14:逃走劇
14:逃走劇
香奈子との電話を終えたレイは乱暴に携帯を閉じた。彼は美咲とともに司令室にいた。
「クソ! あの莫迦がとうとうしでかしやがった!」
電話では荒ぶる気性をがんばって抑えてはいたものの、それが終わるやいなや、レイは司令室に響き渡るくらいに怒鳴り散らした。隣には美咲もいたが、二人の会話を聞いていただけに、彼をとがめることができない。
「捜索隊はエルベレスのみで?」美咲が言う。「当たり前だ……捜索隊? 莫迦いえ、『討伐隊』だ」だがレイはその発言を言い直す。
「なんですって!?」「そうなるかもしれんということだ。上手くDSできりゃーいいが、味方が一人でも殺されたら、俺は確実に野郎をブッ殺すぞ」「……」
「美咲、全員を集めろ。あとIBSに一応報告しとけ……もちろん、標的は睦月じゃなくイーブルアイって名目でだぞ」
「……了解。桜桃県城壁にはなんと?」
「クソ。そうだな、特殊任務とでも言っておけ。睦月は戦花の女王様のお気に入りらしいから、ソイツにたのみゃー喜んで隠蔽してくれるだろうよ」
「では、桜桃県城壁には特殊任務とだけ伝える、いいですね?」「そうだ。女王様には俺が刃に言ってもらうよう説得する」
「それなら、IBSの方にも特殊任務でいいのでは?」「いや、スルメスにはその手のハッタリは通用しねぇと思う。といっても、奴が今この場にいるわけじゃーない。つーことは、イーブルアイ捜索っていう理由が、一番妥当のはずだ」「わかりました。ではそのように」
それからしばらくしないうちに、エルベレスの面子一同がバーわけありに揃った。各自はロッカールームで昼間市街地戦の装備点検をしていたが、足りない人物が三人ほどいる。一人はもちろん睦月だ。
「全員、作業はそのままで聞いてくれ」
レイの声がロッカールームに響く。全員は顔だけを向けた。
「睦月の奴が発狂したのは今から二十分前、槍杉学園でだ。今の状態は非常に危険、いつもツルんでる正光を殺しかけたくらいにな。だがこのまま野放しにはできない。何故なら一般市民を巻き込む惨事になりかねんからだ。それに、今ならまだ睦月を正気に戻せるかもしれん。だが……抵抗が激しかったり、深刻な危機に直面した場合は−−」
彼はそう言いかけると刃を見た。刃は無言のままに、ゆっくり二度うなづく。
「……そうなった場合、始末することを選択肢に入れろ。そのほうが奴にとってもいいのかもしれん……以上だ」
レイは言い終わると、ロッカーの陰に隠れて浮かない顔をしている香奈子を見つけた。彼は彼女に近づいて行くと、彼女は顔を上げた。
「泉、正光は連れてこなかったのか?」
「えっ! 連れて来た方が良かったでしょうか……」
そういえばと、レイは思い出した。正光は致命傷を受けて保健室で寝ているのだった。それを無理やり叩き起こしてくるというのもまぁ悪くはないのだが−−
「……いや、問題ない。むしろ奴『も』いないほうが助かる」
「そう、ですか?」
香奈子はなんとも思っていなかったようだが、彼はうっかり口が滑ってしまったので一瞬ヒヤッとした。
レイは、睦月に親しい正光と香奈子を作戦から外した方がよいと思っていた。もし正光がいたとしても、下手をすれば真っ先に殺されるのは彼であったろう。今の香奈子にいたっては、まともな戦闘ができる状態でないのは誰が見ても分かる。そういった個人の心境を密かに案じるは、司令官の重要な勤めなのだ。
「レイ、ちょっと」ヘッドセットを付けた美咲が彼を呼ぶ。「なんだ」
「瑞穂ちゃんと連絡がつかないの」「……ヤバイな」
睦月と正光がいない理由は分かっている。だが瑞穂にいたっては、全く分からなかった。レイの全身に鳥肌が立つ。睦月に一番親しいと思われるのは、他でもない瑞穂だからだ。
「GPSは」
「確認済みです。でもそれが……見てください。最初は睦月君を探していたんだけれど−−」
手際の良い美咲に感心したのもつかの間、彼女の返事は陰りを含んでいた。
美咲は画面に逆探知した座標を表示する。一視した途端、レイは画面に釘付けとなった。
「オイオイオイ、どういうことだこいつぁ」
画面に映っていたのは二種類のマーカーである。一つは睦月のシグナル。もう一つはなんと、瑞穂のものであった。
レイの驚く声を聞いて、装備点検を終えた各自がちらほらと集まってきた。
「どうした」珍しく刃が真っ先に口を開いた。「睦月と瑞穂の携帯を逆探してるんだが、見ろよ。二人して仲良くぴったり寄り添いながら、移動してやがる」レイは画面を指さしながら言う。
「見たところ、高速道路を時速八十キロ程度のスピードで、桜桃県の北西に向けて移動しているわ」美咲は目測ながらも細かく分析した。「連れ去られたのか?」マッキーが言う。「どうだろうな。今の睦月なら、んなことする前に殺すだろう」レイは冷静に返答を返した。
「……罠かもしれん」
静かに画面を見つめていた刃がそんなことを言う。そして彼は突然振り返るとエレベーターに向かった。「おい刃! お前−−」とっさにレイは彼を呼び止める。
「俺はソイツを追う。エルベレスは予定通り出来根市から探索をしてくれ」
刃は歩みを止めずに返答を返す。それを見たレイは怒鳴り声を上げた。
「ふざけるな! 刃! 止まれ!」
そんなことを言われたら、さすがの刃も足を止めた。そして振り返ってレイと睨み合う。緊迫した二人を全員が見ていた。
「いいか、お前だってエルベレスの一員だ。そしてボスはこの『俺』だ。勝手な行動すんじゃねえ」
「……」
「何故罠だと思う」
「……イーブルアイは睦月がオブリヴィオンに侵食されるのを待っている様子だった。そして奴は、この俺をも狙っている」
「つまりコイツでお前をおびき出そうってわけか。ってことは睦月のほかに、イーブルアイもここにいると」
「外れていてくれたら、全く嬉しい事なんだが」
「しかし、何故日本海側へ移動する必要がある。南へ逃げなきゃ、どこに行っても穏健派の領地だ」
「……そこまではわからん。とにかく行ってみるしかあるまい」
威嚇し合いながら議論する二人に対して、チャコが口を挟んだ。
「(なぁ、携帯をポイッてトラックかなんかにぶなげたって線はどうなんだい? ミッション・デコイさ)」それを聞いたレイは彼女をみた。「確かにそれもあるな……刃、とにかく現場に近い奴から確認してもらうってのはどうだ」「ダメだ。遅れれば状況は悪化する」
「……何を言っても無駄のようだな、お前さんは。いいだろう。だが一人ではいかせねぇ。俺も同行させてもらうぞ。これは命令だ、刃」
まったく頑固な刃にレイは負けを認めたが、一応最後まで釘を刺す。刃としても、これ以口論を続けるわけにはいかず、それを了承する以外に道はなかった。
「こちらの指揮系統はどうしますか」すかさず美咲が言う。「お前が指揮官をしてくれ。あと式鋭に連絡して、応援を要請しろ。アイツなら状況を理解してくれるはずだし、アドバイスも受けれるだろう」「了解しました」
話がまとまると、レイと刃は駅前にある立体駐車場に、その他の面子は出来根市を中心に探索を開始した。駐車場で二人は、貸切になっている自分達の階に向かう。そこには各自が自由に使える車が数台配備されていて、バイクも置いてあった。実はこれらのバイクは刃が趣味で集めたものだ。外見にハデさこそないものの、どれも相当な手入れや改造が施されており、側面には笑気ガスのタンクが搭載されている。いわゆるモンスターマシンというやつだ。ボディはピカピカに輝いて、彼の情熱と入れ込みようが如実に分かる瞬間だろう。
「俺だけ車なんてぜってーやだぜ! おいどっちか貸してくれよ!」「フフ」
レイが駄々をこねると、刃は嬉しそうに笑った。その顔は信頼のおける人物にだけ見せるもので、睦月とてそんな表情など一度も見たことはなかっただろう。
刃はキーを投げると、いつも『通勤用』に使っている青いバイクにまたがった。キーを受け取ったレイもエンジンを回すと、天井の低い駐車場内に独特の爆音が響き渡る。
「聞こえるか」ヘルメット越しにレイが喋る。〔感度良好〕刃の声が聞こえた。二人はいつもの通信機を耳にくっつけているのだが、何故かわざわざ確認し合った。
「シルバー8、そっちにはどうだ」
今度は香奈子を呼んだ。
〔こちらシルバー8、聞こえます〕
香奈子は司令室から応答しており、一緒にツーリングするわけではない。彼女は別行動する二人に、美咲達の状況などを知らせる役割を任されたのだ。
「お前の役目は別働隊の動きを知らせるほか、俺達のバックアップだ。といっても、やる事といったら道路状況を教えるくらいかな。コンソールの使い方は教わったか?」
〔大丈夫だと、思います……〕「まぁ、そう難しいことは言わねぇよ。たまにマップの更新してくれりゃーいい。楽な仕事だ」〔やってみます〕
レイの目下にはタコメーターなどの計器以外に、幅広の薄型ディスプレイがくっついているのだが、さっそく目標までの距離と最短ルートが表示されていた。(よし、良くやっているようだな)香奈子の早い仕事に満足したレイだったが、やはり気がかりであった。画面の目標地点にある発信源が唯一の手がかりだとはいえ、罠かもしれない場所に飛び込むのだ。彼は不安をごまかすように右手をひねり、エンジンを唸らせる。
「ご機嫌だ、飛ばそうぜ!」
「了解。遅れるなよ」
軽快に動き出した二台のバイクは、出来根市を北西に向けて疾走した。
式鋭と連絡を取った美咲は、ガンナー二人と共にガンダーラマンションズへ出向いた。式鋭の話だと、現在自分は動けないため、信頼できる人材を数人送るという話だった。彼らが到着するまで、美咲はとりあえず近場をあたることにしたのだ。
「(なんでいねぇって分かってんのに、わざわざこんなトコくんだよ?)」
「(黙ってろよハッピートリガー。そんなにドンパチやりたきゃあ一人で行ってこい)」
愚痴をこぼすチャコにマッキーが言う。彼女はすかさずかぶりを振った。
「(ゴメンだねぇ。だーれがDSPのソードマンアサルトに単身挑むかよ!)」
「(なら、今は大人しくしてるんだな)」「(へーへー、わかりゃーしたよ。ッたくよぉ)」
三人は瑞穂の部屋までくると、美咲が鍵を開けて中を覗いた。
「瑞穂ちゃん!」
予想してはいたのだが、やはり返事は返ってこない。「(中を見てくる、二人は待機して)」「ヤー」美咲の指示に二人は肯定した。
瑞穂の部屋は実に可愛らしいものだった。戸棚の上には陶器で作られた小さな動物の置物などが置いてあり、隣の花瓶には花が生けてある。奥に見える綺麗な薄緑色したカーテンはぴったりと閉じられていた。入り口から手前の部屋を順に見て回るが、その全てが未使用のままである。最後に一番奥の和室を見ると、きちんとたたまれた布団と着物が置いてあった。
(いない−−)
ロビーに戻ると、美咲は背の高いテーブルに目を留めた。そこには小物のほか、小さな額に入った写真が幾つか並んでいたのだ。写真の中では瑞穂は、戦花の仲間達と一緒に笑っていた。母親と思われる女性の写真もあった。飾られた写真はどれも女性ばかりが撮られていたが、一枚だけ男が写っていた。といってもまだ小さな子供で、ふてくされた顔をしながら、小さな頃の瑞穂と一緒に座っている。
(……これは、睦月君の写真か)
それから美咲は部屋を出た。
「(その顔じゃ、収穫はなさそうだな)」チャコは煙草を吸いながら言う。「(えぇそうね)」美咲もため息をつく。
「(一応、睦月君の部屋も調べましょう。もしかしたらこうなる前に、なにかヒントを残してくれているかもしれない)」美咲はそう言うと、隣のドアへ歩き出した。
「(ハァ!? おいもぉいいだろーよォ。あんまり他人の部屋を見てっと、プライバシーの侵害で捕まるぜ)」「(すぐ隣だろうが。いい子にしてりゃー、あとで美味しいパフェをご馳走してやるぞ)」いい加減待たされるのに飽きてきたチャコを、マッキーは自分なりにあやす。「(んなもん喰うかよボケが。なーにが美味しいパフェだ。鏡を見ながらその台詞を、もういっぺん言ってみるこった!)」
美咲が合鍵を差し込む。(……ッ)その時、なんだか嫌な気配を感じた。辺りを見回すが、特に変わった様子はない。
「(なんだいお嬢さん、もしかしてやっぱ、男の部屋に入るのがおっかねぇのかえ?)」
チャコが野次を飛ばした。美咲は多少気に障ったが、しかしそれで二人は特に何も感じていないということがわかり、安心する。
彼女は鍵を回してドアを開いた。だがその刹那、ドアの内側から激しい爆発が起こった。その衝撃は対面した二階の通路をふっ飛ばすほどの威力で、三人の体は宙を舞い、硬い瓦礫が降り積もる地面へと叩きつけられた。
バーわけありに一人でいた香奈子だったが、複数あるディスプレイの中で、『CALL』と書かれた赤い文字が点滅しているのを見つけた。その近辺は美咲から教わっておらず、彼女はいきなり焦り始めた。
(どうしよう……!?)
