第九話 長くも短い夏休みの幕開け
「修一、送って行ってやるから帰るぞ」
白衣から私服に着替えた永子先生が、碧葉の病室にやってきた。
「永子先生、帰るんですか?」
「そんな恨めしそうな顔で見るな。寝られる時間に寝るのも医者の仕事のうちだ。睡眠不足では良い仕事はできないからな。修一、お前も同じだぞ」
俺は恨めしそうな顔などしていないと思ったけど、実際は恨めしそうな気持ちが顔に出ていたのだろうか。
「そうよ、修一君。あとは私が看てるから。修一君は今日は帰って休んで。たぶん、しばらくはこの状態が続くと思うから……」
そう言う碧葉のお母さんは、笑顔で笑いながら僕の荷物をまとめ、手渡してくれた。その笑顔は、明らかに疲れが溜まっていた。それは体力的な疲れだけではなく精神的な疲れが大きいのではと思う。
「明日は金曜日なので、塾の帰りに泊まれる用意してきます。だから明日は、お母さんは家に帰って休んでください」
「修一君、ありがとうね。でも夜に二人きりになっても、寝ている碧葉を襲ったらだめよ。子作りするなら碧葉がちゃんと元気になってからにしてね。」
碧葉のお母さんは気を利かせて冗談を言ってくれたのだろう。しかしその冗談に、俺は少しも笑えなかった。それでも、しんみりとした空気を少しでも明るくしようと碧葉のお母さんが言ってくれた冗談を無下にはできず、俺は精一杯の作り笑いをして応えた。
「大丈夫ですよ。そんなことしたら碧葉に一生恨まれますから。決定的瞬間になんで私を立ち会わせなかったのよって」
俺のその言葉に、永子先生がくすりと笑ってくれて、永子先生の笑顔につられて碧葉のお母さんも笑った。碧葉のお母さんの疲れた表情が少し和らいだような気がした。
「永子先生、まだ電車有るから自分で帰れますよ。それに今から岐阜まで送ってもらったら、永子先生の睡眠時間少なくなっちゃいますよ」
病院の近くの駐車場まで永子先生と二人で歩きながら、僕は仕事明けなのに疲れを少しも感じさせない永子先生にそう話しかけた。
「構わんよ。どうせ家に帰ってもすぐに寝られるわけでもないし。岐阜までの往復なら良いドライブになる。……それに、たまには修一君と二人だけでお話もしたいしな」
わざわざ俺の名前を君付けで呼びながら、永子先生は少女の様に悪戯っぽく笑った。
「車また替えたんですか。これイタリア車ですよね。たしかアルファロメオでしたっけ」
永子先生の駐車スペースに鎮座するのは、フロントグリルが特徴的な真っ赤な車だった。いかにも日本車ではないと主張するお洒落なデザイン。スポーツカーの様ないかつい存在感はないけれど、まるで永子先生のように小柄で快活でお転婆な可愛い雰囲気の車だ。
「修一も男の子だね。車の名前ぐらいは知っているんだ」
「名前だけですよ」
そう言って僕らは車のシートに乗り込んだ。
「この車はね、アルファロメオのジュリエッタって言うんだ。私と一緒で可愛い車だろ」
俺はまるで自分の思っていることを永子先生に見透かされてしまったようで、少し恥ずかしくなった。返す言葉を失っている俺に永子先生は話し続けた。
「せっかくの七夕の夜なのに、織姫様から彦星様をさらってゆくのは少し気が引けるな」
「大丈夫ですよ。今の織姫は眠り姫ですから。こうして悪い魔女に彦星がさらわれてゆくのに気が付いていませんよ」
今度は永子先生は苦笑いをして言葉を失った。
「それでどうなんですか、眠り姫はちゃんと目覚めそうなんですか」
「検査の数値は良くはないが最悪ではない。数日後には意識もしっかりするだろう。お前、二十四時間看護なんだから病院に泊まり込みで付き添わなくてもいいんだぞ」
永子先生は悪い魔女の様に妖しく微笑んだ。
しかし、俺はそんな永子先生の冗談のような誘いには乗らなかった。俺自身も永子先生と真面目に話をしたいことがあったからだ。
名古屋高速に入り永子先生のギアをシフトする手が休まり、車は快調に巡行スピードを保ちながら走り始めた。そこで俺は思い切って普段は質問できないような話を切り出した。
「永子先生、碧葉の体は、あとどれぐらいもちそうなんでしょう……」
「今回の様な発作ならまだ何とかなると思うが……。あの時の様な状態になったら、今度は難しいかもしれないな」
あの時とはおそらく三年前、中二の碧葉が危篤状態になってしまった時のことを永子先生は言っているのだろう。
「永子先生、碧葉のカルテを一式、最近の検査データを含めてお借りすることはできますか。碧葉の婚約者として……」
「お前、婚約者って言葉には法的な力は何も存在しないって判って言ってるだろ」
永子先生は、今度は意地悪な魔女の様に笑った。
「それに、今更他の病院でセカンドオピニオンでも乞うつもりか」
俺は永子先生のその言葉に、きっぱりと答えた。
「違います。碧葉の体が医学的に妊娠に適さないことを証明したいんです」
しばらく車内に沈黙が続いた。
