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桜色の涙  作者: 百音川 魔瑠琥
第一楽章
3/13

第三話 幕が閉じる

 僕は小学校を卒業するまで髪をいつも短くしていた。双子の姉と同じ様に見られるのが嫌だったからだ。僕ら二人は顔も姿形も本当によく似ていて、笑った顔も泣いた顔も瓜二つだと周りから言われた。

中身はまるで違っていたのに……。

 姉は華やかな場所が似合う人だった。僕は逆に人から注目されることがとても苦手で、いつも姉の陰に隠れていた。そして、姉とは違う存在であろうといつも努力していた。何故なら、僕はどんなに背伸びをしても姉には何も追いつけなかったからだ。だから僕は、姉とは違う僕自身に成らなければならなかった。髪をいつも短くしていた理由もその一つだったと思う。

 ところが姉は中学になると髪をバッサリと短く切ってしまった。母譲りの長く美しい髪は姉の自慢の一つだったはずなのに。僕には姉の心境の変化が分からなかった。姉はいつも僕に優しく、僕のことは何でも分かってくれていた。それなのに、僕は本当の姉を何一つ理解していなかったのかもしれない。

 中学になり、姉が父と一緒に家を留守にするようになると、今度は僕が髪を伸ばし始めた。かつての姉の髪の長さよりも長く。そして今では、僕の髪は腰のあたりまであるスーパーロングヘアになってしまった。美容院のカット代がいつも割増料金になってしまう。

 僕はサントリーホールへ向かうメトロの中で、周りの視線を感じながら、そんなことを思い出しながら独り苦笑いをしていた。

 でも、東京っていいな、この格好で街に出ても変な目で見られないから。僕は本来の目的だったイベント会場で着るつもりの、あのドレスを既に着ていたのだ。確かにこの姿は人目を惹く、でも誰一人好奇な目で僕を見る人はいない。それが、とても清々しく気持ちよかった。

 これが、名古屋と東京の違いなのかな……。そして僕は、また苦笑いをしてしまった。


 サントリーホールの前にあるカラヤン広場の人工滝の前で、言乃音ちゃんと夏美ちゃんは既に僕を待っていてくれた。

「あんたね、何よその格好は!」

 思わず周りの人が振り向いてしまうような大きな声で言乃音ちゃんが叫んだ。

「言乃音ちゃん、そんな大きな声出したら恥ずかしいって。榛花さん、凄く可愛いですよ。それ、ゴスロリファッションって言うんですよね」

 夏美ちゃんが言乃音ちゃんをなだめながら僕のドレスを褒めてくれる。きっと二人は、いつもこんな風に仲良く絶妙なバランスが取れているんだなと思い、僕はさらに機嫌が良くなった。

「夏美ちゃん、ありがとうね。言乃音ちゃん、大丈夫だよ。後でちゃんとした姿に変身するから」

 そう言いながら、僕はおどけて魔法少女が変身する時のような仕草を真似てみた。

「変身って、あんたはもう……」

 言乃音ちゃんは少し頬を膨らませ、拗ねている仕草をした。その様子が可愛くて、僕と夏美ちゃんは声を押し殺し存分に笑った。カラヤン広場には、野外コンサートの特設会場が設けられていたり、様々な催しがカラフルに並んだテントの下で開かれていたり、音楽祭の雰囲気を楽しむ人々で溢れていた。

「これが今日のプログラムよ。私達は、この『二台ピアノの部』の一番最初に弾くの」

 言乃音ちゃんが関係者用の音楽祭プログラムを見せてくれた。大ホールで行われる「二台ピアノの部」は午後の最初のプログラム。午前中は小中学生の合唱や吹奏楽が演奏されるらしい。そしてお昼休みが終わると僕達の出番。その後にもう一度休憩が入り、今度はオーケストラによるシンフォニー、そして夜の部はオペラ。なるほど、そこに記された演目は音楽祭に相応しい豪華な内容だった。

