第七話 お互いに口を利かない
私は小学校を卒業すると同時に、母の実家である岐阜市のこの家に引っ越してきた。それまでは東京の下町の小さな酒屋さんが私の家だった。でも、お店の経営に失敗してしまった父と母は、お店を処分して母の実家へと帰って来たのだ。
母の実家は、地元では有名な酒造元だった。私がまだ幼く小学生にもならない頃は、母の実家に帰ると大勢の職人さんが酒蔵へ出入りをしてお酒を造っていた。母の実家に帰るたびに私はまるでお祭のような心が浮かれる思いをしたものだ。
しかし今ではお酒は造っていない。跡取り娘だった母が東京の父のもとに嫁いでしまい、しばらくは祖父であるおじいちゃんが頑張っていたが、結局、おじいちゃんが病気で倒れ、その後を継ぐ人が誰もいなかったのだ。
だから今ここは、「酒造元だった酒屋」という宣伝文句が売りの普通の酒屋さんになってしまった。そしてここで、私は寝たきりの祖父と、酒屋を切り盛りする父と、三人で住んでいる。母はここに引っ越してから病気になり、私が中学二年生の時に亡くなった。たぶん、本当は私がちゃんと気が付かなかっただけで、東京に居た頃から病気だったんだと思う。東京から岐阜の母の実家に引っ越したのも、母の病気には東京の慌ただしい空気よりも生まれ育った岐阜ののどかな空気が良いのではないかと父が考えたからだったそうだ。
しかし、結果的にそれが裏目になってしまったのか、それとも病気が母を蝕んでしまったのか、ここへ引っ越してから母の病気の症状は悪化し、そしてある日、母は酒蔵で首を吊って自殺をした。母の病気は心の病気だった。
父と祖父は普段あまり会話をしない。祖父はいかにも生粋の職人さんらしく私が幼い頃から口下手だった。でも、口数は少ないがとても優しいおじいちゃんだった。子供の頃には気が付かなかったが、おじいちゃんの優しさは孫を盲目的に可愛がる一方的な優しさではなく、私のことを本当によく見てくれていて、私にとって本当に必要なものを与えてくれる、そんな優しさだった。そんなおじいちゃんだからなのか、おじいちゃんは自分の娘のお婿さんである父のことを少しも恨んでいる様には思えなかった。おじいちゃんもたぶん、母の病気のことを、私よりもずっと前から知っていたに違いない。だからむしろ、そんな母を最期まで支え続けた父を、きっと心の中で感謝しているんじゃないのかなと、私は勝手に思っている。
私はといえば……。私は小学生の頃はいつもいじめられていた。高校生になった今だから冷静に振り返ることができるが、小学生の幼い心理というのはとても単純なんだと思う。
私は家が酒屋で、そして貧乏だった。貧乏だから習い事もできなかったし、流行りの遊びにもついていけなかったし、お金のかかる場所に友達同士で遊びに行くこともできなかった。でも私はそれを少しも特別だとは思わなかったし、父も母も一生懸命に働いていてそれでもお金がないのだから、それはそれで仕方のない事なんだと子供ながらにちゃんと納得をしていた。しかし周りの同級生達には、そんな私は特別な存在、いや、異質な存在に思えたのだろう。そして異質であることは、幼い子供社会では虐めを受けるには十分な理由だったのだ。自分たちのテリトリーに異物があれば、それにちょっかいを出して様子を見たくなる。その結果、自分たちが形成するグループに取り込むことが出来れば安心をするし、取り込むことが出来なければ攻撃し排除したくなる。非常に明確で愚かな理屈だ。でも当時の子供たちは、私自身も含めて、その明確な仕組みに気付くことができず、その愚かさを正す知恵も勇気も持ち合わせていなかった。
ただ一人、古澤言乃音を除いては。
