第十三話 エピローグ ~ 合唱曲「桜色の涙」~
見上げると、そこには真っ白な空がどこまでも広がり、その空の下には真っ白な草原が同じ様にどこまでも広がっていた。そして地平線の先で交わる空と草原は、その境界が何処にあるのか分からない様に溶け込んでいる。
ここは不思議な感覚の世界だった。
いや、不思議な感覚だと思うべきはずなのに、私にはその感覚が無かった。その風景は私にはとても自然で、とても美しく、そしてとても懐かしく感じられたからだ。
見渡す限りの草原は私の心をとても穏やかにしたが、その風景の中で私の好奇心を掻き立てるものが一つだけ存在した。それは、どこまでも広がる真っ白な空の下の、何も無い真っ白な草原に存在する唯一の人工物だった。
草原を渡る風に導かれるように、私はその人工物へと歩いて行く。
いったい、どれだけの距離を歩いたのだろうか。
いったい、どれだけの時間を歩いたのだろうか。
この世界には距離や時間の感覚が存在しなかった。いや、正確には私自身にその感覚が失われていたのかもしれない。どちらが正しいのか、私にはそれを確かめる術はない。
やがて、その人工物は建物であることが分かった。しかし私は、どれだけ歩いてもそこに辿り着くことができない。その建物に確実に近づいているはずなのに……。
その建物はまるで教会の様な建物だった。私はこれに似た建物を知っている。いや知っているだけでなく、実際に訪れたことがある。でもそれが何時の出来事で、それが何処に在ったのか全く思い出せない。
私が教会の様な真っ白な建物に辿り着くと先程の疑問の一つが解決した。目の前まで近づいているはずなのに、どうして歩いても歩いてもここへ辿り着くことが出来なかったのか。それはこの建物が私の予想を遥かに超えて巨大だったからだ。
それはまるで山の様な高さと大きさだった。それは決して例えではない、文字通り山そのものだった。教会のようなお城、お城の様な山……「山の様な教会みたいなお城」……それが一番適切な表現なのかもしれない。
そしてそれは、どうやら駅舎の様だった。何故なら、それまで全く気が付かなかったけれど、その建物の目の前に、建物の中、そこら中に真っ白なレールが敷かれているからだ。
私はその建物の中に足を踏み入れた。
その建物は木の柱、石の壁でできていた。大理石の様な真っ白な美しい石の壁と床、そして高く高くそびえ立つ無数の木の柱。まるで森の中に居る様な錯覚に陥る。でもそれが錯覚であると気が付くのは、その柱が美しい幾何学模様を織りなしているから。
そして一番驚くべきことは、この建物には天井が無い。いや、正確には天井が見えない。あまりにも天井が高すぎて目視できないのだ。
天井の代わりに目に飛び込むのは、無数のステンドグラスだった。外から見たときには判らなかったけど、この建物には無数のステンドグラスがはめ込まれていた。
白い花。
小さな動物。
幼子を抱く母親。
それは、私がかつて居た世界で「美しい」とされていたものたち……。
「いらっしゃい。やっと来たのね」
その声は私の背後から聞こえた。それはとても優しく美しい声だった。この建物には美しいものしか存在できないのだろうかと、私は皮肉っぽく笑った。
そして直後に私は驚いた。その声に対してではない。皮肉っぽく笑った自分自身に対してだ。私の中に皮肉を感じる心が宿っている。いや、心が戻りつつある……。
「ずっと、あなたのことを待っていたのよ」
私はゆっくりと、その美しい声の主の方へと振り返った。ステンドグラスから差し込む明かりが、その少女の真っ白い服を淡く彩っている。私は彼女が一瞬天使ではないかと錯覚した。でもそれが錯覚であるとすぐに気が付く。だって、たぶん、私の知っている天使は車椅子には乗っていない。
「初めまして。私の名前は深津碧葉。かつてそう呼ばれていた存在よ」
「私は……私の名前は……」
「まだ自分の名前が思い出せないのね。でも大丈夫よ、自分の名前を知れば、全てを思い出すはずだから。だって、名前は本当に大切なものなんですもの。その人がその人自身であると知らしめる唯一の証。他人に対しても自分自身に対してもね……」
彼女は、そう言って優しく微笑んだ。その優しさと美しさは、とても可憐で儚く危うい美しさだった。でも、それなのに、彼女のその存在感にはどこか絶対的な何かを感じる。
「私の役目はね、あなたに、あなたの名前を伝えることなの」
そう言って彼女は私に近づき、私の手をそっと握った。
「あなたの名前は、泉川榛花よ」
彼女がその名前を告げたとき、何処からか音楽が流れてきた。それはまるで高い高い天井から降り注ぐように、真っ白なこの大きな建物全体に静かに響き渡り始めた。
けれども、それだけだった。
