第七話 脱出
(零)
少年レィヴンは夢見ていた。
遙かなる宙の夢を。
ずっとずっと夢見ていた。この滅び行く空白の世界を抜け出すことを。それが彼の隠された野心であり大望だった。
燦めく星の航路。
幾つもの光の渦を超えて、宙渡る船。
行き着く先は、蒼茫たる虚空の無音。
近隣の惑星間を航行するシャトル。時空を超えて気が遠くなるほど長い航路へと赴く亜光速船。
かなうことなら、その生涯を導無き彷徨のなかで終えたいと願った。無辺の宇宙こそが彼の版図だった。ひとたび亜光速船に乗り込めば、地上とは違う時間の流れを歩むことになるが、地上には彼を引き留めるものなどなかった。
宙では彼のような浅黒い肌の人間は珍しくないという。村の口さがない連中などは、彼を不義の子と決めつけ、港湾から地上に流れ着いた苦力の落とし子と陰で呼ばわっていた。
彼は、是が非でも手に入れるのだ。宇宙への足掛かりを。少年は白色矮星の支配する白んだ空を仰いだ。その先にある宇宙港テノティチトランを。
(壱)
片膝をついて着地した少女がゆっくりと顔をあげると、目のまえにはジルガ・ロンガナンナの無惨な死骸が血の海のなかに横たわっていた。その向こうには、少女が愛してやまない男がいた。ひどく傷つき、その眼光は彼女が知るどんな闇よりも暗い。
「サ・リ……」
そう言葉を吐いたとき、ゲイルの視界がゆらいだ。
感覚がねじれ、ゆがんでいく。生血の匂いを帯びた空気がたわみ、少女に伸し掛かる。
「おい、どうした」
窓から滑り込もうとしていたナビヌーンが叫んだ。
ドクン……と少女のなかでなにかが脈打った。意識がぼんやりと薄れて、身体が崩れていく前に、男が血だまりを飛び越えて少女へと手を伸ばすのがみえた。
「ゲイル……」
魔術師は少女を抱きかかえた。
ずいぶんと痛めつけられた様子だったのに、その細身の男は少女の身体を手荒く肩にかつぎあげて、壁にかかげられた炬火を手に戸口へ向かった。
「西タルー族の若殿、巻きこんでしまって悪いが、乗りかけた船とおもってあきらめてください。もう夜があけますから、今日はここで休みます。それに、あなたにはもう一晩つきあっていただくことになりましょう」
その冷たい面を向けもせず、男は言った。
言葉の丁寧さとは裏腹に、有無をいわせない冷然たる指示を含んでいた。
「ま、待て」
なんて無礼な奴だと思いながら、ナビヌーンは壁の炬火をひとつはずして追いかけた。
岩肌に穿たれたギ・イェクの牙城は、その内奥で岩盤内を縦横にはしる洞窟へとつながっていた。むしろこちらの方が本丸だったのか。通路の壁面には怪物や混合人間の奇怪な紋様があしらわれていて、まさに魔窟といった風情をかもしだしていた。
ある狭間には、研磨された髑髏が埋めこまれて白く光り、ぽっかりと開けた空間には、吊り下げられたままひからびた骸がならぶ。その惨憺たる気色と腥気とで、初陣の日から一騎当千の武勇を誇るナビヌーンも胃の辺りがむかむかした。
血塗られた部屋には拷問器具がそのまま放置され、水牢には鉄の拘束具が天井から下げられていた。その場を通るとき、裸に剥かれて晒された腰まで水に浸った女のまぼろしが無念そうにこちらを向いた。
洞窟を住処とする忌むべき生き物たち、足もとを這う齧歯類のたぐいも、こちらの顔に向かってわざと飛びかかってくるような蝙蝠の群れも不快さをいや増す。
暗く湿った地下迷宮のなかに潜む無数の秘密。そのひとつひとつに若者は内心おののいた。
一方のイムナン・サ・リは、いかなる惨状の形跡を物ともせず、少女の身体を肩に乗せながら慣れた様子で、炬火をかかげて地下の澱みへとくだっていく。
