第八話 無慈悲な現実に舞い戻る
「言乃音お嬢様、行儀が悪いですよ。箸とフォークを一緒に使ってお食事するなんて」
名古屋の祖父の家から岐阜の狩野高校に通うようになって、私の朝はとても早くなった。毎朝五時半に起きて、軽くピアノを弾いてから朝食を取る。時間がないのでお手伝いの佐藤さんに指摘された通り、左手で箸を使いながら右手でフォークを使って食事をしてしまう。実際それで時間が短縮される訳ではないと思うけれど、精神的には早く食事が取れるような錯覚をしてしまうのだ。
お手伝いの佐藤さんは亡くなった祖母と同い年ぐらいで、祖母がこの祖父の家に嫁いで間もない頃からお手伝いとして働いていた。そんな佐藤さんが私は幼い頃から大好きだった。
「佐藤さん、ごめんなさい。でも急いでいるとつい両手を使っちゃうのよね」
私はいつも左手で箸を使う。文字を書く時も鋏を使うのも左手だ。それは幼い頃に母を真似しての事だった。正確に言えば、真似をするように上手く誘導されたのだと思う。右手を使うことは間違ったことで、左手を使うことが正しいことだと思い込まされたのだ。幼稚園の頃は、右手と同じ様に左手が使える私は、器用な両利きの子供として珍しがられ、そして私はそれを得意に思っていた。
私は物心ついたころからピアノのレッスンを受けている。もちろん、一歳や二歳ではレッスンを受けている自覚など到底ない。しかし三歳を過ぎた頃から、私にとってピアノは玩具ではなくレッスンのための楽器だという自覚が芽生えていたと思う。
私は小学生になると母の知り合いの音大の先生からレッスンを受けるようになった。そこで初めて、私はピアノを弾くために左利きに矯正されたのだという事に気が付いた。その事実は私を驚かせ、そして恐怖させた。
母は私を、私の人生からピアニストになる以外の選択肢を全て排除しながら育てたのだ。私は小学生になると同時にそれを自覚し、当時は母を心から恨んでいた。幼いなりに私は私の人生を自由に選択する権利を主張したかったのだ。ピアノや音楽が嫌いだったというより、母の冷酷で徹底したその態度に反抗したかっただけなのかもしれない。
私がピアノを音楽の詰まった宝箱だと認識するようになったのは、小学校の三年生の時に彼女と出会ってからだ。それまでピアノは私にとって苦行以外の何物でもなかった。しかし、板倉夏美と出会って、私は自分自身を初めて前向きに受け入れることが出来るようになった。
それまでの私の人生は、母によって矯正され続けられる無意味なものだと思い込んでいた。しかし、音楽経験の全くなかった夏美にピアノを一から教えるうちに、母が私の心と体に刻み付けた音楽の道標は、私にとって人生の負の枷となるものではなく、むしろ逆に、私の人生を明るく導くものだと自覚するようになった。それは、母の音楽に対する愛が私が思っている以上に深く、そして母親としての私への愛情が私が思っている以上に深い証拠だった。夏美とのことを切っ掛けに、私の母への憎しみは感謝へと変わり、母への反抗的な態度は愛情へと変わったのだ。
そして板倉夏美は、私の音楽にとって、いや、私の人生にとって、特別な存在となった。
「今日は学校お休みなのでしょ。だったら、そんなに急がなくても」
確かに、佐藤さんの作る朝ご飯を急いで食べるのはいつも罰当たりな気がしていた。東京から名古屋へ引っ越して良かった事の一つは、毎朝こうして佐藤さんの朝食が食べられるようになったことだと思う。
私の母も食には煩くこだわるほうだが、決して自分では料理をしない。典型的な料理音痴なのだ。どうして母ほど繊細に物事に気を配れる女性が、料理に関しては全く駄目なのか不思議でならなかった。