相変わらず私は、私が誰なのか思い出すことが出来ない。
「とても素敵な曲ね。この建物にとっても相応しいわ。この曲は何ていうの」
私は不思議なことに、その曲の題名も作者もすぐに思い出すことが出来た。
「これはバッハ作曲のヨハネ受難曲よ」
「そうなんだ。だからこの建物もまるで教会みたいな建物なのね」
私は彼女の言っている意味がよく理解できなかった。
「それにしても、この建物は本当に大きいわね。あなたの想像力は本当に……何ていうか……規格外な感じよね」
彼女はそう言って私の顔を見ると、可笑しそうに微笑んだ。きっと、私が彼女の言っていることを理解できていないことを楽しんでいるのだろう。
「この世界はね、あなたが形作った世界なの。もちろん、あなたは形を整えただけで、あなたがこの世界を創造したっていう意味ではないわよ。ここはね、無限の回廊なの。ここには過去と未来、異世界に平行世界、文字通り全ての世界を無限に結ぶ交差点みたいな場所らしいの。『らしい』なんて曖昧な説明でごめんなさいね。私だって実はあまりよく理解できていないのよ」
私はぼんやりとした頭で、彼女の説明をただ黙って聞いていた。
「でもね、理解なんてしなくていいのよ。頭でわかろうとしなくても、自然に体がそれを教えてくれるから。だってほら見える、あそこを歩いている親子はきっと私達の言葉でいう中世のヨーロッパの人よ。お父さんは血糊が付いた甲冑を着てるでしょ。子供は……子供なのにあんな大剣を引きずって。きっと、私達には想像もできない世界を生きてきたのね……。でもほら、向こうには幸せそうな老夫婦が歩いている。その隣には若い恋人同士もいるし、その向こうには……」
私は彼女の言っていることが全く理解できなかった。何故なら彼女の見えているだろうものが、私には全く目にすることが出来ないからだ。
「あなたは本当に凄いのね……」
彼女は私の顔を改めて見直すと、先程とは打って変わってとても物悲しい顔をしていた。
「ここはね、無限の回廊って言ったでしょ。でも無限だからこそ、ここに存在するものには形が与えられていないの。だからここに存在するものを私達が視覚的に認識するには自分自身でその存在を形作らないといけないの」
「じゃ、この真っ白な建物も、建物の外の真っ白な草原も、全部私が想像して作ったものっていうの。こんな馬鹿みたいな巨大な建造物を……」
「そうよ。ほんと馬鹿みたいに大きいわよね。それに、あなたには見えていないのかもしれないけど、ここには大勢の人たちが集まり始めているのよ。たぶん、もう何千人、いえ何万人っていう人が居るわ。みんな、この無限の回廊を通って、自分の向かうべき場所に向かうのよ。……私も、あなたも」
私はやはり、彼女の言っていることが理解できなかった。この世界はつまり、現実とあの世の狭間、それとも天国と地獄の分かれ道、……三途の川が流れる彼岸の国とか?
「どれも正解で、どれも正解ではないわ」
彼女は明らかに私が考えていた疑問に答えていた。私が不思議そうに彼女を見詰めると、彼女はまた可笑しそうに微笑みながら、私にこう答えた。
「気にしないで。私はね、もうすぐ形を持たない存在になるの。それはつまりね、何にでもなれるし、何でも分かるっていう存在なの。だから、こうしてあなたの手を握っていると、今の私ならあなたの考えていることぐらい、文字通り手に取るように分かるのよ」
そう言って彼女は、私に優しく微笑みかけた。
「私はね、あなたに会う前に、実は何人かの人に会ってきたの。その人達がそれぞれ形作った無限回廊でね。ある人にはその人の名前を教えてあげたり、ある人には名前を告げずにその人が向かうべき場所を案内したり。でもね、榛花さん、こんな壮大で素敵な無限回廊、私は初めて見たわ。あなたは本当に特別な人なのね」
「私が特別なの?」
「そうよ、あなたは特別よ。私もね、かつては自分の想いを言葉に綴っていたの。自分の生きた証として、自分の感じた苦しみや悲しみ、悩みや嘆き、そして幸せや希望、それらを言葉に託してね。だから私の無限回廊も、それなりに素敵だったのよ」
彼女はそう言って、私の手をぎゅっと握りしめた。
「でもね、私が心血を注いで紡いだ言葉よりも、やっぱり、あなたが創造してきた音楽の世界の方が、より深く、より広く、そして、より大きかったのね」
「この無限回廊は、生きていた頃に何をしたかによって、形作られるものが影響を受けるっていうこと」
「分かりやすく言うと、そういうことだと思う。まあそれも、私の個人的な解釈なんだけどね。だってさ、そうでなきゃ他に説明がつかなくって。ごめんね、曖昧な答えで」
そう言うと、また彼女は優しく微笑んだ。
