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桜色の涙  作者: 百音川 魔瑠琥
第二楽章
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第五話 計画と作戦

 碧葉の病院へと向かう電車に乗り込むなかで、父さんと母さんは明らかに少し緊張していた。電車はゆっくりと岐阜駅のホームを出発し名古屋へと向かう。四月も少し過ぎ、車窓から見える公園の桜は葉桜の美しい頃を迎えようとしていた。

「ねえ、修一、碧葉ちゃんのご両親もいらっしゃるんでしょ。いったいなんの話なの?」

 いつも穏和で、どちらかと言えば細かいことはあまり気にしない母さんが、さすがに心配そうな顔で俺に聞いてくる。碧葉は俺の幼馴染みであり、同時に母さんにとっても俺の成長と同じように、碧葉の成長をずっと見てきているのだから、一方ならぬ思いで碧葉を心配する道理もよく分かった。

「まあ、母さん、修一が今は話せないって言うんだから、向こうのご両親が揃ってからでいいじゃないか」

 母の隣に座る父さんが、そう言いながら笑っている。父さんは母さん以上に優しくいつも笑っている人だ。でも父さんには、その優しさとは裏腹に他人を容易に寄せ付けさせないような厳しさがあった。その優しさが、いつ底知れぬ怒りへと変わるのか、俺は幼い頃からいつもそれを恐れていたような気がする。

 俺は二人の言葉には答えず、電車の窓から遠ざかる桜を眺めていた。

 そして俺は、春休み初めの碧葉との会話を思い出していた。


 碧葉は病室から見える桜を眺めていた。

「もうすぐ桜が満開の時季になるわね。覚えてる、あんたが初めて会いに来たのも、ちょうどこんな頃だったのよ」

「覚えてるよ」

 そう、俺はそのときの記憶を今でもはっきりと覚えている。それは小学校四年生の三学期の最後の日だった。終業式が終わり、学級委員長のおれは副委員長の女子と入院している碧葉を訪ねたのだ。それは当時の担任の先生と碧葉の両親の意向だった。

 ところが病院に着くと、副委員長の女子が碧葉ちゃんには会いたくないと言い出した。当時の碧葉は病院の入退院を繰り返してあまり学校へは登校することができないような状態だった。そして碧葉はその性格から、学校に登校しても自ら進んで友達を作るようなタイプでは決してなかった。彼女は明らかに同級生の子供達よりも精神的に大人だった。そしてその事を彼女自身も自覚しており、それ故にクラスメイトをあからさまに小馬鹿にするような態度を隠さなかった。もし碧葉が、素直に人の助けを求めるような無垢な性格なら、病弱で可哀想な女の子として同性や異性からも慕われていたかもしれない。しかし碧葉はそうではなかった。彼女は小学四年生にして、すでに人の生き死にと、それにまつわる人の心の裏表、強さや弱さ、美しさや醜さ、そういう諸々を幼いなりに肌で嫌というほど感じてきていたのだ。それがきっと、小学四年生という幼さでは頭で理解することも出来ず、自身の成長の糧として消化することもできず、当時の彼女はかなり屈折した性格の持ち主だった。だから彼女はクラスメイトを誰も好きになろうとはせず、同じ様にクラスメイトも誰も彼女を好きになろうとはしなかった。

 そんな経緯から、副委員長が病院のロビーで碧葉の病室には行きたくないと言い出しても、俺は何も可笑しなことではないなと感じていた。むしろ、それは当然の事だろうなと感じてさえいた。

 俺は副委員長からクラスの皆で書いた色紙と千羽鶴を受け取ると、一人で碧葉の病室へと向かった。病棟の詰め所で看護師さんに碧葉の病室を尋ねるとすぐに案内をしてくれた。どうやら碧葉のクラスメイトが訪ねてくることは、すでに看護師さん達に伝わっていたらしく、それは碧葉も承知していたようだった。

 上半身を起こしベッドに胡座をかいて座る碧葉を見たとき、俺は碧葉がなぜ入院をしているのか理解できなかった。それほど彼女は学校に居る時と雰囲気が一緒だったからだ。まるで体などどこも病んではなく、むしろ性格が捻くれて心の病気で入院しているんじゃないかと錯覚するほどだった。