佐藤さんの作る朝食の献立は、いつも和食と洋食のバランスがよく取れている。朝食として量も多過ぎず少な過ぎず絶妙なバランスで、逆に品数は高級旅館の朝食のようにバラエティに富んで豊富だ。
私はこんな素晴らしい朝食を毎朝作ってくれる佐藤さんを心から尊敬している。それは佐藤さんの料理が食材や料理の技だけでなく、佐藤さんの料理に対する深い愛情で支えられていると感じるからだ。それは音楽と全く同じだ。その愛情を感じるからこそ、私は毎朝、佐藤さんの朝食を食べると、どんなに体調が悪くても気持ちが晴れやかになる。
本当に、それは音楽と同じなのだ……。
「今日は午後から出かけるので、昼食は少し早目にお願いします。お爺様の今日のご予定は? お爺様も日曜日ぐらいは佐藤さんと二人でゆっくりされればいいのにね」
私は佐藤さんを少しからかうつもりで言ったのだが、佐藤さんには通じないようだった。
「大旦那様は百貨店の会合で三重のゴルフ場へ昨夜からお出かけになっています。あと、今夜は若旦那様がいらっしゃいますよ。たまには言乃音お嬢様もお父様にピアノを聴かせてあげてはいかがですか」
佐藤さんをからかうつもりが逆に私が反撃を食らってしまった。私は父が苦手なのだ。いったい母は父のどこが好きになって結婚したのか、年頃になった私にでさえ今でも謎である。というか、私たち家族には謎が多くある。
私の母の実家は代々の音楽家の家系だ。そして父の実家は代々の名家。それぞれの家が大義名分という大きな歯車を回すように営みを続けている。『大事の前の小事』という言葉が両家にはピッタリとくる。母の実家は音楽という大事のために、父の実家は家や会社の財産という大事のために、どんなに些細ことにでもちゃんと目を配りしっかりと対処する。そしてその対処の仕方は、時に残酷すぎるほどに潔く大胆なのだ。恐らくその所業には私の知らない多くの秘密や謎が隠されているような気がする。果たして、こんな世界に夏美を引き込んでしまっていいのか私は迷っていた。
いやそれどころか、夏美はこれから先も私と一緒に居てくれるのだろうか……。
六月も終わろうというのに、名古屋はまだ梅雨明けの気配が遠い。私は傘を差しながら坂道を上ったり下ったりしながら地下鉄の駅に向って歩いていた。私は雨の日の散歩が嫌いじゃない。雨粒が傘を叩く音。ブーツが濡れた路面を踏みしめる音。雨音に賑わう木々や家々の音。そうした様々な雨色の音を聴くのが大好きなのだ。ピアノの練習で疲れた耳を、そうした音が不思議と癒してくれる。
地下鉄の八事駅から名古屋駅に行き、そこからJRで岐阜駅と向かった。夏美とあいつの演奏時間までは少し時間がある。夏美とはあれから結局、メールで話をしたりする程度で、直接会って話をすることは一度もなかった。ランチもこの一ヶ月は音楽科の友達と食べるようになり、夏美とは一度も一緒に食べていない。なぜだろう、東京から名古屋へ引っ越してきてからの方が、お互いの距離が広がってしまったように感じる。
その原因は間違いなく、あいつ、泉川榛秀だった。
夏美は学校の勉強はよくできるけど、頭は単純で心は流されやすい。夏美自身もそれを知っているから、彼女はいつも心を硬い殻で被い、いつも笑顔で八方美人な態度をとってしまう。そうでなければ、本当の自分を見失ってしまうからだ。恐らく小学生の頃はそれは無自覚だったのだろう。だから彼女はいつも虐めの標的になっていた。誰も彼女の本心が判らず、誰も彼女の笑顔の意味を理解できず、得体のしれない存在としか認識できなかったのだ。だから、そんな彼女を集団の中ら排除しようとするのは、ある意味では自然な流れだったのかもしれない。
しかし私は違う。夏美の笑顔は、ただの八方美人の笑顔ではないことを知っている。彼女の思考が単純なのは、彼女が直向きに正義や理想を信じているから。彼女の心が流されやすいのは、彼女が純粋に人を信じようとしているからだ。
