に押し付ける。
「ッ!」
カデンツァは両手のつめを食い込ませるほどの勢いで首を押さえる腕を掴む。更に言葉なくして眼光をギラつかせると、周囲に衝撃波を発生させた。俺にも影響が及んで地面をごろごろと転がってしまったが、彼はまったく微動だにせず、立ったままの状態を維持できるようだった。しかし空間が流動したためか、ちょっとした軽いそよ風が巻き起こり、彼のかぶっているフードが持ち上げられてしまったようだ。
その中から現れたのは、彼の、イーブルアイの顔だった。
彼は一度俺のほうを向いて、またカデンツァに目を戻すとゆっくり喋った。
「……面白い。どうやらこのインビュードハンターは、相当高位のランクに位置するみたいだな」
さっきの衝撃波を喰らったからなのか、彼が俺の傍に近づいたからなのかは知らないが、体の自由を奪う痺れは薄れてきた。「そのようだな……」なんとか俺は彼に返答を返す。
彼の表情を見ると、さっきの俺みたいな笑みを浮かべている。
「おいお前。どうした。もっと抵抗してみせろ」そしてカデンツァを挑発するようなことを言う。「誇り高き孤高の戦士は窮地に陥った途端、こうも惨めになってしまうものなのか?」
「他者の魂を纏うだと?」しかしカデンツァは違う内容を語りだした。「お前は自分のしている事がどういうことか、分かっているのか」それを聞いた彼はまたしてもニヤリと笑い、手の力を強める。「うぐッ!?」カデンツァはらしくない可愛い悲鳴をちょっぴり上げた。
「違うぜインビュードハンター。こんなことは昔からあっただろう? 人は昔、激流にかけた橋を守るために、一体なにをした? それと同じさぁ。人が人を守るんだ。命をかけてな。ッヘヘヘヘヘ……」
実に無様だった。インビュードハンターともあろう者が、モリエイターを前にして成すすべがないのだ。挙句の果てに、本来絶対にありえないはずだが、壁に押し付けられたまま首を絞められて、窒息しかけている。こいつぁいい、無様か、そうだなぁ! 実に、実に無様だ!
意識を失うぎりぎりの所で、彼はカデンツァのみぞおちをしたたかに殴りつけた。「ウゥッ!」がんばって肺に蓄えていた酸素を無理やり吐き出させられて、カデンツァは声にならない声を上げる。そして頭を垂れて意識を失った。
「へ、ざまぁねーぜ。カデンツァ。その茶色いローブは、以前話してたAISの試作型かい?」体を動かせるようになった俺は、倒れたカデンツァの髪を掴んで頭を持ち上げて続けた。
「あぁ。おっと! 殺すんじゃない」
俺がカデンツァの首をへし折ろうとでも思ったのか、彼はそんな事を言った。「まだコイツには試したい事がある。このまま捕獲する」
「捕獲ですって? いつまた意識を取り戻すか分かったもんじゃねーぜ?」
不思議に思う俺の傍で、彼はローブを脱ぎ始める。ローブ姿では分からなかったが、彼は藍色のジーパンに黒い長袖シャツを着て、その上から灰色の半そでワイシャツみたいなのを羽織っている。
「無論だ。このデスローブを直接着させてやるのさ」
そしてカデンツァの体を持つよう俺に指示をして、ローブを着させた。
「目が覚めたとき、果たしてどうなる事やら。ヘヘ、楽しみだな」