私には、どうして彼女がそんなに優しく微笑むことができるのか不思議だった。
「えっと、お名前はなんでしたっけ」
「……私の名前は、えっと……そう、私の名前は深津碧葉よ。ごめんなさいね、もう私にも時間が残されていないの。私が私という個人を認識できるのは、本当にあと少しの間だけなのよ。だから私が私でいられる内に、あなたを導かなくてはいけないの」
「どこへ? 私を何処へ導くっていうんですか? 深津さん」
「碧葉でいいわ。そう呼んでくれない。……お願いだから」
「わかりました、碧葉さん。碧葉さんは、私を何処へ導くっていうんですか」
「それは簡単よ。あなたが向かうべき場所。あなたが戻るべき場所よ」
「なんか、あっけなかったな」
「修一さん、お葬式なんて、そんなものですよ。人の死なんて、お葬式なんかで実感できるものじゃありません。これから少しずつ、実感していくんです。毎日の生活の中で、少しずつ、少しずつ……」
「夏美、それぐらいに……。ごめんなさい修一さん、夏美が変なこと言って」
「いいんだよ、古澤さん。板倉さんの言う通りだと思う。それにね、碧葉の死は突然じゃなかったしね。現実とちゃんと向き合っていれば……、大切な人とちゃんと向き合っていれば、別れの日をちゃんと予感することはできる。その日を未来視することが出来る。そしてそこから逃げ出さずに、それをちゃんと受け入れる覚悟をもって、俺たちは日々を生きてきたから、だから、何も後悔はしてない。きっと……碧葉だって思い残すことは何もなかったと思う……きっと」
『修一、馬鹿ね。あなたは相変わらず私のことを判っているようで判っていないわ。私にだって心残りはあるわよ。私、あなたにこの体をちゃんと捧げたかった。もっと、もっと、ちゃんとあなたに愛されたかった。そして、あなたの子供を産みたかった。私が先に死んでも、私達の子供を、あなたへ遺してあげたかった。あなたのため……いえ、私のために遺したかった。だから、それが心残りなのよ』
『これ、あなたのお葬式だったの』
そこは、火葬場だった。すでにお葬式は終わり、そこに宿っていたはずの魂は今私の隣に居て、その抜け殻となった肉体が、今まさに灰に還ろうとしていた。
『そうよ、私のお葬式。今から私の肉体が灰となり、そして土に還るのよ』
『……日本の法律って、遺骨を土に還したりしていいの?』
碧葉さんは、悪戯っぽく笑った。
『榛花さんって、意外に細かいことを気にするのね。どうかしら、でも、私は遺言に桜の木の下に散骨して欲しいって書いておいたわ。……きっと修一なら、その願いを叶えてくれると思う』
『修一さんっていうのは、あの人ね。あれがあなたの愛した人なんだ』
『そう、私が愛した人よ』
私は、火葬場の建物に設けられた内庭で、悲しみを押し殺すように平静を保って話している高校生の三人組を見ていた。
二人はとても仲の良さそうな女の子で、一人はとても大人びた物静かな男の子だった。もし学生服を着ていなかったら、大学生か社会人に間違えそうな雰囲気だ。それが修一と呼ばれている子だった。
内庭から見える空は、まるで突き抜けるような青空で、建物に真四角に切り取られた青空が、この内庭を本当の箱庭の様に錯覚させた。
『これが、碧葉さんが私に見せたかったものなの?』
『いいえ、これは私が見たかったもの。あなたに見せたいものは、もうすぐ来るわ。これは、それまでの間の、私へのご褒美みたいなものよ』
彼女はそう言うと、また悪戯っぽく無邪気に笑った。それは、自分が生きた世界への未練など何も感じさせない笑い顔だった。
……私は、何か未練を残しているのだろうか。
『あなたが、どんな未練を遺してきたのか私は知らない。でも、その未練というか、あなたの残した想いによって、私はあなたを導いているのよ』
『私が頭の中で考えていることに、一々と答えるのは止めてもらえますか』
『ごめんなさい。そういう出しゃばりなところ、私の性格なの。いえ、性格だったの……。あっ、ほら、来たわよ。あれが榛花さんに会わせたかった人よ』
三人組の高校生のもとへ、一人の男の子、いや、女の子が近づいてきた。
『あれは、私? ……違う、私じゃない。あれは……榛秀……』
「あんた、どうして学生服じゃないのよ」
「だって言乃音ちゃん、僕、学ランってあまり好きじゃないんだよ。それにさ、これが僕にとっての正装だよ。碧葉ちゃんのお別れの時に、今の正直な自分自身の姿でお別れをしたいじゃない」
「榛秀さん、とても素敵ですよ。凄く綺麗です」
「ありがとう、夏美ちゃん」
「だから夏美、こいつを無駄に褒めるのは止めろって。調子に乗るだけだから」
「言乃音ちゃんもありがとう。修一、準備ができたから、そろそろ最後のお別れを……」
「……わかった」
