第十二話 調印式
私は奇跡という言葉が嫌いだ。世の中に奇跡なんて在りはしない。結果には必ず原因があり、この世で起きる全てが必然の結果だと思っている。偶然とか奇跡なんて、ただの言い訳けだと思っていた。
私が夏美と出会って、こうして夏美との関係を築いてこられたのも、奇跡や偶然なんかじゃない。それは、私と夏美の想いや努力の結果だ。私達の恋は、私達の愛は、私達自身で勝ち取ったものだ。そしてそれは、私達自身がこれからも互いを想い、互いを理解し合う様に努力し続けなければ簡単に失ってしまいそうなものだ。
だからこそ、それは尊くて、かけがえのないものなんだと私は心の底から思っている……。
それが、私と夏美の関係。
それが、私と夏美の愛。
ところが、それでも碧葉さんが長い昏睡状態から目覚めたとき、私は、それは奇跡なんじゃないのかなって素直に思ってしまった。
空を覆いつくす灰色の雪雲から、牡丹のような大きな雪が降っている。東京でこんなにも雪が降るなんて久し振りだ。人も車も、みんなが慣れない雪に戸惑っている。やっぱり私達は、神様の掌の上で僅かな人生を懸命に生きているに過ぎないのだろうか。大きな力、偉大な力の前で、愚かに泣いたり笑ったりして生きているのだろうか。
「いいでしょ。技巧的には稚拙な箇所が幾つもありますし、表現方法としてももっと別の選択肢があったかと思わる部分が多々あります。でも、これはこれで良いと思いますよ」
古澤怜美は、夏美の書いた楽譜を見てそう言った。
「弦菅パートは、パソコンのソフトで確認をしたのですか?」
古澤怜美の前では、昔から夏美はいつも小鹿の様に怯えていた。それは、古澤怜美が私の母である以上に、夏美の前でも私の前でも、いつも音楽家である古澤怜美としての仮面を被っていたからだ。いや、それはもう仮面という代物ではないのかもしれない。
音楽家古澤怜美が彼女の生き方全てなのだ……。
「はい、その楽譜は楽譜制作ソフトで作ったんですが、楽譜の通りに音源がパソコンで再生されるので、とても作りやすかったですし、確認もしやすかったです」
夏美の声はとても緊張していた。
「あと、あの、パソコンと楽譜の制作ソフト、ありがとうございました。父に聞いたら、おばさまが全部ご用意してくださったと聞いて。本当にありがとうございます」
「いいんですよ、そんな事は気にしなくても。それよりも、柴山先生も仰っていましたが、とてもよく頑張っていますね。この曲にも、貴女の頑張りがちゃんと現れています。でもそれ以上に、貴女がこの歌詞と真摯に向き合っている姿が、とてもよく伝わってくるので、私はとても嬉しく思いましたよ。音楽はね、上手下手よりも、そうした音楽と向き合う姿勢の方が大切なんです」
母はそう言うと、そこで初めて夏美に笑顔を見せた。
「ただ、この歌詞は繰り返しが多いので、歌詞を原文のままで変えたくないというなら全体的に構成を少し見直さないと、特に終盤に向かう盛り上がりとかね。そういう工夫をもう少ししないと、ちょっと冗長な印象は否めないわね」
「はい、分かりました。ありがとうございます」
夏美の言葉に、母は何故か機嫌をよくしていた。
「でもこの歌詞、決して悪くないわよ。碧葉さんだったかしら。言乃音さん、貴女のお知り合いなんでしょ」
「はい、お母様。碧葉さんはとても重い病気を患わっていて。なんとか、この曲を早く完成させて聴かせてあげたいんです。それで一度お母様にも見て頂いて、直接お母様からアドバイスを頂けたらと思いまして、お時間を頂きました」
母は私の言葉を、とても可笑しそうに聞いていた。母がこれほど機嫌が良いとは、いったい何があったのか、そちらの方が気になるぐらいだ。
「言乃音さん、貴女はまだそんな事を言っているの。貴女はもっと自分自身に自信を持つべきです。目上の人間の意見を尊重するのは大切なことですが、決してそれに流されてはいけません。ましてやそんなものに迎合する必要もありません。私なんかのアドバイスよりも、言乃音さん貴女自身の感覚をもっと信頼するべきです。これから様々な先生に師事する機会があるかもしれませんが、謙虚さと同時に自分自身を見失なわいということはとても重要なことですからね」
「はい、お母様」
