第十一話 十七歳の夏休みが、静かに終わる
私と言乃音ちゃんは病院のロビーに居た。
夕日は沈みかけ、私達は人の少なくなったロビーのソファーに座り、そして私の頭の中では榛秀くんの言葉の断片が幾つも飛び交い、私はそれをどうしたらいいのか分からず、まるで出口のない迷路を彷徨う様に途方に暮れていた。
しかし、その言葉の断片の中ら、私の心の中に埋もれていた何かが、目覚めてくるのを感じていた。
「夏美、これから……どうする」
言乃音ちゃんの言葉は囁くように頼りなかったけど、私の心にしっかりと届いてくる。
言乃音ちゃんのその言葉は、この直後の私達の行動に対する問いかけなのか、私達のこれからの将来に対する問いかけなのか……。
「言乃音ちゃん、さっきの話どう思った?」
言乃音ちゃんも、珍しく困惑した表情を隠すことなく戸惑っているようだった。言乃音ちゃんはとても強い女の子だ。いつも自分の中に答を持っている。その答を信じて、いつも真っ直ぐに一途に突き進んでいる。眩しいぐらいに美しく輝いて。
私は、そんな言乃音ちゃんが大好きだ……。
私は、そんな言乃音ちゃんとこれからもずっと一緒に居たい。
ずっと、ずっと、一緒に……。
私は、言乃音ちゃんを愛している。
「泉川榛花が生きてたなんて……。でも、あれじゃ……」
言乃音ちゃんはそれ以上言葉を続けることができずに、ただ静かに泣いていた。
そうか、言乃音ちゃんは榛花さんが生きてたことの方がショックだったのか。
榛花さん……榛秀くんのお姉さん。
確かに私にとってもそれは驚きだったけど、私にはそれ以上に、碧葉さんと修一さんがそこまでして子供をもうけようとしていることに驚いてしまった。いや、驚いたというよりは感動したというか……それは衝撃だった。
体外受精、そして代理母出産。
自分達の愛した証。
自分達が愛し合った証。
そして、自分達の生きた証。
私の中に湧きあがっている感情が、私の中で……ある決意へと変わるのを、今、私は感じている。
「言乃音ちゃん、そろそろ帰ろ」
言乃音ちゃんはまだ泣いていた。きっと、言乃音ちゃんも私と同じ様に色んな想いが心の中を、体の中を、ぐちゃぐちゃに駆け巡っているに違いない。
私は周りを確認せず誰に見られても構わない覚悟で、言乃音ちゃんを、ぎゅっと抱きしめた。そして、私は言乃音ちゃんに口づけをした。
言乃音ちゃんとキスをするのは、すごく久し振りだった。
五月の植物園で薔薇を一緒に見た時以来だ。
私は私の唇で言乃音ちゃんを感じ、そして私の舌先に私の想いを込めた……。
長い長いキスの後に、言乃音ちゃんは恥ずかしそうに戸惑いながら顔を下に向けた。言乃音ちゃんがそんな顔をするなんて本当に珍しく、そして可愛かった。
「ねえ、来週の土曜日。私の家に泊まりに来て。ほら、花火大会もあるし」
私の言葉に、言乃音ちゃんは少なからず驚いていた。
「それに、連弾のコンクールは本選落ちて全国行けなくなっちゃったしね」
私は言乃音ちゃんに笑って欲しくて、私にできる精一杯の笑顔を作った。
「あと、こないだの話。ちゃんと返事をしたいから」
「夏美……」
言乃音ちゃんの瞳には、まるで幼い子供が母親からはぐれてしまった時の様な、そんな行き場のない不安が宿っていた。私はそんな不安をしっかりと受け止めたくて……拭い去りたくて……言乃音ちゃんを強く抱きしめた。そして言乃音ちゃんの耳元で小さく、でも力強く囁いた。
「大丈夫、私を信じて」
そう言うと、言乃音ちゃんも私を強く、強く抱きしめてくれた。
「言乃音ちゃん悪いね、せっかく遊びに来てくれたのに店の手伝いさせちゃって」
配達から戻った父が、嬉しそうに言乃音ちゃんに話しかけた。
「いいんです。いらっしゃるお客さん皆さん愉快な方ばかりで、私の方こそ楽しませてもらってますから」
父の言葉に、言乃音ちゃんは嬉しそうに答えた。実際、言乃音ちゃんは本当に楽しそうに嬉しそうに、お店の手伝いをしてくれていた。
きっと父も、そんな言乃音ちゃんの姿を見て心が動いたのだろう。父が無邪気に笑う顔を見るのは、とても久し振りのことだった。父はいつも周りを気遣い、作り笑顔ばかりするような人だったから……。
「ちょっと遅くなったけど、二人でランチでも食べに行っておいでよ。祭りの準備も配達も、もう一段落したから、あとはお父さんが店番するから大丈夫だよ」
今日は長良川の花火大会。祭りの準備に合わせて、お酒の注文がひっきりなしに入り、この時ばかりはうちのお店も大忙しだったのだ。
「ねえ、そしたら今、少しだけ話せるかな」
