第一話 物語は始まった
CDラックからお気に入りの一枚を取り出し、プレイヤーにセットする。
「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帖より」
演奏 レオンハルト・グスタフ
バッハが二番目の妻に贈った小作品集。レオンハルトさんのチェンバロがとても心地よくスピカ―を鳴らす。あぁ、レオンハルトさんが亡くなる前に彼の演奏を、僕の地元、名古屋で聴けて本当に良かった。老いてしまった偉大な音楽家が、舞台の上で独りチェンバロを独奏するその姿を思い出しながら、僕は先日届いたばかりのドレスに袖を通す。バロックな音楽にぴったりと似合うゴシックなドレスに身を包み、僕は鏡の中に写る自分を見詰めていた。
そして、その向こうに何かを感じ取ろうと、そっと目を閉じた時……。
「ハルちゃん、本当にその格好で東京行くつもりなの」
母が突然部屋の扉を開け、僕を見るなりそう言った。
「だから、僕の部屋に入るときは、ちゃんとノックしてからにしてよ!」
母が突然僕の部屋に入って来るのは、母が精神的に疲れている時だ。僕は母に悪態をつきながらも、それでもどこかで母を許していた。父と姉が居なくなって、母と二人で暮らすようになって一年。それまでも、父と姉は家を留守にしがちだったが今は違う。正真正銘、本当に母と二人だけなのだ。
「ハルちゃん、そろそろ、その僕っ子キャラやめたら? そんな素敵なドレス着て、そんな綺麗な髪の長い女の子が、『僕』って、やっぱり変よ」
母はいつものように不敵に微笑んでいた。
僕だって、『僕っ子キャラ』を止められるものなら止めたい……。
「それに、いくら東京デビューだからって、ちょっと気合い入れ過ぎじゃない」
鏡の前で、昨日届いたばかりのドレスを試着する僕を見ながら母が意地悪そうにそう言う。でももちろん、母の笑った顔を見れば、それが本当の意地悪な言葉なのではなく、僕に甘えるように、僕をからかっているのだということは直ぐに分かった。
「だから、これは会場で着る衣装だから。こんなの着てバスに乗れるわけないじゃん」
こんなのとは……。黒地のワンピースに白のフリルをふんだんにあしらった、ゴッシクでロリータなドレスのことだ。自分で言うのもなんだけど、僕はこの手の衣装がとても良く似合う。頑張って伸ばした母譲りの自慢の黒髪、日本人の祖父とフランス人の祖母から受け継いだ少しだけ日本人離れした顔立ち。それらが、僕をそう見えるように魅せている。
「あら、新幹線で行かないの?」
母は僕の服装の趣味には、あまり関心がないようだ。
「お金ないから、行きはバスにする……」
母が関心を持てないことを、無理やり母に関心を持たせることは至難の業である。だから僕も、母に無理やり何かに関心を持ってもらおうと思うことを止めてしまった。それは、いつの頃からだっただろうか……。
「お金だったら幾らでも貸してあげるのに」
実際、母はお金を幾らでも持っているようだった。もともと父の実家は資産家だったし、母もそれなりに仕事で稼いでいたし、そして何より、父の死によって莫大な生命保険が母の手元に転がり込んできたのだ。その額はちょっとしたもので、父の死に不審な点がないか保険屋さんがかなり念入りに調査をしたぐらいだった。そして何より驚いたのは、母自身だった。何故それほどの生命保険が父にかけられていたのか、妻である母自身が知らなかったのである。
こうして、夫である僕の父を亡くし、代わりに莫大なお金を手に入れた母は、まるで別人のような生活をしだした。いや、別人という言い方は相応しくないかもしれない。母の中で抑えられていた何かが、一気に弾けだしたのだ。
そして僕は、その何かを、幼いころから薄々は感じていた。だから、今の母の姿や言動をみても、別人のよう……とは思えないのだ。