「それを証明してどうする。碧葉のご両親ならそんなことを証明しなくても、子作りの話は碧葉の叶わない願望だと既に割り切って受け止めていると思うぞ。それとも、碧葉のためにそれを証明するとでも……」
俺は暗闇の中に何処までも続く高速道路の、その先を見ながら静かに話した。
「碧葉の体が医学的に妊娠に適さないことを証明して……それが証明できたら体外受精を試みます。代理母出産で……」
永子先生は車の窓を少しだけ開け、煙草の箱を胸の内ポケットから取り出しながら、まるで独り言のように呟いた。
「代理母出産か……」
ハンドルを握りながら永子先生は器用に紺色の箱から煙草を一本取り出し口にくわえると、今度はオイルライターを取り出し煙草に火をつけた。まるで南国の果物の様な甘美な匂いが車内に漂う。
「修一、お前、頭がいいのか馬鹿なのか判らんな」
冗談ぽくそう言った永子先生は、少しも笑っていなかった。むしろ、その表情は少し怒ってるようにさえ見えた。
「日本で代理母出産で体外受精の妊娠、そして出産をすることが、どういうことなのか、お前、一応は調べたんだろうな」
「はい。一応ですが……」
日本では、体外受精は不妊治療として違法ではないし、むしろ不妊に困っている多くの夫婦の助けとなっている。もちろん、その治療には母体が妊娠に適さない体である証明が必要だ。それは最終的な治療手段としての救いなのだ。
さらに、それはあくまでも不妊治療に臨む当事者が妊娠と出産をする場合だ。代理母出産となると話は全く別の問題になる。医学的な倫理観の問題だ。現在の日本の法律では代理母出産は決して禁じられている訳ではない。しかし、日本の医学会では推奨されておらず、医師会に加盟する医者には自粛が推奨されている。
つまり、体外受精による代理母出産は、今日の日本の医学界では禁忌なのだ。だから当然、それに手を貸すことになれば、手を貸したことがばれれば、永子先生も医学界を追放されてしまうのかもしれない。
「代理母はどうするつもりだ」
「医学的なことだけを言えば、碧葉のお母さんが適任かと。年齢はギリギリですが、出産経験もありますし、お体も問題ないかと思われます。ただ……」
碧葉のお母さんは二十歳の時に碧葉を産んでいた。だから今年で三十七歳になるのかな。代理母は出産経験の有る三十六歳までの健康な体の持ち主というのが一般的な基準らしいから、碧葉のお母さんなら実母ということもあり一見すれば適任に思えた。
しかし、心配するのは体力的なことではない……。
「ただ、碧葉のお母さんに代理母をお願いして、無事に出産に成功して子供が産まれたとしても、それは碧葉のお母さんのためにはならないような、そんな気がしてなりません」
永子先生は俺の話を、黙って聞いているだけだった。
「碧葉のお母さんは、碧葉に凄く依存しています。碧葉も、密かにそれを心配しているはずです。もし、碧葉の子供を碧葉のお母さんが代わりに産んだとして、そして碧葉が居なくなってしまったら……。その子供は、きっと碧葉のお母さんにとっては、ただの呪いにしかならないんじゃないかって」
永子先生は煙草を口に咥えると、深呼吸するようにゆっくりと息を吸い、そして甘く危険な香りのする煙をゆっくりと吐き出した。
「碧葉の母親なら、この話、きっと泣いて喜ぶぞ。そして、産まれた子供をちゃんと可愛がって育てるだろ。表面的には何も問題ないな……」
やはり俺には永子先生がとても怒っている様に見えた。いや、永子先生が何を考えているのか理解できなくて、そう思っただけなのかもしれない。永子先生は、俺にとっては本当に未知なる大人の女性だった。
「そうですね。表面的には問題ないですね。でも、だからこそ呪いなんですよ。碧葉のお母さんも、そして産まれてくる子供も、お互いが気が付ないままにお互いを依存し合う歪な関係に陥ってしまいますよ」
「親子なんだから、ある程度は依存し合うのは悪いことではないだろ」
そう言う永子先生の言葉は、明らかに悪意に満ちていた。それは僕の考えの真偽を問い質すためのアンチテーゼでしかない。
「ある程度の相互依存なら、むしろ必要なことだと思います。しかし、過度な依存はお互いの自立を妨げるだけです。実際、今の碧葉のお母さんは碧葉が居なくなったら、相当にやばいですよ」
永子先生は真剣な表情を崩さずに、自分の進むべき道の先を真っ直ぐに見詰めていた。
「それに、もし碧葉のお母さんに代理母を頼んだとしても、碧葉のお母さんに子供を渡すつもりはありません。子供は、俺が責任をもって育てます」
俺のその言葉を聞いて、永子先生は顔をニヤリとさせた。
「なるほど、責任を持って育てるか……」
永子先生はハンドルをしっかりと握ったまま、一瞬、顔を俺に向けた。
「じゃ、どうする?」
永子先生の厳しい一言に、僕は正直に答えるしかなかった。
「分かりません。それが問題です」
「なるほど、それが問題か……」
永子先生の言葉に、僕はもう一つ大事な問題を思い出した。