だからどんな苦境に立たされても、彼女は笑顔で前向きに進んでゆけるのだ。その笑顔は現実から逃避するものではなく、現実を前向きに受け入れた証の笑顔なのだ。だから彼女の笑顔からは、どんな音楽よりも素晴らしい音色が聞こえてくる。
それなのに榛秀と出会って以来、少しずつ夏美の笑顔に不協和音が感じられるようになった。元凶はやはり、泉川榛秀だ……。
「やあ、古澤さんじゃない。珍しいね、学校休みなのに岐阜にいるなんて、舘山先生のレッスンか何か?」
岐阜駅に着いた私に、背後からそうやって声を掛けてきたのは棚瀬さんだった。
「棚瀬さん……」
私は棚瀬さんと会えたことを少し幸運に感じた。
「レッスンではありません。今から夏美と榛秀さんの連弾の予選なんです」
実は、棚瀬さんに碧葉さんについて少し聞いてみたいことがあったからだ。
「でも、演奏まで少し時間があるので、どうやって時間を潰そうかと思案していたところなんです。棚瀬さん、もしお時間があれば、ご一緒にお茶でもいかがですか?」
棚瀬さんは少し意外な顔をしたけど、その返事はいつもと変わらない冷静な口調だった。
「いいよ。今日は一日塾なんだけど、午後の授業が始まるまで僕も今からどうしようかと思っていたところなんだ」
そう言うと、棚瀬さんは岐阜駅前の商店街の路地に私を案内してくれた。細い路地を抜けると、そこにまるで隠れ家のような喫茶店が現れた。店内にはジャズが心地よい音量で流れている。カウンターにレコードのターンテーブルがあり、壁面一面にはレコードのジャケットが飾られていた。祖父や父を連れて来たら、さぞかし喜びそうなお店だった。
棚瀬さんはサンドイッチと珈琲を注文し、私はケーキセットに珈琲ではなく紅茶を注文した。そして、予想外なことに、私の前に運ばれてきたのは完璧までに揃え整えられた英国式ティータイムのセットだった。それはジャズの流れるお店では少し滑稽な感じもしたけれども、その滑稽さがとてもお洒落に感じられた。
「さて、俺に何か聞きたそうな顔をしてたけど……」
棚瀬さんは夏美と違ってただ勉強ができるというだけでなく、人生において頭がとてもキレそうなそんな賢さを全身から漂わせていた。このお店と同じ様に、きっと祖父や父は棚瀬さんを気に入るだろうなと私は思った。
「そうですね……高校生同士で婚約するって、どんな感じですか?」
棚瀬さんは珈琲カップを持ったまま、私の質問の意味を正確に理解しようとしていた。
「古澤さん、金華山に登ったことある? 金華山の岐阜城はね、織田信長が建てたんだよ。もちろん今建っているのは再建されたものだけどね」
私は棚瀬さんが何を言いたいのか判りかねたので、黙って言葉の続きを待った。
「昔はさ、元服っていって十五、六歳になれば男はもう立派な大人だったんだよ。前田利家は十四歳で織田信長の小姓となり、十五歳では大きな武功を上げているんだ」
小姓って……戦国武将と美少年の男色の話かと、妄想が勝手に膨らみそうになるのを必死に堪えながら、私は沈黙を貫いて棚瀬さんの話に耳を傾けた。
「つまりさ、碧葉はそういう世界、時代に生きているんだよ」
その言葉に、私は自分のくだらない妄想から一気に現実へと引き戻された。
「碧葉は、病気は自分の人生の一部で闘いじゃないなんてこないだ言ってたけど、どうなのかな、俺には碧がいつも命がけで闘っている様にしか見えない。あいつにとっての日常は、いつも死ぬか生きるかの戦の日々なんじゃないかなって」
私は冷めてしまう紅茶を勿体無いと思いながらも、紅茶を飲むことも、そして棚瀬さんに返す言葉を見つけることもできなかった。