店のカウンターの奥の座敷に座る父に、私は意を決するように話しかけた。
「私、席外そうか」
私のただならぬ意気込みを感じたのか、言乃音ちゃんが気を遣ってくれた。
「ううん、大丈夫だよ。言乃音ちゃんも一緒に聞いて欲しいから」
私は笑いながら、言乃音ちゃんの言葉に答えた。
自分が思っている以上に自分の言葉に気合が入ってしまっているのかと思い、そんな自分自身が可笑しくなって笑いが込み上げてきたのだ。
「よし、そしたらこれでも食べながら話をするか」
それはご近所の老舗和菓子屋さんでいただいた鮎菓子だった。お祭りの時になると、昔からそのお店のご主人がご近所さんに配ってくれるのだ。私も子供の頃から花火大会のお祭りの時期にこの母の実家へ遊びに来て、この鮎菓子を食べていた。鮎の形をしたカステラの中にお餅のような求肥と呼ばれるものが入っている。それは素朴で懐かしく心の温まる味だった。
私たちは言乃音ちゃんの煎れてくれた紅茶を一緒に飲みながら鮎菓子を食べた。
「お父さんはさ、お母さんと結婚して幸せだった?」
「どうした、そんなこと聞いて」
父は私の質問に、いつもと変わらない笑顔で答えた。
「ううん、なんとなく」
そんな父に、私もつられて笑顔になる。父の笑顔のお陰で、私もいつも笑顔でいられる。
「そうだな……。結果的には幸せだったと思う」
「なにそれ、結果的にはって」
父の意外な言葉に少し驚いたが、父のにやけた顔を見て私は安心をした。
「そりゃ、父さんと母さんだって人並みに色々とあったからさ」
「えっなになに? お父さんに愛人がいたとか……。いや、それはないかぁ……お母さんに愛人がいたとか?」
私の言葉に言乃音ちゃんはクスッと笑った。言乃音ちゃんは私の母のことをよく知っていた。だから母が父のことが大好きで、父を一途に愛していたことを、本当にちゃんと判っていてくれたんだと思う。
「そんなドラマみたいな話、あるわけないだろ」
父も笑っていた。そして笑いながら言葉を続けた。
「そんなこと無くても、普通に他人同士が人生を一緒に生きていれば、色々とあるもんなんだよ」
父のその言葉を、私は心の中で何度か繰り返した。
確かに、色々とあったよね、父さん……。
「お父さん、お父さんは酒屋の仕事を継ぐの嫌じゃなかった?……っていうか酒屋の仕事、好きなの?」
私が真面目に聞いているのに、父はそれをはぐらかすように笑顔で答えた。
「どうかな、あんまり考えたことないよ」
そんな父の笑顔に応えるように、少し癪だけど私も笑顔で答えた。
「そうなんだ。なんか、お父さんらしいね」
「そうかぁ」
「うん……」
「父さんが家の仕事を継ごうと思ったのは、母さんと出会ったからなんだ」
私の気持ちを見透かしたのか父は少し真面目な声で、でも少し照れながらそう言った。
「えっ、そうなの。その話、私聞いてない」
父はまた笑った。でもそれはいつもの作り笑いじゃない、本当の微笑みだった。
「父さん、昔は家の仕事があまり好きじゃなかったんだよ。東京の老舗の酒屋っていえば聞こえはいいけど、お祖父ちゃんが開いた下町の小さな、小汚ないただの酒屋だったからなぁ……」
「お父さん……」
私は自分が長年住んだ家を小汚いと言われ、思わず苦笑いしてしまった。
「いや、子供の頃はずっとそう思っていたんだよ。だから、家の仕事を手伝うのも嫌々だったな。本当はもっとお洒落で格好いいアルバイトとかしたかったんだけど……。まぁでも、そのお陰で、母さんと知り合えたんだよな」
「凄い、なんか朝の連続ドラマみたいな話ですね」
私は、そう言った言乃音ちゃんの顔を見て、言乃音ちゃんから『朝の連続ドラマ』という意外な言葉が出てきたことに驚き笑ってしまった。そして言乃音ちゃんも笑った。
「だから、そんなドラマみたいな展開はないって」
私たちの笑い声に、父も笑っていた。
「それで……」
私は笑いを堪えながら、父に話の続きを求めた。
「母さんは、実家で作ったお酒を東京で販売するために営業にきてたんだよ。その頃は母さんのこの家も、酒造元としてここら当たりでは有名だったから、そりゃ母さんも凄く自信満々でさ、何より、母さんお酒が本当に好きだったからなぁ」
「じゃぁなに、お父さんの一目惚れだったの?」
「まぁ、そんな感じかな」
父はまるで少年の様に照れながら、それでも話を続けてくれた。
「父さん、それまで家の商品棚に並んでるお酒なんて、正直、どれも一緒だと思っていたんだよ。ほら、若い頃なんて日本酒なんて飲まないし」