『どう、久しぶりに会った感想は?』
『あの子は、何も変わっていないわ。榛秀はいつも私を見て、私を追いかけて、私の真似をしようとして、それができなくて傷ついて、そして自分を見失っていた』
『……昔の記憶、戻ってきたのね』
確かに、私は彼を見て私の双子の弟だとすぐに思い出すことができた。そして、彼と過ごした記憶が、フラッシュバックするように脳裏に鮮やかに蘇る。
『彼は泉川榛秀、そして私は泉川榛花……。全部じゃないけど、思い出してきた……』
『では次の場所に移動しましょう』
『どうして、あたなはもういいの? 碧葉さんは、自分の最後のお別れの時に、あなたの恋人があなたに何を言ったのか、聞きたくないの?』
『恋人……って、素敵な響きね。ありがとう』
碧葉さんは、そう言うと、また優しく微笑んだ。その顔が、あまりにも優しすぎて、私は彼女が人ならざる者ではないかと感じた。
……いや、彼女はすでに、人ならざる存在なのだろう。
『大丈夫よ、榛花さん、心配しないで。修一が最後にどんな言葉を私に贈ってくれたのか、私はちゃんと聴いていたし、今でもそれはちゃんと覚えている。だから、いいのよ』
『……そうなんですね』
『そうよ。あなたは自分がピアニストだったって覚えている? 言葉はね、音楽と同じだと思うのよ。音楽と同じ様に言葉も生きている。舞台の上で奏でられた音楽は、たとえどんな技術を駆使しても、その本質を再現することはできないわ。それと同じ、言葉もね、それが発せられた瞬間に、徐々にその鮮度が劣化するの。たとえ同じ場面を巻き戻して再生をしても、それは同じことなのよ。だから私達は、一瞬一瞬をもっと大切に生きなくてはいけない……って、死んでから気が付いても遅いけどね』
『碧葉さん、それは嘘ですよね』
『えっ、何が?』
『碧葉さんは、死ぬ前からそのことに、ちゃんと気が付いていたはずですよね』
『……そうね、確かに気が付いていたわ』
その時の碧葉さんの顔は、とても人間らしい物悲しい顔をしていた。私はその顔を見て、少しだけ安心をした。それはきっと、私が人間の心を取り戻しつつある証拠だった。
『さっ、本当に時間が無いから、次の場所に移動するわよ……』
そう言って碧葉さんが私の手を強く握ったので、私は彼女に身を預けるように、そっと目を閉じた。
『はい、お願いします』
「言乃音ちゃん、やっぱり凄い! なんか、ピアノコンチェルトみたい」
「夏美ちゃん、全然すごかないよ。ピアノコンチェルトみたいに聴こえるから駄目なんだよ。これは合唱曲なんだからさ、ピアノは合唱の伴奏なんだからさ、主役はピアノじゃないんだから……。本当にあのお嬢様は、生粋のピアニスト馬鹿だなぁ」
「確かにそうだね、榛秀くんの言う通りかも。でも榛秀くん、言乃音ちゃんのピアノ聴いて、すっごく楽しそうだよ」
「まぁね。悔しいけど、言乃音ちゃんのピアノは人を楽しませる何かがあるよね」
「ちょっと何よ、あんた、また私の演奏にケチをつけているの」
「違うよ言乃音ちゃん、榛秀くんはちゃんと客観的な意見っていうかアドバイスをしようと思ってくれてるんだよ」
「わかった、じゃあさ、休憩の後は僕が伴奏弾くよ。夏美ちゃんも言乃音ちゃんも、たまには皆と一緒に歌いなよ。皆と一緒に歌うとさ、すごく気分がいいよ」
「榛秀くんのピアノ聴くの、すっごく久し振りかも、ねぇ言乃音ちゃん、私達も午後からの練習は皆と一緒に歌おうよ」
「夏美がそういうなら、それでいいわよ。榛秀、ちゃんと弾きなさいよ」
「はい、はい、言乃音ちゃんの仰せのままに」
『なんか、あんな風に笑う榛秀は久し振りに見た気がするな。私と一緒に居る時の榛秀は、いつも誰かを演じているようで……。榛秀が心の底から無邪気に笑う顔など、私はほとんど覚えていない』
私は独り言のようにそう呟いた後に、それは嘘だったかもしれないと思い直した。遠い記憶の中で、私達がまだ幼い頃に、私と榛秀がまだ普通の姉弟だった頃に、私は彼の無邪気に笑う顔を見ていたような気がする。でもそれが、今の私には思い出せない。
『あの二人、古澤言乃音さんと板倉夏美さん、あの二人に出会って、榛秀くんは変わったと思う。もちろん、修一との出会いも大きいと思うけど』
『修一って、あなたの恋人ね。……恋人だった人って言うべき?』
私の問いかけに、碧葉さんは毅然と答えた。
『いいえ、修一は今でも私の恋人。そしてこれからも、ずっと私の恋人よ』
『そうですか。変なこと言ってごめんなさい』
『いいのよ。でも本当は……恋人じゃなくて夫婦になりたかった。修一は私の夫です、愛する旦那様ですって、そう言いたかったわね』
碧葉さんが余りにも優しく微笑んだので、私は彼女と修一さんのことについて、それ以上詮索することをやめた。