「碧葉が以前ね、面白いことを言ったんだ。『必死の極意』っていう碧葉の持論なんだけどね。『必死』って普通は死ぬほど頑張るとか、死ぬ覚悟とかっていうイメージっていうか意味だと思うじゃない。でもさ、碧葉にとってはそれは違うんだって」
棚瀬さんはサンドイッチを頬張りながら、とても楽しそうに嬉しそうに話を続けた。
「『必死』とはね、限界までがんばってその果てに死んでしまわないと意味がないんだって。もちろん、肉体的な意味ではなく精神的な意味でね。肉体さえ生きていれば、必ず精神は復活する。そして精神が復活したとき、新たな自分、人格になれる。それが真の成長であり進化であり、それを繰り返してもそれでも失われない自分の根っこみたいな部分、それが本当の自我であり個性であるんだって」
私は棚瀬さんのその話を聞いた瞬間に、夏美のお母さんのことを思い浮かべてしまった。私の知る夏美のお母さんは、確かにいつも『必死』を絵に描いたような人だった。だから、自分自身をもっと進化させたくて死を選んでしまったのだろうか。しかし、それなら何故に精神的な死ではなく肉体的な死を選んだのだろう。精神的な死から復活することができず、その迷路から抜け出せず、肉体的な死を選ばずにはいられなかったということなのだろうか。
私がそんな風に夏美のお母さんのことを思い出し考えていると、棚瀬さんは私を見透かすように話を続けた。
「だからさ、俺も古澤さんも、碧葉と同じ様に必死で生きるしかないんだよ」
その言葉は少しも棚瀬さんらしくなかった。なぜなら、それは、とても穏やかで優しさに満ちた、それでいて深い悲しみと愛情が入り混じったような言葉だったからだ。それはまるで、碧葉さんの詩集「愛の証」を私に連想させた。
「俺は碧葉が好きだよ。たぶん愛していると思う。愛の本当の定義は知らないけどね。それでも碧葉を間違いなく俺は愛している。彼女が必死に生きて、必死に僕を愛そうとしてくれているんだから、俺も必死に彼女を愛する。ただ、それだけのことだよ」
私は、棚瀬さんの言葉に圧倒されてしまっていた。私はそんな風に夏美を愛しているだろうか。私はそんな風に生きているだろうかと。
そんな私に棚瀬さんは、さらにらしくない意外な言葉をかけてくれた。
「大丈夫だよ。俺は音楽は素人でよく判らないけど、それでも、古澤さんが音楽に人生をかけていること、必死にピアノと向き合っていることは何となく分かる。だから右手も痛めちゃったんでしょ。大丈夫、そうやって何かと必死に向き合って取り組んでいる人なら、どんな困難が立ちはだかったとしても、ちゃんと自分が愛したい人を愛せると思うよ」
私は棚瀬さんを誤解していたのだと思う。その言葉はきっと、決して棚瀬さんらしくないのではなく、むしろ逆に棚瀬さんの人柄そのものなんだと思った。
結局、私はお店にいる間、棚瀬さんの話を一方的に聞くだけだった。でもそれは、とても心地良く嬉しい時間となった。普段はとてもクールで無口だと思っていた棚瀬さんは、実は見た目と違い熱血でお喋りだということがよく判ったからだ。私は少し嬉しくなり、少し元気になり、棚瀬さんと、そしてこのお店が好きになった。空を見上げると、そこには手に届きそうな空と雲が広がっている。東京とは違うこの街の雰囲気が、私は少しずつ好きになっていた。
私は棚瀬さんにお礼を言って、夏美とあいつのコンクール会場へと向かった。
コンクール会場は棚瀬さんとお茶をしたお店から歩いてすぐだった。会場前の広場ではバスケットボールをしている少年達がいる。ベンチにはデートをしているらしい若いカップル。幼い子供を連れた親子連れ、幸せそうに手を繋ぎ散歩する老夫婦。どこにでもあるような日曜日の午後のありふれた平和な日常、そんな光景が広がっている。