「それじゃハルちゃん、ひょっとして、またお姉ちゃんの服借りていくつもりなの?」
母のその言葉で、僕は一気に現実に引き戻された。新調したばかりのドレスを着て、正直、少し浮かれていた気持ちが、いつもの自分にすっかり戻ってしまっていたのを実感した。
「だって、新しい服買うお金もないし……」
そういう僕の言葉に、母は感情の抜け落ちた声で答えた。
「まぁ、お姉ちゃんも、あんたが着てくれれば喜ぶかもね」
僕は姉さんがこの家から居なくなってから、姉さんの服ばかりを着るようになった。実際、姉さんと僕は双子で背格好も一緒だったので、姉さんの服を僕は手直しすることなくそのまま着ることができる。
でも、姿形が姉さんに似れば似るほど、僕は姉さんを遠くに感じるのだ。それほど姉さんは、僕にとって手の届かない憧れの存在だった。
「母さんも、東京で仕事なんでしょ」
僕がそう母に問いかけた時には、母は僕の部屋を後にしていた。恐らく、僕への興味はその程度か、母の気晴らしは十分に目的を達成したのだろう。
夜行バスかぁ……。変な人と相席になるのは嫌だなぁ。
そんなことを思いながら、僕はパソコンのモニターと睨めっこをしていた。
あっ! 女性専用のセパレートシートっていうのがあるじゃん。
これなら変な人が隣になることもないし。これを予約しようかな……。少し値段が高いけど、それでも新幹線代に比べたらかなり安いし。
夜行バスに乗るには、いったん名古屋駅の西側の噴水に集合することになっていた。そこで係員が誘導してくれる手はずなのだが…あれ? 僕が予約したバス会社以外にも複数のバス会社がバスの乗客を誘導していて、噴水前はちょっとしたパニック状態になっていた。そこで僕は、集合場所の案内を無視して、直接バス乗り場を探すことにした。
バス乗り場って、ここで間違いないよね? 人もたくさん並んでるし……。
「すみません、ウィルバスの東京行きって、乗り場はここでいいんですよね?」
僕は、いかにも運転手さんらしい制服を着た人に尋ねてみた。
「はい。ただ、申し訳ありませんが、現在バスが三十分ほど遅れております。さらに大変に申し訳ありませんが、ご予約いただいたバスが故障しまして、現在、代車を手配させていただいております」
彼はとても申し訳なさそうに早口でそう答えた。恐らく、僕と同じ様な質問に同じ様に何度も答えているのだろう。その運転手さんらしき人に、僕は少し同情しながら、それでもどうしても気になることがあった。
「代車ですか? 僕、独立席のセパレートタイプを予約していたんですが……」
「大変に申し訳ございません、ご用意できるバスは全て複座式になっておりまして、座席がグレードダウンしてしまう分の差額金は、後日お客様にご返金をさせていただきますので、何卒ご了承下さいませ」
その人は、さらに申し訳なさそうに答えた。確かに、どうにもならない状況の中で最善を尽くそうと頑張っているような感じは伝わってくるので、僕はあまり強いことが言えなかった。それでも……。
「いや、でも、それって相席になるっていうことですよね?」
「申し訳ございません。ただし、女性のお客様の隣に男性のお客様が座るような座席配置には決してなりませんので、どうかご安心ください」
僕はそれ以上の会話を続けるのを止めた。寒さが身にしみる真夜中に、僕以外にも大勢の人がバスを待っているのだ。僕だけが文句を言っても仕方がないし、文句を言っても状況が好転するとは到底思えない。僕はバスを待つ人達の列の最後尾に移動し、バスを待つことにした。
実際、バスは一時間ほど遅れて到着した。
先ほどの運転手さんらしき人が、乗客一人ずつを乗車名簿で丁寧に確認をしながら、座席を案内してくれる。大きな声で僕の名前が呼ばれた。
「泉川 榛花さん。座席は七Aになります」