 そして、僕はプログラムに記載された実行委員の中に、ある名前を見つけ苦笑いをした。

「どうしたの、何か気になることでもあった」

言乃音ちゃんが怪訝な顔で僕の顔をのぞき込む。

「いや、大丈夫だよ。ただ、ちょっとした保険が掛けられそうかなって思ってね」

「保険ですか?」

 夏美ちゃんも言乃音ちゃんに倣うように僕の顔をのぞき込んだ。

「それよりも、打ち合わせ通りでいいんだよね。後悔しない」

「覚悟はできているわ。それに、これはあんたが言い出したことじゃない」

 言乃音ちゃんの『あんた』っていう言葉に、彼女なりの親しみがこもっているんだなと感じて、僕は少し勇気を感じた。何故なら、僕らが今からやろうとしていることは、とても大それ事だったからだ。


 通常、歌や弦楽器などでは伴奏者が当日に都合がつかず代役となるケースは無くはない。ただし、二台ピアノでは普通あり得ない。演奏者二人が共にソリストのようなものだからだ。さらに今回はコンクールの入賞者記念コンサートを兼ねているのだから、入賞者が何らかの理由で演奏できないのなら、代役を立てるのではなく舞台を辞退するのが正しい選択だと思う。

 だから僕たちは、コンクールの主催者にも音楽祭の関係者にも一切相談せずに決断をした。

 僕が言乃音ちゃんに成りすまして舞台で弾くと……。

 でも実際、「成りすまし」が成功するはずなどない。舞台に立った瞬間、古澤言乃音を知っている人間には、僕が古澤言乃音でないことは直ぐにバレてしまうだろう。ただ幸いなのは、今日の会場で古澤言乃音を知っている人間がどれだけ居るかということ。そして入賞者記念コンサートなら、もしバレても事後報告という言い開き、謝罪でなんとか許してもらえないかなという楽観的な期待……。これがコンクールのファイナルならともかく、もう結果が出た後の記念コンサートなのだからと、僕も言乃音ちゃんも、そして夏美ちゃんも考えたのだ。

 そして、たった今見つけた、心強い保険。

 大丈夫、なんとかなる。僕は自分にそう言い聞かせて、二人と一緒に控え室に向かった。


 控室で言乃音ちゃんは、僕に色々と聞きたそうだったけど、今はそれを我慢しているようだった。舞台の前に余計な事を言いたくないという言乃音ちゃんの気遣い。そして、舞台が終わったら一切合切聞き出してやるという言乃音ちゃんの気迫が伝わる……そんな沈黙だった。

 言乃音ちゃん、その沈黙がすでに僕のプレッシャーなんだけど……と僕は心で呟いた。

 そこへ、舞台衣装に着替えた夏美ちゃんが控室へ入ってきた。

 それは真紅のドレスだった。肩から胸元にかけてバラを模ったアンティーク調の造花がアクセントになっている。それは決して安っぽくなく嫌味でもなく、全身を真紅にそめるドレスに見事に調和していた。

「夏美、ばっちりじゃない。凄く似合っているよ」

「ありがとう。言乃音ちゃんがわざわざオーダーメイドでデザインして作ってくれたお陰だよ」

 はぁ? 舞台衣装を自分でデザインしてオーダーメイドで作ったんですか? 僕は二人の会話を聞いて呆れてしまった。世の中、いろんなバカップルがいるけど、これもそのうちの一つなんだなと……。

「それで、あんたはどうするの?」

 言乃音ちゃんは満面の笑みを一瞬に消し去り、険しい顔を僕に向けた。

「だから、大丈夫だって言ったでしょ」

 僕はドレスのコルセットを外した。白のレースで甘々に縁取られ飾られたそのコルセットを外すと、真っ黒なワンピースがエレガントに広がった。そして、同じように白のレースで甘々に飾られたヘッドセットを外し、髪留めを幾つか外す、髪を結ってミディアムロングだった僕の髪が、本来のスーパーロングへと変わる。ロリータな印象のドレスは、ゴシックな気品漂うワンピースへと変貌した。