このことをレイに報告したくなったが、はたして言葉のみの説明だけで分かるかどうか不安だった。なによりも、自分が使えない奴だなどと思われたくなかったのだ。
手元には固定されたマウスがあり、ボールが親指で動かせるような位置にあった。それを動かすと、画面のカーソルがぐいぐい動き出す。もしやと思い、香奈子はカーソルを赤い文字に当ててクリックしてみた。
〔こちら桜桃県城壁の通信課です〕
すると、ヘッドセットから若い女の声が聞こえてきた。
〔先ほど、猪鹿町のガンダーラマンションズで爆発が起きたとの連絡が入りました。これもそちらの想定にあるものなのでしょうか〕
「えっ、えぇっとぉ……」なんと言ったらよいのだろう。彼女は頭が真っ白になってしまった。「た、たぶん、そうだ、と、思います」
〔多分ですって? ……そういえば、美咲さんはどうしたんですか?〕
「美咲さんは作戦行動に出ましたっ、司令官も同じく、別行動を行っています。私はっ、ここで互いの状況を知らせるようにと、言われただけで……」
香奈子が言うと、向こう側でため息をつく声が聞こえた。
〔……まったく、騎兵隊っていうのは、どうしてこうも自由奔放なのかしらね〕「はぁ」
〔いいわ。それじゃ、司令官に繋いでくれるかしら?〕
「え、えぇと−−」
香奈子は機械に弱い。眼前にある専門的なコンソールを見た途端、彼女は軽い眩暈を覚えた。やり方がさっぱりわからない……。
「ちょ、ちょっと、待っててください−−」
そうは言ったものの、複雑なボタンやスイッチがみっちり敷き詰められた机を見て、彼女は呆然としてしまった。やはりレイに報告したほうがよい。香奈子は、これを押せばレイに繋がると言われたボタンに手を差し伸べた。
その時だった。エレベーターが何故か勝手に動き出したのだ。彼女はそれに恐怖した。まさか、誰もいないこの場所に、睦月が戻ってきたのではないだろうか−−
「泉さん!」
エレベーターのシャッターを開けるより早く、そんな声がした。出てきたのは正光であった。
「正光君!」
香奈子は知った顔とめぐり合えた事で、いきなり嬉しくなった。それこそ、嬉し涙すら出てしまいそうだ。
「泉さんよかった。そんで−−」「正光君っ! ね、ね、これ見て!」
正光は何か言おうとしたが、その言葉を遮るように香奈子が叫んだ。事態は切迫しているのだ。
「いま、桜桃県城壁の通信課から連絡きてるんだけど、それをレイに直接繋いで欲しいの!」
香奈子は画面を指差しながら説明した。だが、果たして正光にできるのだろうか……そんな不安が脳裏をよぎる。
「なんだとっ。おっしゃー! まかしとけ!」
「できるの!?」
「もちろんさ、俺は通信機器のプロだぜ!」
しかし正光は、香奈子の期待を裏切りはしなかった。彼女はそんな正光を見てドキリとした。
「レイは何番を使ってんだ? ふむ。おし。うっしゃ。泉さん、頭に付けてるのを貸してくれ」
自分と違い、てきぱきとコンソールを操作する正光の横顔を見ていた彼女は、いきなり呼ばれたのでびっくりした。もしかしたら自分の顔は赤くなっていたかもしれない。
「美咲さんはどうしたんだ?」ヘッドセットを貰い受けるとき、そんなことを正光が聞いた。「部隊の皆は作戦に出て、その……」香奈子は黙ってしまった。頭がこんがらがって、とても一言では言い切れなかったのだ。
「……まぁ、あとで聞くわ。今は目の前の仕事をしよう」
正光は彼女を察してそれ以上聞かなかった。彼はヘッドセットを装着すると座席へ座る。
「ヘイ、桜桃県城壁のオペレーター! こちらエルベレスのシルバー6だ。現在作戦行動中につき、司令官、副指令、ならびに電話相談の受付嬢も不在の状況だ。機密事項のため、それ以外の事情についてはお答えできない」
〔シルバー6、こちら桜桃県城壁の通信課です。了解しました〕
「とりあえずご要望通り、いま司令官に繋ぐ」
〔お願いします〕
正光はマウスを介さず、直接コンソールを叩いて操作した。香奈子はまたもやそんな横顔を見つめてしまう。いつもは笑顔を絶やさぬ正光だが、こういった真剣な場面の彼はなんだか新鮮で、魅力的であった。
「こちらシルバー6、シルバー1どうぞ」
〔シルバー1だ。正光、お前戻ってきたのか〕
「あぁ。起きたら携帯に『A3だよ、全員集合!』って書かれてたからな。それに睦月のことも気になる、黙って寝てられっかよ!」
〔そうだったな。で、どうした〕「桜桃県城壁の通信課から連絡が入ってきてる。そっちに繋いでいいか?」〔何だと? 用件は〕「それがまだ分からん」〔クソ。俺が当ててやろうか? 多分厄介事だぜ〕「じゃないといいがよぉ。とにかく繋ぐぜ。いいかい」〔オーケー。いいぜ〕
彼は再度コンソールを叩く。
「繋がったぜ」
〔エルベレスの指揮官、レイ・シュレディンガーだ〕
〔桜桃県城壁の通信課です。先ほど、猪鹿町のガンダーラマンションズで謎の爆発が起きたという情報が入りました〕
〔なにぃ!? 状況は〕〔現在、部隊が現場に向かっておりますが、詳しくは分かっておりません。ですが爆発の規模からして、指向性を持つ特殊爆薬が使用された可能性があります。……これらの被害も、そちらの想定内なのでしょうか〕〔言ってくれるねぇ、作戦は常に危険と隣り合わせってなもんだぜ。とにかく、現場の収拾はそちらに任せる。だが機密性の高い作戦なので、それ以外の検索はしないでもらいたい。城壁の連中にもそう伝えてくれ〕〔了解しました〕
レイは通信を終えると、すぐさま正光を呼んだ。
〔クソ! おい正光、今すぐ美咲に連絡を取れ! 嫌な予感がする……!〕
「了解だ。……シルバー6より、2、応答してくれ。……こちらシルバー6。シルバー2、応答願う。……シルバー2、聞こえてんのか!?」
正光は美咲の無線に繋いで声を張り上げたのだが、彼女からの返答はない。
「だめだ、応答なし。どうなってんだ」〔マッキーとチャコもいるはずだ。そっちにもしてみろ〕「了解。泉さん、手伝ってくれ。俺はチャコにするから、そっちはマッキーを」「うん、わかったッ」
二人は手分けして三人に応答を求めた。だがやはり、返事は帰ってこない。
〔(……クソォ!)〕
レイの「Dammit!」という怒鳴り声がうるさく耳に響いた。正光はこういった時のレイが苦手だ。正光はちょっと考えると、ヘッドセットのマイクをつまみ、荒波を立てぬようさり気なくささやいた。それはレイを真似た手法である。
「とにかく、俺達はここで呼び続けてみるよ」彼の律儀な言葉に、レイは少しだけ勢いを緩めたようだった。〔……だな、頼む。俺はアストラルガンナーズ経由で探りを入れる〕「了解だ。こっちは任せてくれ」
正光と香奈子は、それから三人に向けて何度もコールし続けた。数分後、レイから再度連絡が入る。
〔シルバー1だ。アストラルガンナーズと連絡が取れた。式鋭が来るのは無理らしいが、式姫とレイルを含め、一小隊をよこせるそうだ。数は十二人。二人は霊視のプロで、サーチ範囲はかなり広い。連中には爆発現場に向かわせる事にした。十分以内には着くだろう〕
「シルバー6了解」〔美咲から応答は……ないよなぁ〕「残念ながらまだない。とにかく連中が到着するまで続けるつもりだ」〔頼もしい限りだ。できれば、シルバー6はそのままそこで待機しててくれないか? 泉も一人じゃなにかと不安だろう〕
「……そうだな。わかった」
実のところ、正光はそう返事をしたくなかった。本当ならば今すぐここを飛び出して、睦月を探しに行きたかったのだ。彼はヘッドセットを外して椅子にもたれかかると、上を向いて、深く長いため息をつく。だがその様子を香奈子が見つめていたため、慌ててコンソールに向かいなおした。
「おっしゃ! ほんじゃー泉さん、がんばろうぜ。聞いての通り、あと十分くらいだってさ!」
「うん……」
香奈子とて、正光のことを理解していた。
(私がしっかりしていれば、正光君を外に出してやれたのに……)
そしてそう思う。香奈子は自分の無力さを痛感して、なんともやるせない気持ちになった。それから彼女は正光から簡単な指導を受けて、せめて今だけでも、ある程度コンソールを使いこなせるようにした。
レイの通信から五分が経過した頃、香奈子は声を上げた。
「マッキー! よかった、いま、どこ!?」
すかさず正光は香奈子を見る。嬉しさのあまり香奈子も正光に顔を向けたので、二人の視線はぶつかった。だが今は別に恥ずかしいという感じがせず、むしろ息の合った行動に笑みが浮かぶくらいだ。正光もマッキーの通信を聞く。
〔クソッたれブービートラップに、まんまと引っかかっちまったようだ……現在位置は、ガンダーラマンションズ。情けねぇ事にぐっすり眠っちまってたよ。寝不足が祟ったかな〕
マッキーの口ぶりからして、彼に大した被害はなさそうであった。香奈子は自分が喋るより正光のほうが適任だと思い、彼に発言権を譲った。正光は快く了承する。
「こちらシルバー6。シルバー5、大丈夫か」〔あぁッ、問題ない〕「同行していた2と4の状況はどうだ」
〔オーケー、ちょっと待ってくれ……。……見たところ、二人とも足も腕ももげてない。頭だってちゃんとくっついてる。ただ、炎が酸欠状態になっているな。多分俺と同じく、吹っ飛ばされた時にAOFを最大出力で展開したんだろう。そのおかげで地球とキスしてもぺしゃんこにならなかった訳だが、ぶつかった衝撃と不意の展開で、ソウクが疎かになっちまったんだろう。……大丈夫、二人ともちゃんと生きてるよ〕
「そうか、よかった!」
正光と加奈子はまた顔を見合わせて笑いあった。そして正光は、香奈子にレイへこの事を伝えるように指示した。正光は引き続きマッキーへ語りかける。
「しかし、ブービートラップって言ったな。どこにそんなもんがあったんだ?」〔睦月の部屋のドアだ〕「……うそだろ」〔俺も嘘であって欲しいよ。地球とキスしたってことを含めてな。トラップは多分睦月が仕掛けたものだろう。鍵は掛かっていたし、中で仕掛けたのち、裏の窓から脱出すりゃーいい。それにこのトラップは、皮肉な事に俺が教えた技だ。免許皆伝だな、こいつぁ〕「……」
香奈子はレイへ通信を繋いだ。
「シルバー8より、シルバー1。マッキーと連絡が取れました。三人とも無事のようです」
〔ホントか! よしよし、偉いぞ!〕「どうやら睦月君の部屋の入り口に、爆弾が仕掛けられてたみたいです」〔なにぃ爆弾だぁ!? あの野郎どこでそんな……そうか、マッコイのクソじじいだな? 金さえ出せば子供にだって核弾頭を売りつけちまうような奴だ。戻ったらただじゃおかねえ! ……とにかく、状況は分かった。ご苦労だったな泉!〕
「い、いえっ! 私はなにも……。私でなく、正光君をねぎらってあげて下さい」〔なんだぁ? 違う違う。ったく、日本人ってなぁ謙虚なもんだな。正光はできて当然だ。『そうではない』お前が、ここまで良くやったと言っているんだよ〕「それは−−」
〔アー、この功績を称えて、君には城壁参謀本部より勲章が送られるであろう。今後はますます−−〕
「〜〜ッ茶化さないで下さい! 切りますからね!」〔ハハハハ、オーケー。通信終わりっ〕
なんだかレイにしてやられたようで、恥ずかしくなった香奈子はヘッドセットを取った。(でも、みんな無事でよかった)そして褒められた事を、今更ながら嬉しく思えてきた。がんばったかいがあったというものだ。
だが正光を見ると、彼は無言のままコンソールと睨み合っていた。マッキーと何を話し合っていたのかは知らないが、断片的に聞こえたのは、正光の苦悩する声だ。
「正光君……?」
香奈子は、こんなにも話しかけづらい正光を見るのはいつぶりだろうと思った。普段が活発すぎるために、このような状態の正光はどうしても見るに耐えない姿である。
「……なんで、アイツは、罠なんかを、張ったんだ」
暗い声の正光は、香奈子に発言を躊躇させた。
「も、もう。アイツは……アイツは、違う奴になっちまったのか−−」
「……」
沈黙が訪れた。香奈子はまたしても、自分の無力さを感じた。正光や睦月なら、自分がこうなったのなら、莫迦な台詞をいったり、はたまた真面目な表情で励ましの言葉を送ってくれていただろう。だが自分はどうだ? 彼に対して一体、何を言ってあげたらよいのだろうか?