小学校三年の学習発表会で、私達の学年は音楽発表をすることになった。様々な楽器で合奏をするのだ。そこで何故か、私はピアノを担当することになってしまった。ピアノなど一度も弾いたことがない私が……。それは私に対する虐めだった。きっとピアノを習っていて、学習発表会という華やかな場所でピアノを弾きたいと思っていた子は大勢いたはずだ。なのに、そこで自分がピアノを弾くことよりも、その舞台で、いやその舞台に至る日々の練習の中で、私が困り恥をかく姿を見たいと思う子の方が多かったのだ。その虐めは小学校三年生にしては大掛かりで周到なものだったんだと思う。なぜなら、そうしたピアノを習っている子の思いを黙らせ、そして私がピアノを習っていて上手に弾けるという嘘の噂をまことしやかに同級生や教師の間に流布させたのだから。
子供の幼い純粋な気持ちというのは際限なく突っ走り、その心が集団で闇に飲まれてしまった時は、本当に残酷で容赦がないのだなと思う。ただ、それを今はこうして笑い話として冷静に思い出すことができるのは、全て、私の愛する古澤言乃音という存在のお陰だ。
言乃音ちゃんは、私とは違った意味でクラスで浮いていた。言乃音ちゃんは頭がよく美人で、そしてピアノがとても上手だという噂だったが、私と同じ様に友達がいなかった。私はお金がなくお店や家の手伝いもあるので友達と遊べずに親しい友人を作ることができなかったが、言乃音ちゃんはピアノの練習やレッスンがあるので、お友達と遊べないという感じだった。
私はお店のお手伝いを小さい頃からしていたので、大人の人とは何の抵抗もなく普通に会話をすることができたが、同級生とは何を話したらいいのか分からず自分の思っていることがどんどん心の中に溜まってしまい、学校では極度の人見知りだと思われていた。
言乃音ちゃんのクラスでの孤立は、そんな私とはかなり違った。言乃音ちゃんはとてもプライドが高く、その頭の回転の速さと何かをストイックに追い求める大人びた姿勢に同級生が付いてゆけず、言乃音ちゃんに一目を置いていたのだ。もちろん、私もそんな同級生の一人だった。
だから、私が音楽発表のピアノ担当に決まった瞬間、クラスに悪意に満ちた笑顔が広がった瞬間、言乃音ちゃんがピアノ担当の補佐役に立候補したことを、私を含めた誰もが驚き、そして同時に誰も異議を唱えることができなかった。
こうして私は小学校三年生の秋に古澤言乃音と本当の意味で出会い、そして初めてピアノというものに触れ、そして言乃音ちゃんと初めて連弾をした。そしてそれが、私の初恋となった……。
言乃音ちゃんと出会ってからも虐めは続いた。むしろ学年が上がるごとに虐めの内容はエスカレートしていたのかもしれない。それでも、私は全く気にしなかった。私には親友であり、そして今は恋人でもある、古澤言乃音がいつもそばに居てくれたからだ。
言乃音ちゃんは私の憧れであり、夢であり、全てだった。
私は言乃音ちゃんと親しくなり、言乃音ちゃんの家庭が私とは違った意味で特殊な家庭であることを知った。古澤家は代々音楽家の家庭だった。だから言乃音ちゃんも小さい時から、いや、生まれた直後から音楽家になるべく育てられたそうなのだ。言乃音ちゃんから聞かされた古澤家の話に、私は同情よりも先に恐怖を感じた。
言乃音ちゃんは私より何倍も大変な状況の中で、私より何倍も頑張っていたのだ。だからこそ、古澤言乃音は自分自身の力で光り輝いていた。それは誰かに着飾ってもらった美しさではなく、自分自身の力で自分自身を磨き続けて得た美しさなんだと思う。
私はそんな言乃音ちゃんが、初めて連弾をした時から大好きだった……。
「やあ夏美ちゃん、お父さんは配達かい?」
店番をしながら学校の宿題をしていると、大島さんが訪ねてきた。大島さんは岐阜県酒造連合組合の会長さんだ。
「はい、もうすぐ戻ると思いますよ」
