M系軸
講義室のスピーカから、始業を伝える音が流れていた。
鐘の音だ。
魔法道具であるスピーカが、空気を直接揺り動かすことで、『音』となっていた。
作り出される音は、どこか遠くの国にあった、鐘の音がベースになっているらしい。
そんな始業の鐘の中で。
慌ただしく長机につく生徒たちの前の教壇へ、『先生』が立つ。
──魔導次元解析学。
それが、この先生の専門であり、トリスタン魔法学校で彼が立つ世界だ。
今日という日は、新学期、新入生らにたいしての第一回の講義だ。
……まぁ、講義室にいる生徒の中には、『何年間か見覚えのある顔』が混じっていた。
「……」
初講義だが挨拶はなかった。
自己紹介もない。
いきなり『授業』が始められた。
スピーカと同じ魔法の原理で、声が大きくなる。
モトの声による空気の揺れを、もっと増幅させているだけではあるのだが。
それだけだが、具体的な形をもたないものを出力する魔法は、それなりの難易度が必要となる。
「魔法とは、不思議な力だ。物ごとの『動作』には全て、存在しているエネルギーの変換によってなされる。物が落ちるエネルギが、位置エネルギを運動エネルギに変換して生じるように」
魔導次元解析学の先生──エレルオは、生徒の反応を見るために、講義室を見わたす。
静かだ。
大半の生徒が、死んだ人形のような顔をして、見ため真剣マジメをよそおい聞いているだけであった。
しかし、エレルオは気にしなかった。
いつものことだ。
好んで勉強をするものは少ない。
勉学は苦行なのだ。
エレルオ先生は、生徒に勉学を『強制』するような性格をしてはいなかった。
生徒のやる気に無関心、ともいう。
そもそも。
魔法とは、単に使うだけなら学ぶ必要はないのだ。
生まれた子が立ち歩くように、話すように、呼吸をするように、魔法もまたあたりまえのように使えるようになるものだ。
あらゆる生物を同じく、進化とは環境適応と魔法とのついあいなのだ。
空を飛ぶ竜も、地に張る菌糸も変わりはない。
「しかし魔法にはなかった。魔法という結果、あるいは過程をなるエネルギは存在しなかった。我々のいる、また観測可能な世界には、だがな」
エレルオは、最前列の長机に座っている生徒を指さす。
顔なじみの生徒だった。
エレルオと目があったのだ。
何より他の生徒は遠い。
ほとんどの生徒は、三列目以遠だったのだ。
机一列分の中立境界線が引かれている。
「生徒ルーベン。キミには三度、同じことを教えたはずだ。……我々の使う魔法、そのエネルギは何だ」
ルーベンの、起きているのか眠っているのかわからない、細い目の顔が左右に振られた。
「え? あっ、はい」
やや遅れ気味の反応。
しかしそれは、ルーベンがのんびりとした性格だからなわけではなかった。
ルーベンは、一度、考えてから行動する性格のためだ。
考えて動けば遅くもなる。
「……極論の結論を言えば、オレたちの暮らす世界に魔法事象は存在していません。だから魔法に変換されるエネルギも、観測されていません。観測されない、できないということは、存在していない……かな?」
ルーベンの自信なさげな物言い。
間違ったことは言っていない。
エレルオは頷く。
「そのとおりだ。──この世に、この世界には魔法の類は、まったくの観測不能であり存在しないのだ」
「であるが」とエレルオは話を続けた。
背後の、巨大な黒板にさざなみのようなものが走る。
魔法で練られた黒板だ。
黒板には、白色の蛇のようなものが這っては、図形を作り上げていく。
図形には、三つの軸、ベクトルが伸びていた。
──X軸。
──Y軸。
──Z軸。
いわゆる三次元で表記されるベクトル図だ。
「我々は三次元の存在であることは知っているはずだ。しかし魔法の存在する次元は違う。観測できない『別次元』に存在している。しかしそれは、三次元ベクトルに、もう一本の軸を足すことを意味していないことに注意だ。黒板の三軸は、三次元のベクトルではない」
……。
生徒の反応はなかった。
だから何だ、と考えるのが大半だ。
生徒のほとんど──少なくとも九割──は、トリスタン魔法学校を卒業するために、仕方なく講義を受けに来ているだけだ。
そのことをエレルオは、悲しいことだとは考えていなかった。
世の中の大半の魔法知識なんてものは、物理の知識と同じく、中世時代的な経験則で停滞したままなのだ。
興味がない、知らないことこそが普通だった。
だがそれでも、生徒らにエレルオの知識を伝えていくのが仕事だ。
「黒板にあるのは『M系軸』。魔法作用が存在する三軸次元をあらわしたものだ。M系軸が存在するのは、『魔界』と呼ぶ。我々の三次元の世界とは違う。観測できない世界の一つだが、この講義で学ぶのは、この魔界についてだ。何故か? 魔法は、この観測不能の魔界から投影されていると仮定されているからだ」
つまらなそうな顔を隠そうともしない生徒。
どうどうと居眠りする生徒。
聞こえていないつもりで、私語に忙しい生徒たち。
別講義の課題を始末しているもの。
外部と通信するもの。
しかし誰一人として、そうした者らは気づかれているとは考えていない。
「魔法とは、魔界からの現実空間への干渉だ。ゆえに、燃料も、温度も、酸化も還元もなく空間が発火しうる。つまり魔法をこうしするということは──」
エレルオの魔導次元解析学の講義は、一切の滞りもなく終了した。
生徒らの質問も発言もない、一人劇のような講義だった。
一人で講義をする。
一人だけで立つ。
一人だけで話す。
一人だけで説明。
一人だけで、終わった。
「……」
講義の終了が告げられるやいなや、我先にと退出していく生徒たち。