僕は自分の名前が呼ばれると、少しドキッと緊張した。結局、僕は十七歳の今日まで、独りでこの愛知県から出ることは無かったのだ。いや、正確には高校は隣の岐阜県に通っているのだけれど……。それでも、こうして独りで東京に行く日が来るなんて……。そんな事を思いながら、僕はトラベルケースをバスの係の人に預け、手荷物だけを持ってバスに乗り込んだ。
「あの、すいません、隣の席なんですが、宜しいですか?」
僕が座席に座ると、僕と同い歳ぐらいの女の子が話しかけてきた。よろしいですかって聞かれても、僕に断ることなんて出来ないよね……と心の中で苦笑いしながら、僕は話しかけてきた女の子を見上げた。よく見ると彼女はまるで中学生のような雰囲気の子だ。でも雰囲気は中学生だけれども、何か、特別に大人っぽいような表情をしていた。そのアンバランスさに僕は少しだけ興味をひかれた。
「なんか、大変でしたね。でもちゃんと代わりのバスが来てくれて本当に良かったですよ。私、どうしても明日の朝までに東京へ行かなくちゃいけなかったので」
彼女はとても自然に、まるで自分のお友達に話しかけるように僕に喋りかけてきた。普段の僕ならお喋りは嫌いじゃないし、苦手でもないんだけど、今夜ばかりは少し違った。
「そうなんだ、まぁ僕も同じだから、本当に良かったよね。それに、あれ以上外で待たされたら我慢できないもんね」
僕は当り障りのない返事をして、早目に会話を終わらせようと思った。ところが彼女は僕とは違い、少し興奮気味で、そのたかぶった気持ちを誰かと会話することで紛らわそうとしているみたいだった。
「本当ですよね! 私も我慢の限界でしたよ。早くサービスエリアでトイレ休憩したいですよね」
我慢の限界って……そっち! 確かに、あの寒さではおトイレに行きたくなるけど……。僕は屈託なく喋る彼女に、緊張した心が少し緩んでゆくのを感じていた。
「荷物邪魔ですよね、今どかしますね」
そういうと彼女は足元の手さげ鞄を自分の足元に移動させた。ピアノの鍵盤がデザインされた手さげ鞄、その中には分厚い……楽譜かぁ。あの蒼く見慣れた表紙はヘンレ版の楽譜。そうか、この子、ピアノ弾きなんだ。それで僕は、先ほどの彼女に対する何処か不思議な印象に納得がいった。まるで中学生の様に幼くあどけない容姿とは裏腹に、とても強い意志を感じさせる表情。それは厳しいピアノの練習に日々向き合っている人間に共通する顔だ。
彼女は鞄から携帯電話を取り出した。スマホじゃなくガラ携なんだと、僕はそこでも意味もなく納得してしまった。なんか、素朴で力強い万葉調、それが彼女の印象だ。そう感じると、なんだか僕は途端に心がほっと安心するのを感じた。だから、彼女が携帯の次に鞄から取り出した、その本の題名をしっかりと確認することができた。
「その詩集、ひょっとして、深津碧葉の『愛の証』?」
彼女の驚いた顔は、とても可愛かった。たぶん、その大きな瞳と表情豊かに動く彼女の口元がそう思わせるのだろう。彼女がどんなピアノを弾くのか、少し興味が湧いてきた。
「凄い、深津碧葉をご存知なんですか?」
「うん、まぁ……、少しだけね」
それは嘘ではなかった。深津碧葉は僕の友達だ。いや友達の友達なのかな……。いや違う、きっと今は本当の友達なんだと思う。でも、僕は彼女のことを少ししか知らない。それって、本当の友達っていえるのだろうか……。
「凄いですよ。深津碧葉を知ってる人なんて、正直、私の周りには誰もいませんでしたから」
彼女は今まで以上に興奮して僕に話しかけてきた。夜行バスなんだから、もう少し小さな声で話した方がいいのにと思いながら、それでも、彼女の愛らしい喋り方は、それを許してしまう不思議な魅力があった。それに、深津碧葉の名前を知っている人間がいるっていう事実が、僕自身も嬉しかった。
碧葉ちゃん、碧葉ちゃんの熱心な読者がここに一人いたよ。