照れながら話す父に、私は思わず合の手を入れずにはいられなかった。
「それで」
「それで、まぁ、母さんのところのお酒は地元では有名だったかも知れないけれど、東京じゃ知名度はないし、大手の酒屋やデパートでは、なかなか販路が開拓できなかったみたいでさ、それで、お父さんの実家のお店みたいな、下町の小さな小汚い酒屋にも、母さん頑張って営業してたんだよ」
「ねぇ、さっきから小汚ない小汚ないっていうけど、お父さんの実家は私の実家でもあるんだからね。私、あの家、あのお店、好きだったけどなぁ。」
そう言いながら、『実家だった』っていうのが正解だったなと思い、少しだけ寂しさを感じた。あの家はもう私達の実家ではないし、あの家、あの店自体が既に存在してはいないのだから。
「いや、だから子供の頃っていうか、若い頃はっていう話だよ……」
そんな寂しさを一瞬感じながら、私はそれでも父の話の続きを求めた。
「で、それで……」
「だから、お母さんと話が合わせられるように必死でお酒の勉強をしたよ。そしたら、なんか不思議なものでさ、お母さんを好きになればなるほど、お酒も好きになっていったんだよな」
「なにそれ、のろけてるの」
父は私の言葉に何も言わず笑顔で答え、そして話を続けた。
「それでも、母さんといざ結婚っていう時は、色々と大変だったよ。ほら、母さんは地元では有名な酒蔵の一人娘。こちらは……」
「東京下町、老舗の小さくて小汚ない酒屋だもんね」
私は笑いながら、父の言葉の後を続けた。私の笑い声と私の言葉に、言乃音ちゃんも笑い、そして父も笑って答えた。
「そうなんだよ」
「母さん、よくお父さんと結婚したよね」
父は遠くを見る様に、懐かしむ様に、店の外に目をやった。夏の午後の日差しが路地に影をくっきりと落としている。どこかで蝉も鳴いている。まるで遠い記憶の一場面と現在が繋がっているような、そんな錯覚を起こす。
「母さん、自分の家で作ったお酒が本当に好きだったんだよ。ほら、夏美がまだ小さい頃は、近所でお祭りがたくさんあっただろう。あの頃はさ、ご贔屓にしてくれるお客さんもまだまだたくさんいて、お祭りもとっても賑やかでさ、お母さんの実家で作ったお酒も凄く人気だったんだよ。お母さん、本当に幸せそうだったよな。母さんのお父さんや職人さん達が一生懸命に作ったお酒を、皆が喜んで飲んでくれてさ、みんな泣いたり笑ったりして、本当に楽しそうにお酒を飲んでくれて。それをいつも嬉しそうに母さんは見てたよ」
父のその眼差しに応えるように、私は真面目に質問をした。
「ねぇ、もう一度、ここでお酒を造って見る気はないの?」
そんな私の質問に、父も真面目な顔で答えてくれた。
「お酒造りはさ、そんなちょっとやそっとの覚悟でできるものじゃないんだよ。それに現実問題、たとえ覚悟があっても出来ることと出来ないことはある」
私の心の中で、父の最後の言葉がこだました。
『覚悟があっても出来ることと出来ないことがある』
確かにそれが現実なのだと思う。
でも私は、諦めたくない……。
「……仕方ないことなのさ」
そう言って父はいつもの様に作り笑顔をした。
「ねぇ、東京のあの家、……あの店、処分したこと後悔している?」
「後悔もなにも、処分しなきゃお金返せなかったんだし、仕方ないよ。銀行でお金借りてお店の経営を建て直そうとしたことだって、お母さんと二人で相談したことだから。結局は失敗しちゃったけど……。それでも後悔は全くしてないよ」
父の作り笑顔は、作り笑顔なのに本当の笑顔と見分けがつかない。子供頃はそれが判らなかったけど、今ならよく判る。それは、とても悲しい笑顔なのだと。
「そっか」
私はそれ以上の言葉を見つけられなかった。
「ただ……、ただ夏美に色々と大変な思いをさせてしまったのは、申し訳なかったなって思ってる」
「そんなの気にしてないよ。私、東京でも、こっちに引っ越して来てからでも、大変だとか思ったこと本当に一度もないよ」
私は父が本気でそんなことを思っているのなら、それは父の勘違いであるとちゃんと伝えたかった。それは父の誤解であると。
そして、ふと思ったのだ……。
「それより、父さんは? こっちに引っ越して来て大変な思いしてない?」
「なんだよ、今日は本当に」
父は不思議そうに笑った。
「父さんだって大変な思いなんてしてないよ。父さん、ここに引っ越して来て良かったと思ってる。母さんのこの家は今はお酒の販売だけになっちゃったけど、それでも、ここにはお酒を本当に好きなお客さんが来てくれるからね」
