第四話 十七歳、新学期の始まり
僕らは移動して、秋葉原の本屋さんのイベント会場に居た。僕が東京にやってきた本当の目的は、同人サークルのイベントに特別参加させてもらうためだったのだ。このサークルはオリジナルのイラストを描く絵師さん達のサークルで、今回はネットで公開していた僕の絵を見てお声をかけて頂いたのだ。まあ僕の絵が上手いからではなく、イベントの必要経費を捻出するために手当たり次第に声をかけている感じではあったけど……。
会場の中央にはサークルが発行しているイラスト集が平積みされ、壁にはアクリル加工されたポスターサイズのイラストが展示されていた。印刷会社さんが協賛しており、イラスト集もポスターもそのクオリティは素人とは思えない程だった。そして、会場には意外なほどに大勢の人が来場していた。
人混みをかき分けるような感じで、僕は自分の制作したイラストの前へ二人を案内した。
「何これ、あんた自分で自分の絵を描いてんの? どんだけ自分大好きナルシストなのよ」
僕の描いた絵は、英国風の庭園のベンチに座る女性のイラストだった。僕が今着ている様なゴシックロリータの衣装を着た少女のイラストを見て言乃音ちゃんがそう言った。
「こういうのって、自画像っていうんだよね。」
夏美ちゃんが、言乃音ちゃんの発言をフォローするように慌てて言葉を探してくれた。
「ふぅうん、そうなんだ。でもやっぱなるナルシストな変態女装男子だわ」
「でもこれ、榛花ちゃんとちょっと雰囲気が違うかな……」
夏美ちゃんは、とても真剣に僕のイラストを見てくれていた。
「夏美、こいつのこともう『榛花ちゃん』とか呼ばなくていいから」
言乃音ちゃんは、すでに僕のイラストに興味が無いようで、会場の人の多さにうんざりし始めていた。
「でもほら、この絵の女の人、榛秀くんと目の感じが……。榛秀くんはもっと優しい目をしてるけど、この女の人なんだか、まるで幽霊みたいに怖い目をしてる」
「さすが夏美ちゃん、よく分かったね。これは僕じゃなく、僕のお姉ちゃんなんだよ。」
「あんたシスコンなの?」
大声で発せられた言乃音ちゃんの一言に、賑やかな会場が一瞬、静まり返った。
「じゃなに? あんたお姉ちゃんみたいに成りたくて女装してんの? あんたシスコンの変態女装男子なの? どんだけ変態なのよ」
言乃音ちゃんは意地悪に高らかと笑いながら、その声は会場中に大きく響いた。しかし、その声に耳を傾ける人はおらず、会場は既に賑わいを取り戻していた。
「それよりも言乃音ちゃん! この詩……」
夏美ちゃんも来場者の多くと同じく、僕を罵倒する言乃音ちゃんの言葉には耳を傾けてはいなかった。僕は心の中で夏美ちゃんに感謝しつつ、夏美ちゃんが指さす、もう一枚の僕のイラストに目をやった。それは僕の姉ではない、もう一人の少女のイラストだった。
桜の木の下で、車椅子にたたずむ白いワンピースの少女。
そして、そこに書かれた詩―――
『私が困っている時 あなたが私を助けてくれる
だから 私もいつか あなたの役に立ちたい
私が悲しいんでいる時 あなたが笑顔をくれる
だから 私もいつも あなたの笑顔の素でいたい
私に無いものを あなたが私にくれる
だから 私も何か あなたにあげたい
私の肉も血も すでに汚れてしまっているのだから
せめて私の魂を あなたに捧げる
それが 私の愛の証』
夏美ちゃんと言乃音ちゃんはしばらく無言になってしまった。そして、言乃音ちゃんが怒りに震えながら、もう一度会場中に響き渡る声を発した。言乃音ちゃんは文字通り体を震わせていた。
「これは……。あんた、この詩はどうしたのよ? これ碧葉先生の詩じゃない! あんた、碧葉先生の作品を勝手に!」
「えっ⁉ なになに! ひょっとして言乃音ちゃんも碧葉ちゃんのこと知ってるの?」
僕はあまりにも熱心に怒り出す言乃音ちゃんが、少し可愛く思えてしまった。そして、夏美ちゃんだけではなく、言乃音ちゃんもが碧葉ちゃんのことを知っていることに少なからず驚いた。
「言乃音ちゃんも私も、碧葉先生の大ファンなの!」
「そうだよ! 碧葉先生の詩集は、私達のバイブルなんだよ!」