母の言葉はいつも私の痛いところを真っ直ぐに突いてきた。幼い頃はそれが怖くて、子供の頃はそれが憎くて、そして今は、それが本当に有り難い……。
「それに、わざわざ名古屋から東京に来たのは、このためだけではないのでしょ。私に話があるなら早く話しなさい。二人の話、ちゃんと聞かせてもらうから」
母は早く話せと言いながら、紅茶の支度をしにレッスン室から出て行った。レッスン室の窓から見える庭はすっかりと雪に覆われている。今夜は名古屋に帰れそうにないかもと心配になり夏美の顔を見ると、夏美は意外にも穏やかな笑顔を私に返してくれた。
緊張していたのは、夏美より私の方だったのかもしれない。
家の庭から見下ろす街並みは雪化粧をしてまるで別世界の風景の様に感じられ、遠くに見える高層ビルが雪空に向かってそびえ立っている様子も幻想的に見える。そんな静かで厳かな雪景色がレッスン室の窓一面に広がっていた。
そうか、今日はクリスマス・イヴだった……。
碧葉さんのことがあって、私は世間のそんな浮いた雰囲気など全く気が付かずにいた。
そう思った時、母が紅茶の用意をしてレッスン室に戻ってきた。
「さて、言乃音さん。いいえ、言乃音、何でも話してごらんなさい」
その言葉は、母の母親としての精一杯の愛情なのだろうと思った。何故なら、私はその声に普段では感じられない母の特別な優しさを感じたからだ。
「私、夏美と、板倉夏美さんと高校卒業したら結婚します」
私は回りくどい言い方を一切しなかった。それを母も望んでいたと思う。
夏美を見ると、その横顔はまるで舞台に立っている時と同じ様に堂々としていた。
「好きにすればいいわ」
「お母さん……」
私は母の一言に拍子抜けしてしまった。もし母のその言葉が嫌味を含んだ顔で発せられたものなら、私なりに覚悟してきた想いや言葉を母にぶつけるつもりだった。それなのに母のその一言は、私の記憶する中で母の最も優しい言葉の様に聞こえたのだ。
「私はね、言乃音に本物の音楽家になって欲しいの。人の一生なんて儚いものだけど、音楽は違うでしょ? 本物の音楽は何百年と時を経ても人々の間で受け継がれてゆく」
母は手際よくカップに紅茶を注ぎながら話を続けた。
「貴女達は真剣に考えてみたことがある? 私達が今演奏しているクラシックの曲、その曲が書かれた当時の社会的な風習や習慣、モラルが、現代とどれだけかけ離れていたか」
「…………」
私は母の話に余計な言葉を挿まなかった。いや、挿みたくなかった。
「つまりね、モラルなんてそんなに気にする必要のないものなのよ。だって時代が変われば人の考え方も社会の考え方も変わる。でもね、時代が変わっても変わらないものもある。いえ変わってはいけないものがあるのよ。それが本物っていう意味。言乃音、私は貴女に本物の音楽家になって欲しいの。だから、人を愛するときも、それが貴女にとって本物の愛なら私は何も言わない。誰にも何も言わせない」
「お母さん……」
「あなたが愛した相手が女性でも男性でも、たとえば妻子持ちでも、そんなことはね、まったく関係ないのよ。問題は、あなたが本当に夏美さんを愛しているかどうかなの。あなたの愛が本物かどうか……それだけが一番大切なことなの」
私は母のその言葉に身が引き締まる思いがした。心がキュッと音を立てるのを感じた……。
「私は夏美を心から愛してます。私が音楽を愛しているように、私は夏美を心から愛しています。夏美は私にとっての音楽そのものです。お母さん、私は自らの意志で音楽の道を進みます。自分の人生をかけて音楽と向き合う覚悟があります。だから夏美に対してもそれと同じです。私は私の人生の全てをかけて、これから夏美を愛し続けます」
私のその言葉に母は全く動じる様子もなく、ただ優しく微笑んでくれた。
私の横では、夏美のすすり泣く声が聞こえる。夏美はきっと涙を必死に堪えているのだろう。それでも溢れる想いは誰にも止められないのだ。
「判りました。それなら私は貴女達を心から祝福し、応援してあげます。だから言乃音、夏美さんのためにも、そしてあなた自身のためにも、決して中途半端なことをしたら、絶対に許しませんよ」
「おばさま……」
夏美の言葉に、母は優しく頷いた。