「問題はもう一つあります。代理出産を誰に頼むかということと、もう一つ、体外受精と代理母出産の費用をどうするかです」
車は各務原のインターチェンジで高速を下りた。永子先生の言う通り、一時間にも満たないドライブだった。
「費用など、お前のご両親と碧葉のご両親で折半すれば済む話じゃないのか」
永子先生は慣れた手つきでギアのシフトを操作をしながら国道に車を合流させる。
「それでは意味がないんです。これは、俺と碧葉の問題だから、たとえお互いの両親に協力を仰ぐとしても、それでも、根本的な部分では俺と碧葉でなんとかしたいんです」
「根本的な部分か……」
永子先生はクスリと笑い、それ以上は何も言わなかった。
車はやがて俺の家のすぐ近くのコンビニに辿り着き、俺はそこで車を降りた。永子先生は車の窓を下して俺にこう言った。
「カルテの件はなんとかできると思う。それと、費用の面も私が何とかしてもいいぞ」
俺は身をかがめ、永子先生の顔を覗き込みながら、その言葉の意図することを理解しようとした。
「費用は私が立て替えてやってもいい。その代り修一、お前が一生かけて私に体で払う条件っていうのはどうだ。悪い話じゃないだろ」
永子先生の悪戯っぽく笑う顔は、どこまで冗談でどこまで本気なのか少しも判らなかった。いったい、いつのまに永子先生はこんなに怖い大人になってしまったのだろうと思い、俺は訳もなく笑いが込み上げてきた。
「永子先生、俺の一生はそんなに安くないですよ」
そう言いながら、碧葉の居なくなったあとの人生を、永子先生と一緒に過ごすのはそれはそれで悪くないのかもと、不覚にも一瞬思ってしまった。そして、そんなことを思ってしまった自分を恥ずかしく思い、それを永子先生に覚られまいと、さらに大きな声で笑った。
「分かったから、そんなに笑うな」
永子先生も、バツが悪そうに笑った。そうして、俺と永子先生はコンビニの駐車場でしばらく何も考えずにただただ笑った。
体外受精の話も、ましてや代理母出産の話も、実現は到底不可能な事だとは判っていた。それでも、今の俺にはそれ以外の選択肢を考え付くことができない。だったら、覚悟決めて必死になるだけだ。碧葉の説いた『必死の極意』の通りに。
見上げると、夜空に浮かんでいるはずの天の川は、街の灯りに消され何も見えなかった。
「すまないね、修一くん。わざわざこんな場所まで呼び出す形になってしまって」
「いえ、こちらこそお忙しいのにお時間を作っていただいてありがとうございます」
俺は碧葉のお父さんに会うために、豊橋市の造船所に来ていた。おじさんは世界中を商社マンとして飛び回りながら、たまに日本に帰って来ては取引先の会社をこうして訪問しているそうだ。
「これだけインターネットが発達して、ネットを使ったTV会議やメールなど、世界中どこにいても手軽にコミュニケーションが取れる時代になってもね、それでもやはり最後はお互いに顔を直接突き合わせたコミュニケーションに勝るものはないんだよ」
そう言いながら、建造中の船が良く見える応接室の椅子に、碧葉のお父さんは深々と腰を下ろした。今しがたまでこの部屋で打ち合わせをしていた緊張から解放されたのか、おじさんは目を閉じて天井を仰ぐように深呼吸をすると、優しい笑顔を僕に見せてくれた。
「でも良かったよ、修一くんとは久しぶりに二人だけで話してみたいと思っていたんだ。以前に二人で話したのは、修一くんが中学三年になる時だったかな? なんか、ずいぶんと前のことなのに、ついこないだのことのように感じるな」
「そうですね。俺も碧葉と一緒にいると、毎日や毎週がとても長く感じるのに、それなのに一年一年はとても短く感じます」
「それはきっと修一くんが、碧葉と一緒に毎日を大切に一生懸命に過ごしてくれている証拠だよ。本当に感謝をしている。ありがとう、修一くん」
俺はその言葉に何と返事をしていいのか正直困ってしまった。なぜなら、感謝という意味では俺の方が碧葉に感謝してもしきれない思いでいっぱいだったからだ。返事に困った俺は、思わず話題を逸らしてしまった。
「それにしても、造船所って初めて来たんですが、すごい迫力ですね。なんか、まるでノアの箱船でも造っているような、凄いスケールっていうか、人智を超えた何かを感じますよ」
俺は碧葉のお父さんの打ち合わせが終わるまで、この会社の人に施設を案内してもらっていたのだ。豊橋市の近くには自動車工場もあり、現在この造船所では最新の自動車運搬船が建造されているということだった。ドッグに横たわる建造中の巨大な船は、無機質な鉄の建造物に過ぎないのに、まるで古の神殿を思わせるような荘厳さがあった。
「ノアの箱舟とは、神の御業かい? 確かに巨大建造物っていうものには人智を超えた神聖なものを感じるよね。でもそれは、錯覚だから気を付けた方がいい」
「偶像崇拝ですか?」
