第二話 東京一日目
「夏美が色々とお世話になったみたいでありがとうございます」
そう言って深々と頭を下げる古澤言乃音さんは、お嬢様を絵に書いたような美少女だった。きっと年齢は僕と同い年ぐらいだと思うけど、洗練された服装と他人を軽々しく寄せ付けないような隙のない雰囲気を全身から放ち、そのせいで僕や夏美ちゃんよりも、古澤さんはずっと大人に見えた。
「榛花さん、本当に助かりました」
「いや気にしないで、僕は急ぎの用事が特にあった訳じゃないから。それよりも、夏美ちゃん、古澤さんとのスカラムーシュ、頑張ってね!」
古澤さんは、僕と夏美ちゃんの会話を聞きながら、明らかに不機嫌なオーラを出していた。たぶん、僕が夏美ちゃんの下の名前をちゃん付けで呼んでいることや、そして、二人がスカラムーシュを弾くことを僕が知っていること、そういうのが気になってるんだと思った。付け加えるなら、僕の『僕っ子キャラ』が嫌なのかな……。やっぱり母の言うとおり、古澤さんのような初対面の人の前では、この性格は封印するべきなんだろうか。
そんなことを考えながら、僕は一通りの挨拶をして二人と別れようとした。夏美ちゃんと古澤さんがどんなピアノを弾くのか少し気になったけど、古澤さんとはあまり深く関わらない方がいいかなと思ったからだ。
「じゃぁ、僕は、このへんで失礼させていただきます」
そう言いって、僕がその場を立ち去ろうとすると、意外にも古澤さんから呼び止められてしまった。
「あら、泉川さん、この後はお急ぎの用事でもあるの。もしお急ぎでなければ、近くでご一緒にお茶でもいかがかしら。お礼がしたいのだけれども」
急ぎの用事なんてなかった。お金がなかったから夜行バスで東京に来て、だからこんな早朝に新宿に着いてしまっただけなのだ。それよりも、古澤さん達は二台ピアノの合わせ練習をするんじゃないのかな。そのために二台ピアノ用のレッスン室を借りたって言ってたし。
「榛花さん。そうですよ、せっかくだから一緒にお茶して行きましょうよ」
夏美ちゃんのその言葉を聞いて、古澤さんの顔がさらに険しさを増したような気がした。ここはやはり、古澤さんが思っているであろう僕の夏美ちゃんに対する変な誤解を、わざわざ時間を作って釈明するよりは、このまま二人の前から姿を消す方が得策かと思う。
「あぁでも、ほら、夏美ちゃんと古澤さんは、これから二台ピアノの合わせ練習があるんでしょ。大事な舞台の前の練習を邪魔したら……」
そう僕が言い終わらないうちに、夏美ちゃんが元気に言い放った……。
「そうだ、言乃音ちゃん、榛花さんに私達の演奏を聴いてもらおうよ。私も明日の本番の前に誰かに聴いてもらった方が、ちょっとは緊張しなくなるし」
その言葉に、僕も、そして古澤さんも絶句してしまった。
でも、それ以上に驚いたのは、それに対する古澤さんの言葉だ。
「分かったわ。夏美がそうしたいなら、そうしましょう」
古澤さんは相変わらず険しい顔をしていた。たぶん古澤さんは、『僕っ子キャラ』の変な女が自分の大事な恋人にちょっかいを出したんだと、そう思い込んでいるに違いない。古澤さんは自分の大切なものを全力で守り、自分の欲しいものは全力で手に入れる、そういうタイプの人なんじゃないなかと思う。
そう、まるで僕の姉さんと同じ様に……。
それでも古澤さんが夏美ちゃんの提案を二つ返事で承諾したのは、おそらく、夏美ちゃんの望むことを何でも叶えてやりたいと思う、夏美ちゃんへの古澤さんの優しさなんだと感じた。
姉さんの思い出がフラッシュバックし僕の思考を奪っていると、古澤さんが僕に力強い言葉で話しかけていた。
「ねえ、聞いているの? 本当に今から時間が空いているなら、私達の練習にお付き合いしてもらってもいいかしら」
古澤さんの言葉に我に返った僕は、つい勢いで答えてしまった。
「大丈夫ですよ。今日は急ぎの用事は特に何も有りませんから」
古澤さんが借りたレッスン室は新宿から電車で二十分ぐらいの場所だった。新宿から目的地までメトロで移動する間、夏美ちゃんは一生懸命に楽譜をさらっていた。そして、僕と古澤さんは、なんとも気まずい雰囲気の時間を過ごしていた。