しかし、いったんコンクールの会場に入ると、そこは明らかに非日常的な光景が、空気が、私の中に飛び込んできた。午前中は小学生の部だったらしく、その結果発表を待つ親子やその指導者らしい先生でロビーは溢れていた。小学生のピアノコンクールは親と指導者の熱の入りようが尋常ではない。特に今日のような予選では、至る所で尋常どころか傍から見れば異様と思われても少しも不思議ではない痛々しい光景が繰り広げられている。
それでも、そうした中から一握りの本物が残ってゆくのだ。今ちょうど舞台で弾いている中学生の子達のように。自分に突き付けられた現実を理解し、それでも前に進もうと悩み足掻き努力する。最初は親や指導者に背中を押されて参加していたコンクールも、中学生の部ぐらいの課題曲になるとそこに自分の強い意志が無ければ舞台でまともな演奏はできないのだ。そして、この後に始まる高校生の部なら尚更だ。遊び感覚の趣味の延長だけで弾けるような課題曲では到底ない。それぞれがそれぞれの立場で本物を目指しているのだ。
私はロビーの喧騒を避けるようにホールの一番後ろの座席に座り、目の前の中学生の子達の演奏を穏やかな気持ちで聴いていた。張り詰めた緊張感の漂うホールの中で、私の心は不思議なぐらいに穏やかだったのだ。
中学生の部が終わり、短い休憩時間の後に高校生の部が始まる。ソロの前に連弾が先に演奏されるらしい。私は夏美に会場に着いたことをメールで知らせた。できたら今は夏美と顔を合わせない方がいいなと私は思った。夏美の集中力を乱したくなかったからだ。
そして、高校生の部の連弾が始まった。
流石に高校生らしくどのペアもとても上手だ。でも、どのペアにも決定的に欠けているものが感じられた。それは、連弾はアンサンブルだという感覚だ。ソロ奏者二人が一糸乱れずに弾けばそれで良いというものではない。それではただの曲芸になってしまう。お互いがソロ奏者としての技量を十分に発揮しながら、その上で一つの音楽を作り上げようとする明確な意思が必要なのだ。それがソロ演奏とアンサンブルの決定的な違い。
もちろん厳密にいえば、ピアノのソロ演奏では奏者独りでアンサンブルができなくてはいけない。それが単旋律しか演奏できない他の楽器とピアノのとの明確な違いであり、ピアノが無限の可能性を秘めた楽器の王様と言われる所以なのだ。この十本の指で、オーケストラのアンサンブルをピアノ一台で再現できる、そんな壮大な楽器がピアノなのだ。
だから四手二十指の連弾ならば、それ相応のことができると自覚しながらそれに挑戦しなければならない。なぜなら、連弾はその必要性があって書かれた楽譜なのだから。しかし残念ながら、ここまで聴いた五組の連弾の中では、そうした音楽性を喚起させるような演奏は聴けなかった。
そして最終組に、夏美とあいつが舞台に登場した。
二人が選曲した課題曲はモーツァルトK.521 第一楽章。
夏美がモーツァルトのソナタかぁ……。夏美はその性格や弾き方からもベートーヴェンがとてもよく似合う。重厚でいて繊細。感情的でありながらも理知的な構成感は決して崩れない。そう、ベートーヴェンのソナタはまるで夏美そのもの。
しかしモーツアルトは、ある意味ではその真逆。理知的で構成のしっかりとした曲想なのに、その本質は自由奔放。夏美の重たいタッチが、夏美の心が、どれだけモーツァルトに迫ることができるのか。
榛秀、夏美をどんな風にリードしたのかお手並み拝見よ。
舞台の夏美とあいつは、二人とも学生服だった。夏美のスカートの裾には狩野高校のトレードマークの二本のラインが入っている。一本は己を表し、もう一本は他者を表す。『他人を活かして、自分を生かす。』そんな思いがあの二本線には込められているそうだ。そして榛秀は学生服に長い髪を後ろで一本に縛っている。まるで漫画やアニメの主人公みたいだ。本当に馬鹿なやつ。