「榛花さん、すごく綺麗……」

 夏美ちゃんが思わず、ため息交じりに褒めてくれる。そして言乃音ちゃんは、そんな夏美ちゃんを横目で睨んでいた。

「どう? これなら夏美ちゃんの真紅のドレスとばっちり似合うでしょ」

 僕はそう言いながら、その場で軽くターンをした。黒のワンピースの裾と、僕の髪が円を描くように宙を舞う。控室の壁一面に据え付けられた鏡で僕はその姿を見ながら、僕は自分に言い聞かせた。大丈夫、僕なら大丈夫……。

「分かったから、ほら、私達の練習室の時間、もうすぐだから行くわよ」

 言乃音ちゃんは僕の言葉を無視して段取りを優先してくれた。その無視の仕方が、いかにも言乃音ちゃんらしくて可愛いと思った。きっと、夏美ちゃんも同じように感じているのだろう。


 僕らに割り当てられたリハーサル室の時間は二十分間だった。決して狭くはない部屋に小さめのグランドピアノが二台並んでいる。まず最初に夏美ちゃんが指慣らしをして、そして僕が指を慣らし、そして合わせを一度する。それだけで二十分間は直ぐに過ぎてしまった。

 練習室の廊下に出ると夏美ちゃんが僕に話しかけてきた。

「榛花さん、本当にツェルニー五十番を全部暗譜しているんですか? …っていうか、それだけピアノ弾けるのに……」

 夏美ちゃんが言いたいことは何となく分かった。

「ピアノを止めたのは、ピアノが嫌いだからじゃないんだ。むしろピアノは大好きなんだよ。だからさ、可笑しな話だけど、毎朝必ず一、二時間はピアノを弾くんだ。ハノンとかツェルニーとか、気が向いたらバッハさんとかね」

「平均律ですか?」

 夏美ちゃんが恐る恐る聞く。平均律は音大のピアノ科受験などで必ず弾く課題曲だ。伴奏とメロディーから成る一般的な和声的の音楽とは違い、バッハの平均律はメロディーが何層も積み重なるように構成された多声の音楽だ。和声的な音楽とは違い教会音楽のような神秘的な響きが美しい曲。でも、多声的な曲を弾くには和声的なピアノの練習だけを積み重ねていては弾けない。多声の曲を弾くには多声的なピアノ練習を積み重ねなければ弾けないのだ。だからこそ、ピアノ科の音大受験ではそれが試されることになる。

「平均律は弾くね。頭を空っぽにして弾くには最高だよね」

 夏美ちゃんは何か言いたそうな顔をしていたけど、それをうまく言葉にできないのか、言葉にしていいのか迷っているようだった。

「夏美ちゃん、お料理は好き」

「はい、好きですよ。好きっていうか、得意ですよ!」

 夏美ちゃんの曇った顔が、あっという間に晴れやかになった。

「夏美ちゃん、お料理が好きでお料理が得意で、毎日料理をしている人がいるとするじゃない。でも、その人たちが皆、料理人を志すと思う?」

 夏美ちゃんは戸惑うように返事に困ってしまった。

「それと同じなんだよ。僕はピアノが嫌いじゃない。人よりも少しピアノが上手だと思う。だけど、僕が毎日ピアノを弾くのは、ピアニストを志しているからじゃないんだ。僕にとってピアノを弾くのは、毎日のお料理をするのと同じなんだよ……」

 そう、料理と同じ。人は生きてゆくには、何かを食べるために料理をしなければならない。でもそれは、人が生きる目的とするような事ではない。人はただ生きるために生きているのではないのだから。そう思いながら、僕はそのことは言葉にしなかった。なんだか、その言葉が、誰かの受け売りの様に感じたからだ……。