「ねぇ、凄く失礼なことを聞いてもいいかしら」
沈黙に耐えかねたように、古澤さんが僕に話しかけた。
「いいですよ。何でも聞いてください」
古澤さんには小細工は通じない、そう思って僕は既に覚悟を決めていた。
「泉川さん、あなたのお名前、本名ですの?」
古澤さんらしい、なんとも直球な質問だった。でも、その質問は十分に予測できた質問だったので、僕は顔色一つ変えずに答えることができた。
「はい、そうですよ。泉川榛花は私の本当の名前です。何か気になることでもありました?」
僕も同じように、古澤さんに直球勝負の質問を返した。
「ごめんなさい。実は知人で同姓同名の人がいたの。……いえ、知人っていうか、私が一方的に知っているっていうだけなんだけど……」
やっぱり……。この世界は狭いなと改めて呆れてしまった。
「そうなんですか。実は私にも私の名前と同姓同名の知人がいるんですよ。偶然ですね」
僕は半分、いや、ほとんどやけくそになって答えていた。それでも嘘は一言も言っていない。開き直ってある種の余裕を取り戻した僕とは対照的に、古澤さんの顔は何か腑に落ちないそんな表情をしていた。
それでも電車は目的地に着き、僕達は日比谷駅で降りた。駅から地上に上がると、テレビで見たことのある風景が目に飛び込んできた。皇居のお堀だ。それは何だか不思議な感覚だった。新宿に着いた時は自分が東京に居ると実感が湧かなかったけど、でもこうして皇居のお堀を目の前にしてみると、それは自分が想像していた特別な風景とは大きくかけ離れ、とても普通の風景の様に感じられた。
でも逆にその普通さが、今自分が東京に居るというリアルさを特別に強く実感させる。
そして、僕たちの目指す場所は、そのお堀が見える交差点にあった。日比谷オーシャンビル地下一階。そこは、スタインウェイの正規代理店のお店だった。
さすが古澤さんと感心するしかなかった。
古澤さんとお店の店員さんは、どうやら知り合いの様でとても親しく会話をしている。おそらく、その様子から察するに、古澤さんのお宅にはスタインウェイがあるのだろう。古澤さんは、本当に筋金入りのお嬢様なんだなと僕は心の中で苦笑いをした。
そして、レッスン室に案内されて更に驚いてしまった。そこにはなんと、フルコン(コンサート用のフルサイズのグランドピアノ)のスタンウェイが二台鎮座しているのだ。その風景はレッスン室というには、あまりにも豪華で現実離れした光景だった。
「夏美、じゃ少し指慣らししようか」
「うん、言乃音ちゃん」
二人はそう言うと、ツェードゥア(ハ長調)のスケール(音階)を、ゆっくりと丁寧にレガートで弾きだした。そして少しテンポを速くしてゲードゥア(ト長調)。それでもかなりテンポは遅い。このテンポでレガートを弾くことはとても難しいのに、それでも二人のレガートは途切れることなく一筋の音の流れの様に重なっていた。そしてデードゥア(ニ長調)と少しずつ黒鍵を増やしながらテンポが速くなってゆく。それなのに、二人の奏でるスケールは見事なユニゾンとなってレッスン室に響いていた。
二十四調ある音階の最後のデーモール(ニ短調)を弾き終えると、二人はとても満足そうな顔でお互いを見詰め合った。最後はかなり速いテンポになっていたので、二人の顔はほんのりと赤く高揚していた。それが、二人の心をしっかりと結び付けているようで、僕は少し羨ましく、そして懐かしさを感じていた。
ただ、後半、二人の完璧なユニゾンの響きに少し陰りが見えた気がして、少し違和感を覚えた。けれどもそれ以上に二人の友情、いや……、恋人同士の絆に感動してしまい、そのことはあまり気にはしなかった。
「さて、指慣らしは大丈夫だね」
古澤さんが夏美ちゃんを気遣うように、夏美ちゃんの指先を覗き込んだ。
「うん、大丈夫だよ。しっかりと温まった感じ。それよりも言乃音ちゃんは大丈夫? なんだか最後の方で少し……」