実際、本当に学校での碧葉は性格が捻くれていてクラスメイトも担任も彼女の扱いに困っていた。しかし、今思えば彼女は何も悪くはなく、むしろ彼女の言うことも行いも正論だったのだ。ただそれは当時小学四年生だった俺らにとってはあまりにも大人びた考え方で、そうした俺らと碧葉の考え方のギャップを当時担任だった先生も上手にフォローすることができなかったのだ。だから深津碧葉は、俺らにとってはクラスに馴染めないただの我がままで捻くれた性格の女の子としか認識されなかった。

 そんな深津碧葉が、今、俺の前に居たのだ。

「あんたも大変ね、わざわざこんな名古屋の病院まで来て。委員長の仕事ご苦労様」

 彼女のその言葉は決して嫌味っぽくなく、ただ淡々としていた。そして何故か、その声を俺はとても魅力的で美しいと感じていた。それは、幼い男の子が理由もなく年上のお姉さんに憧れるような、そんな感じに似ていたのかもしれない。

「べつに大変じゃないよ。それに俺、深津と一度話してみたいと思っていたんだ」

 それは嘘ではなかった。俺は彼女のある部分にとても興味を持っていた。いや、惹かれていたのかもしれない。

「深津ってさ、人間嫌いだよね」

 その言葉に、碧葉が目をとても輝かせたことを今でもよく覚えている。

「棚瀬ってさ、やっぱり面白い奴だったんだね」

 俺は碧葉が自分の名前を知っていたことに驚いていた。深津碧葉は他人には全く興味がない人間だと思っていたからだ。

「私はね、人間が嫌いなわけじゃないよ。馬鹿な人間が嫌いなだけなの」

「深津の言う馬鹿って、勉強の事じゃないんだよな」

「そうだね、学校のテストとかそういうんじゃないね」

 当時の俺は、ある意味で深津碧葉を尊敬していたのかもしれない。それは、意味もなくクラスメイトと仲良しの振りをしたり、意図せず自分を他人に合わせようとしたりもせず、碧葉は自分の世界をちゃんと持っていて、自分の世界のためだけに生きているように思えたからだ。そうしたクラスの中では異質な碧葉が、俺にはとても興味深く魅力的に感じられたのだと思う。

「私はさ、生きる目的を探しているんだ」

 碧葉は俺の目をじっと見つめていた。

「棚瀬もさ、何かを探しているんでしょ」

「俺は……、勉強する目的を探しているかな」

 小学四年生のあの当時、俺は碧葉のいう『生きる』とう言葉が正直言うと理解できなかった。いや、理解というより『生きる』という言葉が漠然とし過ぎていて、具体的に想像することができなかったのだ。

「私はさ、目的もなく生きている人が馬鹿に見えちゃんだよね。まぁ、私も生きる目的を探している最中だから、私も馬鹿な人間の一人なんだけどね」

 そう言って笑う碧葉の笑顔は、クラスでは一度も見たことのない表情だった。

 俺が覚えているあの時の思い出は、そうした二人の会話と、初めて見た碧葉の笑顔、たったそれだけだった。それ以上のことは覚えていない。あの時の俺に、それ以上の事なんて到底何も理解することはできなかったのだから。

 しかし、その日をきっかけに、俺は碧葉の病室に毎週の様に通うことになった。もともと、塾通いが第一優先の俺は学校では部活に入ってなかったので、部活を通しての友達はほとんどおらず、表面的には友達がいなくて困ると感じることは無かったが、本当は内心では碧葉と同じ様にクラスで孤立をしていたのかもしれない。

 だから、碧葉に誘われるままに、彼女の病室に足繁く通うようになったのだ。

 そして俺と碧葉は何でも話すことができる友達となり、やがて、お互いの将来や夢を真剣に語り合えるような、碧葉風に言えば『生きる目的を求道する同志』として認め合うようになった。それを親友というなら、たぶん俺らは親友なんだと思う。


「修一、あんた今考え事してたでしょう。あんた私の目の前で私の存在を忘れるぐらいに真剣に考え事するって、本当に凄い集中力よね」

「いや考え事じゃなくて、碧の言った初めて会った日のことを思い出してだけだよ」

「そんなの似たようなもんじゃない」

 そう言う碧葉の表情は、出会った日と同じ何も変わらない笑顔だった。変わったのは彼女はもう小学四年生の女の子ではなく十七歳の立派な少女で、そして、当時は入退院を繰り返し学校を休んでばかりとは到底思えなかった健康的な体つきが、今は見るからに病弱で瘦せ細った姿になってしまったということだ。