やがて、水の匂いが強くなり、地下水流が淵をなす水辺にたどりついた。流れの先には岩盤から零れる裂罅水の湧き口があり、天然の壁泉には人間の女と交わる狼神を象った紋様が荒々しく刻まれていた。岩水は受け皿となる小さな溜池にあつめられ、やがて溢れて地底川と合流し滔々と流れていく。
水面は灯火を静かに照り返し、光線は清らかに澄んだ水のなかをエメラルドグリーンの輝きを帯びてどこまでも深く進んでいった。
そこは匪賊どもの日常の場だったのだろうか、泉の脇には休息のための四阿があり、火を焚いた炉の跡もあった。
岩壁にしつらえられた燭台に炬火を差し込んで、男は少女を両手で抱えなおした。そのまままっすぐ溜池の辺りまで向かうと、膝をついて屈み込んで少女の顔をいきなり水のなかに押しこんだ。次の瞬間、少女が叫び声をあげて身体を起こした。
その手荒な扱いを若者はあきれ顔で眺めた。
「どう、目が覚めましたか」
咳き込みながら、少女はびしょぬれになった顔をあげた。目のまえには少女をつめたく見据える男がいた。
「よかった。お前が無事で……」
少女はまよわず男の身体を抱きしめた。少女があまり強く抱きしめたので、男はよろめいてバランスを崩しそうになった。
「ちょっと、痛いですからやめてください」
「心配をかけた罰だ」
そういいながらも、少女は腕を解いた。
「それはこちらのせりふです。だいたい何しにきたんです。まあ、あなたの無鉄砲さはいまに始まったことではありませんが。そもそもあの程度の流血をみて失神するような玉じゃないでしょう。お小さいころから、喜んでけものを解体していたじゃないですか。いったいどうしたんです」
「お前はひとこともふたことも多すぎる。まず、そのひねた物言いをやめろ」
少女はぴしゃりと言い返した。
「では、なにがあったんです」
きつい眼差しのまま、男は聞き直した。
そう、あのとき腥い血の匂いをかいで、ドクンと身体のなかでなにかが蠢いた。あの声がきこえた。
(屠れ。惨殺せよ。その手にとどくすべてを)
(ただ殺戮のみが、魂をうち振るわせて歓喜を呼び覚ます。絶頂の極みでのみ到着しうる忘我の境)
サ・リ、お前にも今は言えない。
「わからない。気を張りつめすぎたのだろう。心配するな」
「まあ、いいでしょう。その辺りに粗朶や泥炭が積んでありますから、適当なものを焚きつけにして、火でも熾してください」
そう言い終えると、イムナン・サ・リは地底川の淀みに飛び込んだ。
その予測もつかない行動に驚いて、少女はあわてて川面をのぞき込んだ。男はしばらく沈んでいたが、やがて仰向けに浮かびあがってきた。
勝手にするがいい。
ナビヌーンとともに火を熾しながら、そう心中で呟いて、少女は魔術師が水浴を終えて淵からあがってくるのを待った。
ゆったりと地底を循環する冷たい水の中で、我ながら酔狂だと思いながらも、男は妖艶なる毒爪に蹂躙された肉体を清めたかった。そして、獲物を屠ったあとの猛る魂と身体の芯にひそむ隠微な埋み火を消し去りたかった。いっそのこと、暗い水底の陰りのなかになにもかも捨て去って沈み込んでみたかった。
氷の刃のような水の感覚が傷口に滲むと、疲弊した意識を覚醒させていった。
闇を映す水面は、いつしか意識の深層を流れる冥府の河となり、血に塗れて腐臭を放ちながら輝く彼の属する世界とそのしたに揺蕩う彼自身とを死の静寂を湛えながら分かつのだった。
やがて暗い淵からあがると、魔術師は破れた上衣を脱ぎ、絞って身体を軽くふいた。そして、ほとんど濡れそぼったまま、焚き火の端に座した。
炎に照らされると、白い肌に無惨に刻まれた爪痕が生々しかった。
「寒くないのか」
夏季の終わりといっても夜の外気はすでに息も凍るほどである。ナビヌーンはおもわず尋ねた。