 そして、そんな僕と夏美ちゃんの会話を、古澤言乃音は、何も言わずに黙って聞いていた。


 舞台袖で、言乃音ちゃんが夏美ちゃんに話しかけている。

「大丈夫だよ。榛花との合わせ練習は全く問題ないから。自信をもって、自分の演奏に集中して」

 言乃音ちゃんが僕のことを『榛花』と呼び捨てにしているのを聞いて、僕の緊張は一瞬どこかへ行ってしまった。言乃音ちゃんが夏美ちゃん以上に緊張しているのがとてもよく判った。舞台に立つ人間以上に、舞台袖でそれを見送る人間のが何倍も緊張することを、僕は何度も何度も経験して知っている。だから今は緊張よりも、思いがけずこんな大ホールで、姉さんと弾きたかったスカラムーシュが弾けることに、深い感謝と興奮を感じていた。

 夏美ちゃんも、言乃音ちゃんが思っている以上には緊張していない様子だった。たぶん、意外にコンクールで舞台慣れをしているのかもしれない。幼く可愛らしい容姿とは裏腹に、その顔は大舞台に立つピアノ弾きに相応しい凛とした顔へと変わっていた。

「私なら大丈夫だから、言乃音ちゃん安心して。私、言乃音ちゃんとピアノを続けてきて本当に良かったと思っている。こんな素敵な舞台で演奏ができるの言乃音ちゃんのお陰だもん」

「夏美……」

「だから、今日の舞台も、言乃音ちゃんと一緒に弾くよ。言乃音ちゃんのピアノはいつも私の中に、ちゃんとあるから」

 そう言うと夏美ちゃんは、言乃音ちゃんを優しく抱擁する。

 その直後、僕たちの出番がアナウンスされた。僕たち三人はお互いに顔を見合わせ、無言で大きく頷いた。そして僕と夏美ちゃんは、舞台の中央へと歩き出した。


 ホールの座席は半分ぐらいが空席だった。皆のお目当てはこの後の帝都フィルの特別演奏会や、夜の部の大澤先生指揮するオペラなのだから。でもそれは僕らにとってはむしろ好都合だった。聴衆の視線を気にせず、純粋にこのホールと向き合えるからだ。ピアノは響きが命。最初の打鍵で、どんな風にホールに自分のピアノが響くのか、それによって無意識にタッチやペダリングが変わってくる。これだけ素晴らしく、そして恐ろしく大きなホール。だけど二台ピアノなら、オケに負けないぐらいにピアノを鳴らし響かせることがでる。

 僕は夏美ちゃんの顔を見た。お互いに小さく頷き、そして練習した通りのタイミングで弾きだす。

 弾きだしてすぐに驚いた、夏美ちゃんのピアノが練習の時とは段違いに鳴っているのだ。タッチが重い。緊張してしまったのかと心配しながら、僕は自分の演奏に集中する。いや、タッチが重いのではない、力強いのだ。ピアノの前に座ると性格が変わる……夏美ちゃんはそんな感じの子だ。正しくは性格が変わるのではなく、隠されていた本性が剝き出しとなる。そんな感じだった。

 一曲目の後半になると、それまでの練習では機械の様に正確だった夏美ちゃんのテンポが少し走るようになってきた。しかしそれは、決して悪いことではない。舞台は一度限りの生き物、練習とは違う。だから、練習の様に弾いては駄目だ。ホールの空気を感じながら、この舞台の空気を体に吸い込みながら、呼吸を自分の演奏に同化させてゆく。いや、自分の呼吸に演奏を同化させてゆく。そしてそれが、ミヨーさんの求める南米ブラジルの生命力溢れるリズムへと昇華されてゆくんだ。

 それでも驚かされるのは、夏美ちゃんのテクニックだ。いや、テクニックというよりは打鍵の持久力だろう。あれだけ力強い打鍵をこの速さのテンポで弾きながら、全くリズムが崩れることがない。

 二曲目に入って、さらに驚かされた。一曲目とは違って今度は見事なレガートがピアノから響き渡ってくる。一曲目の力強い強烈なリズムとは対照的に、ゆっくりと流れるような旋律が見事な対比をなしている。 

僕は言乃音ちゃんの演奏を頭の中で再生しながら、それを再現するように弾いていた。ピアノに関して、それが僕の唯一にして最大の特技だった。そして言乃音ちゃんの演奏のその答えが、こうして舞台で実際に演奏をしていると、本当によく判った。言乃音ちゃんは、夏美ちゃんが本番の舞台でここまで弾けると信じていて、いや、弾けると確信していて、こんな演奏をしていたのだ。その演奏に、今、夏美ちゃんは忠実に応えていた……。