「私は板倉夏美って言います。えっと、榛花さんですよね」
その言葉を聞いて、それまで緩んでいた心の緊張が、一瞬で張り詰めた糸の様に鋭く体を縛ってゆくのを感じた。どうして僕の名前を彼女は知っているんだろ。どこかの舞台で彼女と会っただろうか……。
「あっ、ごめんなさい。さっきバスに乗車する時に私、榛花さんのすぐ後ろにいたから、それで運転手さんが名前を読み上げているのを聞いちゃって……」
僕がよほどひどい顔をしたんだと思う。彼女は慌てて、そしてとても申し訳なさそうな顔をしていた。その申し訳なさそうな顔が、とても愛らしくて、僕の頭の中で激しく駆け巡っていた様々な思考はたちまち停止してしまった。
「僕は泉川榛花……。よろしく」
僕は少し迷って、彼女に僕の名前を告げた。
「泉川さんって、僕っ子キャラなんでか? 凄くお綺麗なのに、とっても可愛いです」
僕の安堵が彼女に伝わったのか、板倉さんの顔はまた晴れやかになっていた。その晴れやかな彼女の雰囲気につられて、ついつい僕も余計な会話を続けてしまった。
「そうかな、ありがとう。板倉さんは、ピアノのレッスンか何かで東京へ?」
「いえ、そんな、わざわざ東京へレッスンに行くなんて、うちはそんなお金持ちじゃないですから……」
その言葉を聞いて、僕は板倉さんは相当にピアノのレッスンを積んでいるんだなと思った。そうでなければ、ピアノの道を極めようと思ったら、相当のお金がなければその道は開かれない……ということに気がつきはしない。
「でも、どうして私がピアノを弾いているってわかったんですか?」
「ほら、さっき楽譜が見えたから」
「あっ、これですか?」
そういうと板倉さんは、楽譜を鞄から取り出した。見慣れた表紙に楽譜の厚さから、それはやはり、ベートーヴェンのピアノソナタ集・下巻だった。
「私、友達に影響されてピアノ始めたんですけど、その友達が、ベートーヴェンだけはちゃんと弾けるようにした方がいいって。だから、毎日、毎日、ベートーヴェン弾いているんです」
板倉さんは、とても楽しそうにそう言った。
ベートーヴェンは古典音楽の基礎を勉強するなら最高の教本になる。そして古典音楽がちゃんと弾けなければ、他のピアノ曲も弾けない……。なるほど、お友達もかなりのピアノ弾きなんだなと思った。
「泉川さんも、ひょっとしてピアノを弾かれるんですか?」
僕はその言葉になんて答えていいのか一瞬迷った。いや、迷ったのではなく戸惑ったのかもしれない。
「ほら、泉川さんの手って、まるでピアノ弾きさんみたいに大きくて、それに……、なんか、友達の手に似てるかも」
板倉さんは、ますます嬉しそうに話していた。おそらく、ピアノが本当に好きなんだろう。
そして彼女は、自分の掌を大きく開いて僕の前に差し出した。意図していることは直ぐに分かった、自分の掌に僕の掌を重ねて、大きさを比べようというのだ。ピアノ弾き同士ならよくある挨拶の一つだ。
僕も無意識に彼女の掌に自分の掌を重ねようとしていた。そして、彼女の掌をよく見た瞬間に驚いた。僕よりも一回りほど小さいのに、指の節々はとても力強く、そして指の形が異様に変形をしていた。しかしその異様な様は、毎日厳しい修練を積んでいるピアノ弾きなら当然なのだ。小さな手でオクターブを掴もうと毎日努力していると、それを叶えることができるようにと、少しずつ指が変形をしてゆく。
そんなことを思いながら、僕はそっと、板倉さんの掌に自分の掌を重ねた。
板倉さんの掌は、とても温かった。あの寒いバス停で長時間バスを待っていたのに。僕の手はこんなに冷え切っているのに、彼女の掌の温もりは、まるで彼女の心を映すかのように僕の心に伝わってきた。
「ほら、やっぱり、泉川さんの手って大きいですよ。それに、とっても綺麗でしなやかで……」
僕は板倉さんの話を遮るように自分の掌をそっと離した。