「ねぇ、私がこの酒蔵っていうか今は酒屋だけど、このお店を私が継いだら嬉しい?」
「嬉しかないよ」
即答する父に私は少し腹が立った。
「どうしてよ!」
「お父さんはさ、お母さんと出会ってお酒が好きになった。そして、お酒が好きになったから酒屋を継いだ。だから、こうして何処で酒屋をやっていても幸せだ」
父はとても優しい眼差しで私を見ていた。
「でも、もし母さんと出会わなくて、お酒を好きにならなくて、それで酒屋を継いでいたら、今幸せかどうか分からない」
「お父さん……」
「だから、夏美がこのお店を継いでくれなくても、お父さんは別にかまわないよ。それよりも、夏美が幸せになる道を夏美が自分で選んでくれた方が、よっぽどかいいさ」
「お父さん……」
私は父の言葉に何も答えることができなかった。私はただこぼれ落ちそうな涙を必死で堪えていた。しかし、それさえも難しそうだった。
「どうした。何か悩んだり迷ったりしているなら、話してごらん」
「お父さん、実は私、付き合ってる人がいるの……」
私の言葉に、私の隣に座っている言乃音ちゃんが無言で反応した。私の顔を不自然にならないように、ゆっくりと見詰めてくれた。
「それで」
そして、今度は父が私に合の手を入れてくれた。私に勇気を与えてくれるために。
「その人とは、私がこっちに引っ越した時から付き合ってるの。私がこっちに引っ越すときに告白してくれて……。私、その人のこと凄く好きだったから、凄く嬉しくて。だから、何も考えずに、ずっと、ずっと好きでいようって思って……」
父は何も言わずに優しく黙って、私の言葉を待ってくれた。
「でも、最近色々とあって、将来のこととか真剣に考えたら、本当にそれでいいのかなって……。私、その人にただ甘えっぱなしじゃないのかなって。私、その人に本当は相応しくないんじゃないのかなって……」
言乃音ちゃんが、私の顔をじっと見詰めていてくれていることに私は気づいていた。でも私は、言乃音ちゃんの顔を見ることができなかった。今はまだ言乃音ちゃんの顔を見ることはできない。今は父に、私の想いをちゃんと伝える時なのだ。
「そんなこと考えてたら、その人とこないだ喧嘩しちゃって、その人を傷つけるような酷いこと言っちゃって……」
私は必死に自分の想いを言葉に置き換えようと、その言葉を探した。
「それで……」
私が言葉に詰まっていると、父は優しい声で、本当に優しい声で、言ってくれたのだ。
「それ、言乃音ちゃんの話だろ」
「えっ! なんで知ってるの……なんで分かるの……」
私は本気で驚いた。そして驚きと共に、父のその優しい言葉と声が身に染みてきて、私の中で張り詰めていた何かを温かく溶かしていった。
言乃音ちゃんも私と同じ様な気持ちだったのかもしれない。言乃音ちゃんも、ただ静かに泣いていた。
「そんなの今さらだよ。誰かを本気で好きになったり、何かを本気で好きになったりしたら、その気持ちは抑えることは出来ないし、隠したりすることも出来ない」
「お父さん……」
そう呟いた私の手を、言乃音ちゃんがギュッと握りしめてくれた。私はそれに応えるように、もう片方の手を言乃音ちゃんのその手の上に重ね、そして力強く握った。
「まぁ、孫の顔が見れなくなるのは残念だけど、夏美と言乃音ちゃんがそれでいいなら、父さんも、それでいいと思うよ」
父のその優しい声に、私は今にも叫んで泣き崩れそうになるのを必死に我慢した。
「本当に……本当にお父さんは、それでいいの? 」
「お父さんは、それでいいよ。ただ、言乃音ちゃんの家は、古澤さんのところは、代々の音楽家だから、お前、お嫁にいくなら相当苦労するぞ。……っていうか、嫁として認めてもらえるかどうかが問題だけどな」
「なんで女同士なのに、私がお嫁さんって決めつけてるのよ」
「まぁ、確かに」
父は笑ってくれた。
父の優しい冗談と優しい笑い声のお陰で、私は少し冷静を取り戻した。そして、そんな私を見て、父は真面目にこう言った。
「でも夏美、言乃音ちゃんのお嫁さんになりたいんだろ?」
「…………」
私は父の言葉に、本当に胸がいっぱいになってしまい言葉を発することができなかった。
「でも、またどうして急に話してくれる気になったんだ、言乃音ちゃんと喧嘩したって言ってたけど……」
そう言いながら父は言乃音ちゃんを見た。言乃音ちゃんも何も言えずに俯き、ただ私の手を力強く握りしめるだけだった。
「こないだ、言乃音ちゃんに……高校卒業したら結婚しようって言われたの……」