そんな母を見ていたら涙が自然と溢れ出し、涙と一緒に私の感情も溢れ出してしまった。
「ありがとう、お母さん。私、お母さんの子供で本当に良かったよ。私、お母さんに音楽を教わって、本当に良かった」
私の視界は一瞬で涙で滲んでしまい、母が私の言葉をどんな表情で受け止めてくれたのか、それを確認することはできなかった。
「夏美さん、音楽家の妻になるということは、相当の覚悟がいることよ」
母は優しく、そして穏やかな声で夏美に語りかけた。
「分かってます。……いいえ、本当は分かってないのかもしれません。でも私、大丈夫です。覚悟なら大丈夫です」
「それで、あなたはその覚悟の証として、その深津碧葉さんという不治の病の子のために、代理母出産をするの?」
母のその言葉を聞いた瞬間、私の涙と私の思考、そして私の心臓、私の全てが止まってしまうような感覚に襲われた。恐らく夏美もそうだったに違いない。
何故そのことを母が……。
「貴女達に秘密にしていた訳ではありませんが、私は随分と前から夏美さんのお父様と連絡を取り合っていました。今回の件も、夏美さんのお父様と既にご相談をさせてもらっています。貴女達の口から直接相談を受ける前に大人同士でそういう事をするのを快く思わないかもしれませんが、大人とはそういうものです。そして親なら当然のことです」
母はそう言うと紅茶のカップをテーブルに置き、改めて夏美へと向き直った。
「夏美さん、もう一度聞くわね。どうして深津碧葉さんの代理母出産をしたいの?」
夏美は母の言葉から、母の眼差しから決して逃げることなく、真正面から向き合おうとしていた。
「私が碧葉さんの代理母出産を引き受けたいのは……、碧葉さんのためもありますが、それ以上に自分のためです。私は言乃音ちゃんのお嫁さんになると決めました。言乃音ちゃんに一生を捧げると誓いました。だから、私はその誓いの証として、碧葉さんの代わりに碧葉さんの子供を産むって決めたんです」
夏美の言葉は、普段の夏美らしくなく話の筋が全く通っていなかった。それでも、その言葉は私の心に響き、きっと母の心にも響いていると、響いて欲しいと私は願った。
「あなたは言乃音の妻である限り女として子供を産むことが出来ない。だから、たとえ他人様の子供だとしても、自分の体に命を宿し出産という女の喜びを一度は経験したいというのですか……」
「いえそんな! 私はそんな自分勝手な……」
母の言葉に夏美の体が反応し、一瞬ソファーから立ち上がりそうになったのが分かった。しかし、しばらくの沈黙の後に夏美は冷静に言葉を続けた。
「いいえ、その通りです。おばさまの仰る通りです。私の自分勝手な思いからです。碧葉さんのためでもなく、言乃音ちゃんのためでもなく、私自身のためです。私が私にけじめをつける為の私の勝手な思いから決めたことです」
「夏美さん、その言葉に嘘偽りはありませんね」
母の厳しい言葉と眼差しに、夏美の答えは毅然としていた。
「はい」
「よろしい。私はね、所詮は音楽も誰かを愛するということも、ただの自己満足だと思っているんです。だって私達は神様ではないし、ただの不完全な人間なんですからね」
母はそう言うと、窓辺に行き外の景色に目をやった。
「でもね、だからこそ自らの行いが自己満足と自覚しつつも、それでも誰かのために一生懸命に何かを為すことはとても大切なことだと思うんです。それは音楽においても、人生においても共通です」
その言葉は、私達に向けられた言葉なのか、母が自分自身に言い聞かせた言葉なのか、あるいは他の誰かに伝えたかったのか……。そんな風に私には少し寂しく聞こえた。
「……はい」
そんな空気を温かく包み込む様に、夏美の短い返事が私の心に届いた。
きっと、母の心にも届いたんだろうと思う。
「そうですね……もういいですよ。あなた達お二人のお話はよく分かりました。あとは……そうね、今後のことは私を信頼して、何でも頼ってちょうだい。夏美さん、貴女はもう、大事な言乃音のお嫁さんなんですから」
その言葉に、夏美の瞳から大粒の涙が幾つも幾つもこぼれ落ち、その度に私の瞳からも涙が脈打つように流れ落ちた。
「は……はい。おばさま、ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