言乃音ちゃんの目は、怖いぐらいに真面目だった。そして、同じように夏美ちゃんの眼差しもとても真剣だった。二人の異様な熱意に、僕も真面目に嬉しくなってしまった。
「そうなんだ、ありがとう。碧葉も喜ぶよ」
その時、僕ら三人の会話に、聞き慣れた声が飛び込んできた。
「おっ、修一じゃん。わざわざ見に来てくれたの? 嬉しいぃ」
「いや、こっちの大学のオープンキャンパスを見学しに来たついでだから。……っていうか、その格好で抱きつくのマジで止めろって!」
僕は嬉しさと悪戯心半々の気持ちで、声の主に抱きついた。
「えっ何? この人、ひょっとして榛秀の彼氏さんなの?」
言乃音ちゃんが僕以上に悪戯心満載で呟いた。いや、悪戯心ではなく本気でそう思われたのかも……。
「ほら、すでに勘違いしている人がいるから離れろって!」
冗談が通じない相手を本気怒らせるのも酷なので、僕は頃合いを見て離れることにした。
「いゃごめんごめん。修一の困った顔を見るのがいつも楽しみでさぁ」
そして、好奇な目で僕たちを見る言乃音ちゃんと夏美ちゃんに僕の抱きついた相手を紹介した。
「こちらは、棚瀬修一くん。僕の中学からの友人で、君達が敬愛する碧葉先生の幼馴染みにして……」
「それ以上はもう止めろって……」
冗談が通じない相手と分かりつつ、僕は修一をからかうのが好きだった。修一と友達になって、色々なことを冗談にして笑ってしまうことができるのは、それは友情の証かもしれないと思うようになった。そんな風に思える友達は、僕にとっては修一が初めてだった。
「あぁごめん、ちょっと調子に乗りすぎた」
僕はそう言いながら、軽く修一の背中を叩いた。
「あ、あのぉ、碧葉先生の幼馴染みっていうことは、先生をご存知なんですね!」
「夏美、当たり前でしょう。変なこと聞いて失礼でしょう」
言乃音ちゃんは、瞬く間に古澤言乃音お嬢様に変身をしていた。
「ごめんなさい、私達、碧葉先生の大ファンなんです。碧葉先生の作品に、何度も何度も励まされて……本当に……。」
そして驚いたことに、言乃音ちゃんは急に大粒の涙を流しながら泣き出してしまった。いや、本当に驚いた。あの気丈でプライドの高いお嬢様キャラの古澤言乃音さんが、こんな公衆の面前で大泣きするなんて。
「言乃音ちゃん……」
夏美ちゃんが言乃音ちゃんの両肩に手をやり、俯く言乃音ちゃんの額に自らの額を重ねた。その様子に僕も、そしてきっと修一も、少し感動してしまったのだと思う。
「ありがとう。碧葉もその言葉を聞いたらきっと喜ぶよ」
修一のその言葉を聞いて僕は思った、そうだ、この感動は碧葉ちゃんが起こした感動なのだと。
「いえ、こちらこそ、ありがとうございます!」
涙を堪えることのできない言乃音ちゃんに代わって、夏美ちゃんが修一に答えた。やはり心の芯がしっかりしているのは、意外に夏美ちゃんの方なのかなと僕はその時に感じた。
「あのぉ……。それより、棚瀬さんって、もしかして岐阜の狩野高校の棚瀬さんですか?」
その突然の質問に、普段から物怖じしない修一が少し驚いた。しかし僕にとっては、数時間前のやり取りのお陰で、その質問は想定内だった。
「そうです。狩野高校一年棚瀬修一です」
修一はかしこまって学校名と本名を名乗った。そしてそれを聞いた夏美ちゃんは、修一以上に驚いていた。
「やっぱり!」
「何?夏美、この人知ってるの?」
言乃音ちゃんが不安気に夏美ちゃんに言い寄る。
「知ってるっていうか、学校で何となく顔を見た気がして……。それに、うちの高校じゃあ超有名人なんだよ、棚瀬さん。夏、秋、冬の全国模試で三回連続で全国順位が一桁代で、校内テストでも常に学年順位がトップっていう超頭のいい人なんだから」
「いや、そんなに僕の個人情報って漏れまくってるの?」
修一もさすがに苦笑いをするしかなかった。
「あっ、ごめんなさい……。皆がそうやって噂しているのが耳に入ってきて……」
夏美ちゃんはとても恐縮しながら、修一に一生懸命に頭を下げていた。そして僕はそんな夏美ちゃんをフォローするつもりで余計な一言を言ってしまった。