「夏美ちゃんは勉強しながら店番かい、偉いね。さすが狩野高校の生徒さんだ」
狩野高校は岐阜県では歴史のある名門の公立高校だ。私は勉強が特別に好きという訳ではないのだけれども、ピアノも勉強も努力した分だけちゃんと結果に分かりやすく出るので昔からやりがいは感じていた。そういう意味では、私は人間関係の方が苦手だ。友達付き合いなど努力しても結果が目に見える訳でもない。逆に努力してまで友達が欲しいとは私は一度も思ったことがなかった。だから中学生の頃も、そして高校生になった今も、親友と呼べるような友達は誰もいない。
「お父さん、やっぱり気持ちは変わらないかな。夏美ちゃんからも何か言ってくれた」
「言うだけは言いましたよ。でも、それは父の問題ですから」
大島さんは、父に祖父の酒造りを継いで欲しいと願っているのだ。確かに、素人の私でも設備は今でも整っている様に思えたから、父が決断すればそれは可能ではないのかなと思えたが、そんな安易な問題でもないだろうと思い、その話にはあまり首を突っ込まないようにしていた。
「でもね、伸さんの気がまだしっかりしているうちに、伸さんの酒造りをお父さんが受け継いでくれたら、みんな喜ぶんだけどな。だってね、伸さん、夏美ちゃんのおじいちゃんが造る酒はね、本当に美味しかったんだから。もったいないよ、その酒造りの技っていうか、魂ていうか、血がさ、途絶えちゃうんだよ」
大島さんの言葉を聞いた瞬間、手元に変な力が入りシャーペンの芯が折れた。私は思わずその言葉に心が締め付けられ、不意に体が硬くなってしまったのだ。
浩伸というのが、おじいちゃんの名前で、大島さんはおじいちゃんをいつも伸さんとか伸ちゃんと呼ぶ。そんな大島さんの言うことは私にも確かに分かる気がした。おじいちゃんが受け継いだこの酒蔵は実は明治時代から続いてきたもので、おじいちゃんがおじいちゃんの曾祖父から受け継いできたものだ。それが途絶えてしまうのは確かに残念な気がする。いや、そればかりか、どこか後ろめたい気さえもする。
でも、私が本当に気にしたのはそんな事ではなかった。私はもっと自分勝手に、自分自身のことを考えていた。それは言乃音ちゃんのことだ。
私は、どんなに言乃音ちゃんを愛しても、言乃音ちゃんの子供を産むことはできない。つまり、私と言乃音ちゃんが愛し合う限り、古澤言乃音の血を、古澤家の音楽家の血統を、この世に遺すことができないのだ。それは、とても罪深い事の様に感じられてならなかった。
大島さんは、奥の部屋のベッドで横になる祖父と世間話をして父をしばらく待ったが、父が戻りそうにないので、私に挨拶をして店を出て行った。
五月の第二月曜日の学校は、前日の日曜日に開催された学校行事のため代休として休校となった。そこで私は、平日の朝から家の近くのバス停に向かって歩いていた。細い路地を抜けて長良川の畔へと出る。すると五月の新緑と川を渡る風が爽やかな空気を運んできた。登校する普段の時間より少し遅い時間だったので陽が高く昇っており、いつもの風景が少し違って見えて新鮮だ。川の向こうに金華山を見ながら私は長良橋の高架をくぐった。
東京から引っ越してきたばかりの頃は、この風景に少しも馴染めなかった。東京と違って私の住んでいる岐阜市の町並みは、長良川の様にゆったりと横長に広がっている。そして低く広がる古い街並みを見下ろすように金華山がそびえ立っている。それはまるで、子供が遊び心を利かせて造った箱庭のようで、どこか現実感の無い不自然な風景に感じられ私を不安にさせた。
しかし、ここで暮らして四年が経ち、今はこの風景がとても心に馴染んでいる。
私はバス停でバスを待ちながら、これから私はどこへ向かうべきなのか、漠然と考えていた。たぶん私は、今まで真剣に自分の将来を考えたことがなかったのだ。