「あんた、あの時さ、あの窓から桜が咲いてたの覚えてないでしょ。小児病棟の病室だったら、ここのよりかは眺めは悪かったかもしれないけど」

「確かに覚えてない。病院に着いた時に桜が咲いていたのはなんとなく覚えているけど、あの病室の窓から桜が見えてたかまでは覚えてないな」

「私さ、子供の頃から病室の窓から見える桜が大好きだったのよね」

「桜なら俺だって好きだよ。桜なんて嫌いな奴のが少ないよ」

 碧葉は俺の言葉に少し不満な顔する。それで俺は仕方なく言葉を足した。

「桜って、人の色んな思いを受け止めてくれそうだからな」

 碧葉は俺の言葉に満足したらしく自分の話を続けた。

「確かにそうよね。でもね、私が本当に好きなのは満開の桜よりもその後の葉桜なの。桜の見頃って数日間でしょ。でも知ってた? 葉桜が本当に美しいのは一日か二日だけなのよ」

「なんか、碧って桜の評論家みたいだな」

 俺は窓の外で、ちょうど満開を迎えた桜を改めて眺め直してみた。

「当たり前じゃない。この窓から、もう何年も何年も同じ風景を見ているのよ」

 碧葉も同じように窓の外に目をやる。彼女と同じ様に窓越しの同じ風景を眺めながら、きっと、俺と碧が見ている世界、碧が感じている世界は俺のとはまるで違うのだろうなと思った。

「桜の花って本当に綺麗よね。淡いピンクなのに何故か燃えるように美しく、そして儚く散ってゆく……。でもさ、毎年季節が春になれば必ず花は咲くじゃない。だからさ、とても美しく切ないけど、どこか希望を感じるのよ」

 碧葉はじっと窓の外を眺めながら、僕の顔を見ようとはしなかった。

「だからさ、その希望の象徴が葉桜なの。淡いピンクに緑の葉がわずかに混じって、これから散ってしまう桜のね、来年を、再来年を、……永遠を予感させるような感じなの」

 そう言って、自分の桜に対する持論を話し終えると、碧葉は僕の方に向き直って笑いながら言った。

「なんかさ、雪でも降ればいいのにね」

「なんだよ、突然に」

 碧葉は悪戯っぽく笑っていた。それでも、その目はとても真剣だった。碧葉の目はいつも真剣だ。笑う時も泣く時も、その瞳はいつも妥協を許さず一生懸命に泣いたり笑ったりする。そしてその瞳は、深津碧葉は文字通り『生き急いでいる』のだと、いつも俺に感じさせていた。

「雪でさ、ここから見える風景が、みんな真っ白になっちゃって、そこにピンクの桜の花だけが一面に咲き乱れてるの。なんか、凄くない? 想像してみてよ」

 だから俺は、その碧葉の瞳に少しでも応えるように、言われるままに想像してみた。

「雪景色の桜かぁ。悪くないかもな……」

 碧葉は少し不機嫌な口調で、俺の言葉にすぐさま返事をした。

「なにそれ。悪くないどころか、凄く素敵に決まってるじゃない」


 桜談議が終わると、碧葉は唐突に本題を切り出した。

「ねえ、私、色と考えたんだけどさ、私たち、ちゃんと付き合おう」

「いいけど、突然どうしたの?」

 俺は特に慌てることもなく、冷静にその言葉を受け止めた。何故なら、その言葉は俺の頭の中で何十回、いや何百回とシミュレーションされた言葉だったからだ。

「何よ、その『いいけど』って返事、本当にムカつく。それに、別に突然じゃなし」

「ごめん、悪かったよ」

 俺は口先だけの言葉で謝り、碧葉の話の続きを待った。そんな俺を見透かすように碧葉は悪戯っぽく一瞬だけ拗ねた顔をした。しかしそれは、本当に一瞬だけだった。

「こないださ、美紀ちゃんのお葬式に行ったじゃない。体調も良くて外出許可もらえたから」

 そのことは碧葉からメールで知らされていた。美紀ちゃんは碧葉の大阪のお友達だ。碧葉と同じ病気で、その縁で幼い頃から一緒に病気と闘ってきた、俺からすると碧葉の戦友みたいな存在の子だと思っていた。