「お母さん……ありがとう」
「この雪では新幹線も動かなくなるでしょうから、夏美さん今夜は泊まってゆきなさい。貴女のお父様には私からも連絡を入れておきますから」
私と夏美は母の言う通りに、今夜は名古屋に帰らずに東京のこの実家に泊まることにした。そしてレッスン室から出ようとした時に、母が夏美を呼び止めた。
「夏美さん、ありがとう。言乃音をよろしくお願いします」
そう言った母の姿は、音楽家古澤怜美ではなく、私が今まで一度も目にしたことのないような頼りなくて心細い表情を浮かべた、我が子を心配する普通のただの母親のように見えた。
レッスン室の扉を閉め廊下へ出ると、夏美が私の肩をそっと抱いてくれた。私は夏美の肩に頬を埋め、声を押し殺すようにいつまでも泣いた。
年が明けお正月も三が日が過ぎたはずなのに、それでも名駅のツインタワーは大勢の人でごった返している。そんな人混みの中で私と夏美、そして修一さんと榛秀の四人は、エレベーターを乗り換えるために十五階の見晴らしの良い廊下を歩いていた。
「でも古澤さん、この時期に展望レストランを貸切なんて凄いね」
修一さんの言葉に、榛秀がいつも通りの調子で嫌味を付け加える。
「ほんと、金持ちのやることはえげつないわ」
「あんたのその格好だって、相当にえげつないわよ」
私は本心からそう言った。
榛秀は童顔でハルの格好をする時はいつもゴスロリ系の服装が多かった。なのに今はパンツスーツに薄化粧をし、夏のコンクールで短くした髪もセミロングまで伸ばし、それを上品にアップでまとめ大人の女性の雰囲気を漂させている。
男なのに可愛くて綺麗って……そっちのがどんだけえげつないのよ!
私は榛秀の存在に最初から嫉妬していたのかもしれない。榛秀が泉川榛花と縁のある者だろうという予感は東京で初めて会った時から感じていた。そして泉川榛花の双子の実の弟だと分かった時も、夏美と連弾のペアを組んでコンクールへ出ると決まった時も、私はこいつに嫉妬していたのだ。
こいつはピアノ弾きとして、そして女として、私に無いものを持っている。
「でもこの化粧、言乃音ちゃんが薦めてくれた化粧品使ってるし、このスーツだってこないだダブルデートした時に言乃音ちゃんが僕に無理やり買わしたやつだよ」
榛秀が意地悪そうに笑う。ベビーフェイスの幼い顔立ちが小悪魔の様に私を嘲笑っているようで無性に腹が立った。
「なんだ、古澤さんと榛秀……いやハルはやっぱ仲がいいじゃん」
そんな私を見て、修一さんが可笑しそうにそう言った。
そして夏美までもが無邪気に笑う。
「うん、そうなんですよ。言乃音ちゃん、実は榛秀くんのこと結構好きみたいで。色々と気にかけているみたいなんです」
私は榛秀のことなんか少しも好きではなかったので全力で否定しようと思ったが、夏美が本当に楽しそうに笑っていたので、夏美の笑顔に免じて込み上げてくる怒りの言葉を胸の内に押し止めた。
乗り換えのエレベーターを待つ間も、夏美は本当に楽しそうに笑顔を絶やさないでいる。きっともう覚悟を決め、迷いや不安は心の中から切り捨ててしまったのだろう。夏美はそういう決断を残酷なまでに潔くできるということを私は知っている。
「ねえ、榛秀くん。あっ、ごめんなさい、ハルちゃん……」
「夏美ちゃん、どっちでもいいよ。気にしないから」
「あんたなによ、私には榛秀とハルをちゃんと使い分けるように、散々言ってたじゃない。なんで夏美はどっちでもいいのよ」
ほんと、榛秀の言葉は一々と私の気に障った。
「それはさ、夏美ちゃんは僕の外見には関係なく僕を僕と認めてくれている。でも言乃音ちゃんは、僕の外見で僕を区別しようとしている。だからだよ」
「……なにそれ」
榛秀は、いつも私の痛いところを遠慮なく突いてくる。だから私は、いつも榛秀に言葉を返すことが出来なかった。
「ところで夏美ちゃん、何を言おうとしたの」
「あの、こないだの彼氏さん……、今日は一緒じゃないの?」
遠慮がちな態度とは裏腹に、誰もが気にしていることを的確に問い詰めるように質問するのが夏美の得意技だ。
それでも榛秀は微笑みを崩さず、それどころか夏美の質問に答えるその姿に私は優雅さえ感じてしまった。