「ごめん。こんなこと、口に出して言うもんじゃねーよな。まだ、わからねぇんだからよ……」
正光は自分が不穏な空気を作ってしまった事を恥じて、自らの発言を否定した。彼はタフな男なのだ。香奈子はそんな正光を見て、胸の内にこみ上げるものを感じた。すると不思議に体が動き、彼女は正光の両手を自分の両手で包んであげていた。
「……! 泉さ−−」
案の定正光はうろたえたが、香奈子も実は同じだ。何故こんな事をしたのか自分にも分からない。でも一つだけ、分かることがある−−
(こんなにがんばってる正光君を、私も、私なりに、助けてあげたい)
戸惑いながらも正光が顔を上げると、そこにはまっすぐに見つめる香奈子がいた。
「正光君……うまく、言えないんだけど。……私も、心配してるから。睦月君のこと。だから、その……。正光君は、一人じゃないよ……?」
呆然とした正光は、香奈子の綺麗な顔を見て、優しく握り締められた自分の両手を見る。すると次第に、自分は励まされているのだということが、徐々に分かりかけてきた。
「ね……?」
それが分かった途端、つま先から頭のてっぺんまで、正光の血液は沸騰した。心臓は実に十六ビート刻みで躍動しているように思え、彼は自分の鼓動と同じタイミングで震えだした。
「えへへ」
香奈子は正光の変化を見ると自分も恥ずかしかったものの、効果はあったようだと嬉しい気持ちになった。しかし、どうやら効果が絶大すぎたのか、彼女が両手を離しても、正光はそのポーズのまま固まってしまった。余談ではあるが、彼の耳と鼻からは蒸発した体内の水分が噴出して、沸騰したヤカンみたくピューと音がしている。
「おぉおっオレッ! うぅうッ! 上からッ! ななっなんか飲みものおってくりゅぅぅーーー!!」
突然立ち上がった正光は、ものの数秒で香奈子の前から姿を消した。残ったのは、空しく回転する彼の座っていた椅子だけである。
「好きだァァァァーーーー……!!」
そして正光が一階についたであろう頃、司令室にまで響き渡るくらいの絶叫を香奈子は耳にした。男とはこういう時、叫びたくなるものなのだろうか? でも香奈子はその叫び声を聞くと、なんだか勝手に笑みがこぼれるのだった。
アストラルガンナーズの式姫と『レイル・パッカード』は式鋭の指示により、美咲との合流地点に車で向かっていた。だがエルベレスの指揮官から連絡が入り、猪鹿町での爆発以来、彼女との連絡が取れなくなった事を知る。そのため二人は行き先を変更し、急遽爆発現場へと向かうこととなった。
「しきひめぇ、絶対死んでるに決まってるよお。だって連絡なかったんでしょう?」
身長が百三十そこらしかないレイルはまだ十二歳の少女だが、実戦配備されたのは実に六歳の頃だ。なのでレイルは、ときに人の生死を軽く見積もる傾向があった。髪をずっと切らないでいたりするのも、いつ死でもいいように、今のうちに遊んでおくためだという。自分のふくらはぎくらいある長いツインテールをひざの上に乗っけて、彼女は紙コップに入ったジュースを飲みながら言った。
「莫迦をおっしゃい。美咲さんって人は、エルベレスの指揮官が見込んだ女なんだよ? そう簡単に死ぬようなタマじゃないわ」
「ふーん? 女なのにタマなんだ」「……」
なんとなくむかついた式姫は、突然ハンドルを大きく左右に振って蛇行した。
「ギニャァァァーー!?」そうすると当然のごとく、レイルの持っていたジュースがこぼれる結果となる。
「びえェェーーん! 式姫のヴぁかあァァァーーッ!」
可愛いお気に入りの衣装がジュースでべたべたになってしまい、レイルは豪快に泣き叫んだ。
「次に余計なコトを言ったら、今度はあんたの綺麗な髪をトランクに挟んで、めでたい結婚式みたいく協会の周りを何週もしたげるからね? わかった? レイルっちゅわん?」
「ぐッぐぬぬぬぅぅ……ッ!? きゅぅぅ〜〜……ッ!!」
だが式姫はえげつない言葉を吐きつつもにっこりと笑った。それを見たレイルは、大暴れしたい気持ちををぐっと堪える。実のところレイルは、彼女から本当にそういうことをされた過去があったのだ。
ガンダーラマンションズの前まで到着した式姫とレイルだったが、入り口近辺は警察によって通行規制されていた。式姫は路側に車を止めて、そちらの一人に掛け合った。
「私はD3特務課の者です。中に入れて頂きたいのですが、よろしいでしょうか」
式姫が上着のぽっけからIDカードを取り出して見せた。「特務課……。えぇ、どうぞ」規制を行っている警官はそれを見ると、すぐに了承する。
車に戻った式姫は、にこにこしながらレイルに言った。
「ど〜ぅよ今の私のシリアスさ!」「見てなかったもん。ザマ見ろばぁか!」「くゥゥッ!? こんガキッ!?」
警官のそばに車で寄ると、手に持った赤い棒で内側へ誘導してくれた。それから適当な駐車スペースへ車を止めると、二人は爆発現場へと向かう。
ガンダーラマンションズを眺めると、一番奥の外壁がえぐられていた。しかし式姫からしてみればそんなに被害はないように思え、隣にある瑞穂の部屋には被害が及んでいないようだった。もっとも、硬いコンクリートを吹っ飛ばす程の威力だ。それを『並み』の人間が喰らったのならひとたまりもなかっただろう。
「あっ!? マッキー!」
式姫は瓦礫に座って一服つけているマッキーを見つけた。隣にはチャコもいて、同じく煙草をくわえている。
「お、やっとご到着か。式姫」
式姫はマッキーと面識があり、前に式鋭から彼を紹介してもらったことがある。そして式鋭は、以前エルベレスが人材探しを行っている時に、彼とチャコを紹介してやったというわけだ。
「大丈夫だったの?」「モリエイターがあの程度の爆発でくたばるかよ。もっともあと一歩、俺とチャコがドアに近けりゃーやばかったかもしれんがな」
そうマッキーは言うが、体の至る所に切り傷があった。爆風で飛び散った残骸により殺傷したのだろう。
「(アンタがアストラルガンナーズの小隊長さんかい)」
チャコが言った。「えぇ。西木式姫です−−」「おっと。式姫、コイツはイングリッシュオンリーなんだ……悪いが」式姫は挨拶しようとするも、マッキーは苦笑しながらささやいた。
「あら……。(オーケー。私はアストラルガンナーズの西木式姫。支援を命ぜられました)」「(あちきゃーチャコ・シルペンだ、よろしく。……んでよぉ−−)」
気持ちよく握手を交わした二人なのだが、チャコの表情は嫌そうに歪んでいた。彼女のガンホルダーに突っ込まれたSPSを取り出そうと、レイルが必死こいていたからだ。
式姫はチャコにウインクしてみせる。「……?」チャコはその意味が分からなかった。「ハィイィィーーッ!!」しかし、式姫が叫びながら豪快な左足の蹴りをレイルのドテッぱらにぶち込んだので、さすがのチャコもビックリした。
「キャッシュ!」
レイルは無様な格好でガンダーラマンションズの壁にめり込んだ。ちなみに『キャッシュ』とは彼女のダメージボイスである。
「(今のは可愛い妹分ッ! レイル・パッカードちゃんよッ!? ごめんなさいねッチャコ!)」式姫はまるで蹴り技を終えた格闘家のようなポーズをしながら言う。「(い、いやぁ。別にいいさ……次に同じことがあったら、また頼む)」「(まかしといてッッッ!)」
しかし……式姫は思った。ここには『二人』しかいない。彼女はキョロキョロと頭を動かしてみたものの、もう一人の姿がどこにも見当たらなかった。
「そういえば美咲さんはどうしたの?」
マッキーは近くの救急車に親指を向ける。「……ヤバイの?」式姫が問う。「とりあえずは大丈夫だ」マッキーはすぐ返答した。
「美咲はドアの目の前にいたんだ。多分爆発した拍子にそのドアが吹っ飛んで、美咲にぶつかったんだろう。脳震盪だってよ。体のほうは特に問題ないらしいぜ」
「そうなの? よかった。……でもそれなら、こっちにも連絡くれたらよかったのに。死んだんじゃないかって、結構焦ってたんだから」
「なに? 知らされてなかったのか」マッキーは言いながら腕を組む。
「多分レイの事だ。奴からすれば、その方がかえって良かったのかもしれんな」
「どういうことよ」
「そのほうが君らも焦って、速く来るかもしれんからな」「まぁ! なんて失礼な奴!」式姫は両手を腰に当ててむすっとした顔をする。
「(アストラルガンナーズの兵隊はどこいんだ?)」チャコが煙草を靴でもみ消しながら言った。
「(えぇ。一応本来の合流地点に二人置いて、残りは既に出来根市内の探索を開始しています。数は私達も含めて十二名)」「(へぇ、流石に手際がいいな)」
「(時間との勝負ですから。とりあえず、これを見て下さい)」
式姫は自分のGPSを出して見せた。画面には出来根市のデジタルマップが表示されている。そこで彼女は、少ない数ながらも一番効率の良い探索方法を説明した。二人はそれを聞きながら、やはり煙草をふかす。
「(こんな感じで、多少はマシになると思うけど……やはり少し、時間はかかると思います)」
「(だがそれ以外ないだろうよ。俺はいいぜ、チャコは)」
「(あちきも同感、異論はないねぇ)」
その時、チャコは視界の端で救急車の後部ドアが開くのを見つけた。出てきたのは美咲だった。
「(おっと、眠り姫のお目覚めだ)」
乱れた髪を直しながら、美咲は三人に近づいた。「酷い目にあったわね」式姫は苦笑しながら出迎えた。「まったく」対する彼女も似たような表情である。
面子が揃ったところで、再度式姫は議論していた内容を確認した。美咲としても、立案元がアストラルガンナーズなら、本来の指揮官に探索案を考えさせた方がよいと思われた。
「(では今から本体に連絡して、三人のマップをこちらと同期させるよう伝えます)」
内容もあらかた決定して、式姫はGPSをしまう。空を見上げると、太陽は頭のてっぺんを照らしていた。まぶしそうに彼女は手のひらを太陽へ向ける……すると、式姫の腹がぐぅとなった。
「(……腹が、減ったなぁ−−)」
先ほどまであんなに真面目で、今も真剣な表情をしている彼女だったが、なんだか台詞がマヌケであった。
「(そろそろ十一時か)」マッキーが時計を見て言う。「(事が起こったのは大体九時頃よ。まだ二時間しかたっていない)」それを美咲は補足する。「(式姫の意見に賛成。人はメシ喰わねーと死ぬんだぜぇ?)」それらに対してチャコはぼやいた。
「(二時間か……)」
事件から二時間しかたっていないとはいうが、果たして探し出せるだろうかと式姫は思った。確かに町に配備された監視カメラなどを利用すれば、一般人は容易に見つけられるだろう。だがモリエイターは違う。AOを駆使されたら発見は容易ではないのだ。ましてや相手は睦月で、彼はこの町の仕組みをよく知っている。二時間もあれば、他県へ渡ることすら可能だろう。