私が母の心の病気を具体的に知ったのは母が死んでからの事だった。それまでは、私は母のことを喜怒哀楽のはっきりとした性格の人なんだとずっと思い込んでいた。
東京に居る時の母は、私達の酒屋をどうやって繁盛させるか、そのことに一生懸命で、本当によく笑いよく泣き、そして時には怒ったり物思いにふけったりしていた。そんな風に一生懸命に働く母を見ながら、私は母を人間味溢れる素晴らしい人だと無邪気に尊敬していたのだ。私は家事や店の仕事を自ら進んで分担させてもらい、家族の一員として一緒に懸命に働いた。それは恐らく小学生らしからぬ生活だったのかもしれないけれど、今思い出しても私にとっては誇らしい日々だ。
ただ、そんな私達家族の懸命な働きも、結局は実を結ばずお店は銀行に取られてしまい、そして何も残らないまま、母の実家であるこの岐阜市に逃げ延びてきた。『逃げ延びる』……当時の私達家族にはその言葉がぴったりだったのかもしれない。
そこで私は、そんな現実と上手く折り合いをつけることができずに、ピアノの練習に没頭するようになった。だから、母の異変に気付きながらも、その母のシグナルを私は真剣に受け止めてあげることができなかったのだ。
連結車両の真っ赤なバスが私の目の前に止まり、私は現実へと引き戻された。バス停『鵜飼屋』を出発したバスは直後に長良橋を渡る。すると街の風景は次第に賑やかになる。もちろん東京のような都会の賑やかさとは違った趣だ。岐阜市の街は金華山と長良川の狭い平野部が最も栄えた場所になる。いわゆる城下町といった風情になるのかな。左手に金華山を見ながら右手に長良川を感じてバスは岐阜駅と向かってゆく。シャッターの閉まったお店が多い古びた商店街が延々と続いている。それはまるで、現代の人々の営みが過去の歴史へと同化してゆくような、そんな不思議な感じを私に与えた。どこか物悲しい感覚だ。
それでも、ここで人々は今を生きている。今を生きようとしている。
私はいったい、これからどこへ向かえばいいのだろうかと、相変わらず根拠の無い不安に怯えていた。いや、根拠なら心当たりはあった。私の頭の中に、そして心の中に、碧葉さんと言乃音ちゃんの言葉が、ぐるぐると渦巻きながらいつまでも消えないのだ。
『本気で好きになった人の子供ぐらい産んでおきたいって、女ならそう思うじゃない』
『私ももし修一さんみたいな人を本気で好きになったら、やっぱり碧葉さんと同じ様に命がけで子供を作りたいって思います』
二人の言葉は、私の心をいつまでも冷たく掴んで放さない。その冷気に私の全身は静かに凍り付き縛りつけられているようだった。
私は結局、先のことなど何も考えずに、ただ自分の今だけの幸せを求めて言乃音ちゃんの愛情に都合よく甘えているのだろうか。それはとても刹那的で、きっとその先に未来はなく、この街の風景と同じ様にいつか未来ではなく過去へと同化してしまうのだろうか。それはつまり、その時が来たら、私は母と同じ選択をしてしまうのではないのだろうかという不安……予感に至ってしまう。
母の遺体を最初に発見したのは私だ。私の記憶の中のそれは、……今を生きる血の通った人間ではなく、過去の遺物として天井の梁からローブで吊るされる、かつて私の母だったというただの肉の塊としての物体……。そんな母を思い出しそんな自分を想像するたびに、私の心は苦しさでいっぱいになる。それはまるで、私の小さな心に大きな小石がゴロゴロと詰め込まれるような感覚で、私の心は今にも張り裂けそうになり、そして私の体は抑えようのない吐き気に何度も襲われる。
私を不安にさせる「その時」とは、つまり私が言乃音ちゃんと別れなくてはならなくなる時だ。それはやはり、いつか訪れるのだろうか……。