 三曲目、それは奇跡のような時間だった。正直、僕は弾いている時に何も考えることができなかった。そんな気持ちでピアノを弾いたのは、本当に久し振りだった。ピアノは独りで弾くものじゃない。音楽は独りで奏でるものじゃない。そう思った瞬間に演奏は終了した。

 演奏した僕自身はかなり興奮していたが、客席はそれほどでもない様子だった。確かに現実はそんなものだと思う。自分の演奏で聴衆を魅了するなんて、そんな容易くできるようなことではない。それどころか、拍手に交じってひそひそと話す声が聞こえてきた。それを耳にして、僕は夏美ちゃんを見て苦笑いをした。

 僕の傍らに立つ夏美ちゃんは、とても素敵な笑顔だった。だから、その瞬間、僕は夏美ちゃんが言乃音ちゃんの恋人だってことを、一瞬だけ忘れてしまった。

 僕らがお辞儀をして舞台袖に戻ると、言乃音ちゃんはとても複雑な顔をしていた。

「夏美、凄く良かったよ。どうだった?」

 言乃音ちゃんは、明らかに僕を無視して夏美ちゃんに話しかけた。

「うん、最高だった。本当に気持ちよく弾けたよ。まるで言乃音ちゃんと弾いてみるみたいだった」

 その言葉に、言乃音ちゃんの顔が険しくなった。でも夏美ちゃんはそれには全く気が付いていないようで、舞台の興奮からまだ冷めやらぬ顔をしていた。

「さて、それでどうするつもり」

 言乃音ちゃんは僕の顔を見て、まるで僕を責め立てるように問いただした。

「事が大事になる前に、こちらから出向いて謝りに行こう」

 僕がそう言うと、夏美ちゃんもようやく現実の世界に戻ってきた様子だった。

「凄く怒られたりするかな……」

 そう言う夏美ちゃんに僕は小さな声で答えた。

「大丈夫。たぶん、保険が利くと思うから」


 控室に戻ると、怖そうなお姉さんが僕たちを待ち構えていた。そして、お姉さんに連れられて廊下を随分と歩き、ある部屋に案内された。

 そこにいたのは、二人の女性。一人はご高齢の女性で、たぶん、言乃音ちゃんと夏美ちゃんが参加したコンクールに関係した偉い先生なんだと思った。とても優しそうな顔で僕を見ているので、以前に何処かで一度お会いしているような気がした。そしてもう一人の女性は、今回の音楽祭の実行委員会の一人で、室内楽の監修を担当する、泉川まゆ美先生。そう、僕の母……。

これが僕のかけていた保険だった。

(はる)(ひで)、電話で相談をしたいことがあると聞きましたが、これはどういうことか説明してもらおうかしら?」

 母は僕の名前を、珍しく本名で呼んだ。

「ですよね。やっぱり説明が必要ですよね……」

「榛秀? 榛秀って誰? 榛花ちゃん……?」

 夏美ちゃんが困惑した顔をしている。

「そっちの説明も、ちゃんと二人に説明してあげて、榛秀」

 母の言葉に、言乃音ちゃんは僕の正体に気が付いたようだった。

「榛秀って……。まさか、榛秀って榛花のこと!」

 言乃音ちゃんは、驚きと呆れた顔で、せっかくの美人さんの顔が台無しになっていた。そして夏美ちゃんは、全く状況が理解できないような顔をしていた。

「あぁぁぁ……うん、僕、本名は泉川榛秀って言うんだ。ごめんね、実は僕、男の娘なんだ……」

「あんたね……」

 言乃音ちゃんは、いつもの凛とした顔つきに戻って、そして僕を凄い勢いで睨みつけていた。

「そんな、榛花さん、女の子だとずっと思ってたのに……」

 夏美ちゃんは、今にも泣きだしそうな顔をしていた。

 二人ともごめんなさい。本当にだますつもりはなかったんです。ただ、本当のことを話すタイミングが無かっただけなんです。……そう心の中で僕は二人に懺悔をしていた。

「理由は後で聞きますが、とりあえず今回の件は大事にはならないように私の方で何とかします。安田先生もあなた方の話次第では、大目に見てくれるそうですから、どんな事情があったのか、正直に話をしなさい。」