「大丈夫、大丈夫。少し指が滑っただけだから」
「ほんと、なら……。じゃぁ榛花さん、今から弾くから聴いてね」
夏美ちゃんはそう言うと、ピアノの椅子から立ち上がり部屋の隅に移動した。
「夏美、まさかお辞儀からするの?」
「だって、本番前のリハーサル練習だよ。お辞儀からちゃんとやろうよ」
嬉しそうに満面の笑みを浮かべる夏美ちゃんの横に、同じように笑顔で、優しく夏美ちゃんを見守る母親か姉の様に、古澤さんは立っていた。二人のお辞儀は、まるで何年もかけて練習したように、お辞儀のタイミングや角度だけでなく、その息遣いさえもがピッタリと合っていた。
そして、二人はピアノの前に座り、ゆっくりと目を合わせ、そして演奏が始まった。
「スカラムーシュ」はダリウス・ミヨーが作曲した二台ピアノのための曲。第二次世界大戦の直前に書かれたこの曲は、ジャズの影響を受けたミヨー独特の世界観に、南米音楽をイメージしたブラジル民謡のシンコペーションのリズムが随所に活かされた曲だ。
全三曲の構成で、演奏時間は通常十分ほど。その十分間、主旋律が二人の奏者の間を目まぐるしく行き来する。見た目の華やかさとは裏腹に、軽快なリズムと複雑に絡み合う旋律が寸分の狂いもなく流れていかなくてはならないので、一瞬の遅れが命取りとなる。
曲が始まり驚いたのは、夏美ちゃんの変貌ぶり。
一曲目は三部形式で、冒頭の第一主題はフォルティシモで力強く始まる。半音階的な細かいパッセージには流れるような運指が必要不可欠だが、しかし同時に、一音一音を芯のある音で弾くために手首や腕に頼らない指の筋力も必要となる。
そのミヨーの要求に、夏美ちゃんは見事に応えていた。驚いたのは、そのリズムの正確さだ。まるで体内にメトロノームがあるように、曲の雰囲気や自分自身の気持ちに流されず、機械の様に正確にリズムを刻んでゆく。でも、それでいて、そこから打鍵される音の響きは少しも機械的ではない。ミヨーさんが表現したかった人間らしい生命力の宿った鼓動。
第二主題は少し落ち着いた雰囲気になる。
古澤さんの演奏は、夏美ちゃんとは対照的だった。いや、夏美ちゃんと対照的というより、夏美ちゃんの凄さを超えていた。夏美ちゃんと同じ様に正確なリズムを刻み、正確に旋律を奏でる。しかし、聴く人はそれを正確だとは感じない。まるで生き生きと自由奔放に弾いているように感じる。しかし決して自分勝手に気ままに弾いている訳ではないのだ、それではアンサンブルにならなくなってしまう。それでも、そう感じさせる表現力が古澤さんにはあった。
ところが、第二主題の再現部に近づき激しい連打音が登場し、そして第一主題が登場すると、冒頭で弾けていたはずの細かいパッセージが僅かに弾けていない……音の芯が微妙に抜け始めているのだ。それはミスタッチではなかった。古澤さんは楽譜通りにちゃんと演奏している。なのに、この違和感は……。
二曲目の緩徐楽章が終わり、三曲目の三部形式の曲が始まる。サンバのリズムでシンコペーションが多い。しかも曲を通して和音を弾き続けるので手には相当の負荷がかかる。
僕は迷った、ここで演奏を止めさせるべきか。そう思った瞬間、夏美ちゃんの演奏が止まった。
「言乃音ちゃん、どうしたの? 今日の言乃音ちゃん、なんか絶対に変だよ」
古澤さんは、じっと楽譜を見ながら答えた。
「大丈夫。ちょっと調子が出ないだけだから……」
それは嘘だと直ぐに判った。でも夏美ちゃんにはその嘘が何なのか分からないようで、とても心配で不安な顔をしている。僕はその嘘が何を意味しているかおよその検討が付いていた。ただ、それを言うべきかどうかずっと悩んでいた。連弾は二人の個人的な関係がとても大切だ。明日が本番だというのに、僕が軽々しくと口を出すようなことではない。
ただ、それでも、僕は余計なことをしてしまった。
「古澤さん、明日のお二人の演奏が上手くいくか、手相を見てあげましょうか。僕、手相占い得意なんですよ」
僕は古澤さんに自然と近づき、そして古澤さんは左の掌を差し出した。