GPSの更新を行うため、美咲は香奈子に連絡を入れたが、出てきたのは正光だった。もっとも香奈子ではそれができないと思ったため、彼女としては好都合である。早速GPSの更新を行い、アストラルガンナーズのものと同期させる事ができた。
「大変だ、女の子が事故に巻き込まれているぞ! 誰も気づかなかったのか!」
突然、警官の叫び声が聞こえた。三人はそちらに顔を向けたが、その女の子とは、無様な格好で壁に突き刺さったままのレイルだった。可哀相なことに下半身だけが壁から垂れ下がっており、スカートが豪快に捲り上がって、ケツに可愛いクマの顔がプリントされたカボチャパンツが丸見えだった。
「うえぇぇ〜ん、暗いよぉ〜〜、狭いよぉぉ〜〜。もう悪いこともうしないよぅ、もうしないよぅ〜〜、助けてぇ〜〜……」
よく耳を澄ませば、なんとなくそんな悲痛の叫びも聞こえる。
「美咲さん美咲さん!」
それを見てとても難しい表情をする美咲を、何故か必死になって式姫が呼んだ。
「あの子は可愛い妹分ッ! レイル・パッカードちゃんよッ!?」
美咲は振り返ると、いつぞやの如く、式姫が格闘家のようなポーズをしながら言った。
高速道路を北西に向けて爆走していたレイと刃は、徐々にシグナルへと近づいていた。周囲を流れる山の景色は実に優雅なものであったが、それを見ている余裕など二人にはない。
〔シルバー8より、シルバー1。IBSのスルメスさんから連絡が入っています〕
香奈子の声がしたが、レイはその後の台詞を聞いてしんそこがっかりした。彼は思わずため息をもらす。
「……繋いでくれ」〔了解しました〕レイは口調こそ静かなものだったが、彼はいきなりスピードを上げて前方の車を強引に抜き去った。
〔レイ、どういうつもりなの〕
早速『スルメス・ティック』のやかましい声がした。彼女はエルベレスを担当するIBSのスベイラントだ。IBSとはモリエイターの戦闘等を隠蔽するための組織でD3とも通じており、騎兵隊にはスベイラントと呼ばれる担当官が付けられる。つまりお目付け役というわけだ。
「聞いての通りだ。イーブルアイの情報を掴んだ、今向かってる最中だ」
〔へぇ、でもそれならどうして桜桃県城壁には特殊任務なんて言っているわけ? 手柄を横取りされたくないからかしら?〕
「別にそういうわけじゃーない、突っかかってくんなよ。それにお前はどこまで知ってんだよ?」
〔エルベレスがイーブルアイの情報を掴んだと聞いたから、桜桃県城壁に確認を取ったわ。そしたらエルベレスは特殊任務だと言ってきた。でも私のトコには情報を得たとだけ。その違いに、違和感を感じたのよ。誰かさんがまた、何か企んでるんじゃないかってね〕
「お前、城壁にその事を言ってないだろうな」〔言えるわけないでしょ? ただでさえ関係悪いのに〕
「よし、それでいい−−」それからレイは、少しもったいぶる様な口調で話した。
「スルメス、いいか。仮に俺がなんか企んでるとしたら、普通に考えてお前には黙ってるはずだ。そうだろ?」〔えぇそうね〕「だが今回のは違う。だからIBSにも連絡しといた。どういうことかわかるか?」〔どういうことよ〕
「……悪いが、俺の権限では教えられん。聞きたいなら直接、戦花の紫電に聞いてみてくれ」
〔紫電ですって?−−〕
スルメスの口ぶりを聞いて、レイはよしと思った。もし紫電の名前を出してもスルメスに突っかかってこられていたら、面倒になっていたところだ。
〔なんであそこが関係してるわけ?〕「分からんのか。つまりそういう事態だって事だ。とにかく紫電に聞いてくれ。IBSなら戦花に連絡取るのだって楽勝だろ」〔……なんだか、やけに素直ね。今日は〕「なにぃ? 莫迦言え、真面目に成らざるを得ない状況なんだコッチは。そろそろ仕事に戻らねーと。切るぞ」〔分かったわ。それじゃ問い合わせてみる〕
なんとかスルメスの質問責めを回避したレイは、通信が切れる音を聞いて一安心する。しかしすぐに刃へ問いかけた。
「刃、IBSと紫電を接触させても大丈夫か?」
レイは喋りながら、前方を走行する車両をぐんぐん追い越していく。
「問題ない。イーブルアイの件もそうだが、俺や睦月、瑞穂という、赫夜絡みの連中のこともある。理由などいくらでも取りつくろえるだろう」
刃も同じく、まるで飽きるほどプレイしたレースゲームでもやるように、きわどいアプローチを難なくこなしつつ会話をしている。
「そうか。ならいい……シルバー8、シグナルの座標は今もこれで合ってるのか」今度は香奈子に問う。〔間違いありません。そのまま行けば見えてくるはずです〕香奈子はディスプレイに映るGPSを確かめながら返答した。
「了解だ−−」レイはマップをチラリと眺め、目線を前に戻す。
そして背の高い大型トラックを追い抜かすと、いよいよシグナルの発信源らしき車両を目視できた。
「あいつか……ッ!」
それは大手デパートの中型輸送トラックだった。もう一度マップを見直したが、動き方と距離からして間違いない。二人はトラックの後方にぴったりくっつくと、早速霊視を試みた。二人の視界には、真っ青になったトラックの車体と、その内部にある物資が映ったが−−
「なんだよオイ! なんだよ!?」
レイは怒鳴った。内部に人影らしきものが見当たらなかったのだ。そして運転手はどうやら二人らしいが、どちらも高齢らしい男の体格をしており、瑞穂の体格とは明らかに異なる。(畜生、フェイクだってのか!?)
「まだだ。中を確認する」刃がレイの心中を読んだかのような発言をした。「そうだな、よし。この『アホ』の目の前で『とうせんぼ』してやろうぜ」
アクセルをねじ込まれた二台のバイクは、時速八十キロで走行するトラックの前方へと一気に躍り出た。そしてハザードを点灯させるといきなりスピードを緩める。トラックはクラクションを鳴らした。
「オイ! 止まれェ!」
更にレイはやかましく怒鳴り散らす。しかし謎のバイク二台にあおられながらも、トラックはスピードを緩める様子がない。サイドミラー越しに運転手は、ハンドルを片手で持ちながら顔を真っ赤にして、口をパクパクさせている。(なめやがって野郎……!)そのツラを拝んだレイはキレかかった。もし今使っているバイクが刃のものでなかったのなら、屋根に飛び乗ってでも強引に中に入っていただろう。
突然、刃のバイクが隣の車線にそれた。そしてトラックの運転席側へ横付けすると、ハンドルから左手をはなして下から上へ動かす。するとどういうことか、運転席のドアが外れて道路へ落ちた。彼のイマジネートは極めて高位にあったので、自分の得物すらモリエイトすることなく、力を込めた手刀のみでトラックの車体を容易く切り裂いたのだ。
「ヒエエーー!?」
不意に風穴を開けられた運転手は驚愕した。そして同時にレイも驚愕した。何故なら、次に刃は自慢のバイクを捨てて運転席へ強引に飛び移ったからだ。「マジかよ!?」あれほど入れ込むバイクをあぁも易々(やすやす)と捨ててしまうとは予想外だ。(いや、だが−−)レイは思った。刃にとって、命の次に大事なのはもちろんバイクかと思っていたが、どうやらそうじゃないらしい。レイはニヤリとする。刃は瑞穂を、自分のむすめの事をひたすらに案じていたのだ。
「車を止めろ。今すぐにだ」
「は、はひいぃーーっ!」
やけにドスの効いた刃の一声で、運転手はすぐさまブレーキを踏んだ。前方で叫んでいたレイに対する態度とはえらい反応の違いである。レイはその様子に舌打ちするも、同じくスピードを緩めて最後には停止した。
刃が乗っていた二人を外に立たせて顔を睨み付ける。二人は一般人のようだ。その間にレイは助手席の下から赤い発炎筒を引っこ抜いて火をつけると、停止したトラックの後方へ放り投げておいた。莫迦な後続ドライバーが突っ込んでこなくするためだ。レイはもう一度内部を霊視したが、さっき見たのと変わらない。
〔俺は前から。レイは後ろから頼む〕刃の声が聞こえた。「了解。シルバー8、シグナルの位置は」〔さっき動きを止めてから、ずっとそのままです〕レイは香奈子に確認をとる。やはりこの中だ。「了解、確認する。よし、刃いくぞ」
刃は運転席の背もたれごとぶった切り、レイは普通にトラック後部のドアを開いた。同時に二人は、積荷の中で互いの顔を見合う。中には低温保存された食品のケースが並んでいるのみで……やはり誰もいない。二人は顔をしかめた。
「シルバー6! 今すぐ7の携帯に電話しろ!」〔了解〕
レイが正光に指示すると、積荷のどこかでブルブルと振動する音が聞こえた。すぐさま二人はそこに近づく。そして食品ケースの間に、まさに睦月と瑞穂の携帯を見つけた。
「……クソ!」
レイは手に取った携帯を見ながら怒鳴る。その時、バゴンと音がしてトラックが揺れた。無言ながらも刃がトラックの壁をぶん殴ったのだ。そこはコブシの形にへこんだ。
「シルバー8、シルバー2に伝えてくれ。こっちはチャコが言った通りデコイだ」〔了解しましたっ〕
司令室の香奈子は、レイの言ったとおり美咲へ連絡をつけた。
「シルバー8より、シルバー2」
〔こちらシルバー2〕
美咲は車で移動中のようで、かすかなエンジン音が聞こえる。探索というのは歩いて探すのではなく、車の中で霊視しながら町を回るのだ。そのほうが歩くのより断然早いし、座っていられるので霊視も集中できるためである。
「シルバー1から連絡が入りました。どうやらGPSのシグナルはおとりだったみたいです。移動にはトラックが使われてて、その中に二人の携帯が入っていたとのことです」
〔なんですって? ……そう、分かったわ。こちらからも一つ。さっき出来根市内の探索を終えたわ。結局見つからなかった。今は各自が隣市を探索中〕「了解しました。シルバー1にも伝えておきます」〔お願い〕
それから香奈子はレイへ伝え終えると、正光を見た。さっき彼はいきなり元気になったものの、シグナルがデコイである事を知ると、その元気もどこかへ行ってしまったようだ。手がかりが尽きた。
「どう、それ」
香奈子がコーヒーの入ったカップに口をつけたのを見て、不意に正光が言った。それは彼が作ったのだ。
「うん。おいしい」「そうかい? よかった」
それでも正光は、香奈子に元気の無い姿を見せたくないのか、明るく振舞おうと勤めている様子であった。
「美咲さんに教えてもらったの?」香奈子は軽い気持ちで話を続けた。
「いや、マッキーだ。あのマッチョメンは物知り博士だからな。それに、コーヒーはブラックで飲むのが通だ! なんて言いだすんだぜ? 自分の苗字がブラックなだけによ」
「あははっ、そうだね」
「もっとも俺はもちろんクリームと砂糖を入れる派だ」「私もー。ブラックもいいけど、やっぱり色々楽しまなくちゃねぇ?」「全くだぜ。でも睦月の野郎はブラックだったなぁ。コーヒなんて麦茶とかウーロン茶と一緒だ、なんて言ってよ」「なんか言いそうだね、睦月君」「だよなぁ……」