岐阜駅から名古屋駅まで電車に三十分ほど乗り。そこから地下鉄の東山線に乗り換えて東山公園前で降りる。平日なので動物園に向かう人はほとんどいなく、地上に出ると土日とはまるで違う穏やかな風景が目に飛び込んできた。
動物園に向かって並木道を歩く。五月の陽ざしが並木から零れるように地面に斑の陽だまりを作る。動物園の方から動物の鳴き声が聞こえたような気がしたけど、それは錯覚だったのかもしれない。もし本当に聞こえたとしたら、その鳴き声にはどんな気持ちが込められているんだろう。
そんなことをぼんやり考えながら歩いていると、榛秀くんの家に着いた。
坂の途中にある煉瓦造りの家。言乃音ちゃんの家と比べたら小さなお家だけど、大きさとかは関係なく、榛秀くんの家も言乃音ちゃんの家も同じ雰囲気を漂わせていた。それは異国情緒っていうのか、まるでその空間だけが日本じゃないみたいな感じだった。きっと、クラシック音楽っていう西洋音楽を家族で生業としているような家は、自然と同じ様な雰囲気になるのだろうかと私に思わせた。
「やあ、こんにちは。今日は怖い言乃音ちゃんがいないから安心だよ」
榛秀くんはそんな冗談を言いながら紅茶とケーキを運んできてくれた。連弾の合わせ練習をする前と後に、こうしてお茶をするのが榛秀くんの流儀であるようだった。そして、榛秀くんもまた、言乃音ちゃんに勝るとも劣らないほど紅茶の入れ方がとても上手だ。
『紅茶をたしなむことは、人生をたしなむことの練習なのよ』
いつか言乃音ちゃんの家に遊びに行ったときに、言乃音ちゃんのお母さんがそう言っていたのを思い出した。子供心に、それは茶道と同じ様なものなのかなと思ったりもしたが、本当のところは今でもよく判らない。
「ほら、言乃音ちゃん紅茶にうるさいからさ。夏美ちゃんと二人だけなら安心して飲めるよ」
そうやって他愛もなく笑う榛秀くんの言葉に、私は理由もなくドキッとしてしまった。いつもは言乃音ちゃんと二人で榛秀くんの家に練習に来ていたのだが、今日は言乃音ちゃんがどうしても都合が悪くて私だけになってしまったのだ。いつも隣に居るはずの言乃音ちゃんが居なくて私は心細さを感じる半面、どこか心が安堵している自分に気づいていた。
「どうして私と連弾のコンクールに出ようと思ったの?」
私は以前から気になっていたことを思い切って聞いてみた。この質問は言乃音ちゃんと一緒の時では、榛秀くんの本音が聞けないなと思ったからだ。しかし榛秀くんにその言葉を言った瞬間に、その判断は間違っていたのかもと少し後悔をした。なぜなら私の目の前にいるのは素の榛秀くんではなく榛花ちゃんの姿をした榛秀くんだったからだ。
榛秀くんの女装は、今更だけど本当に完璧だった。現に私も言乃音ちゃんも東京では榛秀くんが男の子なんて全く気が付かなかったのだから。
それと同じ様に、私の質問に対する榛秀くんの答えも、本当の事なのか嘘なのか、私には見分けがつかなかった。
「言乃音ちゃん腱鞘炎でしばらくは夏美ちゃんと連弾できないでしょ。だから、言乃音ちゃんの代わりに、夏美ちゃんの次の目標に協力できればいいかなって思ってね」
「榛秀くん、真面目に答えてる?」
榛花ちゃんの姿で微笑む榛秀くんは本当に綺麗だった。少し憂いた笑顔がとても寂し気で、それは大人の女性の色気みたいなものさえ感じさせた。
「夏美ちゃん相変わらず鋭いね」
言乃音ちゃんが居ないせいか、私はいつもより大胆になっていたのかもしれない。
「本当の理由を聞かせてよ」
私は自分でもビックリするぐらいに強い言葉を発していた。
でも、その言葉さえも、榛秀くんには届かず、榛花ちゃんの笑顔で軽く受け流している様に私には感じられた。そして長い沈黙の後に、とても優しい顔で榛秀くんは答えた。