デスローブ、AISとはアンチインビュードハンターシステムの略だ。これは強硬派が推し進める開発計画のひとつで、これさえあればモリエイターがインビュードハンターの脅威から開放されるのである。実際さきほどのカデンツァはこいつに手も足もでなかったようで、俺から見ても性能は申し分ない。問題点としては、非情に製造工程が面倒この上ないことと、常に熟練したモリエイターが傍についていなければ機能しないという所だ。さらに着脱時や機能を発生させる時にちょっとでもミスると、ただの布切れになってしまう。原理は簡単だ。この特殊な布媒体に、モリエイターではない人間の魂を定着、固定させる。インビュードハンターは一般人に対して特効性を持たせられないので、そんな事をされたら先ほどのようになってしまうというわけだ。
「そこに寝てるガキは−−」彼が瑞穂を見た。「あぁ、睦月の妹だ。コイツを喰っちまえば、睦月の野郎も絶望して、消えてなくなると思ったんだが」俺も瑞穂を見て言う。
「ほほお。そいつは名案だな。だが……今はとにかく、場所を変えねばならんだろうな。急いで喰った所で効果は薄い。やるならもっと盛大にな。……ところで、このガキが睦月の妹とするならば、奴の部隊の連中はどうした」
「あぁ。あれから……十分以上経ってるが、未だに連絡はねぇ。多分まだ知られてはいないんだろう」俺は携帯の時計を見ながら言う。「よし、上出来だ。早いとこ雲隠れするぞ」
彼はデスローブに包まれたカデンツァを抱き上げた。俺も立ち上がったが、地面には瑞穂が持っていた荷物が散乱しているのに気づいた。これでは不審に思われてしまうかもしれない。部屋も近いということで、俺は瑞穂の部屋にそれらを置いてきた。しかしちょっとだけ気になったのは、瑞穂が買ってきたものだ。それは近くにある文房具屋の袋で、中にはやはり大学ノート数冊とシャーペンや筆記用具が入っていた。一体こんなものを何に使うというのだろう。
それから俺は、積み込み作業をしていたトラックに携帯を隠した。果たしてこんなものが役に立つかどうかは分からないが、少なくとも兵隊共に面倒な仕事を増やしてやれるだろうとは思える。その間に彼が適当な車を調達していた。
「瑞穂、おいで」
サイファーの光を浴びていた瑞穂の操作は楽なものだった。すっかり俺のいいなりで、言葉一つ発することなく指示通りに動いた。こいつの意識は完全に俺が掌握しているようなので、俺の傍にいさえすれば光を浴びせ続けることもなく、半永久的にこのままであろうと思える。そういうのは、例えば俺が意識していない睡眠中などは、その限りではないという訳だ。まぁ寝るもなにも、夜食がこいつだから全く問題はない。
車は彼が運転して、助手席に俺が乗っている。彼は無言のまま運転しているのだったが、一体どこへ向かっているのだろう? 些細な疑問が浮かんだので、俺は彼に聞いてみる事にした。
「なぁ、一体どこへ向かってんだ? 強硬派と合流するなら南へいかねーと駄目なんじゃねーか?」
「合流するならそうだ。だが県をまたぐとなると少なくとも一時間はかかる。その頃には既に穏健派が動き出して、警戒網を張っているだろう。無論俺とお前の二人だけなら突破は容易だ。しかしお荷物が二つもあれば、どうだろうな。それに強硬派って連中はどうも好かん。力量がある奴も確かにいるが、そうではない奴も威張りちらして群れを成す。……まぁ、穏健派には後者しかいないが」
「じゃーこのまま、桜桃県の中に潜むわけか?」
「俺はそうしたいね。現に俺はかれこれ数週間はここにいるんだぜ? ちゃーんと我が家だってあるさ」
「へぇ。そいつぁ楽しみだな」
「あぁ。とりあえず、ほとぼりが冷めたら桜桃県を脱出する。手土産有りと無しのご帰還は、えらい違いだからな」