「知ってました? 未来の運勢を占うのは右手のがいいんです。右の掌を見せてもらってもいいですか?」
僕がそう言うと、古澤さんは恐る恐る右手を差し出した。そして僕は、ごく自然に古澤さんの右手首を軽く握った。そして、指先で手首の筋を軽く押さえた……。
「痛い! ちょっと何するのよ」
その大きな叫び声に夏美ちゃんは驚いた顔をし、そして古澤さんはしまったという顔をした。
「これ、腱鞘炎ですよね。いつからなんです?」
古澤さんは、自分の右手首を見詰めたまま、何も答えなかった。
「今朝、夏美ちゃんをお迎えに来るはずだったのに急用で来れなくなったって言ってましたよね。あれ、痛み止めの処置をするために病院に行かれたんじゃないんですか」
「そうなの、言乃音ちゃん? 腱鞘炎って……」
ピアニストを志す学生にとって、腱鞘炎は程度の差こそあれ誰もが経験するものだ。本気でピアニストを目指すなら一日五時間から六時間はピアノに向かう。真面目に懸命に頑張れば頑張るほど腱鞘炎になる確率は高くなる。腱鞘炎自体はそれほど深刻な病気ではない。けれども問題はそれを甘く見て放っておいたり、ちゃんと手を休めず治療を怠ったりした時だ。真面目で熱心な人ほどその落とし穴にはまってしまう。恐らくそんな事は、古澤さんぐらいのピアノ弾きなら百も承知なはずなのに……。
「大丈夫、明日はちゃんと弾けるから。明日までにはなんとかするから」
古澤さんは、力強く夏美ちゃんの目を見返したが、その表情は、意固地になって冷静な判断ができていないような感じだった。僕と同じ様に、それを夏美ちゃんも感じていた。
「でも、言乃音ちゃん、無理したら……」
夏美ちゃんは、今朝と同じ様にまた大きな瞳に涙を溜めながら泣きそうな顔をしていた。
「夏美、明日は私たちにとって特別な舞台なんだよ。だから大丈夫。私を信じて」
僕は、たまらずに口を挿んでしまった。
「古澤さん、僕も明日の舞台は辞退された方がいいと思いますよ。古澤さんなら何とかしちゃうかもしれませんが、でも、その代償はきっと大きくついてしまいますよ。それに、そんな状態で夏美さんと舞台で弾いても、きっと、後悔するだけですよ」
「後悔ですって! ちょっと貴女ね、私の……私たちの何を知っているというの? 明日の舞台が私たち二人にとってどれだけの意味があるのか、何も分かっていないような人が口を出さないで」
「そうですね。確かに私には明日の舞台の意味なんて何も分かりません。でも、腱鞘炎の怖さなら知ってますよ。今ここで右手を本当に故障したら、これから半年、場合によっては一年はピアノが弾けませんよ。その意味、分かりますよね」
ピアニストを本気で志すものにとって、一年も鍵盤に触ることができなくなるのは致命的だ。とくに僕ら高校生にとっての一年はあまりにも大きい。楽譜をさらう機会が減るだけでなく、一年の間で失ってしまった指先の感覚を取り戻し鍛え直すのに、更に時間を要するからだ。たとえどんな理由があるにせよ、古澤さんが一時の感情に流されて、大切な判断を誤るのを僕は見ていられなかった。
しかし……。
「明日はね、サントリーホールで弾くことになっているの」
古澤さんのその言葉を聞いて、僕は意に反して心が少し躍ってしまった。
「そうなんですか。あそこの小ホールって室内楽、二台ピアノやるにはちょうどいいですよね」
「何言ってるの! 小ホールじゃないわよ。大ホールで弾くのよ!」
古澤さんの怒った声が、レッスン室にこだました。僕も、あまりの驚きに言葉が出なかった……。
「私達、明日はコンクールの入賞者記念コンサートに出るの。でもそれが、今サントリーホールで開催されている音楽祭の一環として開かれるのよ。それで、音楽祭のスケジュールの都合で、運良く大ホールで演奏ができることになったの。わかる、この意味が! これは、私と夏美が今まで積み上げてきた集大成となる舞台なの」