「いいえ、水のなかの方が暖かいくらいです」
澄ました顔で男は答えた。口調は丁寧だが、あいかわらず機嫌が悪い様子で、闖入者たちに対する憤りまでは洗い流していないようだ。
「でも、水から上がればやはりそれなりに寒いだろう。泉熱でも煩ったらどうするんだ」
ナビヌーンが重ねて聞くと、ゲイルが横から口を出した。
「放っておけ、そいつはへそ曲がりなのだ」
魔術師は声のする方向をぎろりとにらんだ。
「おい、ただでさえ薄気味悪いところで、よけいに雰囲気が悪くなるから、けんかはやめてくれ」
そういうと、ナビヌーンは自分の外套を脱いで、男に投げつけた。
「みている方が寒々しい。それを貸してやる」
「それでは、遠慮なく」
たいしてありがたがらない答えが返ってきた。
「これからどうする」
若者が尋ねた。
「おそらく、日没とともにわたしたちは妖鳥の襲来をうけます。親玉が巣に帰らなかったわけですから、手下どもが今ごろ怒りで色をなしていることでしょう。少なく見積もっても数千匹はいます。こっそり逃げ出したとしても二千の眼をもつ彼らの追跡からは逃れられないでしょう。彼らの攻撃を逆手にとって、一網打尽にするしかありません」
こともなげに魔術師は答えた。
「その準備がありますから、寝入るまえにナビヌーン殿には少々つきあっていただきたい」
「いいだろう」
この場の主導権はあきらかにこの男にあることは解っていたので、ナビヌーンは素直にうなずいた。
ゲイルがなにか言いたげに魔術師を見上げた。
「あなたはお疲れのご様子ですから、ここで休んでいらっしゃい。もう、ここには我々を脅かすものはいないはずです」
男の言葉が少しだけ優しくなった。
ふたたび炬火を手に取ると、イムナン・サ・リは洞窟の狭隘な通路を昇っていった。高層部に近づくにつれて、どこからか日のひかりが入り込み、うっすらと明るさが戻ってきた。外界はもう朝を迎えていた。
迷路のような城内を迷わずに進む男をナビヌーンは追いかけた。
「お前は、タルクノエムの生まれなんだろ。かの地は人工的でずいぶん暖かいと聞いた。どうしてそんなに寒さに強いんだ」
「……。タルクノエムの生まれというのは嘘です。こまかく話すのが面倒なのでそう言っているだけで、谷で生まれて四つばかりのころタルクノエムの父方に引き取られました」
「それで、お前は父親に育てられたのか」
「いえ、父はいろいろと忙しい人でしたから、一番上の兄に面倒をみてもらっていました」
「じゃあ、さびしい子ども時代だったんだな」
「そんなことはないです。わたしは兄が大好きでしたから」
「……。やさしい兄貴だったのか」
「いいえ、兄はどちらかというと人間嫌いの冷たい性質で、とくに私のことを嫌っていました」
ナビヌーンは話の接ぎ穂をうしなって押し黙った。会話に行き詰まるのはあの娘と一緒だ。この男、いちいち捻れた答えを返しやがる。
やがてひとつの部屋のまえで立ち止まった。
「武器庫です。なかには火を入れないでください」
イムナン・サ・リが静かに言った。
薄明かりのなか部屋のなかを見やると、その圧倒的な兵器の数にナビヌーンは驚かされた。刀剣や、斧、鉞、弓矢といった得物ばかりではなく、あきらかに出所はサイラスのものとおもわれる爆薬や銃器が散乱していた。
「こいつら、サイラスと手をくんでいたのか」
ナビヌーンはただ唖然として見入った。
「ですが、ナビヌーン殿、おかしいとはおもいませんか。過ぎ去りし栄華の腐肉にたかっている地下の蛆虫たちとダール・ヴィエーラの猛り狂う旋風のごとき匪賊とのあいだにどのような接点がありましょう。彼らは存在自体が遠すぎる」
そのひとつひとつを手に取り、利用できるものがないか吟味しながら、男はその不自然さを指摘した。