「一応誘ってはみたけど、やっぱり気を遣って遠慮したみたい。僕としてもこのメンバーに彼を無理に誘うのは少し可哀想かなって思ったし。別の集まりならともかく、今日は特別だからね」
「そう言われれば確かにそうだけど、でもこないだのダブルデートの時、榛秀くんとっても幸せそうで可愛かったから、またあんな榛秀くんが見たいなって思って。あっ、今日の榛秀くんも可愛いよ。でも可愛いっていうか……今日は美人さんだよね」
「うん、分かってる。ありがとう」
「分かってるって、馬鹿じゃないの本当に!」
私たち三人の会話を聞きながら、修一さんは静かに笑っていた。それは修一さんらしいとても穏やかで、とても優しい笑顔だった。
私達はエレベーターの中でも、そんな他愛も無い話をいかにも面白おかしく話したり聞いたりして四人で心から笑った。
そんな笑い声に満たされたエレベーターは、地上の現実世界から遠く離れるように高速で最上階を目指し、まるで天を目指し駆け登る勢いで一気に展望レストランへと到着した。
「これ、何?」
レストランの扉を開けた榛秀が驚きの声を上げる。
いつも冷静な修一さんも同じ様に驚きの声をあげた。
「古澤さん、今日は貸切って言ってたよね。他のお客さんも貸切で使う予定があるの? 新年会とか結婚式の二次会とか……」
「そっか、結婚式の二次会か。言乃音ちゃん、図ったね」
察しの良い榛秀が事の真相に早々と気が付いたようだった。ほんと、憎たらしい程に勘のいい奴だ。
夏美はとっておきの秘密を隠し切れなくった子供の様に、少し興奮しながら修一さんと榛秀に説明を始めた。
「実はね、碧葉さんが到着して無事に書類が完成したら、その後に皆でお祝いをしよって言乃音ちゃんが言い出したの。それを碧葉さんや修一さんのご両親にも相談したら、すごく喜んでくれて、どうせなら結婚式の披露宴みたいにしようかって……言乃音ちゃんと榛秀くんのお母さんが企画してくれたの」
「うちの親も一枚噛んでいるのかよ」
「うん、榛秀くんのお母さんが一番ノリノリだったと思う。だってその証拠に、こっちに来て二人とも」
そう言うと、夏美は修一さんと榛秀をレストランの奥の部屋へと案内した。夏美自身もこの企画をとても喜んで、熱心に何度もこの店に足を運んでは色々と準備を進めていたのだ。きっと碧葉さんのためだけはなく、自分自身のために。
「ほら見てこのドレス、榛秀くんのお母さんが見立てたのよ。碧葉さんのお母さんも凄く気に入ってくれて……どう? 素敵でしょ」
夏美はまるで自分がその衣装を着るかのように自分の体にあてがって見せた。
それは純白の、まるでウエディングドレスの様な衣装だった……。
「なるほど。それでうちの親も朝から様子が変だった訳か」
「なんですか、修一さん嬉しくないんですか。愛する碧葉さんの衣裳ですよ」
「いや、そういう訳じゃなくて……」
「夏美ちゃん、こいつはね、意外に涙もろいから、こうして冷静を装っていないと今にも号泣しちゃうんだよ」
榛秀の言う通り、修一さんは努めて冷静を装っている様子だった。きっと榛秀の言っていることは嘘じゃないんだろうなと思った。
「でもさ、どうせなら本当にウエディングドレスにしちゃえば良かったのに」
「榛秀は本当に馬鹿だな。ウエディングドレスを着るのは人生で一度だけでいいんだよ。碧葉さんなら、きっと……いや必ずウエディングドレスを着れる」
榛秀に対する私の言葉が、それまで和やかだった私達四人の空気を少し重たくした。
決して浮かれていた訳ではない。
私達は体外受精と代理母出産を合法的に安心して行うための書類を作成した。碧葉さんや修一さん、夏美、今回の件に携わることになるお医者さん達、全ての人が法的にも社会的にも不利益を被らないようにと……。私は法律のことは詳しくないけれど、完成した書類は倫理観を度外視して法の網の目を掻い潜るような代物になったそうだ。
それは碧葉さんのお父さんが尽力したもので、この分厚い何十枚……いや何百枚もの書類と契約書には、碧葉さんのお父さんの想いがたくさん詰まっている。
それでも碧葉さんの体調が奇跡的に回復して、私達は希望という名の不確かな未来を手に入れ、その未来に私達は少し浮かれていたのだろう。