そんな二人がピアノの前に座り、そして演奏が始まった。
ユニゾンで始まる冒頭の第一主題、それが一瞬にホールを支配した。その響きは正にモーツァルトだった。どこまでも軽やかで美しく、それでいてモーツァルトらしい品格を備えた古典の響き。
この曲は典型的なソナタ形式で、もともと二台ピアノのために書かれたこともあり、テクニックの見せ場や掛け合いも用意されダイナミックな迫力と豊かな響きに溢れている。冒頭のユニゾンで始まった第一主題提示から、プリモとセコンドの呼応が続き曲が展開していく。快活で生き生きとした雰囲気の中にモーツァルト特有の美しい旋律が流れるとても明るい提示部。提示部の雰囲気を受け継ぎつつ短調へと転調をしながら少し落ち着いた展開部へ。そして冒頭と同じく第一主題のユニゾンで再現部へと入っていく。
夏美は軽やかに流れる旋律を粒の揃った芯のある音でちゃんとモーツァルトを弾いていた。和音やユニゾンもモーツァルトらしく明るく響きのある音で弾いている。強弱のダイナミックスやプリモとセコンドの協調性など、この曲で必要とされることは全て完璧に弾きこなしていた。
何より、曲全体を通して随所に出てくるユニゾンは、お互いがシンクロしたようにまるで奏者が二人ではなく一人で弾いているかのように弾かなくてはいけない。それなのに、それさえも完璧だった。
演奏を終えた舞台の二人を見て、私は胸の内側を鋭い爪で掻きむしられるような痛みと苦しさに襲われた。私の心は悪い予感でいっぱいになってしまった。夏美を信じていれば起こりうることなど決してないその悪い予感は、私の心の中で抑えようもない怒りとなり、やがてその怒りは底の見えない暗闇のような不安と変わり私の体を震えさせた。文字通り私の体は震えが止まらなかった。
私は両手で自分を抱きしめるように震えを抑えながら、自分では決して認めたくないその感情を受け入れることにした。それは『嫉妬』という醜い感情だった。
私はコンクールの予選が終わった次の日に、授業が終わると強引に夏美を誘って金華山に登った。ロープウェイに乗るのは生まれて初めての経験だったかもしれない。平日の夕方だったので、ロープウェイのゴンドラには私と夏美だけだった。
「予選通過おめでとう。まぁ、夏美なら当然だけどね」
私は夏美の手をしっかりと握りながら、それでも夏美と目を合わせることができなかった。眼下に広がる街並みと長良川、そして遠くに見える山々。私は地平線に広がる山々を眺めながら、この不安な気持ちを夏美に知られまいと一層強く夏美の手を握りしめた。
「当然じゃないよ。榛秀くんが一緒だったからだよ」
夏美のその言葉は、私の心をさらに不安にさせる。
「なんだか、夏美とこうして一緒に会って話をするの、凄く久し振りに感じる。たった一ヶ月しか会えなかっただけなのにね。ちょっと前は東京と岐阜で、二ヶ月や三ヶ月も会えなかった時もあったのね」
「うん、そうだね」
夏美の言葉が、人のいないゴンドラの中に虚しく響いたように感じられた。
「夏美、一ヶ月会わなかっただけなのに、ちょっと変わったっていうか、成長したよね」
「そうかな、そんなことないよ。そんな簡単に、人なんて成長できないよ」
夏美は私の顔を見ようとはせずに、ゴンドラから見える岐阜の街を見詰めていた。しかし、遠くを見詰めながらも、夏美の言葉は確実に私の心へと投げかけられた言葉だった。
「でも私ね、言乃音ちゃんと会えなかったこの一ヶ月で、私なりに色々と考えたよ」
夏美がこの一ヶ月で何を考えたのか、私は怖くてそれを聞くことができなかった。