『ところで、ここは学校の体育館みたいだけど、ここで何をしているの。あの舞台に集まっている人達も、学生が多いけど、制服もばらばらだし、中には社会人みたいな人もいるし。合唱の市民サークルみたいな感じなの?』
『どうかしらね。あの子たちの会話に、もう少し耳を澄ませてみましょう。私も、あと少しだけ修一の声を聴いていたいから』
碧葉さんはそう言うと、修一さんと板倉さんが話している方へと歩み寄った。
「でも修一さん、よくこれだけの人が集まりましたね。やっぱり碧葉さんの詩集、好きな人がたくさん居たっていうことですよね」
「うん、そうだね。でも、これは碧葉の力だけじゃなく、板倉さんのお陰でもあるよ。碧葉の詩……いや歌詞に、あんな素敵な曲をつけてくれたんだから」
「そんなことないです。私はただ、碧葉さんの歌詞に導かれるままに音をあてがっていっただけですから。あの曲は、碧葉さんが私に作らせてくれたんですよ」
「板倉さん……ありがとう」
「あの……修一さん、変なこと聞いていいですか?」
「うん、いいよ」
「修一さん、碧葉さんが亡くなってから、ちゃんと泣きましたか? ちゃんと声出して、ちゃんと叫んで、ちゃんと……自分の想いを体の外に吐き出しましたか?」
「板倉さん……」
「私、母が自殺したときに、それが出来なかったんです。泣きたくても涙が流せなくて。叫びたくても声が出せなくて。……人って、悲しい時にはちゃんと涙を流さないといけないと思うし、心が痛くて叫び声をあげたい時には、ちゃんと大声で叫ばないといけないと思うんです。私はそれができなかったから……」
「大丈夫だよ、板倉さん。正直、今はまだ碧葉が死んだことが実感できないんだ。俺はね、碧葉の最後の日に備えて、何度も何度もその日を想像したんだ。そして、それを想像するたびに泣いた。その日を想像するたびに独りで叫んでた……。そうやって、実際にその日を迎える覚悟が俺の中で固まっていった。……だからなのかな、こうして碧葉が居なくなってしまったことが、なんか現実ではないみたいな気がするんだ。今でも俺の隣に居て、俺の手を優しく握っているような気がしてね」
碧葉さんは車椅子から立ち上がると修一さんの傍らに立ち、そっと修一さんの手を握った。そっと優しく、でも、思いを込めて力強く。
しかし修一さんには碧葉さんの存在も、そして私の存在も決して認識はできない。
私達はもう、人ではないのだから……。
『修一、愛してる。ずっと、ずっと、修一だけを愛してるよ』
修一さんの耳元で囁く碧葉さんのその言葉は、はたして修一さんに届くのだろうか。
「コンクール当日の出席確認を取ってきたけど、皆さん全員参加できるって」
「ほんと、すごい!」
「よかったね、夏美ちゃん。碧葉さんと夏美が作ったこの合唱曲、皆すごく気に入ってくれたみたいだよ。時期もちょうど卒業シーズンだから、聴衆受けもいいと思うよ」
「榛秀くん、ありがとう」
「あんたは本当にいつも調子のいいことばかり言うわね。コンクールはね、聴衆に受けても審査員に評価されないと意味がないのよ」
「いいのよ、言乃音ちゃん。今回はコンクールで賞を取ることよりも、あのサラマンカホールで、碧葉さんのこの合唱曲を皆で歌えることに意味があるんだもん」
「そうだよ、言乃音ちゃん。あのホールで合唱コンクールが開催されるなんて本当にラッキーな事なんだから。あのホールは本当に響きがいいから歌声がとても美しく響くんだよね。だから、もっと歌声を生かすようなピアノ伴奏をしないと、言乃音ちゃん」
「うっさいわね。あんたに言われなくても分かってるわよ。じゃあ、この後の練習では榛秀先生の伴奏を、しっかりと聴かせてもらうわ」
「もちろん、しっかりと聴いてもらうよ」
「相変わらず、二人とも仲がいいな」
「修一さん、それは本当に誤解ですから」
「うん、それは言乃音ちゃんに同意する」
私は榛秀たち四人の高校生らしい屈託のない笑顔と会話に触れながら、それを少し羨ましいと思った。なぜ羨ましいと思ったのか、自分でもよく判らなかったけど……。
『ねえ、榛花さんは榛秀くんの……あの素敵な女装姿を見ても何も驚かないのね』
そう言われて、私は榛秀が女装していることに改めて気が付いた。火葬場ではスーツ姿なので気が付かなかったけど、榛秀の凛とした姿はとても気高く芯の強い女性をイメージさせる。その強さは、人を愛する、人から愛される……その喜びを知っている強さだ。
『榛秀が私に隠れて私の服を着ていたのは知っていたわ。だから、そのこと自体は驚かないけど、でもあんな風に人前で堂々と女装しているなんて……。榛秀は恋人がいるの?』