俺は慎重に言葉を選びながら、碧葉のお父さんの意図することを必死にくみ取ろうとした。
「どうかな……。でも、そうなのかもな」
碧葉のお父さんは俺の言葉に少し迷ったが、すぐにそれをきっぱりと肯定した。
「おじさんは仕事で世界中を飛び回っているじゃないですか。いろんな国の土地へ行って、いろんな国々の人達と仕事をして……。そんなおじさんから見て、碧葉の言っていることは、やはり自分勝手なただの我が儘だと思いますか」
窓から見える建造中の巨大な船の向こうに、蒼く染まった海と空が広がっている。碧葉のお父さんは、その遥か向こうを見詰めるように話し始めた。
「修一くん、今ここで造られている船はね、完成したら中東のある国へ納品するんだよ。砂漠の真ん中を流れる人工的に造られた河……運河をね、こうした船が行き交ったり、日本では考えられないような何百メートルもの川幅を塞き止めるダムを造ったり橋を架けたり、いや本当に人間というの、金と情熱、時間と労力、まあ何というか人智を尽くすとだね、どんな不可能もいつかは可能にしてしまうのではないかと錯覚をしてしまうんだよ」
「錯覚ですか」
碧葉のお父さんは俺の言葉にしばらく沈黙をした。
窓から空と海が見える。その空や海が遠く離れた中東まで繋がっている。それは理屈では分かっている。しかし、俺にはリアルに実感できるようなものではとてもなかった。
「日本にいるとね、本当に分かりづらいんだけど、世界は日本人が思っているほど平和じゃないんだ」
そう話し出す碧葉のお父さんは優しい顔を崩していなかったが、その目はとても厳しく険しい眼差しだった。
「巨大な船、巨大な橋、巨大なダム、神の御業を再現しその恩恵に与るような国々でもね、人種差別や種族、民族の争いがある。そして一番深刻なのは貧富の差だろうな。彼らの国の貧困はね、日本の貧困とは全く違った性質なんだよ。日本の貧困の多くは、そのほとんどが当事者の自己責任によるものが多い。もちろん不遇な環境で貧困に陥っている人も中にはいるかもしれない。しかし日本の場合、そうした人の多くは行政によって救われる。あるいは救われるチャンスを与えられケースが多い。しかしね、彼らは全く違うんだよ。彼らはどんなにあがいても、もがいても、そこから脱出できるような環境でも状況でもないんだ」
俺はおじさんの話に口を挿まず、ただ黙ってそれを正確に理解しようと努めた。
「最近、自分達の国を宣言してテロ行為を繰り返している世界的な組織があるだろ。日本にいるとね、きっと、何の実感も湧かないと思うんだが……」
おじさんは俺の顔の表情をしっかりと確認するように、じっと俺の顔を覗き込んだ。俺はそれに応えるようにおじさんの顔を見詰め返す。
「私もね、彼らの行為を決して認めている訳じゃない。でもね、彼らがどうしてああした行為をするようになったのか、ああした行為しかできないのか、それはね、何となく判る気がするんだ」
確かに俺にとってそうした問題は、何も実感が湧かない遠い海の向こうの出来事だ。日本のニュースは……当たり前の事だけど日本人の立場でしかニュースを報道しない。つまり、現地の人々の切実な思いは、国内で報道されるニュースだけではなかなか伝わってこないのだ。
しかし、だからといって俺がそうした問題に関心がないわけではない。実感の湧かないニュースであっても、それらの情報から自分なりの理解や解釈をする。
「歴史は繰り返す、ということですか」
それが、俺の答えだった。
「そうだな。民族や宗教の対立、迫害、権力に対峙する野蛮なテロ行為、そこから生じる秩序の崩壊、難民問題、どれも歴史のなかで繰り返されてきたことだね」
俺の言葉にそう応える碧葉のお父さんは、まるで学校の先生の様な感じがした。
「『歴史』の語源は知っているんだろ、修一くんなら」
「ヒストリー(history)はヒズ(his)ストーリー(story)、『彼の物語』っていう話ですね。彼とは神のこと。つまり歴史とは『神の物語』が語源という……」
碧葉のお父さんは俺の回答に満足したらしく、静かに笑みを浮かべた。
「そう思うと、我々は神の手のひらの上で踊らされているというか、試されていると思うんだよ」
その言葉を、俺はとても意外に感じた。まさか碧葉のお父さんから『神』という言葉を聞くとは少しも想像できなかったからだ。碧葉のお父さんは神とは無縁の、己の力を信じ己の力で強く生きてゆく、超現実主義者の強靭な商社マンというイメージがあったからだ。
「俺たちは、何を試されているんでしょうか?」
「決まってるじゃないか、本当の愛とは何か、本当の幸せとは何か、それを神から問われ、それを求められているのさ」
その言葉は意外性を超え、まるで冗談の様にしか聞こえなかった。だから俺はつい笑いを堪えることができなかった。勿論その笑いはおじさんの言葉を侮辱するような笑いではない。血は争えないというか、やはり、おじさんと碧葉は親子なんだなという微笑ましさからだった。