「そうだよな、修一はうちの高校では期待の星だからなぁ。うちは県内でも有数の進学校だし」
「えっ……⁉ ちょっと待って、あんた今、『うちの高校』って言った? 今そう言ったわよね!」
僕の余計な一言に、やはり言乃音ちゃんが敏感に、そして素早く反応した。
「あぁ……うん、言った。僕もビックリしたよ。夏美ちゃん、僕と修一と同じ学校だったんだね」
驚きと、おそらく僕に対する僕にとっては理不尽な言乃音ちゃんの怒りが、文字通り言乃音ちゃんを絶句させていた。夏美ちゃんはそんな言乃音ちゃんの横で嬉しそうに無邪気に微笑んでいる。
「えっぇぇぇ……。榛秀さんもなんですか、全然気が付きませんでした……」
僕は言乃音ちゃんの反応にはあえて触れないことにした。
「そうだね、お互いにね。まぁ普段はこの格好で登校している訳じゃないし、それに僕は美術科だから普通科のクラスとほとんど交流もないしね」
「あっ、そうなんですね。確かに、その格好では登校できませんよね」
夏美ちゃんは、僕のドレス姿を改め眺めながら、うっとりした口調でそう言った。そして、その夏美ちゃんの言葉に耐えかねたように言乃音ちゃんが、再び会場中に響く大きな声で叫ぶ。
「あぁぁぁ、なになに、これってどういうことなのよ!」
僕は言乃音ちゃんをフォローする言葉が見つからず、一言だけそっと呟いた。
「世間は思った以上に狭いっていうことだよ」
そして僕は本日何度目かの苦笑いをした。
それでも僕たち三人、いや修一を入れた四人は、お互いの連絡先を交換して会場で解散した。意外にも連絡先を交換しようと言い出したのは言乃音ちゃんからだった。恐らく、僕の存在がかなり気になるらしい。もちろん、好意的な意味ではなく……。
帰りの名古屋行きの新幹線を修一と一緒に予約をしていた僕は、会場の撤収作業を手伝い、お誘いを受けたサークルの皆さんにご挨拶をして東京駅と向かった。駅のホームには目的の新幹線が既に出発待ちの状態で停車しており、僕は座席番号を確認しながら修一を探した。案の定、修一は既に座席に着いていた。時間に余裕を持った行動はいかにも修一らしかった。
「展覧会の片づけはもう終わったの?」
荷物を整理して座席に着く間、修一は大学の資料に目を通していた。その落ち着いて大人びた姿は、まるで高校生というよりは、青年実業家という感じだ。
「だから展覧会なんてそんなお堅いものじゃないって。修一も見た通り同人サークルのグループ展に特別参加させてもらっただけなんだから。だから片付けも思ったより早く終わった感じ」
通路を行き交う人が、時折僕たちをしげしげと見てゆく。どう見ても東京でデートをしたカップルが新幹線で帰宅をする……そんな雰囲気にしか見られなかったのかもしない。そんなことを思うと、僕はちょっと心が愉しくなった。
「それより、そっちは? 東京に来る前に名古屋で碧葉ちゃんに会ってきたんでしょ。元気だった?」
修一は顔色一つ変えずに、手元の大学の資料を封筒に仕舞いながら口を開いた。
「それがさ……実は……」
修一のらしくない口調に、僕は嫌な予感を覚えた。
「どうしたの、また調子が悪くなった?」
僕の言葉の意味を察してか、修一は僕の予感を否定するように微笑みながら答えた。
「いや、そうじゃない。凄く元気だったよ。ちょっと変過ぎるぐらいに」
碧葉ちゃんの性格を思い出しながら、自分の嫌な予感が取越し苦労だと分かって僕は心底安心した。
「そっか、じゃあ相変わらずっていうことだね。とりあえず一安心じゃない」
「なぁ、ハル。俺、碧に告られた……」
その修一の言葉に、一瞬、僕は返事ができなかった。それは、修一にとっても、碧葉ちゃんにとっても、決して軽い出来後ではなかったからだ。だからこそ僕は、少しでも会話が重たくならないようにと、少し言葉に気を遣ってみた。
「何それ、今更じゃん。……っていうか碧葉ちゃんに告らせるなんて可哀想過ぎだろ。お前男なんだから、お前から碧葉ちゃんに告白してあげなきゃ」
そんな僕の気遣いを知ってか知らずか、修一は変わらず顔色一つ変えずに冷静だった。