ロープに吊るされたゴンドラは山肌の上を這うように登ってゆく。それはまるで、今の私達の様だった。私と夏美は確かに前に進んでいる。毎日一緒に過ごした小学生の頃、離れ離れに暮らした中学の三年間、私達は私達にしか分らない方法で、誰にも理解されない世界で、私達の絆を深めてきた。そうして私達は、私達の抱える悩みや問題を二人で乗り越えてきたのだ。それはこのゴンドラと同じ様に、地に足を付けることができず頼りないロープを必死で手繰り寄せるような日々だったのかもしれない。そこから二人で見る景色はとても素晴らしいものだけれども、本当は頼りなく空中に浮かぶゴンドラの様にとても危うい関係なのだ。
それでも私は、夏美と一緒にどこまでも人生という山を登り続けてゆきたい。
山頂の駅に着いた私達は、展望レストランに向かった。一緒に手を繋ぎながら歩く私たち二人は、きっと仲の良い女子高生二人組に見えるだろう。しかし、いったい何人の人が私達が恋人同士だと気づくだろうか。
展望レストランには客さんはほとんど居なかった。私達は一番眺めが良さそうな席を選んで座った。
「私さ、最近、この街が少しずつ好きになってきたよ」
私は窓からの景色を眺めながら、夏美にそう言った。
「ほんと?……私も。私もね、やっとこの街が好きになり始めた感じ。中学生の頃は、正直あまり好きじゃなかったんだけどね」
夏美はそう言って微笑んだ。
夏美の手紙やメールはいつも長文ばかりだった。それは小学生の頃も、中学生の頃も、高校生になった今も変わらない。そして手紙やメールとは裏腹に、直接会った時の夏美は、まるで別人の様に口数が少なくなる。
それでも私は、そんな夏美と一緒の沈黙が、いつも心地よいと感じていた。それはまるで極上の音楽を聴いているようなそんな心地だった。言葉なんて何も要らない。ただ一緒にその場の空気を吸って、感じて、それを共有していれば良かった。
だから、これからも一緒にそうしていたい。それが私の最大で唯一の望み。
「夏美、進路はどうするの?」
私はこの日、初めて夏美としっかり目を合わせた。
「私は地元の国公立だよ。相変わらずお金ないし。大学でお商売の勉強して、お店を建て直すのが目標かな……」
夏美は笑っていた。決して作り笑いなのではない。夏美は作り笑いができるような器用な子ではない。それが良くも悪くも夏美なのだ。私はその笑顔を、これからも私だけのものにしたかった。夏美の笑顔をこれからも絶やさないようにしたい。夏美の笑顔をこれからも守り続けたい。夏美と一緒に、いつまでも、いつまでも、笑っていたい。
「夏美、高校卒業したら、私達、結婚しようよ」
「言乃音ちゃん……」
夏美の顔から笑顔が消え困惑した表情に変わる。いや、それは困惑というより……とても悲しげな表情だ。それは、夏美のお母さんのお葬式で見た時と同じ様な顔だった。感情を押し殺し自分の殻へと自分自身を閉じ込めてゆく。私はそんな夏美の表情に耐えきれなかった。
「夏美ならさ、頭もいいしピアノだってそこそこ弾けるから、音大で音理とか作曲とか勉強してさ、二人で海外で一緒に……」
「だめだよ……。うち音大なんて行かしてもらえるお金ないし……」
夏美は目を伏せて、テーブルの上で両手を重ねるようにぎゅと握っていた。
「大丈夫だって、そんなの私のお母さんか、だめならお祖父ちゃんに頼めば何とかしてくれるから」
「言乃音ちゃん、それ本気で言ってるの?」
私の言葉に、夏美は語気を荒げながら顔を上げてそう言った。そして、その顔は何故か興奮して頬が赤らんでいた。夏美は怒っているのだろうか。しかしよく見ると、夏美の瞳には涙が溢れそうなぐらい溜っていた。
私は正直、かなり戸惑ってしまった。私がお金のことを軽々しく口にしたから怒っているのだろうか。