べつに香奈子のせいではないのだが、睦月の名前が挙がった途端、二人の会話は途切れてしまった。
「……なぁ、泉さん。俺がアイツに刺された後、一体何が起きたんだ?」
しばらくすると、正光がそう聞いてきた。そういえば正光に、まだその事を伝えていなかったのを香奈子は思い出す。香奈子はありのままを話した。睦月が別人に変貌したこと、その後殺されかけたが、インビュードハンターに助けられたこと、そしてそのインビュードハンターの外見を思い出せないこと。
「私もなんで思い出せないのか分からないんだけど……、でも女の人で、凄くその、真面目な人だった」「真面目?」香奈子の説明に正光が問う。「うん、よくわかんないけど。それと、私と正光君も狙われてるって言ってた」「……まぁ、モリエイターなら誰だって狙われてる。クソ、むかつくぜ。攻撃対象を決めてるって事は連中、相当ランクが高そうだな」「そう、だね」
正光はコンソールに向き直ったが、適当な話をしたところで気がまぎれる訳ではなかった。
いくつもあるディスプレイの一部に、アストラルガンナーズと同期させたGPS座標が映っている。見れば、十以上の兵隊がそれぞれ桜桃県をくまなく探しているようだ。しかしながら、それからなんの手がかりもないまま時間だけが過ぎていった。正光なりにも色々と考えを巡らせてはみたものの、睦月が一体ドコへ行くかなど想像も付かなかった。
通常誰かがDSPとなった場合、即座に城壁参謀本部やD3などの情報機関に連絡を入れなければならない。そして討伐隊を編成して、殺すなり捕獲するなりするわけだ。
しかし今回の場合それとは違う。レイの話では、紫電の助けによってD3には伝わっていないらしかった。だが睦月はオブリヴィオンの侵食により、DSPになりかけている(既になってしまっているのかもしれない)状態である。
着目すべきは、紫電がD3に黙っていることだ。今もなお、睦月が発狂して野放し状態であるということを連中は知らない。ぶっちゃけた話、その状態というは普通に考えて『命令違反』を起こしているといえるのだが……エルベレスも、紫電も。睦月をD3になど渡したいとは思っていない。むしろ彼を正気に戻し、願わくば元に戻って欲しいと思っている。もっともそれが叶わなかった場合は−−
(それでも、D3に渡すよりはマシだ。そうだろ、睦月……)
そうなれば睦月を始末する。それだけだ。正光は腹を据えた。『腹を据えねばならなかった』のだ。
正光はコンソールのボタンを押した。
「シルバー6より、シルバー1」〔シルバー1だ〕聞こえたのはレイの声だった。
「睦月がイカれてからすでに三時間が経過した。どう思う?」〔アァ? なんだよどう思うって〕「アイツを見つけられるかどうかってことだ。時間が経てば、一般人に被害が出るかもしれん」〔何が言いたい〕「つまりどのタイミングでD3に連絡するかってことだよ」〔……〕
驚いた香奈子は正光を見た。彼の横顔は酷く真面目で、さっきまでの困惑した表情は消え去っていた。
「どういうこと?」
香奈子は正光を見て言うが、彼はそれを無視した。
「シルバー1、もっと探す時間はあるんだろうが、被害が出た後で報告したらコッチの立場も危ねぇ。違うか」
〔ホホー、中々にしてお前も、ずいぶんとマシな事を言うようになったじゃねーか。確かにその通り。先手を打った方がいい、というか、むしろそれが通常の手続きだ〕
香奈子に睨まれていることを負い目に感じた正光は、ちょっとだけ彼女を見た。香奈子は心配そうに正光を見つめているようだ。
〔だが、コッチの手札には紫電というカードがある。もちろん万能じゃーないが、十八時頃までなら持ちこたえてくれるだろうと踏んでいる〕
正光は画面にある時間を見る。残り約四時間といったところか。
「そうなのか」〔あぁそうだ。D3関連の話は、お前に関係ねぇと思ってて言わなかったんだが。悪いな〕「いや、そんなことは別に」
〔しかしまぁ、嬉しいぜ、俺はよ。覚悟を決めたか、シルバー6〕「そうしなけりゃーなるまい。こうなった以上、他人に迷惑をかけるわけにもいかねぇ」〔よぉし、よく言った。それじゃーお前の言うとおり、刃から紫電へ連絡してもらって、D3への報告関連を検討してもらう〕「了解、頼む」〔こちらはもうすぐそっちに付く。そしたらお前も一緒に探索に当たらせる。それでいいか〕「了解。被害が出る前に見つけられるといいが」〔俺も気持ちは一緒さ。じゃあまた後で〕「了解」
正光がレイとの通信を終えたのを見ると、香奈子は椅子から立ち上がった。
「ねぇ正光君、どういうこと!?」
「これ以上アイツを野放しにはできねぇ。それに今は命令違反を起こしてる状態なんだ」
「でも紫電がなんとかしてるって!」
「確かにそうだ。だがちょっと先延ばしになるだけだ。それにD3の介入があれば、アイツの探索だってずっと楽になる−−」「そうじゃないの!」
正光は香奈子を見た。彼女はとても困ったような顔をして、正光を見下ろしている。
「どういうことかわかってるの……?」
「わかってる」
「D3に報告したら、睦月君を見つけても連れてかれちゃうんだよ? でもレイ達はD3には黙って、がんばって見つけ出そうとしてる」
「わかってる」
「睦月君を助けたいから!」
珍しく怒鳴り声を上げた香奈子だったが、正光の決断をくつがえす事はできなかった。むしろそうするのが逆効果なことを彼女は分からないでいた。だが、こうなってしまった人間を思いとどまらせるのは、誰にだって容易な事ではない。
正光は少しばかり黙っていたが、すぐに横目で彼女を見ながら言った。
「泉さん。俺だって睦月の野郎を助けたいと思っているさ。でもよ、この状況。どう思う」
「どうって−−」
「絶望的だ。『決定的』にな。手がかりもない。時間も限られてる。挙句の果てに瑞穂ちゃんもいない。もし瑞穂ちゃんがいてくれたら、霊視であの野郎を探し出せていたかもしれない。彼女はあの野郎のことをめちゃくちゃ思ってるんだ。だからもしかしたら、インテュイントが拾い上げられてたかもしれん」
「……」
「でも、いない。まさに、万事、休すだ」
香奈子は愕然としてしまった。さっきまで正光は睦月のことを心配していたにも関わらず、今では打って変わり、彼を討伐すると言うのだ。
「でもっ、でもね!?」
納得のいかない香奈子は更に問い詰めようと、正光の肩に手を置いた。しかしそれがいけなかったのか、正光は手を払いのけると立ち上がり、彼女のほうを向いた。
「泉さん。いいかい。ホントはこんな事言いたくねぇし、こういうのは本来睦月の野郎が言うセリフだ、でも奴の変わりに俺が言ってやるぜ。『こういうもの』なんだ。分かるかい? 『こういうもの』なんだよ、俺達ってのは。いつ誰が死んだっておかしくない世界だ。誰だって死ぬのは嫌だ。俺だって助けてやりたいさ。でもよ、やっぱり死ぬ奴は死ぬんだ。そして残念な事に、それが今回アイツだったって訳だ」
「……っ」
(分かるまい)その時だけは正光のような男であっても、香奈子を見ていると苛立ちを覚えた。睦月は正光の友であり、それ以上に戦友だ。一般的な日常生活では到底感じる事のできない極限状態を、一緒に乗り越えてきた仲なのだ。そんな信頼するにたる人物を見殺しにするなどという気持ちは、香奈子には分かるまい。分かってたまるか。
正光はモリエイターであり、殺し合いを日課としている。そんな日々を送っていると、『どうしてもこれ以上は無理だ』という状況に陥る事が多々ある。その時犠牲が出る。その時別れが訪れる。その時誰かを失う事になるのだ……正光は今の今までそれを否定したくてたまらなかった。まさか睦月を失うなどと、考えたくはなかったのだ。
しかし、ときが正光の判断を即した。睦月を野放しにすれば多くの被害が出るのは明白だ。そして今の兵力では睦月を探し出すのは容易ではない、増援が必要だ。正光はそういった現実が分かるにつれて、徐々に睦月の友人としてではなく、大きな輪の中のひとり、兵士としての状況判断ができるようになってきた。
正光らしからぬ言葉を浴びせられた香奈子は、言葉もなく立ち尽くしてしまった。香奈子は正光に背を向けて、自分の席へ座る。
(そう簡単に諦めていいの……?)そしてそう思う。正光にもっと言ってやりたかった彼女は、思ったことをそのまま言葉にした。
「そう簡単にっ、諦めてもいいの!?」
「諦めちゃいない。時間の許す限り、めいっぱい探してやる」正光は顔を向けぬままに返答する。それを聞いた香奈子は安心しかけたが−−
「時間がきたらそうするってことだ」
最後に続いた正光の言葉を聞いて、頭が重くなった。
司令室を辛い沈黙が覆った。体を動かす事すら億劫に思える。さっきまで和やかな会話を楽しんでいたにもかかわらず、今ではその逆である。なんだかとても気まずい空気だった。
「……そろそろ二人が帰ってくる頃だ。出迎えがてら、頭冷やしてくるわ」
正光が席を立った。「うん……」香奈子は生返事を返すのがやっとで、今の声だってどうにか口から絞り出したといった感じである。なんとなく香奈子は、正光の傍にいるのが嫌になっていた。
「泉さん」
エレベーターの鉄格子近くで正光が呼んだ。
「あの……ごめん。俺、嫌な事を言っちまった……」
そして彼は謝る。香奈子は多少嬉しかったものの、しかし心境はあまり良くならなかった。「うん……」香奈子はまた同じように返したが、やはり正光の顔を見ることはできなかった。
バーわけありの一階へきた正光は適当な椅子に腰掛けた。窓から差し込む日差しは黄色を帯びて、店内を照らしている。たまに通る車の音以外は無音の店内。アンティークで装飾された狭い世界で一人、正光はテーブルに突っ伏し、頭を抱えた。
(わかってる、分かってるんだ、どうしようもないってことが。泉さんの言う事は正しい。彼女は正しい事を言っている。……でも、正しい事を突き通すのは、力がいる。それがないから、俺は悩んで、悩んで、結局、妥当な線を行くしかない。睦月を助けるには、それはそれは大層な力が必要だ。『俺にそれはないんだ』。泉さん、ないんだよ。クソッ、くそ……っ!)
正光の考える力とは、腕力のことではない。まぁそれもあるに越した事はないのだが、それ以外の意味も含まれている。例えば人脈や地位、頭の回転などがそうだ。正光には単体での戦闘能力こそあるものの、それ以外の力は全くといっていいほど皆無であった。
(俺に何ができる? ただ殺し方がちょっと上手いだけだ。でもそんなもんは、今回何の役にもたたない。それこそ最後の最後、睦月を始末する時にちょっぴり役に立つ程度のものじゃないか。睦月、お前を俺は一体、どうしたら助けられる? どうしたら探し出せる? それらに関して俺は、まったくもって無能なんだよ!)