車は出来根市から北西へ向かう自動車道へ乗った。周りの景色は市街地から田園風景に変わり、徐々に勾配も高くなり始める。いつしか田園と平行して、木々が折り重なる森林地帯に入り込んでいた。後部座席を見ると、瑞穂は俺の支配下にありながらも窓から外を眺めている。カデンツァはというと、トランクに押し込んでいるのでどうなっているかは分からない。
「それにしても」運転をしていた彼が口を開いた。「まったく面白いようにコトが運んだな。今やお前は睦月に変わり、その体を手中に収めたわけか」
「そうだな。ま、アンタのおかげさ」彼が世間話をするのは珍しいことではないので、俺もそれに合わせる。「しかし勘違いしないで欲しいね。そうは言っても、いつかは俺の力で出てきていたはずだ。アンタのおかげで、ちょっぴり早めに出てこれたってだけの話だ」
「ハン、言うねぇ。そんな自信があったと」「もちろん」「そうかいそうかい、ッハハハ−−」
実のところ、彼とは結構前からこんな風に話をしていた。それは睦月の奴が日中具合の悪そうにしていた頃からだ。何故睦月が夜中寝ているにも関わらず寝不足気味だったかというと、夜間の間は俺が体を使っていたからなのだ。そしてその時から彼と会い、狩りの仕方から、本来の人格、睦月を押しつぶす方法を教えてもらっていた。しかし俺からしてみれば別に、言われるまでもなかったんだがね。つがい石を貰ったのもそうやって会っていた頃だった。
車内での談笑が盛り上がる一方、四十分程走行した車を捨てて、そこからは山林を徒歩で歩く事になった。この辺まで来ると民家はおろか人の気配すら感じることもない。背の高い木は視界を遮るので、道路からは目視できない。もっとも霊視されれば話は別だが。
そのことについて彼に指摘してみたが、やはり抜かりはないようだった。
「この辺りは浅い気脈が何本も通っている。だから動物やら無様な怨霊共がこうも住み着くわけだな。この浅い気脈はオリハルコンを生成するだけの力もないし、モリエイターにとって特に価値の無いもんだ。しかし、撹乱用のオリハルコンを稼動させるだけのエッセンスなら事足りる」
「なるほど。術士が定期的に見回りせずとも、自動的に稼動させ続けられるってわけか。……しかし、俺はてっきり街中に住んでるもんかと思ったぜ?」
「全く俺もそうしたいもんだね。あぁも監視を強くされちゃ、滞在時間はせいぜい一、二時間といったところか。まぁお前が表に出てこれるまでの間だけだと思えば、それもよかったさ。ちょっとしたレジャー気分だな」
レジャーでこんな森の中に何週間も潜んでいたのか? ともかく俺達は、足場の悪い地面を十分近く歩いた。
たどり着いた先は、何十年も前に放棄されたであろう工場だった。外壁や屋根には赤錆がびっしり付いて、どう見ても心霊スポットだ。もっともそれ系の類は彼が既に排除してしまっているようで、先客の姿はどこにもない。周りはどこも木や雑草が生い茂っているようだが、車道の成れ果てらしき二本のくぼみが土の上に辛うじて残されている。骨組みである鉄筋は表面こそ錆だらけなものの、建物全体を今もなお力強く支えているようだ。一方屋根は所々に穴が開いており、これでは雨漏り必須だろう。
工場の入り口に錆付いた大きな鉄の扉があった。本来は赤い塗料が塗られていたらしい風貌だ。
中を覗くと、屋根の穴から降り注ぐ光の線が何本ものびており、砂塵をキラキラと輝かせた。内部には何もなくガランとしており、屋根を支える鉄筋が左右均等に並んでいる。工場の周りを覆う窓ガラスは辛うじて割れずに残っていたようだが、汚れのせいで透明度を失い、日中の間だけ光を通す程度だ。地面はコンクリートだが、ドコから入り込んだのか、そこらじゅう枯れ葉とか土くれで覆われている。目に付くのはそれくらいで、あとは何も無い。