 部屋の奥の席に座る安田先生と呼ばれた女性は、相変わらずとても優しい顔で僕たちを見守ってくれていた。

「ただし、あなた達の先生には、一応のご報告はさせて頂きます。宜しいですね。」

 安田先生とは対照的に、母は厳しい口調でそう言った。

「分かりました。私の先生は……」

 言乃音ちゃんの言葉を遮るように母が早口で言葉を続けた。

「古澤さんの先生は存じ上げています。」

「そうなんですか……」

 言乃音ちゃんは怪訝な顔をしながらも、自分が狭い世界に身を置いていることを知ってか、母の言葉を開き直って聞いていた。

「古澤言乃音さん、あなたの演奏はコンクールで何度か拝聴させて頂いています。お母さんの学生時代と本当にそっくりな演奏ですね」

「母の学生時代の……ご友人なんですか?」

 言乃音ちゃんは、怪訝な顔を一層深めていた。

「お家に帰ったら、お母様に直接聞いてみて。さて、問題はそちらのお嬢さんの方ね……」

「お袋、問題って、そんな言い方……」

「あら、『お袋』だなんて、久しぶりに息子らしい言葉遣いじゃない」

 どうしてそんな言葉を選んでしまったのか、僕自身も戸惑っていた。たぶん、母のことを「お袋」なんて呼んだのは、この時が初めてだったような気がする。そして言乃音ちゃんの僕を見る顔が、とても敵意に満ちていることに、僕は気が付かない振りをしていた。

「さて、板倉夏美さん、あなたの先生はどなただったかしら?」

「えっと、えっと、それは……」

 夏美ちゃんは、とても困った様子だった。でも母のその質問は、僕も気になるところだった。夏美ちゃんは僕と同じ名古屋圏の人間だ。だとしたら、きっと知らない先生じゃないかもしれない。そう思った時、言乃音ちゃんが夏美ちゃんの代わりに答えた。

「夏美には先生はいません。夏美の先生は……」

 そして言乃音の言葉を継ぐように、夏美ちゃんが力強く答える。

「私の先生は言乃音ちゃんです。古澤言乃音さんが私のピアノの先生なんです」

 その言葉を理解するのに、僕も母も、恐らく安田先生も少し時間を必要としたと思う。そして、その沈黙を破るように、夏美ちゃんが話を始めた。

「言乃音ちゃんは私の幼馴染で、私の家は昔からお金が無くてピアノなんて習えなくて、それで……言乃音ちゃんが私にずっとピアノを教えてくれてたんです。小さい頃からずっと、ずっと、言乃音ちゃんが私のピアノ先生なんです」

 僕は素直に驚いていた。本当にちゃんとした先生に一度も師事しないで、あれだけの演奏ができるのかと。そして、それ以上に驚いたのは古澤言乃音という存在。指導者としての経験はそのまま自身の演奏へと昇華することができるといわれるけど、そのことを、僕と同じ高校生で自ら体現できるなんて。