「サントリーホールで夏美ちゃんと連弾した曲、あのスカラムーシュは……本当は姉さんと弾きたかった曲なんだ」
榛花さんとして綺麗にナチュラルメイクされた美しいその顔の、そのつぶらな瞳が涙で潤んでいるのを見たとき、私は心が激しく動揺してしまった。
「でもさ、夏美ちゃんと一緒に演奏してみて何かこう……、見失いかけていた物っていうか、新しい別の何かっていうか、そんなものを感じて、ひょっとしたら何かを変えていけるんじゃないかって思ったんだ」
私はどうして自分がこんなにも動揺しているのか自分でも理解できなくて、それが私を余計に動揺させていた。震える手のせいでカップとソーサーがカチカチと音がするのではと怖くなって、私はテーブルにそっと戻した。
「榛秀くん、自分を変えたいの? だから女装してるの?」
「そうだね……。変えたいっていうか、探しているって感じかな。僕はずっと本当の自分を探している。だから自分を変えなくちゃいけない。今の自分のままでは本当の自分を見つけられないから」
その言葉は、今の私の心に痛いほど響てきた。結局、私は母に甘え言乃音ちゃんにも甘え、母のことも言乃音ちゃんのことも、本当は何もちゃんと判っていないのかもしれない。
母とはもう永遠に判り合える機会を失ってしまった。だったら、今の私は、せめて言乃音ちゃんの幸せを私の立場ではなく、言乃音ちゃんの立場でちゃんと考えてあげなくてはいけない……。
「私も自分を変えなくちゃいけないのかな?」
「言乃音ちゃんとのこと?」
私を見詰める榛花さんのその瞳は、私の心の奥まで覗き込んでいるようだった。榛花さんは榛秀くんにとっての仮面なのか、それとも榛花さんが榛秀くんの素顔なのか、私にはよく判らなかった。
「でも、言乃音ちゃんのこと本気で好きなんでしょ」
榛秀くんのその言葉に私は胸を詰まらせた。そうだ、私は言乃音ちゃんのことが本気で好きだ。本気で好きだからこそ、私は言乃音ちゃんとの関係を、言乃音ちゃんの将来を、もっと本気で考えなくちゃいけない。
「本気で好きだから……、このままじゃいけないのかなって」
私の言葉に榛秀くんは何も答えずに黙って席を立った。冷めてしまった紅茶を入れ直しに行ったのだ。私はその間、窓の外の庭に目をやった。決して広くはない庭だけど、とても手入れの行き届いている素敵なお庭だった。映画や写真で見るような英国風のとても素敵な庭にベンチ……。そうだ、東京で見た榛秀くんが書いたお姉さんの絵は、この庭のベンチにお姉さんが座っている絵だったんだ。私がそのことに気が付いた瞬間、榛秀くんは部屋に戻ってきた。
「二人が納得しているなら、それでいいんじゃないの。確かに今の社会では、まだまだマイノリティな存在なのかもしれないけど、そういう風に自分たちの愛を貫いている人達だってちゃんといるし。そういうの立派だと思うけどな……」
私は榛秀くんのその言い方に無性に腹が立ってしまった。確かに榛秀くんの言っていることは一般論として正しい。でも、今ここでそんな当り障りのない一般論を言わなくっても……。私はもっと榛秀くんの本音が聞きたかったのだ。榛秀くんの本当の心の声が……。
「でも私、言乃音ちゃんの子供を産んであげられない……」
そう思った私は、つい私の本音を、私の本当の心の声を口に出してしまった。
「夏美ちゃん……」
一度思いを口にしてしまうと、私は全てを吐き出さずにはいられなかった。
「私達、普通にお互いが好きで、普通に愛し合っているだけなんだよ。なのに、子供が作れないって、やっぱり、神様には祝福されてない関係っていうことなのかな。私が言乃音ちゃんを好きで、言乃音ちゃんを愛するのは、やっぱり罪深いことなのかな。私達が子供を作れないのは、その罰ってことなんだよね? 違うかな……」