『それも榛花さんが自分で確かめればいいと思うわ。私にできるのは、あなたをあなたが必要としている場所に導くことだけだから。それ以上のことは、榛花さん、あなた自身が見て聞いて感じなければだめなの』
『……わかったわ。ありがとう』
私は修一さんに寄り添う碧葉さんを、心の底から羨ましいと思った。なぜ羨ましいと思ったりするのだろう。私も、誰かを愛していたのだろうか。
私の記憶は、まだ曖昧なままだった。
私がこの場所に導かれた理由は、その記憶を取り戻すためなのだろうか。
『じゃ、次の場所に移動しましょうか、おそらく、次が私の案内する最後の場所よ』
『合唱コンクールの会場へ移動するのね』
『そうよ。そこで私と夏美ちゃんが作った曲を、あなたに聞かせたいのよ』
『つまり、未来の場所へ移動するってこと?』
『それは可笑しな質問よ。言ったでしょ、この無限回廊は全ての場所と時空へ繋がっているの。だから、過去や未来という概念が無いのよ。……ただ、ある時を基準にすれば、私達は過去からその定められた時に向かって少しずつ時間を移動していることになるわね』
『定められた時というのは……』
『それは私からは言えない。でも、もうすぐしたら判るわ。さっ、行くわよ』
碧葉さんは、そう言うと、修一さんの頬に口づけをした。
『修一、またね……』
私は瞳を閉じたまま耳を澄ませていた。
それは、懐かしい感覚だった。
この響きは、コンサートホールだ。開演前の人々の騒めきがホール全体に賑やかに響いている。それもこのホールの響きは極上だ。アンプやスピーカーを使わないクラシック音楽にとってホールの響きはとても重要な要素になる……。
そうか、私は本当にピアノ弾きだったんだ。
『大切なことを、少しずつ思い出してきたのね』
碧葉さんは車椅子を使わずに、普通に私の隣に立っていた。
『あの席に座りましょう。あの席は誰も座らないから』
『あの席には誰も座らないって、それも無限回廊の力で未来を……この後の出来事を未来視できるからですか』
『言ったでしょ。未来とか過去とか、そういう概念じゃないって』
『だったら、いったいどういう仕組みなんですか……』
『仕組みなんて分からないし、それに、それを理解することは少しも重要ではないわ』
『ひょっとして無限回廊っていう名称は、碧葉さんが勝手にネーミングしているだけですか? 実は碧葉さん、本当に何も判っていないんですね……』
碧葉さんは、とても可笑しそうに笑った。
『その通りよ。でもそれは最初からそう言ってたでしょ』
そう言うと、碧葉さんは本当に楽しそうに笑った。
『無限回廊っていうのは私が勝手にそう呼んでいるだけ。だって、名前なんて誰も教えてくれないし、それに、ここでは名前とか仕組みとかなんて、少しも重要ではないのよ。だから私は何も知らない。でも、やがて何でも知ることになる……』
そう言った碧葉さんは、少しも哀しい顔をしていなかった。きっと、すでに人の心を失いかけているのだろうか。
『それは、完全に人ではなくなるということですか? 個としての人格が消失して、世界っていうか……宇宙っていうか……そういうのと融合するっていうことですか?』
『どうなのかしら。ごめんなさい、本当によく判らないのよ。でも無限回廊って素敵なネーミングでしょ。そう思わない?』
私は少しも素敵だなんて思えなかった。でもだからといって他に適当な言葉も思い浮かばなかった。碧葉さんの言う通り個人としての肉体が消失し、過去や未来、そして平行世界や異世界に繋がる、定めのない場所、定めのない時、……そんな場所があるなら、それは確かに「無限回廊」という名称が相応しいのかもしれないけど……。
『それよりも早く座って、一緒に最後の時間を楽しみましょ』
碧葉さんは、子供の様にはしゃぎながら座席に腰を下ろした。その様子は汚れを知らない無垢な少女の笑顔だった。そのあまりにも純真な笑顔が余計に、碧葉さんが人ならざる存在に近づいているのだと私に確信をさせた。
『さぁ、座って目を閉じてみて、そして耳を澄ますの。楽屋の様子が分かるでしょ』
私は碧葉さんに言う通り座席に座ると、そっと目を閉じ耳を澄ませた。すると不思議なことに、私の体は楽屋に移動していた。
「ねえ、言乃音ちゃん、今日の舞台、本当に意味のある事だったのかな」
「夏美、きゅうにどうしたの?」
「べつにさ、意味なんて有っても無くても、どっちでもいいんだと思うよ。意味のある事だけをするのが人生じゃない。そこに意味が有っても無くてもさ、僕たちが本当にそれをしたいと思ったら、すればいいんだよ。そうすればさ、きっと、そこに後から意味が産まれるんだと思う。きっとね……」
榛秀がそう答えた。
榛秀は薄っすらとお化粧をして口紅をしていた。私に似ているけど、私とは違う……。
榛秀、あなたも自分の生き方を見つけたの?