まるで留置所から釈放されたかのように、終わったことが喜ばれていた。
ものの数分で、静けさが満たされた講義室。
この講義室で次の講義はおこなわれない。
エレルオも次の講義時間はあいていた。
たぶん、深い理由はなかっただろう。
エレルオは、最前列の長机に腰をおろす。
「ふぅ……」
少し、エレルオは疲れていた。
それゆえにだろう。
何故、先生になろうと思ったのか。
そんな理由の原点を考えていた。
黒板にかかれている、M系軸の図は、今だ消されずに残っている。
M系軸を知ったことが、エレルオの生き方に大きな衝撃を与えた。
M系軸は魔法の根源だ。
同時に、観測できない世界の存在をしさしていた。
どこまでも遠いはずなのに、実は身近の世界だ。
しかしその本質は、今だ誰も証明しきれてはいない。
見たこともなければ観測すらされてはいないのだ。
だがM系軸を完全証明すれば、未知の塊である、存在しないはずなのに確かに存在している、魔法の証明が可能とされている。
魔法の科学化だ。
経験則でしか、魔法の術を受け継ぐは不可能……だったものが変革する瞬間だ。
魔法は誰でも扱えるのだが──それこそ野の動植物でも──、その魔法そのものが何であるのか、何故そうなるのか、誰にもわからなかったのだ。
少なくとも数十万年間。
石と火を見つけたように、魔法を発見し、文明を築いて数千年も、問題はなかった。
しかし文明は停滞していた。
文明の次の段階には、何かが足りないのだ。
それでも良いとするものも多いが、そうでない者も多かった。
何事も、最初の一歩が難しい。
その一歩の為に、数十万年間もの長い付き合いのある、『未知なる隣人』たる魔法の解析となった。
──つまりは、だ。
エレルオの両肩は、停滞する文明国家が次の段階へと脱皮する使命をおびた一人のものだったりする。
「はぁ……」
しかし世の中、中々良い知らせは作れないものだ。
1%の天才が、99%の馬鹿を使って支配するのが世の中だと誰かがいっていた。
エレルオもまた、1%の天才の踏み台にしかなれないのか。
それは、その考えは、長年にわたってエレルオを悩ませてきた。
世の中は、1%の天才でまわる。
技術にせよ文化にせよ、99%は進展に何ら影響を与えられず、実際にはたったの1%の階層だけが世の中を作ってきた。
圧倒的多数は、文明を維持しつつ寄生するので精一杯なのだ。
エレルオは1%に入れないだろう。
真っ直ぐ生きられなさすぎる。
悲しむことではない。
知性あるもの全てが、優秀であるとは限らないのだ。
いや、全てが完璧であってはいけない。
生物は、その個体ごとの差異によって種としての生存性を担保してきたのだ。
無能であろうとも、生き残る力が重視される。
生き残ったのものが種の勝者なのだ。
その過程で、魔法は生存に必須の技能だった。
しかし必須だからといって、必要とされるかは別問題。
ときには退化させる勇気もいる。
全てを完璧にはできないのだから。
妥協がいるのだ。
生物も、社会も、同じこと。
エレルオの学問は──『道楽』扱いされている。
未来に目をむけられるものは少ない。
仕方ないのだ。
変化の先を考えられない。
だがしかし。
そういう連中こそが、人権や倫理の傘の中で足を引っ張るのに全力をだす。
例えば、魔法の根源の解析に懐疑的……というよりも、全ては神秘のベールに隠しておくことのほうが大切とするものは多い。
魔法の根源を観測することで、『変質』することを恐れているのだ。
観測は、不変であることが大前提である。
観測してもしなくても、変わらず不変でありつづけるから、誰が見ても変わらぬことが求められる。
しかし、魔法はどうなのか?
一説には、まったく別世界のしろものだ。
観測という外圧によって、何らかの変化を引き起こすのではないか。
そういう恐れがある。
禁忌であるのかもしれない。
「……」
エレルオは左頬をなでた。
大きな傷が縫われた跡がある。
かつてエレルオが魔法の根源を探る途中での、対価の一つだ。
左頬の感覚はなかった。
魔法は、M系軸の存在する世界法則にそうと仮説されている。
魔法の大原則は、『召喚魔法』といいきっても間違いない。
M系軸からの、魔法の召喚だ。
エネルギの源泉に近いのは魔界だ。
魔法とは理論上、無限にエネルギを蓄え続けられるものだ。
そしてそれは、可能性だけは無限なのだ。
ただそれも、魔法の仕組みを理解しての話ではあるのだが。
「はぁ……」
理解する。
理解してもらうには、教えるのが一番だ。
……エレルオの場合、失敗だったわけではあるけど。
エレルオの頭の中には知識が詰まっている。
間違いなく魔導解析学の第一人者だ。
魔法の根源に手をかけている一人というわけだ。
まあ、しかし、だからといってエレルオが、その知識を他の者にも正確に伝えられる教師にむいているかの適正は、まったくの別ものだ。
エレルオを悩ませ続ける難題だ。
魔法の探求者でありながら、教師でもあらねばならない。
二つの人生を一つにしているようなものである。
どだい無理な話だ。
しかしエレルオは考える。
難しい生き方だ。
だがそれを、『今を未来へつなげるもの』だとしていた。
自分の代で無理だったときの保険。
願わくば誰かが受け継いでくれること。
「あの~」
『未来の後継者候補』……かも知れないものが、講義室にやってきた。
未来の大魔道士候補。
「エレルオ先生に質問が……」
たるみだらけていたエレルオは消えていた。
おのれは目指すべき理想であるべきなのだ。
その姿とは、魔導を解き明かすもの。
それまでは──死ねないだろう。