「なんだ、可笑しいか」
碧葉のお父さんも、とても優しく笑っていた。
「いいえ、ちっとも可笑しくはないです。ただ、なんだか、碧葉みたいだなって」
そう、それはまるで碧葉の様な発想、考え方だと俺は思った。
「まぁ、親子だからな」
碧葉のお父さんは俺のその言葉をとても気に入ったらしく、素直に心から喜んでくれているようだった。そんな碧葉のお父さんを見て俺は少し安心をした。間違いない、この人は心から信用しても大丈夫な人だと。
「おじさん、実は今日は相談があってきました」
俺は背筋を伸ばすと、改めて碧葉のお父さんに真正面から向き合った。僕とおじさんの間には応接セットのローテーブルがあったが、それでも、俺はおじさんの存在をとても近くに感じていた。
「相談か……。違うだろ、その目は相談を持ちかける人間の目じゃないな」
おじさんの顔にはさっきまでの笑顔は消えており、代わりに、そこには人生の大先輩としての険しい表情が深く浮き彫りとなって現れていた。
「でも、とても素晴らしい目だ。修一くん、きみはいい男になったな」
その険しい表情から発せられる俺に対する誉め言葉に、何故か俺は心を鼓舞されるような、誇らしい気持ちで体が満たされてゆくのを感じた。
「それで、きみの相談というか、修一君の覚悟を聞こうか」
おじさんのその言葉に、何をどう取り繕っても意味がないと感じた俺は、思っていることをストレートに伝えようと腹をくくった。
「俺と碧葉はやはり子供を作りたいです。碧葉の子供をこの世に遺したいです。そこで、体外受精による代理母出産を考えています」
俺のその言葉に一瞬おじさんが動揺したように思えた。それが具体的にどんな感情だったのか理解することはできなかったけど、その表情から、おじさんが俺の言葉にかなりの関心を示していることが分かった。
「その話、碧葉にはもうしたのかね」
「いいえ、まだです。先日、意識は戻ったんですが、まだ大事なことをしっかりと考えて決断するほどにはないかと思い……。ただ、永子先生には相談しました。話を進めるには永子先生の協力が必要ですから」
「そうか。永子先生も大変だな、碧葉のようなわがまま娘と修一くんのような……。まあいい」
おじさんが俺のことを何と形容しようとしたのか少し気にはなったが、俺もおじさんと同じ様に、今はそれはさほど重要な問題ではないとすぐに思い直した。
「それで、代理母はどうする? 碧葉の容態がいくら回復したとしても海外へ連れ出すのはさすがに無理だろ。それに今の医学でも人工受精させた卵子を海外へ空輸して代理母へというのは難しいんじゃないのか。もし可能だとしても、そうした卵子を国外に真っ当な方法で持ち出すのは法律的には問題が多そうだが」
おじさんの言っていることは代理母出産を検討するうえで定石通りの考えだった。日本では代理母出産はまだ社会的に広く受け入れられてはいないので、海外で代理母を探し出産をするケースが圧倒的に多いのだ。
「そうですね、確かに難しいと思います。ただ、代理母は海外ではなく国内で探しても可能性はあるかなと思っています」
碧葉のお父さんは少しニヒルな笑いを、その顔に浮かべた。
「うちの女房に話したら喜びそうな話だが、あれは止めた方がいいと思うぞ」
俺はその言葉に、少しでも気の利いた返事しようと言葉を選んではみたが、結局は見つからず、自分の思っていることをそのまま口にしてしまった。
「そうですね、俺もそう思います」
しかし、おじさんは俺のその言葉を、むしろ喜んでくれているようだった。おじさんがニヒルに笑うその理由を、俺がほんの少しでも察することが出来たと、そう思ってくれたからなのかもしれない。
「しかし、不思議だな。修一くんまでもが『子供が欲しい』という考えに固執するとは。そんなに碧葉に当てられたのかね」
おじさんのその表情から、おじさんが腹を割って本音で話しをしてくれているんだろうなと感じたので、俺も回りくどい言い方をせず、自分の本音を素直に曝け出すことにした。
「おじさんは、孫の顔を見たくないですか?」
「そりゃ見たいさ。たぶん、碧葉や修一くん以上にそう思っているよ」
その言葉は、まるで父親が自分の子供に語りかけるような、優しさに満ちた言葉だった。
「でもね、私が修一くんの立場ならどうだろな。産まれてくる子供よりも目の前の自分の妻を最優先に考えてしまうかな。結局、私がこうして世界中を飛び回って船や橋、ダムを売ってお金を稼いでいるのは、もちろん碧葉のためもあるが、それ以上に女房のためでもあるんだよ。あいつにとっては碧葉が生き甲斐だからな。だから、あいつがそれを失わないように、俺は全てを捨てて世界中から金を稼ぎまくっている」
その言葉は、とても深く重たい言葉だった。『全てを捨てて世界中からお金を稼ぎまくっている』というのは、まるで悪魔に魂を売り渡して、この世の刹那な幸せを追い求めているような、そんな悲痛な覚悟の様に感じられたからだ。