「確かにな……。まぁそれはそれでいいんだけど……想定内の事だから」
修一のその言葉に、僕は正直安心をした。いつもと変わらない修一だと思ったからだ。
「想定内って、相変わらず嫌な言い方するね」
しかし、その僕の安堵した心を裏切るように、修一が言葉を続けた。
「それよりも……」
僕は、再び嫌な予感に襲われた。
「何?」
修一は、窓の外に流れ出した東京駅のプラットホームを見詰めながら、まるで自問するように呟いた。
「碧葉に、子供が欲しいって……子供を作ろうって言われた……」
僕は最初、その言葉の意味がよく理解できなかった。修一と同じ様に、僕も新幹線の窓の外を流れる風景を眺めながら、頭を少し整理するのに時間が必要だった。そして、その言葉の意味を理解し、それを受け止めようと努力したけど、結局、直ぐにはできなかった。
「なんだそれ? なに? お前と碧葉ちゃんってそういう関係にもうなってるの?」
僕は、つまらない事を言った。それでも、そんな冗談でも言わなければ、本当に何を言っていいのか、僕には分からなかった。
「そんな訳ないだろ……」
冷静過ぎる修一の顔が、さすがに怖くなり、気が付けば僕も冷静な真顔になっていた。
「ごめん、笑えない冗談だったな」
「いいよ」
たぶん、修一は僕の戸惑う気持ちを理解してくれていたと思う。だって、僕以上に修一の方が何倍も戸惑っているはずなのだから。
「碧葉ちゃん、たぶん、本気じゃない?」
僕は戸惑いながらも、碧葉ちゃんは本気で修一にその言葉を伝えたのだと確信していた。深津碧葉は、冗談や軽い気持ちでそんなことをいう人間ではない。そしてそのことは、誰よりも修一自身が分っている。
「あぁ、本気だよ」
修一のその言葉は、とても重く、そして深く、僕の心に響いて消えなかった。
名古屋に着くまでの間、久しぶりに修一と二人で話をする時間ができたのに、僕たちは何も話さなかった。何も話さなくても、僕には修一の考えていることが、修一には僕の考えていることが、お互いに分かり合えるような、そんな錯覚をした。それはとても心地の良い錯覚だった。
修一と初めて出会ったのは、中学一年生の夏の終わりだったと思う。その頃、僕は音楽よりも美術の道に進みたいと興味を持ち始めていた。そこで、母の知り合いの美術の先生に、スケッチ、クロッキー、そしてデッサンと美術の基礎を学ぶべく岐阜まで通っていた。岐阜といっても、名古屋の自宅から岐阜市の先生のアトリエまでは電車で一時間程度の距離なので、毎週の気晴らしにもなっていた。
先生のアトリエに通い出して一ヶ月ほどすると、先生から岐阜市の駅前で通行人をクロッキーする課題が出た。クロッキーとは物の動きや流れを素早く描き止めることだ。対象の細部をじっくりと観察し描写するスケッチとは違い、クロッキーは対象の動作や存在感を素早く感じ取り表現することが重要だ。それは音楽やスポーツで言う瞬発力を鍛えるような訓練だったのかもしれない。そして、それと同時に、駅前のベンチに座ってひたすらに通行人をクロッキーする作業に自分自身を没頭させることで、自分が美術の道に進むのだという覚悟を、自分自身や周りに知らしめるための儀式だったのかもしれない。
実際、僕はその時に修一に声をかけられたのだ。
修一は予備校の帰り道だったらしく、岐阜駅のベンチに座り一心不乱にクロッキー帳に鉛筆を走らす僕に興味を持ったそうだ。何故なら、彼女は幼馴染の碧葉ちゃんに、美術が得意な子を探してほしいと依頼をされていたからだった。
深津碧葉……。
碧葉ちゃんは修一の幼馴染で、名古屋の病院で子供の頃から入退院を繰り返していた。いや、正確には、退院して家に居る時間よりも、病院で過ごす時間のが長かったそうだ。碧葉ちゃんは修一、そして僕と同い年で、彼女は詩を書くのが趣味。そして、自分の詩にイラスト付けて詩集を作るのが、あの頃の碧葉ちゃんの目標だった。それで、美術の得意な子を修一に頼んで探してもらっていたのだ。
そしてもう一つ、修一が僕に声をかけた理由は、修一が僕を女の子と勘違いしたからだ。僕が男の子だと分かった時の修一の苦笑いした顔を今でもハッキリと思い出すことができる。