ぎゅっと目を閉じて歯を食いしばると、頭に置いた手をコブシに変え、テーブルをドンと叩く。(どうすりゃいいんだ!)正光はだんだんと目頭が熱くなるのを覚え、勝手に涙がこぼれ始めてしまった。彼は人より涙もろい体質なのだ。正光としても、泣いたところでどうにもならないというのは十分承知ではあるのだが、彼の意思に反して涙はぽろぽろと流れ出した。勝手に横隔膜は震えだして、恥ずかしながら正光は嗚咽を漏らさねばならなかった。
しばらく彼は泣いた。その間は何も考えられなかった。考えようとしても、すぐに行き止まってしまった。どうにもならない。その考えの行き着く先は、誰に聞いても当然だと言われるはずで、むしろ良く決断したとレイから言われるほど妥当な、誰からもとがめられる事のない正確で適切な答え、『睦月を始末する』という結論に達するのだった。それをおこなうのはどれほど簡単で、しかし決断するのはどれほど困難であったろうか。
始末するのは簡単なのだ。D3に連絡して増援を送ってもらえばすぐにかたが付くだろう。
だが正光が始めに思っていて、香奈子は最後まで思っていたこと、つまり睦月を殺さず正気に戻そうという試みは、極めて難しい。まず睦月を探さねばならない。今現在はここでつまづいているのだ。さらに見つけたあと、睦月をどうやって正気に戻すのだろうか。
正光は学校で睦月に刺される瞬間、睦月から逃げろと言われた。逃げろ。なんということだろう、そう言うというのは、睦月は自分を抑えられなかったというわけだ。もしあれから睦月が自我を取り戻したのなら、何か正光達に分かるような合図なりを送ったに違いない。しかし現時点ではそれを確認できてはいない。睦月は依然としてあのままなのだろうか……。
突然入り口のドアが開いて、くっついていた鐘がカランとなった。びっくりして正光は顔を起こした。入ってきたのは刃であった。
「大槻さん」「うむ」
正光は最初に入ってきたのが刃でよかったと心底思った。もしレイなんかであれば、仕事サボりやがってと真面目に怒られていただろう。もっとも刃だってそう考えたが、彼はレイよりも心がおおらかだった。
「お前にはキツイだろうな、正光」刃はそう言うと正光の近くに寄った。
「いえ……わりぃッス、仕事サボるつもりじゃなくて−−」
「構わん。往々にして皆、知った顔がいなくなるのを嘆くものだ。こっそりとな」
「……」
正光は複雑な気持ちになった。刃とて、睦月をいちから鍛え上げた男のはずだ。思い入れなんてものは、たかが十六年しか生きていない正光の何倍もあっただろうに。なんと言ったらよいのか、正光には言葉が思い浮かばない。
「下に泉さんがいます。俺もすぐいきます」
正光からやっと出てきたのは言葉は、まったく業務的なものだった。
「……わかった。レイもじき到着する」そんな彼を気遣ったのか、刃は言葉に重みを持たせながらゆっくりと言った。「レイはなんで遅れるんです?」「バイクを駐車場へ停めに行った。すぐそこだ」「そう、スか」
刃はそれから厨房へ向かおうとしたが、何故か途中で足を止めた。
「正光」
そして正光に振り向くことなく、背中越しで呼ぶ。正光は刃の後姿を見た。
「人間ひとりひとりは弱く、脆い。だから団結し、結束する事でそれらを補う。そうしてできた集団の力というものは、とてつもないものだ」
『力』。さっき正光が考えていたことだ。思考を読まれたような気がして、正光は一瞬ビクリとした。
「しかし、我々はモリエイターだ。能力を持つ者は、たかが人間ひとりの力を軽く凌駕する。それこそ、インビュードハンターという地球側の狩人から狙われるほどにな……。正光、お前は本来のモリエイターはどういったものか知っているか」
突然刃から質問が飛び出して、正光は焦った。
「えっ、本来の……」
「本来モリエイターとは、碧炎術士と呼ばれていた。彼らは今後どうなるかという占いごとを行い、自分の主へアドバイスをしてやっていたのだ。……つまり本来の仕事は、未来予測、今で言うところのアカシックリードであった」
「……」
一体、刃は何を言いたいのだろうか。正光は呆然とした様子で彼の背中を見つめていた。
「正光。お前のインテュイントはその若さでありながら、ずば抜けた位置にある。そしてお前はどういうわけか、エーテルドライブを使える。……もしかしたらお前になら、睦月を見つけ出せるかもしれん」
「そんなっ!俺は−−」そんな事を言われて、正光は口を挟んだ。
「俺にはなにも、なんもできねーんですよ、なんも感じれねぇ。俺だって、そんなことができるなら今すぐにでもしたいっ、でも……どうしていいのか、俺には……俺には……」
正光が口ごもり始めると、いきなり入り口のドアが開いた。入ってきたのはレイだった。
「よーお二人。遅れてすまん」
どうやらレイは外で聞き耳を立てていた訳ではないらしく、入って早々言葉を続けた。
「正光、刃から聞いたか」「何を?」「あぁ? 聞いてねぇってかぁ?」
刃はその言葉にやっと振り向いたが、レイの困ったような顔を見つけてしまった。「これからだ。お前が来てからの方がよいと思ってな」そしてそう言い訳する。レイは肩を上下させた。
「正光、D3の件を紫電に報告したところ、どうもよからぬ返事が返ってきた。というのも、紫電の周りを城壁参謀本部が嗅ぎ回り始めたらしい。たかがDSP一人に対して、紫電が直々に指令を下すのはいかがなものか、といった具合らしい」
刃は腕組をしながらそう言い、さらに続ける。正光は真剣な表情で、軽く二度頷いた。
「そこで紫電は、四時間の猶予を俺達に与えたと証言した」
「四時間−−」「今からじゃーない。事が起こった時点でだ」正光の反復にレイが答えた。
「それじゃ、あと一時間もないってことかよ!?」正光が驚いて叫ぶ。「そうだな」しかしレイは冷静に返した。「どうして!?」腑に落ちない正光はまた叫んだ。
「正光。紫電の地位は我々とは別次元だ。知らぬ存ぜぬなどと、言い訳をできる立場ではない」「『そういうもん』なんだよ、正光」刃の言葉に、レイが続いた。
正光はまた自分の使った言葉が出てきて顔をしかめた。(そうだったな、畜生が……!)彼は舌打ちしそうになったが、それだけはなんとか堪えた。
「そういった訳で、俺達に残された時間は……四十分程だ。その間に睦月の奴を見つけられなかった場合、D3へ正式な通達が入れられる。そうなりゃらまさに、オール、イズ、オーバー。次に睦月を拝めるのは棺桶の中か、はたまた牢獄の中か」
「なんてこった……」
四十分。四十分しかない。なんということだ、それしか猶予がないとは! 正光の涙はすっかり止まってはいたが、今は違う、非常に嫌な気分になる激しい動悸が体を襲っていた。
レイはそんな正光をよそに、エレベーターへ向かいながら言った。
「そういうわけだ。俺達も美咲同様探索に向かう。正光も早く準備しろ−−」「いや、正光はこの場で待機させる」
しかし、レイの言葉を刃が遮った。「なっ……なにぃ!?」レイは足を止めて刃に振り返る。
「正光に紫電のことを言いそびれたのは『その説明』をしていたからだ」刃は正光の傍に近寄りながら言い、更に続ける。正光は何をしたらよいのか分からず、立ち尽くすことしかできない。
「正光。お前は天賦の才能を持っている。それはエーテルドライブできることが証明している。誰が見ても明らかだ。お前は生まれながらにして、モリエイター、いや碧炎術士としての素質を持っている」
今までに聞いた事もない刃の力強い言葉に、正光はたじろいだ。
「その力を使い、睦月を見つけ出すのだ」正光は何か言いかけたが、刃は間髪いれず語った。「いいか、これは。お前にしかできない。我々では無理なことなのだ。それがどういう意味かわかるか」
「……」
正光は頭が真っ白になった。
(一体俺に、何ができるってんだ……)
「刃、そうせっつくな。困ってるだろ……」
あまりにも激しく語る刃を見たレイは、たまらずそれを制した。
「大槻さん、俺には、分からねぇんです。もし自分に何かできるものなら、どうしてもやりたいんですけど……」
正光がしょんぼりしながら言う。レイはそんな彼を気の毒に思い、多少の助言をしてやることにした。
「刃の話は俺もさっき聞いたよ、正光。と言ってもそれは、理論上の話だ。人間は眠るとアストラル体を開放して、その辺にあるアストラル体と一体化させる。つまりその状態が、悟りを開いてる状態と言える」
レイの説明はどこまでも大雑把であるのだが、『理論上』という大前提のもとならば、モリエイターである正光には理解できることだった。もっとも、本当にそうなのかと疑問ばかりが浮かんだのだが。
「本来ならその状態では意識を保つ事なんて不可能だ。だが、意識を保つ余力を残しつつ一体化することで、それを認識できるらしい」
一体化をする。正光はその言葉に、何か引っかかるものを感じた。
「そうだ」刃が後を追った。「だが今の場合、今後どうなるかなどという箇所を知る必要はない。一体化を図ったのち、周囲から睦月の気配を察する『だけ』でいい」
「しかしだなぁ刃。やっぱ無理だって。俺達ですらんな大それたことできねーんだぜ?」どうやらレイは、刃が言うことを無理だと思っているようだ。レイに限らず、そんなことは誰だって無理だと思うだろう。
「……一度だけあります。その、一体化したことが」
正光の口からそんな言葉が飛び出した。二人はその言葉に、体の向きを変えるほどの関心をもった。
「いつだ」刃が言う。「泉さんが覚醒させられた時です。なんつーか……自分の周りに展開型のフィールドみたいなのを突然感じて、その圏内に入ったモノの『先』が、見える、みたいな……」「先ってのは、行動が読めたって訳か」レイも真剣な表情で問う。「たぶん、そんな感じだと」正光は煮え切らない様子ながらも返答した。
それから刃はレイを見つめた。レイも横目で刃を眺める。
「やらせる価値はある」刃が言う。「……そのようだな」レイは大きなため息をわざとらしく吐いたものの、刃に同意したようだった。
「でも、しかしッスよ!? 俺にはそれが、どうやってできたのかもわかんねーんスよ!?」
正光は二人に突っかかったが、刃がそれを止めた。「正光」名を呼ばれてハッとした彼は、刃を見る。
「始めは誰しもがそうだ。突然知る。何故そうなったかなどはわからん。それを知る手がかりは、どうしてそうなったのかを考えることだ。状況を思い出せ」「そうだけど−−」「代われるものなら代わってやりたいさ。俺とてな」刃は皮肉っぽくちょっとだけ笑った。そして話を続ける。
「正光。俺達にはできる事が限られている。俺達は霊視する以外方法はないが、お前にはもしかしたら、そういう手段をもちいることができるかもしれん。だから、お前にしかできないことをやるんだ」
「……」
正光は黙ってしまったが、刃は彼に、心に響く一言を最後に言った。
「簡単に諦めるな」
その言葉を聞いて、正光の体が熱くなった。香奈子にも言われたからだ。
「できることがまだある、それを全力でやってのけろ。最後まであがくのが人であろう。違うか、正光」
刃の力強い声は、今の正光を突き動かすのに十分なものであった。
そして正光は思う。(俺にもまだ、やれることが残っている)しかしそれをどうしたらできるかが分からない。(だが、やれることが、まだ残っている……ッ!)
正光の両腕はブルブル震えた。両手を痛くなるほど握っているからだ。歯を食いしばり、眉間に力を込められた顔は怒っているようにも見えたが、そういう訳ではない。いま正光の中にある感情が荒波の如くうねり、入り乱れていたからだ。
正光は顔を上げた。多少顔が強張っているものの、だが凛とした表情をしている。
「やってみます」
そして確かな返答を二人に返す。刃は正光の顔を見て頷いた。
司令室に下りた三人をみて、香奈子が立ち上がった。
「帰ってきたんですか!」
「あぁ。状況はどうだ」レイは足早にコンソールへ向かい、画面を眺めた。
「最後の報告通りです。探索隊は現在、桜桃県の外周へ進行中です」香奈子はレイへ報告しながら、チラリと正光を横目で見た。正光も香奈子を見たが、目はすぐに画面に戻った。
「そうか。……泉。こっちからも、いい知らせと悪い知らせがある」「えっ−−」香奈子は驚いたが、レイは勝手に続ける。
「だから俺のチョイスで、悪い知らせから教える。……紫電の方で面倒が起きたらしくて、睦月の探索はあと、三十五分程度しか時間はなくなった」
「そ、そんなっ!?」
「それと、いい知らせ。正光には、今から視覚に頼らない探知法を試してもらう。ソイツが成功すりゃ、タイムリミットまでなんとかなるかもしれん」
香奈子はレイの言葉を理解できなかった。彼女はもう一度正光を見る。正光はそれを見つけると、うんうんと頷いた。
レイはそれだけを言うと、早速ロッカールームへ向かった。刃も向かおうとしたが、行く途中正光に言う。「正光。睦月を見つけるだけでいい。それ以上見ようとはするな。お前の精神がもたん可能性がある」「了解」正光もそれを素直に聞いて頷いた。
せわしなく動き回るレイと刃、そして難しい表情をしている正光を見て、香奈子は一体何事かと気が気ではない。一体自分が知らない間に、何があったのだろうか。
「よーし。それじゃ、俺達は移動する」
手早く装備を整えたレイが、エレベーター近くで言った。「正光」そして彼を呼ぶ。
「俺達は自分らができることをやる。だからお前もできることをやれ。いいな」
「……了解だ」
そうして、二人は鉄格子の中へ隠れていった。残された香奈子はとても気まずいと思えていたが、正光はそう思ってはいない。
「どういうことなの? 正光君」
やっとのことで香奈子はそう聞いたが、いつの間にか正光は桜桃県の地図を探しにスチールの戸棚をあさっていた。
「まえ泉さんに教えた奴だ。『無敵フィールド』を使う。かっこよく言うとインビンシブルだ」
「それって……!?」
香奈子はそれを知っていた。それはまさに、香奈子が覚醒させられたあと、百也によって窮地に追い込まれたとき、正光が突如発現させた能力だ。のちに正光と睦月はその能力の名前を議論して、無敵フィールドだとかインビンシブルだとか、なんとも稚拙な名称を模索してはいたのだったが……その能力を使ったあと、正光の炎は酷く不安定となり、意識はまる一日戻らなかったのだ。さらに話では、頭痛が酷いと聞いた。つまり正光にとってその能力は、諸刃の剣なのだ。
「もっとも名称はいまだもって検討中だ。なんか案があったら、泉さんも教えてくれよ」
戸棚の中から、折りたたまれた特大の地図を見つけた正光は、それを広げながら言う。
「正光君、でも、あの能力って、自分でも使い方が分からないって−−」
香奈子の問いを聞いて、正光は両手で開いた地図を新聞みたく二つに閉じた。
「……確かにその通りだ。でも、できるなら。やるしかない」
そして正光は立ち上がり、香奈子の傍へ寄った。
「泉さんの言葉が胸に響いたよ。全く俺は最低の大莫迦野郎だ。やれることがまだあったのに、それをしようとしなかった。諦めていたんだ。でも、泉さんに言われて気づいた。まだ諦めるわけにゃーいかない」
呆然とする香奈子を見て、正光はうなづきながら笑みを浮かべた。正光には不思議な活力があるように思えた。
「一体どうするの?」香奈子が問う。「とにかく、前使えた時を思い出して、もう一度やってみる」正光は椅子に座り、地図をコンソールの上に置いて答えた。「あんときはせいぜい三メートルくらいしか見れなかったが、今集中してやってみれば、もしかしたら−−」そう言いかけて、地図に目をやる。香奈子も彼の目線を追ったが、そこには桜桃県の拡大写真があるだけだ。
「まさか、こんなに広く!?」
「できるかはわからない。でも分からないってことは、やったことがないからだ。それを、今からやるんだ」
「そ、それは、そうだけど−−」
たった三メートルを二十秒程度続けただけで、正光は一日寝込んだ。それを今回は、実に九千立方キロメートルはある一つの県を、レンジ内に収めようというのだ。香奈子が思うに、それはどう考えても無謀ではないだろうか。
「前回は意識を集中しすぎていた。だから今回は、少し余力を残す。やばいかどうか、いけそうかどうかの具合を見ながら、ちょっとずつやってみる。……あっ! そうかッやっべ!?」
真面目な説明をしていたのだったが、正光は突然頭を抱えて飛び上がった。
「こいつを使うにゃ、AOFをはらねーとだめなんだ! どうしよう!?」
AOFを展開すればインビュードハンターから探知される。頭に手を乗せたまま、正光は香奈子を見た。それで彼女にABIを展開してもらえばいいじゃないかとすぐに思ったが、そういう時にかぎって、彼女に対してそんなわがままをいちいち聞いてもらえるだろうか等という疑問が彼を襲った。
正光の驚き顔がだんだん難しい顔になっていくのを見て、香奈子は多少呆れたものの、ちょっと小首を傾けて言った。
「いいよ。それじゃ、レイに手伝っていいか聞いてみる」
「……ごめん、ありがとう」正光はなんだか気の毒な気持ちになり、頭にあった両手をひざの上に下ろし、こぶしを作って姿勢を正した。
香奈子がレイに問い合わせると、多少愚痴られたものの了承を頂けた。これで通信を気にせず、ことに集中できる。
「いくよ……?」香奈子が言う。「いつでも」正光はGOサインを出す。
一瞬にして、香奈子のABIが正光を覆った。あとは正光の仕事だ。
正光はとりあえずAOFを展開する。前回は最大出力で、なおかつエーテルドライブしていた時に能力を発現させたのだったが、今回はゆっくりだ。まるで車のギアを徐々に上げるように、正光は次第に出力を上げてゆく……しかし実のところ、正光は自分がどうやってエーテルドライブしているのかもよく分かっていなかった。
(なら、今試せばいいじゃねーか……!)