しかし、それを望むのは俺も同じだった。
「同じですよ。僕も結局は、碧葉の願いを叶えてやりたいと思っているだけですから。本当に産まれてくる子供のことを真剣に考えているのかと聞かれれば、そりゃ真剣には考えてますが、それは『考えている』っていうレベルの話であって、結局は、碧葉の想いに動かされているっていうのが本当のところだと思います」
「そうか、やはり碧葉に当てられているだけか」
碧葉のお父さんは本当に優しそうな顔で、そしてとても幸せそうに静かに笑った。その笑顔に、俺は安心感というか懐かしさを感じた。まるで幼い子供が父親にしっかりと手を握られ、自分の進むべき道を迷わないように優しく力強く導かれるような、そんな深い安堵と絶対的な信頼感を感じていたのだ。
だから俺は、もう何も臆することなく、おじさんの本心を聞きたいという衝動を抑えることができなかった。
「それで、おじさんとしては体外受精による代理母出産は賛成なんですか」
俺のその言葉に、おじさんはゆっくりと目を閉じて顔を天井に向け、天を仰ぐような姿勢でしばらく沈黙をした。
窓の外に目をやると、午後の穏やかな海には夕暮れの時間が近づき海面には白波が立ち始め、晴れ渡っていた空には、いつの間にか分厚い雲が広がっていた。
「条件付きで賛成っていうのが、正直なところだな」
碧葉のお父さんは、とてもゆっくり、しかしはっきりと、そう断言した。
「一つは永子先生の問題だ。碧葉の体では例え一時的であっても体外受精のために今の病院から他の病院へ移るのは難しい。となると永子先生の協力は必要不可欠になる。しかし、私も詳しいことは知らないが、今の日本では代理母出産に関わったとしたら、永子先生は今後医者としては真っ当な仕事には就けなくなるんじゃないのか」
「はい、おそらくそうなると思います」
俺は先日の永子先生の横顔を思い出していた。自分の素顔を隠すように車を運転しながら煙草を吸う永子先生。自分の本心をいつも冗談や毒舌で誤魔化す永子先生。
「そこまで他人を巻き込んで、自分たちの子供を産みたいと思うかね?」
俺は碧葉のお父さんの言葉に答えることができず、もう一度永子先生とちゃんと話をしないといけないと思った。
「二つ目は、この間も話したが修一くんの年齢では法律的にはまだ碧葉の夫にはなれないということだ。まあこれは時間が解決してくるというか、時間との勝負なのかもしれないが……」
それはつまり、俺が法的に碧葉の夫となり、もし碧葉の子供を何らかの方法で授かることができたとしても、その時に碧葉が元気で居るか……、いや、その時まで碧葉が生きていられるかとう問題だった。
それはとても悲しく厳しい現実だった。しかし、それでも、俺と碧葉は、その現実を真正面から受け入れ、その中で二人にとっての最大の、最愛の選択をしようと決意したのだ。
そんな俺の思いを見透かし試すように、おじさんは畳みかけるように言葉を続けた。
「三つ目は、やはり代理母の問題だ。身内で探すならうちの女房なんだろうが、修一くんや修一くんのご両親、そして産まれてくる子供、なによりうちの女房のことを考えると、誰にとってもいい結果にはなりそうにないと思う。いっそ、身内以外の人間にお金だけの関係で引き受けてくれる女性がいれば、そのほうが後腐れなくお互いのためになると思うんだが、今の日本では難しいだろうな」
それは当事者以外の人が聞いたら、とても非人道的な発言だと思うかもしれないが、実際の代理母出産は、世界的にはそうした考え方が主流なのだ。むしろ、現代では近親の血縁関係者による代理母出産の医学的な弊害が危惧されているぐらいだ。
しかし、おじさんが本当に言いたいのはそうした医学的な問題ではなく、もっと泥臭い精神的な気持ちの問題なのだろうということは十分に察することができた。
「そして四つ目、実は私にとってはこれが最大の問題なんだが、生命に対する倫理観だ」
「……倫理観ですか」
俺はその言葉に戸惑い、思わず口に出して聞き直してしまった。言葉の意味というよりも、碧葉のお父さんがその言葉をどういう意図で用いたのか、それが俺には上手く理解ができなかったからだ。
「倫理というより、生命そのものに対する考え方だな。ひどい親だと思うかもしれないが、私は碧葉が明日死ぬ運命にあるとするなら、明日死ねばいいと思っている。人間の価値はね、どれだけ長く生きたかではなく、どんな風に生きたかで決まると思うんだ。だから、運命に逆らってまで寿命を伸ばしたり、ましてや子供をもうけたりすることは、自然の摂理に反すると私は思っている」
「運命に逆らうというのは、つまり神の意思に反すると?」
「神じゃない。自然の摂理だよ。運命もまた自然の摂理さ。神様なんてものは、この偉大な自然のなかで、そしてこの壮大な歴史のなかで、人間がそれを擬人化したものだと私は思っている」
俺はそれまでのおじさんの話を思い出しながら、慎重に言葉を選んだ。