気が付くと、私は榛秀くんに抱きしめられていた。それはとても不思議な感覚だった。言乃音ちゃんと抱き合っている時とは何かが違う。それは自分の顔を埋める胸の柔らかさだと気が付いた時に、私は改めて榛秀くんは男の子だったんだと実感した。言乃音ちゃんの様に優しく包み込むような胸の膨らみは無く、それはまるで無機質な冷たい板の様に感じられた。それなのに、私はその冷たい胸の中で何かも忘れて自分自身を消し去ってしまいたいとう衝動にかられた。そうすれば、自分が楽になれるのではないかと。
「だったら普通の男の子と、普通に付き合ってみる?」
その言葉の意味を私は正しく理解したつもりだった。私が言乃音ちゃんと別れて榛秀くんと付き合えば、言乃音ちゃんも普通に男の子と付き合って、いつかは普通にお嫁さんになって子供を産んで普通の幸せを手に入れることが出来る。
私は顔を上げて榛秀くんの顔をじっと見つめた。その顔は、深夜バスで初めて会った時と同じ顔だった。私よりも大人で頼りになるお姉さん。私は黙って目をそっと閉じた。そして、榛秀くんの、いえ、榛花さんの唇が私の唇に重なるのをじっと待った。
しかし、榛花さんは私の額に、軽くキスをしただけだった……。
「ごめんね、僕は普通の男の子じゃないから」
眼を開けると、そこには優しく微笑む榛花さんがいた。それは、どこか寂し気で悲しいほどにとても静かな微笑みだった。
そして私は泣いた。
そんなに激しく泣いたのはいつ以来だったか思い出せないほどだった。母が死んだ時も今ほどに泣けなかった。あの時は母の死を受け入れるために理性が体を支配して感情に任せて泣くことなどできなかったのだと思う。
今の私は、自分自身が情けなかった。言乃音ちゃんを心から愛していながら言乃音ちゃんを裏切ってしまいそうになった自分が、そして言乃音ちゃんを心から愛していながら言乃音ちゃんのために自分は本当はどうすればいいのか判らない自分が、死ぬほど情けなく死ぬほど恥ずかしく、死ぬほど嫌だった。だから泣くしかなかった。
その日は結局、連弾の合わせ練習はしなかった。しなかったというよりできなかった。午後から榛秀くんも用事があると言っていたし、私も合わせ練習ができるほど心に余裕が有る訳ではなかった。
榛秀くんの家を出ると、私は動物園の正門の前に戻った。そしてそのまま正門の前を通り過ぎ、動物園の敷地沿いにそってしばらく歩いた。道の両脇の木々が高く生い茂り天井が高く開けたトンネルの様な並木道。道の両端には動物園との境界を示すフェンスが続いている。その道はまるで動物園の舞台裏の様だった。日常と非日常を結ぶ通路のような道。そこを私は一人で歩いていた。
私は動物園の裏手になる南口から入場し、そのまま動物園に併設された植物園に向かった。五月の植物園はバラが見頃らしく、レッスンが終わった後に言乃音ちゃんと一緒にバラを見ようと待ち合わせをしていたのだ。
「夏美、ごめん遅れて」
言乃音ちゃんはいつも通りの笑顔で元気に駆けてきた。五月の陽ざしに照らされる私服姿の言乃音ちゃんは本当に可愛く、そして美しかった。彼女が私が心から愛する恋人なんですって周りのみんなに大きな声で自慢したかった。
けれどそれは恥ずかしくてできないし、それにもし、その恥ずかしさを乗り越えるだけの勇気が私にあったとしても、それは決して許されることではないのだと自覚はしていた。
「どうしたの、合わせ練習で何かあった? まさかあいつ、夏美に何か変なことした?」
言乃音ちゃんは私が困っていたり悲しんでいたりすると、本当にすぐに気が付いてくれる。私のことを私以上に気遣ってくれる、それが言乃音ちゃんだった。
「ううん、大丈夫だよ。榛秀くんはそんなことしないし、そんなことするような人でもないよ。だからそんな心配しないで」