今の正光にとって、それは些細な問題のように思えた。(つまりこうだろう。エーテル体を、アストラル体に、融合させる)正光は目を下げて、コンソールに置いてある自分の両腕を視界に入れる。それからこうべを垂れて胸元やひざを見た。するとどうだろう、正光のAOFは青から金色に代わり始めたのだ!
その様子を見つめていた香奈子は、その時どれほど驚愕したものだろう。目の前の正光は、普通に考えて『できないこと』を、やってのけているのだ。それが本能的に分かり、できるというのは、やはり刃の言ったように、正光が天賦の才能を持っているという証拠だった。
「…………ッ! ぐっう……ッ!?」
だが次の瞬間、正光の体は突如痙攣を起こした。それに伴い、金色のAOFは腕やひざなどの局部的な部分からバシバシとスパークを起こし、弾け飛び始めた。それらは三秒くらい続いて、収まる頃にはアストラル体はおろか、一緒にエーテル体すらも消失してしまっていた。
「正光君!?」
香奈子は焦って彼の座る椅子へ前のめりになった。この状態はいつもの酸欠とは違い、エーテル体すら殆どなくなってしまった状態だ。正光は呼吸こそしていたものの、ぐったりと椅子にもたれかかってしまった。エーテル体には魂が内包されている。それがほとんどないということは、まさに絶体絶命、魂のない人間は植物人間になってしまう。
(どうしよう、助けなきゃ!?)
とにかく香奈子は、正光にアストラル体を供給するのに勤めた。(お願い、どうにかなって!−−)しかしどうしたものだろう。肉体の損傷は念じることで治るようであったが、果たしてこの状態の時はどうなのだろうか……。
わずかながら正光に残されたエーテル体は、香奈子に供給されたアストラル体からある程度包まれると、徐々に肥大化を始めた。彼女の心配をよそに治り始めたのだ。
(やった……!)
だが喜びもつかのま、彼女はその様子を見ていると、何故か、奇妙な生理的嫌悪を感じた。現状では正光が回復している事に変わりなく、それは喜ばしいことなはずだ。なぜそんな風に思えてしまうのだろう?
それは香奈子の目の前で、ありえないことが起きているからだ……もっとも、高位のモリエイターならばエーテル体を無意識下で肥大化させることができるのかもしれないが……香奈子はそんなのを一度たりともお目にかかったことはない。今始めてそれを目撃したのだ。
その様子というのはまさに、瀕死状態の生命が死から逃れようとあがく姿だ。視覚では、単に黄色の光がゆっくり増えていっているにすぎない。しかし香奈子はそれを見ていると、何故か気持ち悪く、グロテスクに思えてならなかった。明らかな生への固執と執着。正光が意識を失ったからこそ吐き出されるそういった純粋で単純な感情が、なんとなく香奈子にも伝わってくるのでそう思えてしまうのかもしれない。
エーテル体が異常な速度で肥大化した結果、数分もたたずして正光は突然目を開けた。
「がはっ! げほっげほ!」
急に息をしたら呼吸が乱れ、正光は咳き込んだ。そして辺りをキョロキョロ見回す。
「大丈夫っ!?」香奈子が言った。「あぁ、大丈夫だ。しかし聞いてくれ−−」正光は強張った顔をしながら返事を返した。
「さっきはミスっちまったが、なんとなくわかった気がする。一体化ってやつが」
「ホント!? でも、今のって、かなりヤバかったんじゃないの?」
「あぁ。あれは目に頼りすぎた。部位ごとじゃなく、感覚的に全体を意識しねーとダメってのがわかった……クソ。洒落にもなんねーぜ。まさか自分で自分の炎をふっ飛ばしちまうなんてよォ。だが怪我の功名ってやつで、収穫もあった。意識がぶっ飛んだあと、泉さんからアストラル体をソウクしてもらってたときだ。そんときなんつーか、部屋全体を眺めてるみたいな気分になったんだ。夢ん中みたいな感じだ。自分も、泉さんも見れた。たぶんそれを目指しゃーいいんだろう」
椅子に座りなおした正光は、両指を絡めると手のひらを裏返してボキボキ鳴らした。その様子だとすっかり元通りになったようだ。彼の炎もしっかりと安定している。
「おし。もっかいやってみる。次はうまくやるぜ!」
「う、うん。がんばって」「おうさ!」
正光はもうやる気だった。そんなタフガイを見て、香奈子はなんとなく居た堪れない気持ちになる。
「ねぇ、正光君……」「ん?」香奈子は正光の肩に手を置いて、戸惑いながら言う。
「さっきは、ごめんなさい。正光君、私に謝ってくれたのに、私、なんにも言えなくて……」
彼女はどうやら、先ほどの口論を気にしていたようだった。正光はちょっとだけ黙ったが、非常にスッキリした気持ちになり、心につっかえていた何かが取れた気がした。
「泉さん気にすんなよ! あれは俺がアホだから言い過ぎちまったんだ。頭悪くて、何言っていいかわかんなくてよ!」「でも−−」「それにほら、あれだぜ。喧嘩するほどなんとやら。二人してきちんと意見を言い合える関係ってのは、円滑にことが運ぶらしいぜ!」
本来のテンションを取り戻したのか、正光は自分なりの喋り方ができるようになっていた。香奈子もそれを聞いて、苦笑を返す。
「おし、やるぜ」
正光が地図を見て言った。
「了解。ABI、展開します」
香奈子もそれに答える。
「地獄の旅だ。楽しんで来るぜ」
目を閉じ、コンソールに両手を置いた正光は最後にそう言った。彼の周りでよく耳にするジョークだ。しかし香奈子にはそれが通じず、返答は帰ってこなかった。
正光の体はAOFに包まれた。そして徐々に金色を帯びる。さっきはここで躓いたが、炎は安定しているようだ。
正光は周囲にあるアストラル体の気配を感じた。固形のもあれば無形のもある。インテュイントはそれらを識別し、イマジネートはそれらを具体化させて彼に教える。目を閉じているにも関わらず、暗闇の中で正光は周囲に存在する物体を認識することができた。
(こういうことか……でも、いまはそうじゃない。これは自分の周りだけだ−−)
その時、ふと意気込みがブレーキをかけているように思え、彼は両手をひざの上に置いて、楽な姿勢で椅子に座る。そうして視界を広げようと試みを続けていると……急に彼が目を開き、飛び上がった。
「見つけたの!?」
すかさず香奈子は言ったが、正光はなんだか焦ったような表情をしていた。
「い、いや、まだだ。なんつーか……視界を広げようとしたら、できそうだったんだ。でも……なんか、自分がいなくなっちまいそうになった……」
心霊ビデオでも見た後のような正光の表情には恐怖の色が浮かんでいる。彼が先ほど言ったように、地獄の旅でもしてきたかのようだ。
「正光君……本当に大丈夫なの?」心配するしか仕事がない香奈子は言う。「あぁ。やるしかねえ。できそうなんだ」「でも、それで睦月君を見つけられたとしても、正光君が帰ってこなくなったら、私イヤだよ……」
「……!」
誰が聞いても、今のは何気ない、ごくありふれた会話のはずである。だが−−
「スキャンティィィーーー!」
どうやら正光にはそうではなかったらしい。ダメージを受けたわけでもないのに彼はそう叫ぶと、両腕のちからコブを見せ付けるようなガッツポーズを取った。顔は笑いを必至で堪えているようで、顎に梅干ができている。突然下着の名称を吼えた彼の心境は、香奈子には理解不能だったに違いない。
一体何が、彼にそうさせたのだろうか? それは香奈子が言った言葉である。正光が帰ってこなくなったらイヤだ……その言葉が正光を奮い立たせたのだ。その言葉は現在の彼にとってジャックポット、ダーツでいえばど真ん中で、彼女が放った言葉の矢は、彼のハートに(思いがけずも)見事直撃したのだ(だから正光はダメージボイスを発したのかもしれない)!