「よくこんな所で過ごせるもんだな! 俺だったら三日で飽きるぜ」俺は中を見た感想を言う。「誰も好きでこんなとこにいねぇよ。俺のように知名度が高い奴は、街中じゃ人目につきすぎるからな。まったく、ありがた迷惑ってなもんだ」彼の口ぶりからすると、やはり本人としても嫌らしい。
彼は一番奥の壁越しにカデンツァを放り投げた。デスローブに包まれたカデンツァは道中で多少の抵抗を示した。だがインビュードハンターの特効作用が無効化されているので、抵抗というのも実に可愛げのあるものだった。無論抵抗などすれば、容赦のない彼からある程度ぶん殴られた。カデンツァは体を動かす事もままならないのか、地面に放り出された時は力むような声を漏らして、そのままモゾモゾしていた。
一見して地面は土くれだけかと思いきや、彼は山盛りになった土の中から古びた鎖を拾い上げた。たぶん知っていたんだろうが、なるほど。確かに注意深く観察すれば、足元には色々な道具や何かの部品みたいなものが散乱しているようだ。彼はその鎖でカデンツァの腕をデスローブごとぐるぐる巻きにして、天井の鉄筋からぶら下げた。カデンツァは十字架に科せられたキリストのような姿で天井から垂れ下がった状態となる。後ろで両手を縛らなかったのは、デスローブがあろうとも、両手を見える位置に置いておきたかったのだろう。
俺は廃工場というのが珍しくて、内部をぐるぐると見学して回った。なんでかは知らないが、こういうのに興味が沸くのだ。赤錆をじかに触ったりして感触を確かめる。ザラザラしていて、触るとボロボロに崩れた。空気は鉄っぽいにおいと、木々の青臭いにおいがした。落ちている朽ちた鉄の棒切れを見つけて、両手で折ったりした。とにかくこの廃工場は、そこらじゅうが廃れていた。以前に活気があったかは知らないが、人間の出入りがあったはずだ。だが今はその面影すらなく、これから未来永劫、錆が鉄を侵食しきるまでずっとこのままなのだろう。ここで働いていた人間は一体、今どうしているのだろうか。ここを建造した会社は今もあるのだろうか。そんな検討もつかない想像が、俺にノスタルジーにも似た感情を覚えさせるのだ。
「む……」
天井に空いた穴を見上げていた時、俺の左手を瑞穂が握ってきた。おお瑞穂君。忘れちゃいないぞ。
「なぁ、そろそろコイツを喰っちまってもいいか?」
瑞穂の背後から両手で作ったわっかをくぐらせて、俺が言う。
「……いや。まだソイツには仕事がある」
しかし彼は否定した。「なんですって? 一体なにが」俺はちょっと不満そうな顔になった。
「ソイツは睦月を兄と称しているらしいな。ということは、ソイツは赫夜の者だ。そして赫夜にいる女、それも騎兵隊に配属されるような人材とあらば……飛影剣を使えるはずだ」
彼と瑞穂の身長は三十センチ近く差があるので、瑞穂に近づくと、まさに文字通り彼は見下ろした。彼には瑞穂のことを何も言っていなかったが、よく分かったものだ。
「まさにその通りだ。でも、一体何をさせるんだい?」
「この工場付近一帯を、飛影剣陽炎で覆わせる。攪乱用の石を配置してあるとはいえ、本業の連中が探索しに掛かったら、どうなるか分からんからな」
確かにうなづける話ではある。だが俺には疑問が浮かんだ。それは以前、睦月の幼馴染である皐月が現れた時だ。余興として開催された因縁の対決で使用するバトルフィールドを、確か六、七人くらいで作っていたはず。それに俺の知識から考えてみても、一人でこの工場を覆い隠すのは不可能ではないだろうか?