私の笑顔が作り笑顔だと言乃音ちゃんは気付いているだろう。でも本当に榛秀くんとは何も無かったのだから、それを信じて欲しかった。
「ならいいけど。でも何か悩んでるんなら何でも私に言わなくちゃだめだよ。夏美はすぐに自分の中に溜め込んじゃうんだから」
「うん、判ってる」
私は短く返事をして、その代わりに言乃音ちゃんの手をギュッと握りしめいつまでも離さなかった。
「そういえば、お母さんが夏美は凄いって褒めてたよ。ほら、榛秀のお母さんの紹介で作曲のレッスンを始めたんでしょ。夏美は私と違って頭がいいからレッスンも宿題も進みが速いんだなって感心してた」
「そっか、そんなことまで言乃音ちゃんのお母さんに筒抜けなんだ」
私は苦笑いをした。私は一度も自分が言乃音ちゃんよりも頭がいいなんて思ったことはない。確かに学校の成績は私の方が上だったかもしれないけれど、それは言乃音ちゃんがピアノの練習を頑張っている分だけ、私がただ勉強をしているに過ぎないからだ。
それに、作曲の勉強である音楽理論を学ぶことはとても面白かった。私はたぶん、音楽を心で聴くのではなく頭で聴くタイプなのかもしれないと自分でも思うようになっていた。音楽を感情的に受け止めるのではなく、理性的に理解をするという感じだろうか。
「ほら、だって一応、お母さんがスポンサーだしね」
そう言って私と一緒に言乃音ちゃんは苦笑いをした。
そうなのだ、作曲のレッスン代は言乃音ちゃんのお母さんが払ってくれていた。実は、作曲の先生を紹介してくれたのは榛秀くんのお母さんなんだけど、私に作曲のレッスンを受けるように勧めてくれたのは言乃音ちゃんのお母さんだったのだ。だから正確には、言乃音ちゃんのお母さんが榛秀くんのお母さんに頼んで作曲の先生を私に紹介してくれたっていうのが本当のところ。レッスン代に関しては、私のお父さんと言乃音ちゃんのお母さんとで色々と話があったみたいだけど、詳しい話はお父さんは何も話してくれなかった。
言乃音ちゃんのお母さんと榛秀くんのお母さんは学生時代からの知り合いだと聞いたし、私のお父さんと言乃音ちゃんのお母さんも私の知らないところで連絡を取り合っていたみたいだし。なんか大人ってよく判らないし、なんかずるいなって思ってしまう。
私達はベンチに座りながら、しばらく無言でバラを眺めていた。見渡してみると、年配の人が多いことに気が付いた。重そうなカメラをぶら下げた人。手を取り合ってゆっくり散歩するおじいちゃんとおばあちゃん。みんな五月の陽射しの中でバラの様に輝いて見える。何十年後、私と言乃音ちゃんはどんな風になっているのだろうか……。
「ねえ、言乃音ちゃん。予選が終わるまでは、連弾の合わせ練習もレッスンも、私と榛秀くんだけで大丈夫だから。言乃音ちゃんと一緒じゃなくても大丈夫だから」
私の言葉に、言乃音ちゃんが戸惑っているのが手に取るように分かった。
「それって、どういう意味?」
正直、私自身も戸惑っていた。言乃音ちゃんに何をどう言えばいいのか、本当に判らなかった。
「しばらく私一人で頑張ってみたいの。だから、言乃音ちゃんとは予選終わるまで会わない方がいいなかって。会ったら、私また言乃音ちゃんに甘えちゃうから……」
「どうしたの本当に? べつに甘えたかったら、幾らでも甘えればいいじゃん。夏美……」
「うん、判ってる。判ってるけど……」
言乃音ちゃんは、それ以上は何も言ってくれなかった。それは言乃音ちゃんの私に対する優しさだったはずなのに、今の私にとっては、とても辛い仕打ちの様に感じられた。
だから私は、私の今の正直な気持ちを、言乃音ちゃんに一言伝えるのが精一杯だった。
「ごめん、うまく言えないけど、私を信じて」
そして私達は予選当日まで、お互いに一言も口を利かなかった。