「ピアノはね、昔、少し弾いてたんだ。でも、昔の話だから」
僕は、板倉さんの楽しそうな気持ちを少しでも害さないようにと、精一杯、優しい言葉でそう答えた。
「それにほら、そろそろお喋り止めないと、他のお客さんにも迷惑かかるしね」
そう言うと、板倉さんは少し顔を赤らめ周りを見た。自分が周りのことを気にせず喋っていたことを少し恥ずかしく思ったのかもしれない。でもそんな無邪気に恥じらう彼女が、少し可笑しく可愛かった。
僕はイヤホンを耳につけ、スマホの音楽アプリを起動し、メンデルスゾーンの無言歌集をタップした。メンデルスゾーンは個人的にはあまり好きじゃないけど、何も考えたくない時にBGMとして聴くには最適だった。
僕は目をつむり、何も思い出さないように、心を空っぽにするように、無言歌を奏でるピアノの音に集中した……。
「泉川さん、サービスエリアに付きましたよ。おトイレ、行きませんか?」
板倉さんが僕の体を優しく揺すってくれた。どうやら、僕は自分でも気が付かないうちに寝てしまっていたようだった。
「うん、ありがとう。僕も一緒に行くよ」
浜松のサービスエリアはとても広く、そしてとても寒かった。僕ら二人は、小走りでおトイレを目指していた。他の乗客の人たちも同じだ。真夜中に冷たい風から逃げるように走っていると、目の前にコンビニが見えた。
「ごめん板倉さん、僕、コンビニで買いたい物あるから、先に行っていていいよ」
「分かりました。じゃ、先に行きますね」
板倉さんは、他の乗客と一緒に小走りで駆けていった。
コンビニを出た僕は、営業時間を過ぎてしまったカフェテリアの寂しく取り残された椅子に座って、自販機のココアを飲んでいた。子供の頃、夜寝付けないと姉さんがココアを作ってくれた。ミルクをたっぷり入れた温かいココア。ココアには体と心を温かくする魔法の力があるんだよと姉さんはいつも言っていた。双子なのに、姉さんは、まるで、いつも僕の母さんみたいだった。
ココアの様に、いつも優しく僕を温めてくれていた姉さん。
「泉川さん、ここに居たんだ。バスの時間まで少し時間ありますよね。ここ温かいし、私も何か飲もうかな」
板倉さんはそう言うと、自販機で飲み物を買ってきた。彼女が選んだのは昼下がりの紅茶シリーズのロイヤルミルクティー。彼女らしいなと思いながら、僕は頭に浮んでいた姉さんの思い出をどこかに消し去りたかった。
「板倉さん、東京にはレッスンを受けるために行くわけじゃないって言ってたよね」
「はい、そうなんです。実は、連弾の舞台があるんです。連弾っていうか、二台ピアノなんですけどね」
「二台ピアノかぁ。舞台で二台ピアノって凄いね。それは確かに気合が入るよね」
「はい、そうなんです!」
板倉さんは、とても嬉しそうに頷いた。きっと、本当に、本当にピアノが好きなんだな。
大切な人との連弾。それも舞台で二台ピアノ。想像しただけでも僕も、なんだか嬉しくて興奮してきた。大切な人との連弾……。
「連弾の相手は、ベートーヴェンを勧めてくれたお友達?」
板倉さんは、顔をめいいっぱい赤らめた。分かりやすい子だなと思い僕も自然と微笑んでいた。
「はい、そうなんです。小さい頃から一緒にピアノを続けてきた、とっても大切なお友達なんです」
板倉さんの口調は、照れながら、ゆっくりと、でもとても確かなものだった。その様子が、なんだかとても可愛かったので、僕は少し意地悪なことを言ってしまった。
「ひょっとして、そのお友達は、恋人さんとか?」
正直、僕は会話の雰囲気を和ます冗談のつもりで言ったのだけれども……。
「はい、そうなんです。とっても、とっても大切な、恋人なんです」
今まで板倉さんの優しい雰囲気とは打って変わって、その瞳はとても真剣な眼差しで、その言葉はとても強い意志を含む様に、僕の心に響いてきた。
「ごめん、なんか、立ち入ったこと聞いちゃって」