「なるほど。だが、一人じゃちっと無理なんじゃねーか?」
「無論、一人ならな」
俺が意見した途端、彼はニヤリと笑ってそう言い返す。
数分後、俺と瑞穂は互いに工場の反対側に立っていた。畜生、そういうことかよ。つまり俺と瑞穂でここを隠せというわけか。結局俺は瑞穂のそれを見よう見真似でパクり、現在は一人で工場に向かい、ツインブレードをモリエイトして術を施している。攪乱用の石のおかげで、AOをモリエイトしてもインビュードハンターに感知される心配は少ない。
俺側に面した窓ガラスがバリンと割れて、中から彼の顔が見えた。
「流石は赫夜出身者。飛影剣もお手の物と言ったところか」
そしてチャチャを言ってくる。
「うるせぇ。俺のなんちゃって飛影剣なんぞをあてにして、どうなっても知らねぇからな」
「おっと、そうなると厄介だな。俺も。そしてお前も」
「…………」
「大丈夫だ。俺が見る限り、お前の術は確実に機能している」
彼はそこまで言うと、次の言葉からは少し口調が真剣なものとなった。普段彼の言葉は崩れているが、真面目になると口調も変わった。
「しかしお前という奴は、なんとも掴めない奴だな」
「どういうことだ?」
「聞くまでもない。通常、飛影剣は女にしか伝授されない剣技だ。それをお前は何故か使える」
「昔、ガキだった頃にやらされてたんだ。クソ共と一緒にな」
「だがその実、お前は刃から我剣流の手ほどきを受け、現在はそれを自らの剣技としている」
「確かにそうだな。昔は俺だけ二つの剣技を習わされてた。俺の中じゃ型が違うだけかと思ってたが」
その事に関して、別に深く考えたことなどなかった。睦月とて深く考えてはいない様子だった。奴はそういった面倒な所を毛嫌いする趣向があり、俺はそれも同感だと思える。彼はしばらく黙って、下を向いたり、ツインブレードを眺めたりした。数分後、また彼は俺を見た。
「しかしどう考えても、飛影剣は男に扱える訳がない」
そしてそんなことを言う。
「いや……でも実際、俺いま使ってるけど−−」
「……そこが掴めんのだ。何故お前はそれを扱える」「なぜと言われてもな」
「ではお前は、睦月の親を知っているか?」
「うーむ。残念ながら俺の自我が生まれた時には、それらしき奴はいなかったな。それに、なんで親がいないかなんてのも、考えた事ねぇや。俺にはいないってだけ思ってた」
「ほお。では御神木の根元や石の中から産まれたとでも?」
「そういう意味じゃねぇ! 莫迦にしやがって」
彼はそんなジョークを俺に投げかけると、笑顔を作って窓から姿を消した。睦月や刃に向けられる表情は残忍で冷酷、そしてある程度キレているが、俺と話している間はとても知的で秀才のような印象がある。それでいて、時には今のようにジョークすら口にする。DSPであり、オブリヴィオンにより発生した彼にだって感情ってものがあるというわけだ。
それは俺にだって当てはまる。俺だってオブリヴィオンによって『不本意』に発生してしまった人格と称される、いわゆる邪魔者のレッテルを貼られた存在だ。だがそんな俺にだって感情はある。嬉しい事は嬉しいし、悲しい事は悲しい。ただその基準が『ちょっぴり』自分本位に偏っているだけだ。俺がやりたいことは、睦月がやりたくてもそれを我慢している事……もっと突っ込んで言えば、『やれば確実にスカッとする、もしくはそうなるだろう事柄だが、それは人としておかしいと考えられている事』だろう。睦月本人には我慢しているところなどなくて、別にやらなくてもいいやなんて思っている部分だとしても、俺はそういった部分に酷く興味がそそられるのだ。駄目と言われるほど興味が沸く。それは俺に限ったことではなく、人間誰しもがそうであろう。『俺達』はそれをためらうことなく行う。邪魔者は排除する。ただそれだけだ。
(それにしても一体、俺はどれくらいコイツを続けなくちゃーならんのだ? AOFの消耗はソウク量より断然少ないからいつまでも続けられるが、やってる本人はもう飽きちまったぜ……)
太陽は俺の真上から光を浴びせ続けていた。周囲が森で囲まれているので、多少湿気があるものの涼しかった。
−−−−−−廃工場内部にて
イーブルアイはぶら下げられたカデンツァに近寄る。彼女は彼の存在に気づいていたが、もはや視線を送るのも難儀な状態だった。