碧葉ちゃんに初めて会った、あの夏の日も、碧葉ちゃんは僕が修一の彼女だと思い込み大騒ぎになった。そして、それが勘違いだと分かると三人で大笑いをした。
そんな記憶も鮮明に思い出せるのに、もう何十年も前の出来事のような気がする。
あの頃は修一も、そして僕も、今とは全く違っていた。
それがまるで遠い出来事のように感じられる。
その一年後、中学二年生の夏に、碧葉ちゃんの様態が悪化し一時は危篤の状態となった。その後、意識は回復したけど、体調が回復するまでに半年ほど要した。もちろん、体調が回復したといっても、ベットの上で起き上がることができる程度の話なんだけど……。
そして、その冬に僕の姉の事件が起きる。
そのことをきっかけに、碧葉ちゃんは僕をとても気にかけるようになってくれた気がする。もちろん同情とかそういうものではなく、人の死というものを真剣に受け止めようとする同志のような、そんな存在に感じてくれたのかもしれない。
そして、僕と修一が高校へ入学する頃になると、碧葉ちゃんの体調は車椅子で病室から出ることができるまでに回復していた。ちょうどその頃だったと思う。碧葉ちゃんから自分をモデルに絵を描いて欲しいと頼まれたのは。大好きな桜の木と一緒に書いて欲しいというのが、碧葉ちゃんのリクエストだった。そして、その絵に自分の詩を書き込んで欲しいと。あのグループ展の作品は、そんな経緯から描かれた作品だった。
碧葉ちゃんはブログで自分の詩を公開していた。何の先入観もなく作品を純粋に読んで欲しいと、碧葉ちゃんは自分の病気のことはブログでは内緒にしていた。自分の想いを言葉にして残す。それが碧葉ちゃんの趣味でもあり生き甲斐なんだと思う。碧葉ちゃんの書いた詩を読んでいると、そんなことをいつも感じていた。それはまるで、自分の命を削りながら言葉に魂を宿してゆく、そんな切なく美しい行為の様に思えた。
そして、そんな碧葉ちゃんの綴ったブログの作品を、修一が一冊の詩集にまとめた。もちろん自費出版である。それでも、ブログの熱心な読者さんが何冊か購入をしてくれた。その読者の一人が、板倉夏美さんと古澤言乃音さんだったとう訳だ。
ほんと、世界は広いようで狭くて、何処かで誰かとちゃんと繋がっているんだなと感心をする。もちろん、何もしなかったらだめだと思う。碧葉ちゃんが命を削りながら綴った言葉だからこそ、この広い世界が手に取れるように小さくなって、何処かで誰かとちゃんと繋がるように……碧葉ちゃんの言葉が世界に響いたのだ。
何もしなかったら、世界は荒れ果てた荒野のままだ……。
名古屋までまだ一時間程あるので、僕はヘットフォンで「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帖より」を再生した。この曲集はバッハの家庭音楽のための音楽帖であると考えられている。音楽という絆によって結ばれた大家族バッハの心温まる家庭が目に浮かぶようで、僕の大好きなアルバムの一つだ。
でもその時はなぜか、孤独にチェンバロを演奏するレオンハルト・グスタフの姿が目に浮かび、そしてその顔が、何故か父の姿と重なっていた。老いた姿で寂しそうにチェンバロを弾く父の姿。やがてそこに、修一に語り掛ける碧葉ちゃんの声が聞こえる。
『私、あなたの子供が欲しいの』
その言葉が何度も、何度も僕の頭の中でこだました。そしてその声が、碧葉ちゃんの声ではなく、姉さんの声に聞こえてしまった時、僕は不意の眠気に襲われて意識を失くしてしまった。
三河安城駅を通過すると、修一が僕を起こしてくれた。
「もう春休み終わるけど、ハルは宿題とか終わってるの?」
修一は僕が女装している時は僕のことを『榛秀』ではなく『ハル』と呼んでくれる。修一らしい優しさというか心遣いだった。
「うぅぅん、まだ……。でも大丈夫」
「本当かぁ? まあ大丈夫っていうならいいけど」
「ほら、美術科の宿題なんて普通科の宿題に比べたらほんの少しだから。普通科の宿題は大変なんでしょ。修一はもう終わったの?」
「とっくに終わらせているよ」