冷静に語り出した古澤さんの言葉は見事なクレッシェンドを奏でるように興奮を増し、最後はまるで消えることのないフォルティシモのように部屋に響いていた。そして、そこに夏美ちゃんのすすり泣く声が、小さく、小さく、重なる。僕たち三人は、しばらく無言だった。誰が何を言えばいいのか、誰も分からなかった。
「古澤さん、夏美ちゃんから聞きましたが、お二人はお付き合いをしているんですよね」
僕の突然の言葉に、古澤さんは明らかに動揺した。その動揺した顔が、なんだか夏美ちゃんと似ていて、少し微笑ましく感じた。だから僕は、僕の思っていることを正直に話そうと思った。
「もし、古澤さんがこれからも夏美ちゃんとお付き合いを続けていく気があるなら、きっと、お二人ならまた大舞台で一緒に演奏するチャンスがありますよ。人間、生きていれば、想いが通じ合っていれば、奇跡は何度でも起こるはずですから……」
そう言葉にしながら、僕はなんて恥ずかしいことを言っているんだろうと思った。でもそれは、僕自身が経験し感じた、嘘偽りのない言葉だった。だからなのか、僕の恥ずかしい言葉は、ほんの少し、古澤さんの心に響いたのかもしれない。
そして、僕は言葉を続けた……。
「大丈夫です。明日は古澤さんの代わりに、僕が演奏します」
「あなたね、何考えてんのよ! 私たち二人が舞台に立たなかったら、意味がないでしょ!」
古澤さんの怒りは頂点に達しているようだった。それはその通りだと思う。でも、サントリーホールの大ホールで演奏するという経験を、きっと古澤さんは夏美ちゃんに経験させてあげたいんじゃないのかなって思った。だったら、古澤さんのためにも、夏美ちゃんのために、僕にできることで役に立つならお手伝いをしたい……そう思ったのだ。
「榛花さん、お気持ちは凄くうれしいけど、今から二人で練習して間に合うような曲じゃないから……」
夏美ちゃんは、相変わらず目に溢れんばかりの涙を溜めていた。古澤さんは、なんとなく僕の意図することを分かってくれそうだったけど、それでも夏美ちゃんと同じだった。
「そうよ。あんたこの曲弾いたことあるの? ぶっつけ本番で合わせられるような曲じゃないんだから」
古澤さんには、とうとう『あんた』呼ばわりされてしまった。僕は今日何度目かの苦笑いをしながら、二人の言葉が聞こえないふりをしてピアノの椅子に座った。
まずは僕も指を温めなきゃ。僕は目をそっと閉じ、鍵盤に指を置いた。
「じゃ僕も、少しだけ指を温めさせていただきますね」
そう言うと、僕は鍵盤に指を走らせた。音階のパッセージを三度、六度、十度の音程関係で弾いてゆく。三度、六度、十度のハーモニーを感じながら、十六分音符を均一に揺らぎなく揃える。手首の力を抜き、指先だけに集中する。
あぁ、鍵盤が軽い。フルコンなのになんて鍵盤が軽いんだろ。そして、よく鳴る。音響が限りなくデッドに作られたレッスン室だからなのか、ピアノの弦がハンマーによって弾かれるその響きがそのまま耳に伝わってくるようだ。
僕は鍵盤から指を離すと、夏美ちゃんの方に顔を向けた。指の感覚が少しピアノモードになってきたので、心が少し浮かれてきたようだ。
「夏美ちゃん、一から五十の中で好きな番号を一つだけ言ってみて」
夏美ちゃんは僕の言葉を全く聞いてなかった。
「榛花さん凄い。今のツェルニー五十番の五番ですよね。今の速さ、楽譜の指定テンポのまんまじゃないんですか?」
凄いのは夏美ちゃんの方だと僕は思った。今のがツェルニー五十番の五番って分かるっていうことは、ちゃんとツェルニーを勉強しているっていうことだから。僕は夏美ちゃんの問いには答えず、そのまま笑顔で番号を催促した。
「なら、二十一番で……」
さすが夏美ちゃん。夏美ちゃんの意図することはよく分かった。五番が音階を主とした練習曲なら、二十一番はアルペジオ(分散和音)を主とした練習曲。五番の後に二十一番とは、しっかりとした先生にちゃんとピアノを師事しているんだろうなと分かる。
五番と同じ様に、三・六・十度のハーモニーを感じながらアルペジオを弾き続ける。手首を柔らかく回転させながら腕の力も抜いてゆく。まさに、アスリートが準備運動として柔軟体操をするのと同じ感覚だ。