デスローブの効果はどうやら確かなようで、彼女はインビュードハンターの能力をほんの少しも使用することができない。今の彼女は、肉体の主である薬師の身体能力に依存するほかなかった。幸運な事に薬師はある程度鍛えられていたので、多少の疲労には対応できた。だがここに来る途中、イーブルアイは慈悲無き打撃を彼女に何度か放った。そのせいで肋骨や内臓が損傷して、彼女は苦痛と、この上ない屈辱を味わうハメになった。
彼女はいつでも意識を薬師に移す事はできたが、それだけは絶対にしないと心に誓っていた。カデンツァは自分の掲げる美徳を重んじ、それを「こんな状況だから」と軽んじるのは最も恥すべき行為だと信じきっている。だから今も、それを頑なに守っているのだ。
彼女の両足は地面から三十センチほど浮いていた。イーブルアイが顔を近づけると、丁度彼の鼻が、うな垂れる彼女の目線の高さだ。カデンツァがやっと目を合わせると、イーブルアイはしたり顔をして少し距離をとって口を開いた。
「人の英知には驚かされる。地球意志の末端とは言え、それをも押さえ込む力を作り出すとは。……気分はどうだ? インビュードハンター」
カデンツァは黙っていた。
「いつも繋がっているはずの『父』との回線を遮断されて怯えているのか? もはやお前は仲間に助けを発信することもできない。そしてお前の危機を察知されることもない」
イーブルアイは言葉を続けたが、やはりカデンツァは彼を無視する。「フン」彼は鼻で笑うと彼女に近寄る。そして右手に二十センチくらいの細い角をモリエイトすると、カデンツァのわき腹にゆっくりと突き刺した。
「ウウゥ……ッ!」カデンツァのうなり声が工場内にこだまする。イーブルアイはまだ角を握ったままだ。「いいか? 返事をしないとこうなる。覚えておけ」彼女はイーブルアイを睨む。致命傷には成り得ない箇所を刺されたわけだが、その痛みはカデンツァの意識をイーブルアイへ向けさせるのには十分だった。彼は自分を睨みつける表情をまじまじと見つめる。「フフ、いい顔をする−−」次にそう言うと、角をぐりんと回した。カデンツァはまたしても苦痛に悶えた。
「知っていることを吐けば、この苦痛から開放してやるぞ……」
イーブルアイが耳元でささやく。「……下衆が」しかし彼女は彼を罵る。彼は角から手を離すともう一本角をモリエイトした。
「お前達インビュードハンターは−−」喋りながら、カデンツァのわき腹へ角をゆっくりとめり込ませてゆく。「『レイス』の存在を昔から知っていたようだな……? そいつの正体を俺は知りたい。人間の解釈ではどうも腑に落ちん。だからお前の意見を聞きたい−−」
カデンツァの表情こそ変わらなかったものの、イーブルアイは彼女の体に反応を見出した。その質問を聞き終えると、彼女の体が多少強張ったのだ。それは苦痛に身悶えるのとは違う反応で、イーブルアイは何かあると察した。
カデンツァはその質問を聞いて、最初は決して喋るものかと力むくらいであった。そしてそのまま喋らずにいると、イーブルアイが角を離したので痛みは和らいだ。その瞬間に少しだけ、彼女は冷静に物事を考えることができた。
イーブルアイはカデンツァが情報を持っていると悟ったようで、実際にカデンツァはそれを知っていた。単純だが、そこに着目すべき点はあった。拷問に掛けられ、数々の苦痛や屈辱的な辱めを受けたとしても、弱音を吐かず、まさに死ぬまで耐え抜くのは名誉な事だ。……そう名誉、そして美徳! それを考えると、カデンツァは拷問されているにも関わらず、イーブルアイよりも有利な位置に立っているような錯覚を覚えた。そして喋らずに耐え抜き、想像を絶する苦痛の果てには死が待つわけだが、その時、カデンツァの重んじる美徳が達成されるように思えた。
そう考えられるようになってくると、今まで苦痛はただの苦痛でしかなかったのだが、その苦痛が大きければ大きいほど、達成される美徳と名誉が増大するように思えた。
沈黙を続けるカデンツァに対してイーブルアイは拷問を続けたが、不思議な事にそんな考えがあると、苦痛はむしろ快感にも似た感覚になり始めていた。