「じゃさ、明日は久しぶりに二人でデートでもしようか?」
僕はふざけて修一の手を、まるで恋人同士がするように握り締めてみた。しかし、修一はそんな僕の悪ふざけには全く動じなかった。
「ごめん、明日は碧葉に会いに行かないと」
「そうか……。そうだよね、学校始まったら、ゆっくり碧葉ちゃんにも会えないもんね。修一、塾とか忙しいし、将来はお医者さんになるんだから猛勉強だもんね」
修一の怒った顔が見たくて、僕は修一をさらに挑発するように軽口をたたいた。しかし、修一の答えはいつも以上に冷静だった。
「いや、碧がやる気満々なんだよ」
「やる気満々って……。なんか、エロ。看護師さんにばれない様に子作りしろよ」
僕は修一が、僕の冗談に笑ってくれることを祈った。そして、その祈りは少しだけ通じたようだった。
「どこがエロいんだ。そんなことする訳ないだろ、馬鹿だな」
そう言って、修一は微笑んだ。その微笑んだ顔を見て、僕は深く安心をし、僕も修一に微笑み返した。今の僕たちにできることは、それぐらいのような気がした。
春休みの終わる直前、僕は学校へ行った。入学式の準備を手伝うためだ。毎年入学式の準備は新二年生が手伝うことになっている。校門の白梅はとうに満開を過ぎてしまっているが、明日は絶好の入学式日和だなと思いながら、僕は校門前の正面玄関を通り過ぎようとした……その時……。
「あんた、本当にその長い髪で登校してるんだ。それも学ランなんか着て」
聞き覚えのある『あんた』呼ばわりだった。振り向くと、そこに声の主はいた。
古澤言乃音!
「なんで言乃音ちゃんがここに?」
「人の名前を気安く『ちゃん』付けで呼ぶな! この変態女装男子!」
言乃音ちゃんは僕の話を全く聞いてなかった。そして、言乃音ちゃんの声は相変わらず凛としてお嬢様らしく、そして、あまりにもよく響く大声だった……。
「あっ、榛秀くん、こんにちは。なんか、学校で榛秀くん見たの初めてかも」
校舎の正面玄関から夏美ちゃんが出てきた。茶封筒に色々な書類を持っているようだ。僕は言乃音ちゃんの姿を見て、とても悪い予感に襲われた。
「あの、言乃音さん、その制服はうちの狩野高校の制服ですよね? それは、コスプレか何かですか?」
僕は自分の予感が現実になるのが怖くて、思わずつまらない冗談を言ってしまった。
「馬鹿じゃないの! 女子高生が女子高生のコスプレしても意味ないでしょ」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
じゃあどういう意味なんだと、僕自身が自分に突っ込みを入れたくなるような意味不明の言動を僕がしていると、夏美ちゃんが恐ろしい現実を口にした。
「言乃音ちゃんね、四月から狩野高校の音楽科へ転入することになったの」
誇らしげに腕を組んで仁王立ちする言乃音ちゃんと、その横で無邪気に微笑んでいる夏美ちゃん。その二人に僕はただただ呆れるばかりだった。
「いやでも言乃音ちゃん。いえ、言乃音さん、それでいいんですか? 言乃音さんって桐明の音楽科だったんでしょ。うちみたいな田舎の高校の音楽科に転入だなんて」
「いいの。どのみち、この手にいいお医者さんが名古屋にいるから」
そう言いながら、言乃音ちゃんは腱鞘炎の右手を指さした。
「それに、この狩野高校の音楽科には左手の名手、舘山先生がいらっしゃるのよ」
さすが、言乃音ちゃんの向上心というか向学心は底なしだなって感心をした。そして、夏美ちゃんへの愛も底なしなんだなと……。
僕は結んで束ねていた髪を解き、髪を左右に軽く振った。それは、少し漫画チックな動作だったなと自分でも思った。そして、さらに漫画チックな言葉を発してしまった……。
「言乃音さん、当分ピアノは左手でしか弾けないんだよね。だったら、ねぇ、夏美ちゃん、僕と連弾で夏のコンクールに出てみない?」
夏美ちゃんは一瞬晴れやかな顔をしたが、言乃音ちゃんの顔を覗き込んですぐに顔が曇ってしまった。言乃音ちゃんは、怒り心頭の表情で唇を噛みしめていたからだ。
こうして僕たちの春休みは終わり、十七歳の新学期が始まろうとしていた。