それが、あなたの選んだ生き方なの?
「たぶん、人を好きになるのと同じだよ。意味を求めて誰かを愛するわけじゃない。その人を愛したいと思って、その人を愛して、その人と愛し合うようになって、そして、意味が産まれるんだよ。……だから恋愛も、音楽も、きっと同じなんだよ」
「榛秀、あんたが言うと本当に嘘くさいわね」
「言乃音ちゃん言い過ぎだよ。榛秀くん、私もそう思うよ。……榛秀くん、すごくいいこと言ったと思う」
「うん、そうだな。榛秀の言う通り、今日は難しいこととか考えないで舞台に立てばいいんじゃないのかな。きっとさ、碧葉のためなんて思わない方がいいんだよ。誰のためでもなく、自分達が歌いたいから、自分達のために歌うんだよ」
「うん、そうですね。修一さんの言う通り、自分達のために歌いましょう」
「うん、そうだよね。言乃音ちゃん、私も自分のために歌う」
修一さんの言葉に応える様に、夏美さんと言乃音さん、彼女たち二人はお互いの手をぎゅっと強く握り合った。そして二人は、お互いの顔を見合わせ幸せそうに微笑んだ。
「自分達のために精一杯に歌った歌が、誰かの心に少しもで響いて届いたら、きっと素敵だよね、言乃音ちゃん」
「うん、そうだね。きっとさ、誰かの心だけじゃなくてさ、きっと、何処かに居る碧葉さんにも届くと思うよ」
「……うん、そうだね」
「やっぱり、音楽は愛なんだね」
「なんか修一さんって、すっかり愛の伝道師ですよね。碧葉さんも喜んでますよ、きっと」
「夏美の言う通り、碧葉さんの遺志はちゃんと修一さんが継いでますね」
そんな風に言われて照れて笑う修一さんの姿を、碧葉さんは幸せそうな顔で見ていた。
そして私も、榛秀の姿を見て、訳もなく心が温かくなるのを感じていた。
そして彼らの出番が近づくと、楽屋の人々に修一さんが挨拶をした。
「みなさん、本日は遠いところからお集まりくださって、本当にありがとうございます。今日は合唱コンクールという舞台ですが、僕たちの今日の目的はコンクールで賞を獲ることではありません。僕たちが心から歌を楽しむことが目的です」
修一さんは一呼吸おいて、ゆっくりと楽屋を見渡した。
「この合唱曲を楽しむために、音楽を心から楽しむために、この二ヶ月、短い時間でしたが、皆さんと精一杯その準備をすることができたと思っています。本当にありがとうございました。改めてお礼を申し上げます」
修一さんの目は、涙を堪えてすでに真っ赤に充血していた。
「そして、何より、僕の婚約者だった深津碧葉の詞と、そして、板倉夏美さんの曲を、皆さんが心から気に入ってくれて、それを合唱という一つの音楽の形にしていこうと……皆さんの気持ちが……ものすごく伝わってきた二ヶ月でした」
楽屋に居る誰もが、修一さんの言葉に込められた想いを、懸命に汲み取ろうとしているようだった。
「ですから今日は、今日の舞台は、ただ、ただ、何も考えずに皆で音楽を楽しみましょう。皆さん、本日は、お集まりいただき本当にありがとうございました」
そして、修一さんの挨拶は温かい拍手で迎えられた。中には涙をする人も少なからずいた。
碧葉さんは、修一さんが皆に挨拶をしている間、そっと彼の背中に顔を埋めていた。碧葉さんが泣いていたのか、私には判らなかった。でも、背中に顔を埋めながら、碧葉さんは修一さんの背後からずっと修一さんを抱きしめていた。
やがて楽屋の扉がノックされ、係の人が舞台袖に移動するようにと告げた。
「さあ皆さん、音楽を楽しむ時間です」
修一さんがそう言うと、碧葉さんは修一さんのお腹の辺りでぎゅっと組んでいた自分の腕をほどいた。そして、修一さんの肩に両手を置くと、修一さんの耳元に顔を近づけて何かを囁いた。
碧葉さんが何を言ったのか聞こえなかったし、それは聞こえなくてもいいことだと思った。何故ならそれは、碧葉さんと修一さん二人だけの、愛の言葉であり、別れの言葉だったのだろうから……。
『さあ、榛花さん。私達も客席に戻りましょう』
碧葉さんにそう言われて、私は一瞬、榛秀の方を見た。
『彼なら大丈夫よ。信じてあげて』
そう言った碧葉さんの言葉に導かれて、私は気が付くと客席に戻っていた。
『一つだけ、いえ、二つだけ、榛花さんに伝えておくわね』
碧葉さんは私の手に自分の手を重ねると、まるで天使の様に微笑んだ。
舞台の中央には言乃音さんが居た。彼女が指揮をするのだろう。そして、ピアノの前には榛秀が座っていた。なるほど、あの二人なら……。