「いいんです。私……私達……、恋人同士なんですけど、岐阜と東京でなかなか会えなくて。それに、私たちのことを、周りの人に喋る機会なんて今まで全くなくて、だから、ちょっと……」
彼女はミルクティーの缶を両手の間に挟み、その間で転がしながら、少しうつむいていた。
出会ったばかりなのに、板倉さんのことはよく判るような気がした。彼女はとても優しくて、穏やかで、それでいて意志がとても強い。そんな彼女が一所懸命に一途な恋をしている。その様子は、僕の心の中で硬く冷めていた何かを、ゆっくりと温かく溶かすようだった。
「榛花さんは、彼氏さんとかいないんですか? 榛花さん、凄く綺麗だし、素敵な彼氏さんいそうなんですけど」
板倉さんがにこやかに微笑みながら反撃してきた。きっと、それ以上に自分達のことをあまり喋りたくなかったのかもしれないし、沈みかけた空気をかき消したいという彼女の優しさだったのかもしれない。
「残念ながら、彼氏はいないよ。ナンパはたまにされるけどね」
僕は笑いながら正直に答えた。恋人がいなくて寂しい思いをしているのは本当かもしれないし、街で声をかけてくる男はチャラくて軽い男ばかりでウザ過ぎると思っているのは事実だった。
そして、そう答えながら、そうか僕はやっぱり本当は恋人が欲しくて寂しい思いをしているのか……という自分の想いに、少なからず戸惑っていた。
「そうなんですか? 泉川さんみたいな人なら学校でモテモテだと思うんですけどね。ほら、大学って高校と違って素敵な男の人も多そうだし」
板倉さんは、その言葉を、ごくごく自然に言い放った。
「いや、ちょっと待って! 僕、大学生じゃないから。普通に高校生だから」
「そうなんですか? 私と同じじゃないですか。私、絶対に泉川さんは年上のお姉さんだと思ってましたよ。泉川さんと相席になった時に、とっても頼りになりそうなお姉さんが隣の席で、本当に良かったなって本気で思いましたから」
板倉さんは驚きながら、そして無邪気に笑いながらそう答えた。僕もつられて笑い出し、やがて二人一緒に大笑いをした。
「そうだ、僕のことは榛花でいいよ。」
板倉さんは、少し前に会ったばかりなのに何かずっと友達だったような、そんな不思議な感覚を与えてくれた。
「ありがとうございます。じゃ榛花さん、私のことも夏美でいいですよ」
「うん分かった、じゃ夏美ちゃん、そろそろバスに戻ろうか」
バスに戻り座席に座ると、夏美ちゃんは先程と同じように楽譜の鞄を大切そうに抱えた。それは大事なお守りを抱えるような仕草だった。
「ところで、二台ピアノは何を弾くの?」
僕は何も考えずに、無意識にその質問をしてしまった。
「ミヨーのスカラムーシュです」
だから、夏美ちゃんのその答えを聞いたときに、全身に鳥肌が立つのと同時に、不意に後ろから頭を殴られるような、そんな強い衝撃に襲われてしまった。
ミヨーのスカラムーシュを舞台で弾く。それは連弾をするものにとっては憧れであり一つの大きな到達点だからだ。それも舞台でピアノを二台用意して弾くとなれば、それはもう、相当の研鑽と覚悟が必要になる。そのことは僕自身が身をもって経験して分かっていることだった。何故なら僕もかつて、スカラムーシュを姉さんと舞台で一緒に弾くことを夢見ていたのだから……。
僕は再び、深い闇のような記憶の泉から否が応なくよみがえってくる姉さんの思い出をかき消すように、頭も心も空っぽにするように、メンデルスゾーンの無言歌を奏でるピアノの音に耳を傾けた。そして、ざらざらと掻きむしられた心が元に戻るころに、ようやく僕はバスの揺れを遠くに感じながら眠りに着くことができた。
早朝、バスは新宿のバスターミナルに到着すると、慌ただしく乗客と荷物を降ろし次の停車場へと去っていった。その直後、夏美ちゃんが泣きそうな声で僕にうったえかけてくる。