「そうなんだ。美紀ちゃん……最後まで頑張ったもんね」

 だから、俺の言葉に対する碧葉の返事を意外に感じた……。

「どうかな? 別にさ、特別に頑張ったわけじゃないと思うよ。私だって何も頑張ってないもん」

「そうかなぁ」

「そうだよ……。だからさ、私、死んじゃう前に何かをちゃんと頑張ろうと思ったの」

 相変わらずに、碧葉はよく分からないなと思った。

「いや、今だって十分に頑張ってるよ。美紀ちゃんだって、ちゃんと頑張ってたと思う」

 そんな俺の言葉を無視するかのように、碧葉は慎重に言葉を選んでいた。

「私ね、美紀ちゃんのお葬式に参列して確信したの。信君や明日葉ちゃんが死んじゃった時にも何となく感じてはいたことなんだけど……」

「何をさ……」

 俺は碧葉の言葉の続きを早く聞きたかった。それはとても不安な事だったけれど、しかし同時に俺に何かを期待させた。そう、いつだって深津碧葉はそうだ。その存在自体が不安定で危うというのに、俺はいつも彼女に何かを期待せずにはいられない。

「私さ、奇跡とかもういらない」

 その碧葉の言葉はいつも以上に力強く、碧葉らしい清々しさを感じさせた。

「別にこの病気と向き合うことに諦めたわけじゃないし、自分の人生を諦めたわけでもない。けど、それよりもさ、もっと大事なことに気が付いたの。気が付いたっていうか、確信したっていうか、覚悟を決めった……っていう感じ!」

「相変わらず大袈裟だな。それで、何を決めたの?」

 俺は冷静を装ってはいたが、碧葉の瞳から一瞬でも眼を逸らさないように必死だった。

「私、修一とちゃんと付き合って、そして、あんたの子供を産む」

「碧葉……」

 碧葉のその言葉に、俺は彼女の瞳から眼を離すことが出来なくってしまった。


 永子先生は碧葉の馴染みの先生だった。小児科が専門の永子先生は、碧葉の主治医とは別に、碧葉が幼い頃から病棟でお世話になってきた先生だ。碧葉が小学一年生の頃に小児病棟に研修医としてやってきた永子先生は、碧葉にとっては先生というよりは姉の様な存在で、碧葉にとって心を許せる数少ない大人の一人だった。

「珍しいじゃない、二人揃って話があるなんて」

確かに、碧葉が小児病棟から一般病棟に移ってから、碧葉と二人で永子先生とちゃんと話をするのは久し振りだった。

「実は先生にご相談があって……」

 碧葉は少しでも早く自分の考えを実行に移したがった。碧葉の性格は『石橋を叩いて渡る』の正反対で、橋が無ければ泳ぐか飛び越えればいいという性格だった。

 だからそんな碧葉を少しクールダウンさせるために、そして俺自身も自分の想いを確かめるために、永子先生と話がしたかったのだ。

「結婚式の仲人とか頼まれても無理よ、だって私まだ結婚してないんだから」

 小学生の頃に会った永子先生は、まるで碧葉と一緒に成長を重ねるようにどんどんと変化していった。初めは近所の優しいお姉さんという印象だったのに、今では、おっかないけど頼りになる姉御といった感じだ。

「はい、それは十分に分かってます」

 永子先生が自分の冗談に合わせて、何か調子の良い返事を期待しているとは到底思えなかったので、俺は永子先生の期待に応えていつも通りに返事をした。

「ふん、相変わらず修一くんは可愛げが無いわね」

「すみません。」

 いつも通りに返事をしたら可愛げがないと言われてしまったので、俺は苦笑いをした。

「それで、そういう話じゃないの? 私も忙しいから、回りくどい馬鹿話をしている暇はないわよ」

 僕たちは小児病棟の階の外れにある面談室にいた。窓から射し込む春の日差しが、面談用のテーブルや椅子を場違いの様に明るく照らしている。永子先生は陽の光に眩しく輝く白衣の、そのポケットに両手を突っ込みながら、恐らくお気に入りなのであろうライターをカチカチと弄んでいた。