せっかく指が温まってきたので、僕はもう一曲だけ弾きたかった。
「古澤さん、古澤さんも一つだけ番号を言ってください」
「あんた、五十番全部暗譜してんの? 馬鹿じゃないの?」
古澤さんの言葉は、いよいよ容赦がなくなってきた。でも僕は、それが何だかとても心地よく感じた。僕の心は、僕の指先と同じ様に、久しぶりに温まりだしてきているのだ。
「さぁ早く、番号を一つだけお願いします」
「なら四十七番……」
なるほど、古澤さんらしいなと思った。
四十七番は右手を三十二分音符で刻みながら、左手は八分音符で刻むシンプルな形だ。しかし調号の多さがこれを難しくする。黒鍵と白鍵で指のバランスを崩さないように右手は正確にアルペジオを刻み続ける持久力が要求され、左手は素早い跳躍の移動が必要になる。そして何より、右手のアルペジオによって導かれる和声の進行の中で、時折そのアルペジオに含まれるメロディーを歌えるかどうか。メロディーらしいメロディーがない練習曲をいかに音楽的に弾けるかが重要な課題となる一曲。
「榛花さん、凄い! やっぱり榛花さんもピアノ弾きさんだったんですね!」
夏美ちゃんが嬉しそうに言う。さっきまでの泣きそうな顔はどこかへ行ってしまったようだった。でも残念ながら、僕はピアノ弾きじゃない。今だけピアノ弾きに戻ろうとしているだけなのだ。だから時間が惜しかった。
「二人で演奏した録音ってある? あったら聴かせて欲しいんだけど」
「ありますけど、ちょっと古いですよ。数か月前の譜読みが終わったばかりの頃だから」
「最近の録音はないのかぁ……」
「私のパートだけなら録音したのたくさん有りますよ。あと、言乃音ちゃんパートだけのも」
なるほど、遠距離で連弾練習するにはそんな工夫の仕方もあるのかと関心をした。お互いが自分の演奏を録音して、それを聴きながら練習をする。なるほど……。
「いいよ。それ聴かせてもらえる」
運のよいことに夏美ちゃんのパート録音は、古澤さんのスマホに入っていたので、それを簡単に僕のスマホで共有することができた。古澤さんのパート録音は、夏美ちゃんから録音が入ったプレイヤーをそのまま借りた。
「じゃぁ、ごめん、今から二十分、ううん、三十分だけ時間を貰っていいかな。あと、楽譜も借りていい?」
「勝手にすればいいわ。ここのレッスン室は夕方まで押さえてあるから。時間は気にしなくていいから……っていうか、あんた、本当に三十分で何とかなると思っているの」
「大丈夫です。僕もこの曲、中学生の頃に姉とよく弾きましたから」
「中学生の頃?」
夏美ちゃんと古澤さんは、僕の言葉が冗談なのか本気なのか判断できないようで戸惑っていた。そんな二人をレッスン室から追い出すようにして、僕はピアノの前に座り直した。
深く深呼吸をして、楽譜をめくる。そこには、懐かしい音型が並んでいた。
僕だって馬鹿じゃない。初対面の人とスカラムーシュを大舞台で一緒に弾くなんて無謀だって分かっている。でも勝算はあった。それは、夏美ちゃんの恐ろしく正確なリズム感、そしてテンポ感だ。そして二台ピアノなら暗譜で弾く必要はないから、楽譜を暗記する手間は省ける。
僕はまず楽譜をさらった。姉さんの思い出が時折脳裏にフラッシュバックしたけど、今はそれを気にしないだけの集中力を発揮することができた。一通り楽譜をさらうと、次に言乃音ちゃんの音源を聴く。
古澤言乃音……。
僕は彼女の音源を聴きながら、鍵盤の上で指を動かす。ただし鍵盤は打鍵しない。彼女の演奏を、彼女の音の響きを、音色を、リズムを、イメージする。イメージしながら、それを指先で、手首で、腕で、体でコピーする。その後はスマホをレッスン室に備え付けてあるオーディオに接続して、スピーカーから流れる言乃音ちゃんの演奏と自分の演奏がシンクロするように実際にピアノを弾いてみる。そして最後に、夏美ちゃんの演奏を同じようにオーディオで再生をして、僕の演奏と夏美ちゃんの演奏とで一つの曲として仕上がっているかを確認する。