私のその言葉に言乃音ちゃんは驚き、俯いてた顔をあげ私の瞳をじっと見詰めた。言乃音ちゃんは何かを私に伝えようとしていたけど、結局、それを言葉にすることはなかった。
きっと、全てを私に預け託してくれたのだろう。
それで私は、正直に私の気持ちを言葉にした。
「でも私、その時は素直に自分の気持ちを言乃音ちゃんに伝えることができなくて。なんか、怖くなっちゃったのかな。だから私……私は……」
私が言葉に迷っていると、父がそっと助けてくれた。
「さすが、言乃音ちゃんだね。しっかりしてる」
「…………」
父の意外な言葉に私はまたもや言葉を失ってしまった。
「言乃音ちゃんは、口先だけのいい加減な娘じゃないよ。たぶん、その辺りの大人よりも、よっぽどしっかりしている」
「…………」
私と言乃音ちゃんは何も言えずに、ただ父の話を黙って聞き、その言葉を受け入れた。
「お父さんは音楽は素人だけど、言乃音ちゃんのピアノは人を感動させる何かがあると思う。そしてそれは、口先だけのいい加減な人間にできるようなことじゃない。それは多分、お酒造りでも音楽でも同じだと思うからね。言乃音ちゃんが小さい頃から、お前に一生懸命にピアノを教えている姿をみても、言乃音ちゃんが一生懸命にピアノに向かう姿をみても、言乃音ちゃんは、決していい加減な娘じゃないって分かる。お前も、そう思っているんだろ。だから、言乃音ちゃんを信頼して、信じて、言乃音ちゃんと一緒になりたいと思っているんだろ」
「……うん」
私はもう限界だった。溢れる涙を、嗚咽を、もう我慢などすることはできなかった。私は言乃音ちゃんの手を握りしめながら、時が経つのを忘れて思いっきり泣いた。
隣で言乃音ちゃんが一緒に泣いているのが分かった。
今すぐこの場で、言乃音ちゃんを抱きしめたい。言乃音ちゃんに抱きしめられたいという思いを必死に堪えながら、私はただ、ただ、泣きじゃくった……。
そして、私の涙が枯れて、心が平静を取り戻した頃に、もう一つの大切な相談を父と言乃音ちゃんに切り出した。
「実はね、もう一つ相談があるの……」
その夜、私と言乃音ちゃんは私の部屋から長良川に打ち上げられる花火を一緒に見た。花火の音と、夜空に咲く無数の光の輝きに、私たちは酔いしれていた。それは私の覚悟を、いや、私達の覚悟を、祝福し鼓舞してくれているようだった。
その晩、私は初めて部屋に鍵をかけた。
そして、部屋の明かりを消した。
私は言乃音ちゃんの瞳に映る花火を見ながら言乃音ちゃんにキスをした。言乃音ちゃんの浴衣を脱がし、私も浴衣を脱いで二人で裸になった。
言乃音ちゃんの白くて透き通るような肌が、花火の輝きに照らされて、真っ暗な私の部屋の中に、本当に美しく綺麗に浮かび上がっている。
私達は花火の音が鳴りやむまで、何度も何度も、互いの体を重ねた。
…………。
…………。
そして花火の音が鳴りやみ、部屋が暗闇と静寂に包まれたとき、言乃音ちゃんが私を優しく抱きながら囁いた。
「夏美、本当に後悔しない?」
私はその言葉に、何も考えず素直に答えた。
「大丈夫。後悔なんて絶対にしない」
そして、私は上半身を起こし言乃音ちゃんの瞳をじっと見詰めた。そこに映ってる私を、そこに映っていた過去を、そしてそこに映っていく未来を、私は想像する……。言乃音ちゃんの瞳に映る全てを私は信じる。言乃音ちゃんと一緒にそれを私は受け止めていく。
「だから私を、板倉夏美を、古澤言乃音のお嫁さんにしてください」
私の言葉に、言乃音ちゃんの瞳から一筋の涙が流れた。
私は私の言葉を、私の想いを、私の全てを言乃音ちゃんにちゃんと伝えたくて、私はもう一度、言乃音ちゃんの唇に自分の唇を重ねた。
そしてもう一度、言乃音ちゃんと私の体が一つになるように体を重ねた。
いつまでも……いつまでも……。
病室に入ると、碧葉さんは想像していた以上に元気な口調で私達を出迎えてくれた。
「どうしたの夏美、そんな驚いたような顔して」
碧葉さんは私の名前を呼び捨てで呼んでくれた。まるで、もう何年も長く付き合ってきた友達の様に。私はそんな碧葉さんに気を許して不用意にベッドに近づくと、私は自分の覚悟の足りなさを痛烈に後悔した。碧葉さんの顔は、その体は、私達を出迎えてくれた明るい口調とはまるで対照的に、痛々しいまでに痩せ細っていたのだ。
修一さんから聞いた話では、碧葉さんは私達と初めて会った直後から少しずつ体調を崩し、六月は一時昏睡状態となったが、今では順調に回復していると……順調に……。
これが順調に回復しているっていうことなんですか?