「じゃ結局、おじさんがいうのは、僕たちは幾重にも続くこの歴史のなかで、そして僕らを取り巻く大自然のなかで、本当の愛は何か、幸せは何かを問われ求められていると」
「そういうことだな」
俺は碧葉のお父さんの話を整理したくて、おじさんの視線から逃げるように窓の外に目を移した。空には黄金色に輝く分厚い雲と、その雲の隙間から陽の光が幾筋も海へと射し込んでいた。それはまるで海面から立ち昇る光の柱の様で、俗にいう天国への梯子と言われる光景だった。
そして、その光の柱が立ち昇る眩しい海面を、数隻の貨物船がゆっくりと進んでいる。
碧葉のお父さんも、俺の視線の先に映る光景に気が付いたらしく窓の外を眺めた。そして静かに、淡々と言葉を続けた。
「医療という分野一つとっても、そうだと思う。医療は医学という歴史を積み重ねることで再現なく進歩を繰り返している。しかしその結果、私たちの様な医療先進国では高齢化問題に直面している。また一方で国政の安定しない国々や社会保障制度が充分に整備されていない国々では、先進医療は一部の特権階級の人々だけが享受できる特別なものとなっている。こうした様々な問題を、どう自然界のバランスと調和させてゆくのか、いや、自然界によって調和させられてゆくのか、それが自然の摂理ということだよ」
その言葉は、まるで天国への梯子を昇る光の粒の様だった。とても印象的に心へと響いてくるのに、実際には何の実感も湧かない不確かな言葉。
「なんか凄い話ですね。でもそれ、本当に碧葉の話ですか。一般論とかじゃなく……」
碧葉のお父さんは窓の外から視線を戻し、僕の目をしっかりと見据えた。
「あぁ、碧葉の話だよ」
その目は悲しさと厳しさと、強さと孤独と、俺がまだまだ経験をしていないような人生の辛苦を映し出す、そんな深く険しい目だった。
「西洋のメジャーな宗教ではね、この世は悪魔が支配していて、この世を愛する者は悪魔を愛する者とされている。だから悪魔に魂を売り渡せばこの世の富と幸福を得られると考えられているんだ。しかし、それらの富や幸福は永遠ではない。時が来れば朽ち果て滅んでしまう。だから私達にはこの世の地上に蓄える宝ではなく、天に蓄えることのできる宝を求めなさいと説かれている」
碧葉のお父さんは、そこで大きく深呼吸をした。
「私はね、ささやかな幸せが欲しいと思っている。ただ、それだけなんだよ。でも、そのささやかな幸せのために、多くの物を犠牲にし切り捨ててきた。家族の幸せを願っているのに、家族を顧みずに仕事に没頭し続けている。その結果、妻との夫婦関係はすでに取り返しがつかなくなっているし、やがては碧葉も失うだろう。でもね、それでも、そんな現実を私は後悔はしていない。いや、後悔なんて出来ないんだよ。何故なら、そうした現実の中でしか碧葉の治療費を稼げないのだからね」
碧葉のお父さんの言葉はまるで懺悔のように、俺の心を通り越して、あの光の柱を昇って空一面に静かに響き渡るようだった。
「そして何より、碧葉が少しでも長く生き続けることが妻の望みなんだ」
おじさんは、そう小さく呟いた。その小さな呟きは、俺の心の中で何度も何度もこだまし、行き場もなく俺の体の中で大きく響き続けた。
「奥さんの願いを叶えるために、奥さんとの夫婦関係を犠牲にして、結果、奥さんを失ってしまうのは悲しい事ではないんですか」
俺の言葉に、碧葉のお父さんは優しく微笑んだ。その微笑みは、悲しいぐらい碧葉とそっくりな微笑みだった。
「そうだな、悲しいことだな。でもそれが現実だ」
そして、その微笑みを絶やさないまま毅然とした態度で言葉を続けた。
「それでもね、決して悪魔に魂を売り渡そうなんて思っている訳じゃないんだ。私は私の中で定めた道から外れることなく生きていたいと思っている。今までも、そしてこれからもね。それはつまり人の道なんだ。『人道的』なんていう安っぽいヒューマニズムの話ではなく、自然の摂理の中で人がどう生きてゆくかという話なんだ」
碧葉のお父さんは、俺の心に直接投げかけるように話をしている。そう感じていた。
「だから私が全てを捨てなければ、碧葉の治療を稼げないことも、妻の願いを叶えることが出来ないことも、自然の摂理というか道理なんだと納得している」
それは碧葉のお父さんの、俺には想像もできないような壮絶な覚悟だった。
「だから私にはね、この四つの問題が解決しなければ、この話は賛成できないんだ」
その言葉に、俺は何も言い返すことができず、ただ一言の言葉を発するのが精一杯だった。
「……そうですか」
それなのに、そんな俺のたった一言の言葉を、碧葉のお父さんは意外な言葉で受け入れてくれた。それは本当に、実の父親の様な優しい響きの言葉だった。
「ただ、私が賛成しなくても、そんなことは気にする必要はない」