「青春を生きる若者たちよ、勢ぞろいしているな」
「あれ、永子先生。碧ちゃんと一緒ではないんですか?」
レストランに現れた永子先生は白衣を着て完全にお仕事モードの雰囲気を漂わせていた。それなのに碧葉さんが一緒ではないので榛秀が不審に思ったのだろう。
「お姫様はもうすぐ空から舞い降りるよ。私はこの下の階に準備した臨時の病室、いや処置室の様子を見てたんだ。万が一の時に備えてな」
「空からって、まさか屋上のヘリポートですか」
呆れた顔で榛秀がそう言うと、永子先生はそれに対して黙って頷いた。
「なに、そのヘリってお前の家がチャーターしたの?」
榛秀にお前呼ばわりわれてかなり腹が立ったが、私は永子先生を見習って黙って頷いた。
「ほんと、えげつないわ」
榛秀はそう言った後に、私の耳元で私だけに聞こえる小さな声で囁いた。
「でもさ、そんな言乃音ちゃんのえげつない優しさ、嫌いじゃないよ」
私は不覚にもその言葉に、私の頬の毛細血管が急激に血液で満たされていくのを感じてしまった。それを夏美に覚れまいと私は黙って俯くしかなかった。
「さて、お姫様が到着するまでお茶にでもしないか。せっかく若人諸君が勢ぞろいしてるんだ。面白い話を聞かせてくれたまえ」
「あの永子先生、また少しキャラが変わりました」
永子先生は修一さんのその言葉に、不敵な笑みを返しただけだった。
私はレストランの個室に皆を案内した。個室と言ってもちょっとした会議室ほどの広さだ。碧葉さんが到着したら、まずこの部屋で必要な書類に署名と捺印を貰うことになっている。もちろん弁護士先生の立会いの下にだ。
「それで今日の予定は、古澤さん」
テーブルに着くと、本日の主賓の一人でもある修一さんが最初に口を開いた。
「まず、碧葉さんが到着したら、今回の件で必要な書類全てに署名と捺印をしてもらいます。弁護士先生からの説明もあります。その説明をちゃんと聞いて納得したという署名も頂きます。医療関係者さんの署名や捺印は既に揃えてますから、あとはここに居る修一さんと夏美、夏美のお父さんと碧葉さんのご両親の署名と捺印が揃えば完璧です」
私はそこまで説明すると、大きく深呼吸をした。
「その後は、碧葉さんには階下の臨時に備えた病室で休んでもらいます。夕方にはご家族の方々がいらっしゃるはずなので、お揃いになったら……宴の始まりです」
そう、これは宴なのだ。私達がそれぞれの祈りを共にする宴なのだ。
「永子先生は今日の話、前から知ってたんですか。いえ知ってたんですよね。色々と準備をされてるんですから」
「まあな。修一、そう恨めしそうな顔で見るな。相変わらず可愛い奴だなお前は。そこにいる古澤女史から修一とハルにはくれぐれも秘密にするようにとお達しがあってな」
「先生、女史はやめてください」
私はその言葉に居心地の悪さを感じていたが、同時に永子先生の私に対する愛情も感じていた。今回の件を通して、私は夏美との関係を永子先生に告白をした。夏美がどうして碧葉さんの子供を代理母として出産したいかを説明し納得してもらうためだ。
それに対して永子先生は何の偏見も持たずに、私達の話を真っ直ぐに聞いてくれた。私達に同情するでもなく、偽りの優しさかけるわけでもなく、その代わりに真っ直ぐ真剣に私達と向き合ってくれたのだ。それは私の知る限り最大の誠実さだと感じた。
「いやでもな、この古澤言乃音さんの財力と権力、そしてそれを存分に無駄なく行使する姿は、女の私が見ていても本当に惚れ惚れとするものだったぞ。きっと生粋の江戸っ子なんだろうな」
「えげつないだけですよ。それに、こいつの実家は名古屋ですからね」
「榛秀、こいつ呼ばわりするの止めてくれる。それに名古屋の実家は父方で、私の母方は代々生粋の東京生まれ東京育ちです。だから私だって……」
「はいはい、申し訳ございませんでした。言乃音ちゃんは生粋の江戸っ子でしたね」
榛秀の悪びれない笑顔に私はむきに怒っている自分が馬鹿々々しく思えてきた。
「ところでハル、今日は例の彼氏君は一緒じゃないのか。まあ今日の集まりの趣旨からすると仕方がないとは思うが……。そういえば、あの可愛い彼氏さんとの馴れ初めはまだ聞いてなかったな」
永子先生、ナイスです!