私はその思いを言葉にはすることはできなかった。いったい、誰にそんなことを訴えかければいいというのだろう……。
「大丈夫よ、心配しないで。これがね、本当の私なんだから」
そう言った碧葉さんの顔には普通の笑顔があった。私と同じ同級生の女の子のごくごく普通の笑顔。でもその普通過ぎる笑顔が、私の心にとても悲しく突き刺さるのだ。きっと心の痛みとはこういう感じを言うのだろうと私は思った。
それでも、そんな私を励ますように碧葉さんは私の手を握った。
その手は冷たく、痩せてゴツゴツしていた……。それでも不思議と私の体に温かい何かが流れ込んでくる。そしてそれが私の心に届いたころ、私の心に突き刺さっていた痛みは消えていた。
「言乃音も、こっちに来て。なんか久し振りなのに、そんな感じが全然しない。可笑しいね」
碧葉さんはそう言って、言乃音ちゃんをベットの近くに誘った。
言乃音ちゃんは私以上に複雑な気持ちだったんだと思う。何故なら、言乃音ちゃんは私以上に碧葉さんの作品に心頭していたからだ。言乃音ちゃんが碧葉さんの作品を私に紹介してくれて、そして碧葉さんの作品が、碧葉さんの紡ぐ言葉が、私達の支えとなった。
「今日は二人が訪ねてきてくれて本当に嬉しいし、とってもラッキーだったわ。実は昨日まで薬の副作用で頭がずっとぼんやりしてたんだけど、今朝はまるで霞が晴れるように頭が冴えているの。だから、こんな日に二人と会えるなんて凄く幸せよ」
碧葉さんの言った『幸せ』という言葉が、私には少しも大袈裟に聞こえなかった。言葉の通り、碧葉さんはとても幸せそうな顔をしていたからだ。
「実は、今日は碧葉さんに相談……っていうか、お願いがあって来ました」
言乃音ちゃんが、まるでピアノ舞台に立つときみたいに碧葉さんの前に進み出た。その姿は、私が小学生の頃から憧れ愛してやまない、凛として輝く古澤言乃音だった。
私はそんな言乃音ちゃんに負けまいと、いや、そんな言乃音ちゃんに相応しくあろうと、碧葉さんの手を力強く握りしめながら背筋伸ばした。
「碧葉さん、私に碧葉さんと修一さんの子供を代理母として産ませてください。私も、私も子供を産んでみたいんです」
「夏美……。ごめんなさい、子供を産んでみたいって、どういう意味で言ってるの?」
碧葉さんは私の言葉に優しく答えながら、それでも、その瞳は鋭く真剣な眼差しだった。
「私、私達……、言乃音ちゃんと私は付き合っています。女同士だけど、ちゃんと付き合っています。私、すごく言乃音ちゃんのことが好きで……愛しています」
「……夏美」
言乃音ちゃんは私の名前を囁き、私の左手を握ってくれた。
「だから、碧葉さんがご自分の生きた証として子供を産みたいように、私も、私も言乃音ちゃんを愛している証として、言乃音ちゃん愛し続ける覚悟を、これからもずっと、ずっと、忘れないようにするために子供を産みたいんです」
碧葉さんの目に、薄っすら涙が浮かぶのが分かった。それでも、碧葉さんは真剣な表情を崩さず、私の言葉に真正面から真摯に答えてくれた。
「ごめんなさい。夏美さんが私たちの子供を産むことが、どうして二人の愛の証になるのかな?」
「それは、私が言乃音ちゃんのことを、これからもずっと愛していくためです。私達にはどんなに頑張っても子供はできないし……私には、言乃音ちゃんの子供を産むことができないから……」
「夏美……」
言乃音ちゃんが私の名前を呼ぶたびに、私の体が温かいもので満たされ、それが私を前へ前へと押し出してくれるのを感じる。
「碧葉さんのために私の体を提供したいっていう気持ちもあります。でも本音は、正直な気持ちは、碧葉さんのためじゃなく、私のために碧葉さんの子供を産みたいんです……。そんな卑怯な気持ちだけど、どうか、私に碧葉さんと修一さんの子供を産ませてください」
私の話を聞き終わると、碧葉さんは言乃音ちゃんをじっと見詰めた。
「言乃音はどうなの。言乃音もそれを本気で望んでいるの?」
「私は、夏美の考えを聞かされて驚きました。そこまでしなくてもいい、夏美の気持ちはちゃんと分かっている、碧葉さんには悪いけど夏美が自分の体を犠牲にすることはない……そう思いました」