「分かってます。実はその……まぁそれに近い話ではあるんですが……」

「ほら、やっぱり結婚の話なんじゃない。いよいよ修一くんも年貢を納める覚悟ができたんだ」

 永子先生のその物言いが、オバサンというよりオジサン臭く感じられ、永子先生も碧葉と同じ様にちゃんと歳を重ねているのだなと妙に実感してしまい、俺はそれが無性に可笑しく、そして微笑ましく思えた。

「いや、だから……」

 そんな風に、俺が勝手に永子先生との会話を和んでいると、碧葉がしびれを切らしたように、碧葉らしく本題をズバリと切り出した。

「先生、私、子供を産みたいんです」

「……子供ねぇ。結婚式すっ飛ばして子供が欲しいって、やっぱり今時なの?」

 永子先生は、碧葉の言葉に少しも動じていない様子だった。

「先生、私、真面目に言ってるんです」

 そして永子先生は、大きく溜息をついた。それは、妹から面倒な相談を持ち掛けられ、困った顔をする姉の様だった。

「碧葉ちゃんさぁ、自分が何を言っているのか……、自分の気持ちがその場の勢いだけじゃないのか……、その辺よく判って言ってるのよね?」

「はい。そのつもりです」

 碧葉の返事には一切の迷いを感じさせなかった。そしてその潔さが余計に、永子先生を困った顔にさせた。

「まぁ……そうだよね。碧葉ちゃんが冗談でそんなこという訳ないかぁ」

「永子先生……」

 そう呟く碧葉は、永子先生を医者としてではなく一人の人間として信頼し信じていたのだと思う。永子先生なら自分の気持ちを理解してくれる。たとえその気持ちが受け入れられなくても、それでも、ちゃんと理解はしてくれると。

「ごめん、病人の前だけど内緒で一本吸わせてね……」

 そう言うと、永子先生は面談室の窓の上部を開放させた。そこから春の日差しに乗って、新緑の風が部屋の中に吹き込んでくるような気がした。

 永子先生は、窓に寄り添うように立ちながら、ポケットから煙草とオイルライターを取り出した。そういえば、永子先生はいつから煙草を吸うようになったんだろうか。初めて会った頃の永子先生には煙草など似合いそうにもないと思っていたけれど、それは俺がまだ小学生で永子先生という人柄をちゃんと理解できていなかったからそう思っただけなんだろうか。

「色々と考えての結論なんです。もう覚悟もできてます」

 碧葉は、永子先生が煙草を吸う時間も惜しいかのように自分の想いを言葉にした。それに対して永子先生は、碧葉ではなく僕に矛先を向けた。

「修一くんはどうなの? 碧葉ちゃんの言う『覚悟』っていうのは、まぁたぶん本物なんだと思うけど。修一くんはちゃんと自分なりに悩んで考えて結論を出したの?」

 その言い方は、いかにも永子先生らしかった。永子先生は分かり切ったことをくどくどと質問したり説明したりするのが嫌いだった。だから、碧葉の話をいい加減に聞き流したのでは決してない。碧葉のその言葉と、その言葉に込められた想いを、回り道せずストレートにちゃんと受け止めたのだ。そういう意味では、永子先生は碧葉に似ているところがあるなと思う。いや、二人の性格が似ているというより、人の生き死にを身近にしていると、自然と人はそうなるものなのかもしれない。

「たぶん……碧葉ほど深く悩んだり考えたりした訳じゃないと思います。碧葉とは、背負っているものが違いすぎますから……」

 俺の言葉を聞きながら、永子先生は煙草を深く吸い込み、そして開放された窓の上部に煙草の煙を逃がすように、ゆっくりと甘い煙草の匂いがする息を吐き出した。それから俺の方へ体を向けると、まるで碧葉と同じ様に俺の目を真剣に覗き込んだ。

「修一君は、相変わらずそんな言い方するんだね」

 碧葉にとって永子先生が姉のような存在なら、俺にとっての永子先生は本当に先生だった。それはたぶん人生の先輩、いや、やはり人生の先生というのが適切な言葉のような気がした。だから俺は素直に……、