そんな風にして一時間近くが経過した。カデンツァの体には角が何本も突き立てられている。角によって無理やり止血されているようでその箇所から流血はしていないが、青あざができていたり、皮膚が剥がれていたり、切れ味の悪い何かで切り裂かれたような痕がそこかしこにあった。こんな状態では、カデンツァの体を揺らしただけで相当な激痛が走るに違いない。
「フン。喋る気にはならんか」
イーブルアイは、もはや頭を上げる気力すらないカデンツァを眺めてた。
「まさかお前は、このまま耐え忍べばいずれ自分は死ぬとでも思っているのか?」
イーブルアイの手が勢いよくカデンツァの首を掴む。鎖で吊るされた体がブラブラと揺れると、やはり彼女の体の至るところで激痛が走った。
「お前は死なんよ、インビュードハンター。その寿命尽きるまでな。永久に生かし続けて、地獄を味わうんだ……タイムリミットは、そうだな。俺が別の奴を捕まえて、ソイツが吐くまでか、もしくは俺が違うルートで情報を手に入れた時までかな。そうなったらお前は用済みだ。俺が知っていることを聞かされても、意味が無いからなぁ? この意味が分かるか?」
そうやって十分カデンツァをいたぶると、彼は手を離した。「せいぜい強情にしているんだな。なんだかお前への興味も薄れてきた。帰ったら強硬派のクズ共に引き渡して、慰み者にでもなるがいいさ。それが嫌なら……場所を移る前に、考える事だ。自分のためにな」
イーブルアイはそうして工場の隅に行ってしまった。
その間、カデンツァは身動き一つしなかったが、彼の言葉はカデンツァの硬い意志に亀裂を生じさせかねない要因となった。今は彼女が情報を持っているので優位に立っていられるが、他者によってそれがもたらされた場合、まさにカデンツァは用済みであるのだ。そうなれば彼が言ったとおり、死ぬことすら許されず、地獄を味わうハメになる。仲間のために自らが犠牲になるのは名誉な事だ……だが、そうなればどうであろうか……?
(……莫迦な)
彼女一瞬でも不安になってしまった自分を愚かだと思い、自責の念にかられた。何を言うか。全く自分は何を考えているのだ? 莫迦莫迦しい。そしてカデンツァは更なる『逃げ道』を模索した。こうなったのは自分のミスが原因である。力に驕り、優越に浸りきった愚かな自信家が、無様に怠慢をした結果なのだ。そんな大莫迦者は、相応の報いを受けねばならないだろう。
(……これが、私の業か−−)
カデンツァの体は急に寒気を感じた。今までは意志の力で跳ね除けていたが、急激な脱力感が体を覆い始める。だがそんな状況でもなお、彼女は美徳の事について考えた。
(私は自分に驕りを……いつのまにか持っていたのか……。何が美徳だ、何が名誉な事だ。それすら結局、その驕りの現れではないのか……。……なるほど、では私は、この苦痛を受け入れねばならん。そうだろう。自分のしでかした愚行の報いを、この身で味わねばならん)
そうしてカデンツァは、後ろ向きな考えかもしれないが、とにかくさっきとは違う『耐え抜く力』を宿す事ができた。このまま屈辱を受け続けても良いと思える『逃げ道』を見出せたのだ。結果として彼女はとても暗い気持ちになってしまった。だが以前の状態では、これから続くであろう途方も無い屈辱に耐えかね、うっかりと安易な死を選んでしまっていたかもしれない。それに、もしかしたらもっといい答えがこれから先に見つかるかもしれない。今はとりあえずこれでよい。そんな風に思えた。
カデンツァの正面には入ってきた鉄の扉があり、そこで瑞穂が飛影剣陽炎を施している。彼女の背中からは、人格はサイファーだが、睦月の気配がしていた。
(睦月よ−−)
うな垂れた頭を上げようとしたが、カデンツァはやめた。
(……フフ、まったく。どうやらお前は、『勝てなかった』ようだな……。……こうなるのであれば、あの時。いっそお前を殺しておけばよかったなぁ……)
カデンツァは今まで、これほど後悔の念というものに囚われたことがなかった。そしてなんとも不甲斐なく、情けない惨めな気分になった。
(すまないな、睦月よ−−)
自虐するように彼女は薄っすらと笑みを湛えると、なんだか目頭が熱くなる感覚に襲われた。
今更ながら、設定を後書きに書くのはなんだかずるい気がしてきました。本来なら本文中に表記されるべきではないだろうか……?
誤字脱字に(悪い意味で)定評のある睦月館さんの酷さはさすがと言った所。いくら修正してもきりがない!