「言乃音の言う通りだよ。私の子供産んでくれるっていう気持ちは凄くれしいけど、たとえ夏美が自分自身のためだと言っても、たとえそれでも、そうやって言ってくれるのは嬉しいけど……だけど……」
「碧葉さん、それでも夏美の願いを聞き入れてもらえませんか」
「言乃音……」
言乃音ちゃんの気迫に、さすがの碧葉さんも一瞬、返す言葉を失った。
「碧葉さんと修一さんが命がけで愛し合っている様に、私達も命がけで愛し合いたいんです。……いえ、命がけで愛し合っています。それを、証明するんです」
「…………」
碧葉さんは何も言わず、ただ瞳に大粒の涙を溜めていた。
「命を懸けるっていうことは、自分の命と引き換えにっていう意味だけじゃないと思ったんです。愛し合って子供を作って、その新しい命に二人で無償の愛を与えてゆく。自分達の人生を犠牲にしても、それを犠牲と思わずに喜びや幸せへと変えてゆく。それが命を懸けて愛していくっていう意味じゃないのかなって、そう思ったんです」
言乃音ちゃんの凛とした声が、言葉が、私の中で大きくこだまするように鳴り響く。
「私達はどんなに愛し合っても子供作ることはできません。私達の間には新しい命を宿すことはできないんです。だから私達のこの気持ちが、私達の自分勝手な想いだけではないことを、私達の愛は命がけの本物なんだと、ずっとお互いの心と体に刻み付けていたいんです。そしてその証として、お二人の子供を私達に産ませて欲しいんです」
「……言乃音ちゃん、ありがとう」
私はそう言って、言乃音ちゃんの手を強く握った。
私は、言乃音ちゃんが私の想いを全て代弁してくれたことがとても嬉しかった。
私は、言乃音ちゃんを信じて良かったと心から思った。
私は、言乃音ちゃんを選んで良かったと強く確信をした。
そしてそれは、私の言乃音ちゃんへの愛を強くする。
「お願いです。どうか私に碧葉さんと修一さんの子供の代理母出産をさせてください」
碧葉さんは、言乃音ちゃんと私の顔をじっと見詰めていた。瞳に溜まった涙は今にもこぼれ落ちそうだったけど、碧葉さんは努めて冷静だった。それが碧葉さんの心の強さを表していると思った。
「学校とかどうするの? お腹大きくなったら学校とか行けないよ。……っていうか学校、ひょっとしたら辞めさせられちゃうかもよ」
「学校は辞めてもかまいません。私、自分のやりたいことが、自分の成りたいものが、やっと分かったんです。私、言乃音ちゃんのお嫁さんになりたいんです」
「夏美……」
言乃音ちゃんが囁いてくれる私の名前は、私に勇気を与えてくれる。
何故なら、この名前はもう私だけのものじゃない、言乃音ちゃんのものでもあるんだ。
「ううん、碧葉さん。成りたいんじゃなくて、お嫁さんになるんです。それが私の、私の人生をかけてやりたいこと……。言乃音ちゃんのお嫁さんになって、ずっとずっと、二人がお婆ちゃんになっても、私は言乃音ちゃんのそばで言乃音ちゃんを支え続けるんです。だから、それが分かったら、もう高校は辞めてもいいんです」
「ご両親にも二人の関係を話すっていうことなのね?」
碧葉さんの声は、とても優しく私の心に響いた。
「実は先日、うちの父にはもう話をしました。うちは父子家庭ですから、話す相手は父だけなんですけど……。言乃音ちゃんと私のこと、そして碧葉さんと修一さんの子供を代理母として出産をしたいという私の気持ち、全部ちゃんと話をしました」
「夏美、本気なんだね」
そう言った碧葉さんのその眼差しが、まるでお母さんの様に温かく私を包み込む。
「言乃音も、それでいいんだね」
「私は、夏美が私と別れて、例えば榛秀みたいな普通の男性と付き合った方が幸せになれるんじゃないかと思ってました。榛秀となら普通に子供を産んで、普通に子供を育てて、普通に幸せになれる。私が夏美を好きになったりしたから……」
言乃音ちゃんは涙を流しながら、嗚咽を堪えるように必死で言葉を続けようとした。
「でも、夏美が私に言ってくれたんです。私に……」
それでも言乃音ちゃんは、溢れる涙と嗚咽を堪えるのが精一杯で、それ以上言葉を続けることができなかった。