『いい、榛花さん。一つ目は、無限回廊の記憶は現世には持ち込めない。ここで見たこと聞いたこと、交わした言葉、それは全てここだけに存在が許されるものなの。でもね、二つ目……、ここで得た力は現世に戻っても消えることはないわ』
『どうして、今それを私に……』
碧葉さんの言っていることは筋が通っていなかった。私はたぶん、もうすぐ現世に戻るのだろう。そんな予感はする。なぜなら、碧葉さんがだんだんと人ならざる者に変わっていくように、逆に私は、人ならざる存在から人の心を取り戻しつつあるからだ……。
でも、ここでの記憶が現世に持ち込めないなら、何故私に今、そんな大事な話を……。
『大丈夫、記憶としては存在できないけど、私の言葉も、あなたがここで得た力も、あなたの肉体に確かに刻まれているから。それは、あなたが存在する限り消せないものなの』
『どうして、今、それを私に……』
私は同じ質問を繰り返した。
『あなたには目的があるのでしょ?』
『私の目的……』
『そうよ、だからあなたは目覚めて、現世にと戻るのよ。自分で言ってごらんなさい。あなたの目的は……』
『私の目的は……』
その時、ホールにピアノの音が響いた。
それは甘く切なく、静かで美しい、ピアノの響きだった。
言乃音さんの指揮に合わせて、榛秀の奏でるピアノの音。
そして、碧葉さんの綴った詞が歌声となってホールに響いた……。
合唱曲「桜色の涙」、それは、ありふれた卒業式の歌だった――――。
季節外れの雪が 校舎を白く染める
溢れる想いを 優しく包み込むように
降り積もった雪が 春の陽に照らされ輝く
雪化粧の桜が 彩る卒業写真
桜色の涙 頬を伝わっていく
君の信じた明日を
僕らは歩いて行く
さよならも ありがとうも 違う気がする
言葉にならない この気持ちは
雪景色に滲む 桜色の涙
いつかは この道を懐かしく思う
遠く離れた 空の下で独り
あの日の言葉を 胸に刻み
桜色の涙 溢れる想いを
君に伝えたい 僕らの歌にのせて
桜色の涙は 君と僕らの
生きた証 桜色の涙
――――ピアノの間奏――――
『榛花さん、ここでお別れよ。あなたに会えて良かったわ。あなたと一度、お話をしてみたいと、ずっと思っていたから。最後に願いが叶ってよかった』
『私は……』
『何も言わなくてもいいわ。あなたは、あなたが居るべき場所へ、あなたが成すべき場所へ戻るの。それだけのことだから』
彼女はそう言うと、私を優しく抱きしめた。
私も彼女を抱きしめ、そして私は、そっと目を閉じた。
私の閉じた瞼から、涙が溢れ出し頬を伝わった。
そして、目を開けると、私の瞳に映ったのは真っ白な天井だった。ぼやけた視界と耳から伝わる様々な音……そして重力に抗えない体……ここは?
「あっ、あっ、先輩、大変です。患者さんが、患者さんが目を覚ましました」
「目を覚ましたって……榛花さんが? 泉川榛花さん! あなたはすぐに詰所に戻って師長に報告して。あと永子先生がさっき廊下にいたから、すぐに呼んできて。早く!」
慌ただしい人の声がする……。
ここは、どこだろう……。
体が、動かない……。
瞼が、重たい……。
目と閉じると何かが聞こえた。合唱曲が聴こえる――――。
巡る季節の中で 少しずつ大人になる
その度思い出す 僕らは一人じゃない
桜色の涙 こぼれ落ちていく
君と過ごした全て
僕らは忘れない
すれ違う あの言葉 今なら判る
あなたに届けたい この歌は
明日の絆誓う 虹色の標
かならず この場所に帰って来る
時が経っても 変わらないこの想い
あの日の景色を 瞳に映し
桜色の涙 春の風に舞う
君の生きた証
僕らの勇気になる
夏の日も 冬の日も 変わることなく
僕らが奏でる その祈りは
永久の空に響く 虹色の調
桜色の涙 枯れる頃には
季節外れの雪も 溶けてしまうだろう
桜色の涙は 君と僕らの
生きた証 桜色の涙
――――それは、ありふれた卒業式の曲だった。
ありふれた日常に、ありふれた想いに、ありふれた出逢いと別れ。普通じゃない恋と、普通なのに普通になれない恋。
不思議だ……私の中に様々な声や景色が流れ込んでくる。
『あなたの目的は……』
私の目的は……。
「私の目的は、私を殺した人を、いえ、私を殺そうとした人を探し出すこと」
そう呟くと、私は力強く目を見開いた。
『……本当にそうなのかしらね……』
こうして私は合唱曲『桜色の涙』を聴いて、目を覚ました。
「桜色の涙」(完)