夏美も修一さんも、興味津々な様子で榛秀を覗き込んだ。
「だから前も言った通り、絵画教室の後輩ですよ」
「榛秀くんから告白したの?」
夏美が我慢しきれなくなった様子で口を開いた。
「いや、それはないよ。そんなことはできる訳ないじゃん」
「じゃ告白されたんだ」
一度勢いに乗ってしまった夏美は、なかなか止めることができない。そんな夏美の様子を修一さんも永子先生も微笑ましく見ていた。
「そうだね、告白されたね」
「あのさ、榛秀くんが男の娘って分かっていて告白してくれたの」
「うん、そうだよ」
「すごい、純愛なんだ」
夏美が何をもって『純愛』と言ったのかよく判らなかったけど、少なくとも夏美の言わんとすることは、その場に居た私や修一さん、そして永子先生にちゃんと伝わったような気がした。
ただ一人、榛秀を除いては。
「いや、純愛ではないと思うよ」
「どうして、だって……」
「だってね、あの子が好きなのは榛秀じゃなくハルなんだよね……」
夏美の言葉を榛秀の言葉が遮る。そして榛秀の言葉に全員が耳を傾けた。
「僕もさ、これから先どれだけハルを続けられるか分からない。だいたい、ハルをこれから先も続けたいのか分からない」
そう言いながら、榛秀は左手の薬指のリングをそっと指で回した。その仕草が女性以上に女性っぽくて、私は改めて榛秀に嫉妬した。
「でもね、ハルの正体が男でも女でも関係なく、ハルそのもの受け入れ本気で好きになろうとしている子がいるならさ、そういうのって、可愛いなって思うじゃない。そういう思いにちゃんと応えてあげたいなって思うじゃない」
「ハル、いや榛秀、お前はその子を利用しようとしているだけじゃないのか。その子と本気で付き合えば、自分自身が本当は何者で何を望んでいるのか、それが判るかもしれないと……。それって、本当の愛っていえるか?」
「修一、変わったね。修一の口から『愛』なんて言葉が聞けるなんて」
修一さんの言葉に、榛秀は優しく微笑んだ。
「大丈夫だよ、ちゃんと判っているから。だから言ったじゃない、これは『純愛』なんかじゃないって。 僕達の関係はさ、お互いの欲望を満たし合う普通の恋愛なんだって」
「それが普通の恋愛なの?」
夏美が少し不安気に榛秀に言葉を返す。それに対して榛秀は澄ました顔で答えた。
「たぶんね。誰かを好きになるのも誰かを愛するのも、誰かが自分を好きになって欲しい誰かが自分を愛して欲しい……っていう自分の欲望の表れじゃないのかなって思うんだ。そうやって、お互いの欲望を満たし合うのが普通の恋愛だと思う」
「だったら、純愛は?」
「夏美ちゃん、恋愛話好きなんだね」
榛秀はそう言って夏美をからかうと、夏美の真剣な眼差しに応えるように話を続けた。
「純愛はさ、決して自分の欲望が満たされないと分かっていながらも、それでも相手を想い続けること、愛し続けることじゃないのかなって思う。愛し合いながらも、決して結ばれることはなくお互いがお互いを片思いし続ける」
榛秀の言葉が、私の胸の中で木霊するように響き続けた。きっと、夏美も同じだったのかもしれない。そして修一さんも……。
しかし、そんなしんみりとしそうな空気を笑い飛ばしたのは永子先生だった。
「究極の片思いが究極の純愛だと? 私の恋愛観も大概だが、ハル、お前の恋愛観も大概だな」
「永子先生はどうなんです? いつまでも仕事が恋人では人生寂しいですよ」
「ハルに人生を諭されるようになっては、私も終わりだな」