「すみません。」

 そう謝ってしまった。しかしそんな俺を見て永子先生は、可笑しそうに笑っていた。

「そして、君はそうやって直ぐに謝る」

「すみません」

 結局、俺には謝る言葉しか見つからなかった。

「それで、私にどうしろと?」

 永子先生は俺に対する笑顔を、そのまま碧葉にも向けた。

「永子先生に私の両親を説得してくださいとは言いません。でも、私と修一が父と母に話をする時に立ち会っていただけませんか?」

「援護射撃をしろと?」

「いえ、永子先生には永子先生のお考えを、うちの両親に話していただければ大丈夫です。私と両親だけでは、たぶん最後は感情論のぶつけ合いになって冷静に判断し結論を出すことができないと思いますから」

 碧葉は高校には通っていなかった。中学二年生の時に危篤状態にまで一時体調が悪化してしまい、中学三年生の時は受験など考える余裕はなかったのだ。それでも通信制の高校など選択肢は無くはなかったのだが、碧葉自身が高校進学にあまり興味を示さなかった。

 しかし、碧葉は本当はとても頭の良い人間だ。性格は直情的だけど、その思考はたぶん俺よりも論理的で、その思慮の深さは俺の知っている同級生の誰よりも哲学的だと思う。俺はそんな碧葉の才能を野放しのままにしてしまうことを、とても勿体無いと常々思っていた。

「碧葉ちゃん、言ってることは分かるけど、それ、ご両親にはかなりハードルの高い要求になると思うよ。こんな話、冷静に判断して結論をだすなんて、普通の親はたぶん無理だと思うから」

「だから、永子先生に立ち会ってもらいたいんです」

 さすがの永子先生も、その言葉には苦笑いするしかなかった。

「碧葉ちゃん、それもハードル高すぎるって」

 珍しく苦笑いしながら、言葉を濁らす永子先生を見て、俺は思い切って永子先生の本音を聞いてみたくなった。

「永子先生は、どう思うんですか? 碧葉が子供が欲しいっていう……話を」

 永子先生は、オイルライターの蓋をカチカチと開いたり閉じたりしていた指を止めて、俺と碧葉の顔を交互に見ながら話し始めた。

「そうねぇ……。個人的な意見を先に言わせてもらえば、碧葉ちゃんの気持ちはよく分かる。私も男なんかいらないから子供だけでも欲しいって思うもん」

「先生……」

 俺は永子先生の顔を、碧葉に負けないぐらいの真剣な顔で見つめ返した。

「ごめんごめん。でもね、私も一人の女として、碧葉ちゃんがそういう考えに至ったっていうのは素直に共感できる。たぶん私が碧葉ちゃんの立場なら、いずれそう願うようになったとは思う。ただね……」

 そこで永子先生は、もう一本煙草を吸おうと煙草の箱に指を伸ばした。しかし、その動作を途中で止め、しばらく考え込む仕草をした。そして……。

「ただ……それって、碧葉ちゃんの、いや、女のただの我がまま……っていう意地悪な考えもできなくもないじゃない。碧葉ちゃんだって、もし子供が無事に生まれたとして、その後のことは考えたんだよね」

「はい、考えました。たぶん、私はその子を自分の手で育てることはできないと思います。その子の成長を見届けることもできないと思います。最悪、私は……私はその子を一目見ることすらできないと思います」

 永子先生のその問いかけに、碧葉は即答した。

「碧葉……」

 そんな碧葉の一途な態度に、俺の胸の中に熱いものが込み上げてきた。

「それでも、それでも、私は子供を産みたいんです。私の我がままだっていうことは百も承知です。母親の居ない可哀想な子供を産んでしまうことも分かってます。修一にとんでもない迷惑をかけるっていうことも分かってます。ちゃんと、ちゃんと分かってます。ちゃんと分かっていても、それでも、やっぱり子供を産みたいんです」

 碧葉は泣いてはいなかった。泣いてはいなかったが、その瞳には大粒の涙が溜っていた。その大粒の涙を、碧葉は必至で堪えている様だった。きっと、今ここで泣いたら駄目だと自分に必死に言い聞かせているんだろうと思った。