「ごめん……。でも本当に大丈夫だから。お金の事なら心配しなくても」
「違う、お金の事じゃない。結婚の話……」
私はさらに戸惑ってしまった。高校生で結婚の話なんて、やはり早急すぎたかな……それとも……。
「夏美は嫌なの?」
「……分からない」
夏美の言葉は、分厚い殻の中ら絞り出すように発せられた。その言葉は、私をとても悩ませ悲しませた。
「分からないって……」
夏美は私の目を見据えるように、そして言葉を慎重に選ぶように話した。
「言乃音ちゃんのことは本当に好きだよ。でも私、本当にそれでいいのかなって……」
私はまるで初めて舞台に立った時の様に頭が真っ白になりかけていた。
「大丈夫だよ。夏美は私が必ず幸せにするから」
夢中でそう言い返す私の言葉に、夏美は冷静に言った。
「私、言乃音ちゃんの人形じゃないんだよ……」
その言葉はとても冷静で、とても力強く、夏美の真剣な気持ちが詰まった言葉なんだと分かった。だからこそ、私は本当に頭が真っ白になってしまった。
「人形って、夏美……」
夏美はそんな風に私のことを今まで思っていたのだろうか。夏美のその言葉は、私たち二人が築いてきた関係を一瞬に吹き飛ばしてしまうような言葉だった。私は、私はそんな風に夏美を愛していたのだろうか。夏美は、夏美はそんな風に私から愛されていると感じていたのだろうか。もしそうだとしたら、それは今までの私を、私たち二人の関係を、何もかも全てを否定してしまうことになってしまうのでは……。
そう思った瞬間、私の中で私を抑えていた何かが切れてしまった。
「夏美は、私が夏美を人形みたいに都合よく扱って、夏美を人形みたいに私の自分勝手で好きになって……そんな風に私が夏美のことを想っていると、本気で思っているの?」
私は体の中ら溢れ出す止め処もない熱い想いを、そのまま口にしていた。そして夏美は俯きながら、私の言葉をじっと耐えるように聞いていた。
「私、夏美のこと、死ぬほど好きなんだよ」
私のその声は、自分でも驚くほど力強く大きな声だった。それは夏美に拒絶されてしまうという不安や悲しみよりも、今まで二人で紡いできた関係を否定されてしまうかもしれないという恐れや怒りが込められていたのだと思う。
しかし、そんな私の言葉に対して、夏美は私以上に毅然とした態度で、私以上に重く厳しい一言を口にした。
「そんなの判ってる。私だって言乃音ちゃんのこと死ぬほど好きだもん。でも、死ぬほど好きだから、『うん』なんて言えないじゃない。どうして判ってくれないの」
夏美の目は本気だった。夏美は大事な話をする時は、私みたいに感情的に言葉を発したりはしない。冷静に言葉を選びながら、その言葉に自分の中にあるありったけの感情を詰め込む。だから、夏美の本気の言葉はいつも重たく厳しい。
「だから、ごめん。少しだけ考えさせて……」
夏美は私の顔見て、とても申し訳なそうにそう言った。私は今、どんな顔をしているのだろうか……。
「榛秀のことが、気になるの?」
結局、今の私に残された感情は醜い嫉妬だけだった。本当に私は醜い子だ。
「榛秀くんのことは関係ない。たぶん、私の問題だから。だから、今はごめん……」
夏美は、それ以上は何も話そうとしなかった。
帰りのロープウェイのゴンドラの中では、私は夏美の手を握る勇気がなかった。もし握ろうとした手を夏美に拒まれたら、今の私は間違いなく発狂していたと思う。
少しずつ夕日に染まる街を眺めながら、私達は山の麓へと降りてゆく。
目の前に広がるこの現実の世界では、やはり私達は結ばれてはいけない関係なのだろうか。夏美に対する狂おしいほどまでのこの気持ちを、私はどうすればいいのか本当に判らずにいた。
そして、そのまま私達は下界へと降り立つ。無慈悲な現実へと舞い戻ったのだ。