時計を見ると、あれから四十分が過ぎていた。三十分間だけといいながら十分オーバーするなんて格好悪いなと思いながら、扉の方に目をやると、そこに夏美ちゃんと言乃音ちゃんが居た。
「あれ、いつからそこに居たの?」
僕は本当に全く気が付かなった。それほど集中していたってことかな……。
「最初から居たわよ。それより、あんた、何者なの?」
「言乃音ちゃん、そんな物騒な言い方、いやだなぁ」
「あんたね、勝手に下の名前で呼ばないでよ!」
そう言われて、僕も驚いた。ほんとだ、古澤さんのことを自然と下の名前で呼んでいた。でもなんだか、それがとっても可笑しくって、僕は急に笑い出してしまった。きっと、極度の集中状態で理性がおかしくなっていたのかも知れない。
「ごめんなさい。でも、ほら、僕のことも下の名前で呼んでかまわないから。ねっ、言乃音ちゃん」
僕はいつも母親が僕にするように、不敵な笑みを言乃音ちゃんに投げかけてみた。
「そうだよ、言乃音ちゃん。榛花さん、もうお友達なんだから」
そう言って夏美ちゃんも笑い出し、不機嫌な顔の言乃音ちゃんを置き去りにして、僕と夏美ちゃんは次第に大きな声で腹の底から笑い出した。何も考えずに感情をむき出しに笑う、僕にとってそれは本当に久しぶりのことだった。
「さっ、とりあえず弾いてみよう」
僕はそう言うと、もう一度椅子に座り直そうとした。
「ちょっと、ちゃんと答えなさいよ。あんた、何者なの?」
言乃音ちゃんの真面目な問いかけに、さすがに夏美ちゃんも少し沈黙してしまった。しかし僕は、そんなことを気にしている暇はなかったので、言乃音ちゃんと同じ様に真面目に一言だけ答えた。
「大丈夫、安心して。決して怪しい者じゃないから。あとで、ちゃんと説明するから」
自分から怪しい者じゃないと言うなんて、余計に怪しさを増してしまったかなと思いつつ、今はこの集中力を切らしたくなかった。それを言乃音ちゃんも感じていたのか、それ以上は何も言わなかった。
僕と夏美ちゃんの合わせ練習は、結局、レッスン室を予約した十七時ギリギリまで行われた。本当は言乃音ちゃんがお店の人にお願いして二十時までは使わせてもらえそうだと言っていたが、さすがにそこまでは僕も夏美ちゃんも、集中力が持ちそうになかった。僕は、そんなハードな練習をしているから腱鞘炎になるんだよ言乃音ちゃんと心の中で呟いたけど、それは言葉にはせず心の中に留めておいた。
「じゃぁ、明日は直接会場に待ち合わせでいいのね」
言乃音ちゃんが僕に念を押した。
「ごめん、さすがに僕も東京に来た本当の用事があるから。でも、ちゃんと時間には間に合うように行くから」
「本当の用事って何よ。どうせ下らない用事なんでしょ」
なんか、言乃音ちゃんは今朝会った時のお嬢様キャラと随分と違っていた。いや、お嬢様なんて本当は皆こんな感じなのかなって思ったりもしながら……。
「榛花さん、本当に一緒に食事する時間ないんですか?」
夏美ちゃんが名残惜しそうに言う。
「本当にゴメンね。この後、本当に用事があるんだ」
「本当、本当って、何が本当よ。だいたい、あんたが何者なのか、まだちゃんと話聞いてないんだからね」
僕は、今日何度も繰り返している苦笑いをするしかなかった。
「大丈夫、明日ちゃんと話すから。そうだ、明日は舞台終わったら二人とも時間ある?」
夏美ちゃんと言乃音ちゃんは二人で顔を合わせ、そして少し頬を赤くしながら大きく頷いた。
「時間なら大丈夫ですよ。私は明日も東京に泊まっていく予定ですから」
それは『私は東京に泊まる』んじゃなくて、『私は言乃音ちゃんと東京に泊まる』っていう意味なんだってすぐに分かった。でもそんな野暮ことを言って言乃音ちゃんの機嫌が悪くなってしまっては大変なので、それも言葉にはせず心の中に留めておくことにした。
「じゃ明日は、舞台が終わったら、二人とも僕に付き合ってね。」
僕はそう言って、メトロの改札口で二人と別れた。
その後、僕は本来の用事を済ませ、僕の長い長い東京一日目が終わった……。