「……ちゃんとねぇ」

「私には、母親になる資格がないと、永子先生はそう思いますか」

 碧葉のその問いかけに、俺は、今までにない碧葉の悲痛な程の必死な想いを感じた。

「資格があるかどうかは、ちょっと置いといて、医者としての立場の意見を言わせてもらうわね」

「はい」

 感情的になりつつ碧葉を諭すように、永子先生はわざと医者らしく大袈裟な言い方をした。

「残念だけど、今の碧葉ちゃんでは体力的に子供を産むのは無理だと思う。……いや、『思う』じゃなく無理だな……」

「どうやってもですか?」

 碧葉のその言葉は真剣だった。いや、真剣という以上に必死だった。

「碧葉ちゃん、あなただってもう子供じゃないんだから、自分でも分かっているでしょ。病気の治療を続けなければ病気の進行を抑えることはできない。でも治療を続ければ体力を奪われ続けてしまう。私達はこのせめぎ合いを、ずっと繰り返しながら闘っているのよ」

「分かってます。それをずっと繰り返して、いつか、いえ、もうすぐ死ぬんです」

 その言葉を、碧葉はごく自然にあっさりと口にした。

「……そうね、修一君ほどには長生きはできないかもね」

 冗談めいた言葉とは裏腹に、永子先生の顔には笑顔は全く無かった。

「永子先生、そんなところで誤魔化さないでください。確かに、明日直ぐ死ぬわけじゃないかもしれない。でも、五年、いえ、二、三年しか生きられなかもしれない……、そんなことお互いに分かってるじゃないですか」

 永子先生も、俺も、碧葉の言葉に何も応えることができなかった。何故なら、それが碧葉の目の前にある、紛れもない正真正銘の現実だったからだ。

「私が今まで生きてこられたのは、先生や看護師さん、お父さんやお母さん、そして私も含め、皆で頑張ってきた結果だとは思います。でもそれって、やっぱり偶然っていうか、もう奇跡だと思うんです。だって、もう美紀ちゃんだって死んじゃったし……。私だけが生き残っていられるのは、私が特別に頑張ってるからじゃない、本当にただの偶然で、奇跡なんです」

「碧葉ちゃん……」

 永子先生のその言葉は、姉が大切な妹を思いやる、そんな言葉だった。

「でも私、もう奇跡なんて要らないんです! 私は、奇跡とかじゃなく……普通に……普通に……」

 碧葉はそこで言葉を詰まらせた。そして、碧葉の頬に一筋の涙がこぼれた。春の陽に宝石の様に輝く大粒の涙は、赤く染まる頬を透かしてピンクに輝き、それはまるで桜色の涙だった。

 そして、碧葉の言葉の後に続くこの沈黙には、『普通に子供を産んで、普通に死んでゆきたい。』という碧葉の想いが込められているのだと、俺は疑うことなく感じていた。

 碧葉は頬の涙を、両手で気持ちを引き締め直すように拭った。

「それに永子先生、間違ってます。私達、病気と闘っている訳じゃないんです」

 碧葉の言葉は冷静さを取り戻していた。

「私も、病気なんかには負けちゃダメだって思ってました。頑張って闘い続けなきゃって。そうやって生き続けなきゃって……」

 そして冷静に力強く、永子先生に問いかけた。

「でも先生、美紀ちゃんは、信君や明日葉ちゃんは、病気に負けたから死んだんですか? 死んだら負けなんですか?」

 その問いかけに、永子先生ではなく俺が思わず反応してしまった。

「碧葉……」

 碧葉は俺の顔ゆっくりと見詰め、そして永子先生と俺に語り掛けるように話を続けた。

「そんなの違う、違うって気が付いたんです。勝つとか負けるとか、病気と闘うとか……そんなんじゃない。病気はもう私の人生の一部なんです。だから、きっと、もうすぐ死んじゃうことも、あと少ししか生きられないことも、それも私の人生なんです。だから、私……」

 そこで碧葉はそっと俺の手を握った。らしくないなと思った。碧葉らしくない。

でも、逆にその碧葉らしくない仕草が、碧葉の手から伝わる温もりが、碧葉の本音を俺に伝えているような気がした。

「病気からも逃げ出さずに、そして自分の人生からも逃げ出したくないんです。私は、私の人生を生きた証を、ちゃんと残して死にたいんです」

 碧葉は痛いほど力強く俺の手を握りしめていた。そしてその痛みが、碧葉の心の叫びなんだと、俺の体に刻まれている様だった。

「分かった。ご両親に話をする時は、私も立ち会おう」

 永子先生は静かに、とても静かにそう言った。


 その後、俺と碧葉は、この計画をどうやってお互いの両親に話すか作戦を立てることにした。

 


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