それを聞けたおかげで、彼はこう考えられるようになった。自分の意識があのまま飛散してしまったら、悲しむ人がいる! 『なんと素晴らしいこと』だろう! つまり自分は一人ではなく、帰りを待っていてくれる人がいるということ(そして待ってくれる人というのがこれまた美人で、器量もよく、素直で、非の打ち所のない、どうしようもなく愛しい『あの人』)だ! 正光は全く莫迦がつくくらい単純な男なのだが、今回はそれが幸いした。彼女にとっては何気なく出てた、とてつもなく些細な言葉。たったそれだけの言葉が、正光に、下手をすれば彼が消えてなくなってしまうかも知れないほどの行いを、ためらいもなくやってのけさせる勇気を与えた。
「……泉さん、それじゃ、頼みがある」正光はガッツポーズを止めると真面目な顔をして言った。
「なぁに?」
「俺が一体化してる間、間隔を空けて俺に問いかけてくれないか。今どこにいるんだって。声を聞いてれば、自分を見失いそうになっても、戻ってくる手がかりになると思う……できれば静かな声で。集中したいから」
「うん、わかった」
「おし。んじゃやろう。次はぜってー成功させてやる……!」
そうして二人は三度目のチャレンジを試みた。正光が地図を持ち出してから、すでに十分近くが経過している。残り時間は二十五分程度だ。
しばらくすると、正光がなんだか寝ているような状態になった。AOFはエーテルドライブしているので、別に居眠りしているわけではないらしい。香奈子は浅く長い呼吸をする正光を見て、彼の寝顔はこんななのか、などと思ったりもしたが、この状態で何を考えているのかと自分を問い詰めた。
「正光君? いまどこ?」
彼女は正光の耳元でささやく。彼の様子は変わらなかった。
(本当に大丈夫なのかしら……)
嫌な不安を感じた香奈子は、もう一度ささやいた。「正光君、いまどこ……?」やはり返事はない。
突然コンソールの上に置いた地図がペリッと音を立てた。びっくりして香奈子が目をやると、桜桃県出来根市の駅前、バーわけありがある場所に青い結晶がくっついていた。それは厚さ三ミリ程度の円柱で、青いおはじきといった感じだ。よく見ると、厚さをそのままに、じわじわと広がっている。結晶が成長するたび、紙にくっついているのか、ペリペリと音がした。その結晶は香奈子に『いま自分のいる位置』を知らせるため、正光が触らずしてモリエイトしたものだ。
「正光君、無理しないでね……」
不安を胸に秘めつつも、香奈子は静かな声で言った。
その声は正光に届いていた。一体化を図った彼は、意識を肉体の外へ出すことに成功していた。
現在正光が行っている荒事は『余談』や『補足』ではすまされないため、ここで正確に記述しておく必要がある。本来なら正光の体験を描写すればよいのだが、どうしても『感覚的』という表現ばかりが付きまとい、とても具体性にかけるからだ……。
人間は眠る事によってアストラル体を開放し、周囲のアストラル体と一体化を図る。それは先ほどレイが述べた通りだが、実際人間がそれを認識することはない。
一体化は魂がエーテル体に働きかけることで実現しており、その理由は二つある。
ひとつは、自分の周囲に集めたアストラル体の鮮度を保つためだ。人間は実生活において常にアストラル体を消耗しており、そのつど鮮度を落としている。そのため一体化を図り、アストラル体を新しく集めなおす作業を行う。その間肉体は睡眠しており、同時に物理的な疲れも癒される。
ふたつは、自分がいまどのような状況かという情報を世界に送り、また世界の情報を仕入れるためだ。それにより、魂は自分に関係のある事情を仕入れ、無意識下のうちにそれに直面する準備を始める。その辺は富士が述べた通りで、それによって不思議な出会い、奇跡的な偶然に出くわすのだ。情報をやりくりするというのは、アストラル体を介して魂同士が交流を図っているともいい取れるだろう。また関係ある情報の場合、一体化を図った人物の名残を拾い上げる場合もあるはずだ。
……それらの事情の上で、正光はアストラル体と一体化しながらも、意識を保とうと勤めていた。
正光はぶっつけ本番で一体化を図ったため、膨大な情報の中で意識を保つのが精一杯といった状況であった。本来なら気の遠くなる程の訓練が必要な荒事だ。基本的に、人間ひとりが何万という人間の意志を扱うなどというのは不可能なのだから。
(やばい……頭が吹っ飛びそうだ)
彼には数え切れぬ程の声が聞こえた。目には見知らぬ人々の思い出や様子が物凄いスピードでフラッシュバックした。彼は故意にアカシックリードしているわけだが、使い方の分からないコンソールを前にした加奈子のように、何もできずにいた。
(大槻さんが言っていたのはこのことか。深くは見るな。クソ、見たくなくても、勝手に見えちまうんだよ。どうすりゃいい!−−)
「正光君、いまどこ……?」
香奈子の声が聞こえた。しかしそれは小さく、やかましい騒音のような人の声にかき消されてしまった。(やべぇ、ホントどこにいんだ俺は……!? チィ、そうじゃない。まずは冷静になれ。見ざる、聞かざる、言わざるだ。なんも見るな、聞くな−−)
そう思うのだが、フラッシュバックは収まらず、騒音は止まらない。むしろ、正光は恐ろしい事に気づいてしまった。そんな体験をし続けた結果、どうやって自分の肉体へ戻っていいか分からなくなってしまったのだ。
(やっべぇ…………)
不思議と不安は感じなかった。いや、感じる事ができないのだ。彼は他人の意思に翻弄され続け、自分をすっかり見失ってしまっていた。
「まさみつくん−−」
途切れ途切れに香奈子の声が聞こえる。彼はふと、手を上にあげた。その行為はなんてことなく、普通にできた。意識こそ一体化しているようだが、肉体の制御はできるようだ。
その手を香奈子が握るような感触がする。細くてすべすべして、やんわりと手を包んでくれている。両手でしてくれたようだ。彼は嬉しくなった……まて、嬉しいという気持ちを実感できた! それは彼が莫迦だからであるが、だからこそできたのだ。
次第にフラッシュバックの明度が落ち、雑音のボリュームも下がる。それから正光は、香奈子の顔が見たいと思った。
するとどうだろう。いきなり視界は香奈子のものとなった。彼女は自分の両手で正光の手を握り締め、難しい表情をしている。同時に彼女の感覚と、考えが読めた。
(あれから十分以上立ってる、地図にも反応がない。どうして……)
彼女は正光を心配しているようだ。しかし、正光はいきなり恥ずかしくなった。まるで彼女を覗き見しているようではないか!
(違う違う! 俺は顔が見たいのだ、泉さんと一体化してどうする! ……い、一体化ですって!? 破廉恥な! そんなつもりじゃッ!? なかったんですぅぅぅーーー!?)
正光は恥ずかしさのあまり、彼女の中から飛び出す自分をイメージした。すると、本当に自分が飛び出した。そのまま彼は両手で顔を覆いながらしゃがんでしまい、どうしよう僕ちゃんなどと思っていたが、やっと現在の状況に気づいて驚愕した。
(これは……! 幽体離脱したみてーな感じか!?)
正光の意識は香奈子の傍にあり、目には彼女と自分が映っている。彼は本能的に、なんとなくやり方を理解し始めた。
(しかし、多分これは本来のアカシックリードじゃねえだろう。なんでかは知らんが……そう思える)
人々のざわめきは今も聞こえた。だがうるさくはない。それらを聞こうとすればいくらでもうるさくできたが、止めておいた。
(なるほど。いや、『このほうがいい』。なまじ感覚に頼りすぎていたんだ……今の俺には、現実的に理解できる、肉体のイメージがあったほうがやりやすい)
正光は時計をみた。あと十五分しかない!
(やっべぇ! 畜生、どうやって探す!?)振り向くと、コンソールの上に地図が載ってあった。(地図……そうかッ! 上空から拝めば、もしかして!)
意気込んだ途端、目の前に見知らぬ風景がフラッシュバックし始めた。騒音も同様だ。ヤバイと思った彼は、心を穏やかに保とうとする。それらは消えた。
何度か深呼吸をすると天井を見上げた。(この先を『読む』とどうなる?−−)そちらに意識を傾けると、視界はいきなり青空でいっぱいになった。そのまま一気に宇宙へ飛び出してしまいそうになり、怖くなった彼はとっさにそれをやめた。
(あっぶねぇ。……そうか、今の俺は精神体だ。てことは−−)
そういえば周囲のアストラル体を実感できることに気づいた。そして本来なら、自分もその中に存在しているのだ。体があるように思えるのは、彼のイマジネートがそう視覚化させているからだ。(浮けるはずだ)浮くという行為は一体どうすれば成り立つのだろう? 普段からAOFにより空中制御を行う正光には造作もないことだった。足に力をこめて、勢いよく飛び上がる。体は天井をすり抜け、いきなりバーわけありの屋根あたりまで跳躍できた。そこからは『いつもと同じ』だ。出力が常にマックス状態のAOFだと思えば、やはり簡単に制御できた。
(よぉし、いけるぞ!)
足元からAOFを噴射する要領で、彼の意識はぐんぐん上空へ向かった。数秒もかからずして、まさに地図で見たのと同じ地形を目下に収めることができた。面白い事に地図を思い出すと、境界線などない本来の地形に線が見える。彼のイマジネートがいい仕事をした結果である。
(地図か。そういや泉さんに、なんとか成功した事をつたえねーと)
彼はここまでのやり方がわかったので、一秒もかからずに元いた場所へ戻った。
「正光君、いまどこ?」
その時、香奈子がそうささやいた。
(俺はここだぜ、泉さん−−)
少しばかり笑みを浮かべた正光は、地図に描かれた桜桃県に指で丸くなぞる。するとなぞられた部分が青く結晶化した。「あっ」それを見た香奈子は驚いてそちらを見る。さらにイメージして、それは円錐の形になった。上から見下ろしているんだよ、という彼なりの意思表示だった。
そしてまた彼は上空に戻った。ここから先は、またうるさい騒音とフラッシュバックにご対面するだろうと思えた。
(しかしやるしかねえ。だが、前回とはやり方を変える。睦月だけの声を聞く。それ以外をフィルタリングできりゃーいいが……)
正光は軽く両手を広げ、ゆっくりクルクル回り始めた。聞く事だけに集中すると、一体化しているのをいいことに、彼のインテュイントは物凄いスピードで周囲の情報を拾い上げ始る。起きてるときとは比べ物にならない処理速度だ。
(アイツの声だけを聞かせろ。聞き覚えなんて幾らでもあるはずだ−−)
驚くべき事に、数十秒それを続けた結果、すぐに声が聞こえた。
「オッス瑞穂−−」睦月の声だ。いったいいつのものだろうか?
「何かあったのですか?−−」今度は瑞穂の声がする。どちらもエコーがかった声に聞こえる。
「ちょっと携帯貸してくんねーか?−−」
睦月が瑞穂の携帯を貰うと、トラックに積み込み作業をしているところで、積荷の中へ隠すイメージがフラッシュバックした。それから超倍速でトラックが進み、レイと刃がそれを発見した。
(では、本人はどこへ)
映像を巻き戻し、正光はそれらの声が聞こえた場所を見ようとする。クルクル回っていた体は止まり、目下にそこが見えた。ガンダーラマンションズだ。
「睦月の莫迦が。置きみあげってなぁ、こういうのがいいだろ−−」
ドアに爆薬を設置するイメージが見えた。どうやら一度は正気に戻ったようで、何かしら手がかりを残そうとしたものの、すぐに制御を奪われてしまったらしい。正光は顔をしかめて、それから睦月が行った過程を見るのがイヤになった。
(過程はいい! 今ッ、どこにいやがる!?)
「兄様−−」
瑞穂の声がした。そちらに顔を向けると、そこは桜桃県から東に位置する大森林地帯だ。その区画は既に探索隊が霊視を終えたはずなのだが……インテュイントがその時、森の中に埋められる複数の人工オリハルコン結晶を見つけた。(コイツが霊視の邪魔をしやがったのか−−)
正光は一度、司令室にある地図のところに戻った。そしてモリエイトしていた結晶を消し、森林地帯周辺に丸を付ける。
「この辺にいるってこと?」香奈子が言う。(そうだ、今から探してくる)正光はすぐに上空へ戻った。これら一連の行動は十秒もかからなかった。
森林地帯の真上に来た正光は、手をかざして睦月の残像を探った。それはすぐに現れて、倍速スピードで森の中を進行し、ある工場跡の中へ入っていった。
(この中かッ!?)
そのまま中に入っていきそうになったが、彼はそれを止めた。焦ってはいけない、まずはこの場所を地図に記さなくては。彼は周辺の条件から大体の予測を立てると、司令室の地図に目印をつけた。そして戻り、中に入る。
そこは周辺で伐採された木材の保管や加工をする工場だった。それが今ではうち捨てられ、機械が撤収された工場内は実に広々としている。その中で、睦月とイーブルアイが交戦していた。
(なんでコイツが……!?)
彼は近づこうとしたが、双方AOFを展開しており、それによって発生するアストラルストームのせいで、そこへ近づこうとすると視界が激しくぶれた。なので遠巻きにしか見ることができないが……周囲には瑞穂の姿があり、指数本があらぬ方向を向いていた。中央には、謎の大きなローブを身にまとう人物が、両腕を鎖で巻かれて天井から吊るされていた。うな垂れており、しかもフードが顔を覆っているので、性別すら確認できない。
(一体何が起こってやがる! クソ! 早く戻らねーと!)
一瞬にして司令室に戻った彼だったが、一体どうすれば元の体に意識を戻せるのかと思った。
(焦るな、落ち着け−−)正光は自分に言い聞かせるように行動した。(まず、目を閉じろ。そして何も見えなく、聞こえなくなる。でも徐々に、体から感じるはずだ。自分の鼓動、周りの音、あとは……わかるだろう。泉さんが、いまも。手を握ってくれている。あったかくてやわらかい感触を、めちゃくちゃ感じるだろ−−)
だんだんと正光のまぶたが開いていく。横を見ると、自分の手があり、それを香奈子が握っていた。
「おかえり、正光君」
「……ただいま、泉さん」
香奈子は優しくそう言ってくれた。正光は返事を返したが、肉体に戻った途端、いきなり地球の重力みたいなものを感じて、極度の疲労感を覚える。
長い間アストラル体と一体化していたため、彼の時間感覚は麻痺していた。一体どれ程時間を喰ったのだろうか?「残り時間は、あと十分くらいよ」時計に目をやった正光を見て、香奈子が言う。
体を動かした途端にめまいを感じた。手はぶるぶる震えている。意識はまだハッキリせず、我ここにあらずといった状態だった。
「間に合うのか、とにかくレイにっ、連絡しねーと……!」
それでも正光は重たい体を気合で無理やり動かし、コンソールへと向かった。自分のできる仕事はした。だがまだ終わってはいない。最後までやり遂げようとする意志と、『もしかしたら』というわずかな希望が、彼を突き動かしていたのだ。
情報監視局 IBS(じょうほうかんしきょく あいびーえす)
監視者 Surveillant
Intelligence(情報)
Bureau(局)
of
Surveillance(監視)
インテリジェンス ビューロー オブ スベイランス
モリエイターの存在を隠蔽するために組織された穏健派の独立機関。D3とも通じており、穏健派と強行派の抗争よりも、一般人に対しての活動がおもである。作戦区域を設定するのもIBSの仕事であり、作戦区域以外で戦闘をおこなった者や部隊に対し、処罰する権限を持つ。
IBS所属の人間はスベイラントなどと呼ばれる。
D3と通じているだけあり、城壁参謀本部よりも若干立場が上である。よって城壁部隊に対していちゃもんをつけてくることが多く、上層末端を問わずあまり良い印象を持たれていない。