碧葉のお父さんは笑っていた。それは本当に、本当に優しい笑顔だった。いつも厳しい顔をして、厳しい世界で仕事をして、自らに厳しい生き方を課し、厳しい人生を生きている碧葉のお父さんの、優しい優しい笑顔……。
「むしろ、私のことなど気にせずに、自分の決断した道を突き進む気概を、修一くんには期待している」
碧葉のお父さんは、そう言って笑った。
そしてその言葉に、俺は無意識に涙を流していた。その涙は、きっと悔し涙だったのだと思う。どうして俺は、いや、俺たちは、普通に家族に成れないのだろうか。碧葉と普通に結婚して子供を作って、碧葉のお父さんが産まれてくる子供のおじいちゃんになって、普通に幸せになることが、どうしてできないのだろう……。
そんな普通の未来を思い描くことがどうして許されないのだろうかと俺は思い、その思いは悔し涙となって、いつまでも俺の頬を濡らし続けた。
豊橋から岐阜に帰る途中、俺はどうしても榛秀に会いたくて名古屋で電車を降りた。永子先生や碧葉のお父さんの話を、榛秀に聞いて欲しかったからだ。
名古屋駅を見下ろすツインビルのレストランで俺は榛秀と待ち合わせをした。榛秀も忙しいらしく、どうせなら夕食を一緒に食べながら話をしようということになったのだ。
しかし、俺は悪い予感しかしなかった。何故なら榛秀が予約したのは名古屋駅の夜景を一望できるレストランの個室だった。確かにここなら他のお客を気にせずに話はできるが、そこはいかにも大人の恋人同士が恋を語り合うようなそんな雰囲気の場所だったのだ。
そして、その嫌な予感は見事に的中した。榛秀は、見事なまでのハルの姿で登場したのだ。誰が見ても、俺たちは若い男女の、それも恋人同士にしか見えなかった。
そして俺はハルを見た瞬間に、さらに嫌な予感に駆られた。それは、いつものハルの悪戯心を警戒するような可愛げのある嫌な予感ではなく、もっと深刻で切実な不安に満ちた嫌な予感だった。何故なら、ハルが本当の女の子、いや、女に見えてしまったからだ。
今夜のハルは明らかに化粧がいつもと違っていた。服装も露出度が多い。そして何よりも違和感を感じたのは、榛秀の女装が自分のための女装ではなく、明らかに男の視線を意識した女装になっていることだった。
それは、残念ながら男である俺にはよく判る……。
「榛秀、お前もしかして、ハルとして彼氏でもできたのか」
俺は冗談を装って榛秀にそう尋ねた。榛秀がハルとして冗談で俺のこの不安な気持ちを軽く吹き飛ばしてくれることを望んでいたが、それは叶わなかった。
「修一、私がこの姿の時はハルって呼んで」
その完璧な女性言葉と声色は、明らかにいつものハルではなかった。第一いつもなら自分のことを『僕』と呼ぶのに、今は何の躊躇も違和感もなく『私』と言ったのだ。
「ハルお前、本当に……」
「ごめん修一、今はその話はできないし、したくない。修一に嘘つくの嫌だし」
そう言うハルのその目は、女の子の目ではなく完璧に女の目だった。
六月は榛秀は板倉さんと一緒にピアノのコンクールに出るので放課後は練習で忙しそうだった。週末も碧葉が体調を崩してからは榛秀は気を遣ってか病室にも顔を出さなくなった。そして夏休みに入ってしまったので学校で顔を会わす機会もなくなってしまった。
そうか、俺はもう二ヶ月近くも榛秀とちゃんと話をしていなかったのか……。
俺はそんなハルの姿をした榛秀を心配しながら、名古屋駅を行き交う無数の電車の軌跡を眺めながら食事を続けた。そして結局、榛秀の近況を聞きだすのは諦め、俺は永子先生や碧葉のお父さんの話をしていた。
「ごめん、碧葉のお父さんのいう倫理観っていうか、人の道って、私にはよく判らないかな。なんとなく言いたいことは分かるような気もするけど、抽象的過ぎじゃない」
ハルはそう言ってデザートを口に運んだ。碧葉とは違い健康的にふっくらとした唇に、薄っすらと上品に塗られた口紅が男の欲情を掻き立て誘っているようで、そんなハルに俺は嫉妬に近い気持ちを感じていた。嫉妬といってもそれは明らかに恋愛感情とは違う気持ちだ。例えるなら、幼馴染の女友達が、質の悪い男に騙され弄ばれているのを何もできずに黙って見ているような、そんな歯痒い気持ちに近かった。
実際、俺には幼馴染の女友達なんて、碧葉以外にはいないのだけれども。
しかし、そんな俺の心配というか不安を、一気に吹き飛ばすようなことを榛秀は言い出した。それは、まるで悪魔に身を委ねてきたような悪女の背徳の囁きだった。
「ねえ、代理母出産って、自然分娩じゃなくてもいいんでしょ。だったら、可能性あるかもよ。一度、永子先生と話をさせてくれないかな」
「……お前まさか……」
俺は榛秀が何を言いたいのか、いや、ハルが何を企んだのか直感で理解した。それは、本当に悪魔的な行為ではないのかと俺は思った。
そして、それを嬉しそうに話す俺の目の前の人物が、本当に榛秀なのかハルなのか、区別がつかなくなり、背筋が凍るような恐怖を感じた。
こうして、俺たちの長くも短い夏休みが幕を開けたのだ。