「それは違うよって私が言乃音ちゃんに言ったんです。言乃音ちゃんが私を好きになってくれたから、私は普通じゃなく特別になれたんだよって。普通の幸せじゃなく特別の幸せを手に入れることができたんだよって。だから、その幸せを、私は絶対に手放したくないんです。これから先、どんなことがあっても……」
私は言乃音ちゃんの腕に私の腕を絡ませ、言乃音ちゃん体をぎゅっと引き寄せた。
「碧葉さん、大丈夫です。碧葉さんの子供を産んだら、ちゃんと碧葉さんと修一さんにお返しします。私には、私の体で碧葉さんの子供を産んだっていう事実と、何処かでその子が元気に育ってくれている……そのことだけでいいんです。そうすれば、私はきっと、これからも言乃音ちゃんを愛し続けることができます。もし迷ったり挫けそうになったりしても、それが私の励みとなります」
碧葉さんは体をゆっくりと言乃音ちゃんの方に寄せ、言乃音ちゃんの手を握った。
「言乃音、幸せだね。こんなに夏美に想ってもらって。でも榛秀は駄目だよ。あの子は普通の男の子じゃないから」
そう言って、碧葉さんは無邪気に笑った。
「……はい。そうみたいですね」
碧葉さんの笑いにつられ、言乃音ちゃんも笑い、私も笑った。
「言乃音、夏美の想いや覚悟を、受け止められる? 受け止め続ける覚悟はある?」
碧葉さんは私と言乃音ちゃんの手をしっかりと握りながら、言乃音ちゃんに問いかけた。
「もちろん有ります。あるに決まっています。だって、私の方が先に夏美を好きになったんです。私の方が夏美をずっと、ずっと愛しているんです。だから……」
「これからも、ずっと愛していく覚悟はある?」
言乃音ちゃんは碧葉さんの問いかけに無言で、でも力強く大きく頷いた。そして私の方に向き直ると、真剣な顔でこう言った。
「ねぇ、夏美。もう一度最後に聞くよ。本当に私でいいの? 私なんかのために夏美の大事な体を、大事な一生を……」
私は言乃音ちゃんの言葉を最後まで聞かず、私の想いをぶつけた。
「言乃音ちゃん、その質問は本当に最後にしないと怒るよ。いいに決まってるじゃない。私はね、言乃音ちゃんが私を選んでくれて本当に幸せなんだよ。だからね、私もそれに応えたいの。それだけなの」
「夏美……」
言乃音ちゃんが、私の名前を呼んでくれる、その名前は今までとはまったく意味が違う。それは私の名前であり同時に私のものだけじゃない。私の名前は……つまり私は、もう言乃音ちゃんのものなのだ。
「うん、判った! いいよ、夏美ちゃん。私の子供を産んでよ。お互いの利害関係が完全に一致したっていうことだもんね。ドンっと私の子供を産んじゃって」
碧葉さんは、大きな声と大きな笑顔でそう言った。それは、二度と忘れることのできない様な、本当に素敵な笑顔だった。
「碧葉さん……」
「……碧葉さん」
私も言乃音ちゃんも、碧葉さんのその眩しすぎる笑顔に返す言葉を失っていた。
「ごめん、ごめん、ちゃかして。言乃音さん、そして夏美さん、どうか私と修一の子供を産んでください。そして、二人でいつまでも幸せでいられるように頑張ってください。応援するから」
「碧葉さん、ありがとうございます。本当にありがとうございます」
その時、私の心にはそれ以外の言葉が全く浮かんでこなかった。
碧葉さんの眩しすぎる笑顔と優しさに、私の心からそれ以外の言葉が薄くぼやけてしまったような感じだった。
「こちらこそ、本当にありがとう。でもね、ちゃんと言乃音の両親や学校の先生にも相談しなきゃだめよ。それでもし、この話が流れたとしても、私は少しも気にしたりしないから。いい、絶対に約束よ」
「はい、分かってます。ちゃんと話をして、私の覚悟を、ちゃんと形にしてみせます」
その後しばらく三人で他愛のない話をして、私と言乃音ちゃんは、碧葉さん病室を後にした。
碧葉さんの、あの笑顔を心に刻んで……。
そしてその数日後、碧葉さんが体調を崩し再び昏睡状態になってしまったと、修一さんから連絡を受けた。碧葉さんが修一さんに私達の話をしておいてくれて、碧葉さんの体調が深刻な状態になった時だけ、私達にも連絡をするように頼んでくれたらしかった。
つまり、碧葉さんの昏睡状態は……それほど深刻な状態ということなのだ。
こうして、私たち十七歳の夏休みは、静かに終わろうとしていた。