「いや、でも、その……ピアノは家にあるんだよね?」

 僕は、あまりにも驚いたせいか、的外れな質問をしてしまった。しかし、それに対して夏美ちゃんは、きっぱりと言い切った。

「いえ、もちろん有りません」

 もちろんなんだ。僕は思わず苦笑いをしてしまった。

「じゃあ、練習の時にピアノはどうしているの?」

 夏美ちゃんの質問に興味を持ったのは、母も同じだった。

「中学の時は学校の体育館のピアノを、朝だけ一、二時間使わせてもらってます。音楽室のピアノは吹奏楽部が音楽室を朝練で使うので使えなくて……」

 そうかぁ、体育館かぁ! 体育館は音響効果の悪い大ホールみたいなもんだから、そこで自分のピアノの音色をちゃんと響かせられるように毎日練習をすれば……。

「家での練習は?」

 母は畳みかけるように、夏美ちゃんに質問を続けた。

「……紙鍵盤です」

 紙鍵盤! いつの時代の話だ! いや紙鍵盤かぁ……。 僕はすっかりと納得をしてしまった。あの力強いマルカートとレガートが混在するようなタッチは紙鍵盤の賜物なのか。決して鍵盤を抑え込まず鍵盤を確実に打鍵して音の粒をキラキラと響かせる。いや、それだけじゃない……耳だ! 音の出ない紙鍵盤でのイメージトレーニングを積み重ねることで、音に対する感覚が人一倍敏感になっていったんだ。

「あなた、今は高校生よね。今でも学校の体育館で練習しているの?」

 確かに、母の質問はもっともだった。

「はい。中学校が家の近くなので、朝、中学校の体育館で練習をしてから学校へ登校してます」

 母も僕も、そして言乃音ちゃんも、それぞれがそれぞれの思いで深いため息をついた。

「分かりました。夏美さん、あなたには個人的に少しお話がしたいのだけれども、後でお時間を少しだけ頂いてもよろしいからしら」

 僕らは、今回の件を全て包み隠さず母と安田先生に正直に説明した。言乃音ちゃんの腱鞘炎のこと、二人にとって今回の舞台がとても大切な舞台だったこと、そして、代役を僕自身が買って出たことを。そしてその後、夏美ちゃんは母と部屋に残り話をしていた。その間、僕と言乃音ちゃんは気まずい雰囲気で廊下でで待っていた。

「あんた、相当に変わってるわよね。あれだけピアノ弾けるのにピアニスト目指さないなんて」

 相当変わっているのは『男の娘』っていうところじゃないんだと僕は苦笑いをした。

「あの程度に弾ける人なんて山ほどいるし、あの程度に弾けるぐらいじゃピアニストになんてなれないよ。それに言ったじゃない、僕は料理は好きだけど料理人を志したりはしないって」

 言乃音ちゃんは少し呆れた顔した。

「ところで、さっきのあの人、あなたの母親、あれは誰なの」

 その言葉を聞いて、意外に言乃音ちゃんも鈍いんだなと思った。まあ確かに、自己紹介もせずに事情聴取をした母もぞんざいだとは思ったけど……。

「調べればすぐにわかるよ。母のことも、僕のこともね」

 言乃音ちゃんとはとても消化不良の顔をしていたが、夏美ちゃんが部屋から出てきたので、僕らの会話はそこまでとなった。夏美ちゃんは、何故かとてもご機嫌な顔をしていた。

「どうしたの? 榛秀のお母さんに何か言われたの」

 言乃音ちゃんも、夏美ちゃんがどうしてそんなにご機嫌なのか分からずに、かなり戸惑っているようだった。そして何気に僕は言乃音ちゃんに『榛秀』と呼び捨てにされていた。

「あのね、榛秀くんのお母さん、私の高校の先生だったの」

 夏美ちゃんのその言葉を聞いて、言乃音ちゃんも僕も、お互いにそれぞれの意味で絶句をした。

「それでね、私の高校は普通科だけじゃなくて音楽科もあるんだけど、榛秀くんのお母さんはその音楽科の偉い先生なんだって。それで特別に普通科の私でも、朝だけ音楽科の練習室のピアノを使っていいって。もちろん音楽科の人が優先だから、練習室が空いている時だけだけどね。でももし練習室が空いてなかったら、高校の体育館のピアノを使わせてくれるって!」

 僕はその話を聞いて、激しいめまいと頭痛に同時に襲われた。

 そして言乃音ちゃんが、凄い血相で僕を睨み見詰めている。

 僕はそんな言乃音ちゃんに、何も言えず苦笑いで答えることしかできなかった……。


 僕と夏美ちゃん、そして言乃音ちゃんのスカラムーシュは、こうして幕を閉じたのだ。


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