「榛花さん、どうしよう! 私、バスの中に携帯電話を忘れちゃったみたい……」
僕はとりあえず、バス会社の緊急連絡先に問い合わせてみた。とても丁寧に対応をしてもらえたが、残念ながらバスは次の停車地に向かっているので、新宿に引き返すことはできないと伝えられた。
「恋人さんに連絡とってみる? どこかで待ち合わせとかしてるんじゃないの?」
泣きそうな顔で途方に暮れている夏美ちゃんに、僕は話しかけた。
「本当は迎えに来てくれるはずだったんですど、色々と忙しくて迎えに来ることができなくなったって、さっきメールをもらったばかりで……」
夏美ちゃんは、いよいよ本当に泣き出してしまいそうだった。
「だけど、二台ピアノで練習できるレッスン室を用意したから、新宿に着いたら、その場所を教えてくれるって……」
夏美ちゃんの大きな瞳には、すでに涙がこぼれ落ちそうなぐらい溜っていた。
「じゃ、とりあえず、僕のスマホから恋人さんに連絡してみる。大丈夫、ちゃんと連絡が付いたら、恋人さんへの通信履歴は、夏美ちゃんの前でちゃんと削除するから」
「ほんとですか、凄く助かります。あっ!でも、電話番号なんて正確に覚えてない……」
確かに、僕だって電話帳に登録した電話番号なんて、いちいち覚えていない。それが親や友人など親しい人であったとしても。だから夏美ちゃんが恋人さんの電話番号を覚えていないとしても、薄情だなんて決して思ったりはしなかった。しかし、こういう時は、電話番号を覚えていないと困ってしまう。
「でも、メアドなら覚えてます!」
「いいよ、なら僕のアドレスからメール送ってみて。送受信の履歴はちゃんと削除するから、恋人さんの個人情報は心配しなくていいから。ただ、僕のアドレスからメールを送って、夏美ちゃんからの連絡だって恋人さんが信用してもらえるかどうかが問題だけど」
それに対して夏美ちゃんは、晴れやかな顔で自信をもってきっぱりと言い切った。
「大丈夫です。私達にしか分からない言葉を載せて送りますから」
その自信に満ちた力強い言葉を聞いて、僕はなんだか恋愛っていいなと羨ましく思った。
夏美ちゃんが僕のスマホを使って恋人さんと数回メールのやりとりをした後、一時間ぐらい僕たちは新宿駅に併設されたバスターミルの待合室にいた。べつに新宿駅のどこかで待ち合わせてもよかったのだけれども、もともとの待ち合わせ場所がここだったので、そうすることにしたのだ。
そして、さらに三十分が経過したころ……。
「夏美、もう本当にどんくさいんだから! 携帯の他にバスに忘れたものなかった?」
息を弾ませながらそこに現れたのは、凛とした声と凛とした容姿で夏美ちゃんに話しかける美少女だった。彼女の声や容姿、それは、彼女が僕の姉さんと同じ種類の人間なんだなと僕に直感させた。大きな舞台で大輪の花を咲かせることのできるオーラをもった選ばれし人間……。
そして彼女の存在感の大きさに、僕は肝心なことに気が付くことに遅れてしまった……。
「榛花さん、こちら、私の連弾のパートナーで、古澤言乃音さんです。」
パートナーという言葉を発する時に、夏美ちゃんの顔がこれ以上に無いぐらいに真っ赤になった。
なるほど、そういうことですか。
僕は正直少し驚いたけど、でも、不思議なことに、夏美ちゃんと古澤さんは、とてもお似合いのカップルの様に思えた。二人が親友を超えた特別な関係で、更にその姿がとても幸せそうに見えたので、僕もなんだか心が少し浮かれてしまった。だから迂闊にも、この古澤さんに、僕は僕のフルネームを何の躊躇もなく伝えてしまったのだ。
「初めまして、僕は、泉川榛花です」
僕の名前を聞いて、案の定、古澤さんの顔が一瞬緊張した。その一瞬の表情で僕は確信した。間違いない、やはり彼女は、古澤言乃音さんは、こちら側の世界の人間なんだと。
こうして、僕らの物語は始まった。