永子先生はとても機嫌が良さそうだった。病院で見る永子先生は隙の無い怖そうな大人の女性という印象が強いけど、今は修一さんや榛秀の前だからなのか、白衣姿にも関わらず、とても穏やかでリラックスして笑い顔が絶えない様子だった。
永子先生の恋愛観、聞いてみたいな……。
そんな私の密かな思いを、修一さんの一言が経ち切った。
「永子先生、本当に今の病院を辞めてしまうんですか」
そして修一さんのその言葉に、私も夏美も少なからず驚いた。碧葉さんが居る限り永子先生はずっと碧葉さんの先生で居続けると勝手に思い込んでいたからだ。
「そうだな。まあ今の病院も何か特別な志があって続けていた訳でもないしな。碧葉と修一が一つの答に辿り着いたのが、私にとってもこの仕事を続ける上で節目になったような気がしたんだ。そういう意味では、前たちに感謝をしているよ」
「なんか、先生にご迷惑をかけてしまった様な気がします」
「馬鹿だな修一。お前は私の性格をよく知っているだろ。もし本当に迷惑だと思っていたら、私は今回の件を引き受けたりはしてないぞ。むしろ、私の方が前に進むチャンスというか、背中を押してもらった気がしてな。だから本当に感謝してるんだ」
「やはり、国境なき医師団に参加されるんですか」
榛秀の言葉に、永子先生は優しく頷いた。
「もともと医者になったのも特別な理由や志が有った訳じゃなかったんだ。たまたま勉強が嫌いじゃなくて、自分の能力を限界まで試してみたくて、それで医学の道を選んだだけだったんだよ。だからさ、私はもっと色んなことを学んでみたいんだよ。そして、もっともっと自分の限界を感じてみたい。それがたまたま医療の世界っていうだけの話でね」
「僕、そういう永子先生のこと嫌いじゃないですよ。人のためとか世の中のためとかじゃなくて、自分自身のために海外で人の命を救うって。なんか、少しも嘘っぽくなくて、少しも偽善ぽくなくて。僕はすごく好きですよ」
「ありがとうな、ハル」
「でも、今日のこれは少し大げさ過ぎではないんですか。いくら古澤家の財力をひけらかす為とはいえ」
そう言って榛秀は私の顔を見ながらニヤリと笑った。
分かっている、これは榛秀流の優しさだ。私をからかう振りをして場の空気を変えようとしているのだ。しかし、そんな榛秀の意図に反して永子先生は先程までのリラックスした表情を一変させて、真剣な仕事モードのオーラを放ち始めた。
「ハル、残念だが今日のこの準備は古澤家の財力をひけらかすのが目的ではない。碧葉の命を守るための最低限の備えなんだ」
永子先生の言葉を聞きながら、修一さんの顔が苦しさを嚙み殺すように少し歪むのが分かった。
「碧葉は危篤状態から奇跡的な回復をした。でもな、今の碧葉の状態は本当に奇跡なんだよ。どの検査結果を見ても今の碧葉のあの元気な様子を裏付ける根拠にならないんだ」
「そしたら碧葉さん、病院から外出なんてしない方がいいんじゃ……」
「いや、今日の会は碧葉のたっての希望だったんだ」
夏美の心配そうな問いかけに修一さんが答えた。いつもの冷静な修一さんだ。
「だから古澤家の財力を使って、医療ヘリをチャーターし緊急処置ができる必要最低限の医療設備も用意した。全て万が一の事が起きたら最大限の対応と迅速な緊急搬送ができるようにするためだ」
その声は、いつもの隙の無いストイックに現実と向き合う永子先生だった。
「碧葉さんは、命を懸けて今日の調印式を成功させたいと思っているのよ」
私の言葉に、榛秀が静かに言葉を続けた。
「調印式か……。碧ちゃんらしいしね」
そしてその日、深津碧葉は定刻をどれだけ過ぎても、会場に現れることはなかった。