「どういうことだ。このような銃器や爆薬はタルクノエムの武器商人でも取り扱わんぞ」
ナビヌーンは、彼の部族に出入りする商人たちをおもいうかべながら言った。
「ええ、公式には扱いませんが、彼らはだれがそれを求めているか熟知している。その情報をサイラスに与えることは可能です。もっとうがった見方をすれば、両者を引き合わせて、闇の取引を仲介することなぞお手の物でしょう」
例の冷ややかな調子で男は持論をのべた。
「お前は、それに気づいていたのか」
「いいえ、漠然とおかしいとは感じていましたが、確信したのはほんの昨日です」
魔術師は、若者の目をのぞき込みながら、その反応をためすように言った。
「つい寄り道をしてしまいましたが、私の本当の目的は人狼の軍です。昨日彼らの拠点が判明しましたが、そう考えるとそこで見たことの辻褄があう。人狼については、あなたの方がよくご存じでしょう」
「……」
人狼だと。この男はいったい何をつかんでいるんだ。
「タルクノエムのだれがそんなことをするんだ」
「さあ、私も国を離れて久しいですから」
男はゆっくりと視線をはずした。
「ここを脱出できたとしたら、そのまま人狼の拠点であるギム・ア・ポトスまで向かい、彼らを殲滅します。あなたにも関わりの深いことでしょうから、よろしければお手伝いねがいます」
「おい、ギム・ア・ポトスといえば我々タルー族にゆかりの地だ。なぜ、そこが人狼の巣なんだ。それに殲滅って、大きな口を叩くがあてはあるのか」
「ギム・ア・ポトスであってはおかしいですか。すべての事実がぴったりと符合しませんか。それに、どこぞの姫君と違っていきなり敵陣に突き入るようなまねはしません」
「おい、このギ・イェクもその手の奇襲でお前が攻め落としたのか」
「ええ、本隊はこの武器庫から拝借したサイラスの爆薬でほぼ吹き飛ばしましたが、まだあのような別働隊が残っていたとはうかつでした」
まるで明日の天候でも語るような平易な調子で男は語った。
「いいんですよ。ご不安でしたらお帰りになられても。私の手で万事はからいますから。そういえば、たのしい逢瀬をお邪魔して悪かったですね」
「俺はかまわないぜ。むしろ渡りに船だ」
そして、ここではっきりさせておこうと思って、ナビヌーンは続けた。
「それに、あいつにはまるで相手にされないしな」
「へえ、あなたを袖にするなんて見る目のないお方だ」
しゃあしゃあと男は言ってのけた。
「あの偏屈なお方が他人に心をひらくなんて滅多にないことだから、よろこばしく思っていたのですが残念です。それと、あなたの用事は済みましたから、もう戻ってお休みください。私はしばらく夜を迎えるための準備をしています」
「ああ、じゃあよろしく頼む」
あたかもナビヌーンがもう存在しないかのように鹵獲品の選別に熱中し始めた男の横顔をみやりながら、この捻れた男は皮肉な修辞をはがせば案外正直に心中を語っているのかもしれない、と、そんなことをナビヌーンは感じたりもした。
陰鬱な通路を通って地下へ戻ると、驚いたことにゲイルが気味の悪い斑をもつ山椒魚やタビネズミをつかまえてきて、器用にさばいてちいさな肉塊を炉縁にならべていた。
「お前、なんともたくましい生命力だな」
「日没後への備えだ。なにか腹の足しにしておかねば。それほどまずくはない。口に合わないか」
「いや、コウモリじゃなくてまだ良かったとおもったまでさ」
そもそもあまり食欲を感じていなかったし、食欲をそそるものでもなかったが、少女の手前しかたなく口にすると淡泊な味がした。そのまま泉の水で流しこんだ。
「どうだ」
ゲイルが感想をもとめた。
「どうって、なんの味もしないが」
「しっかり血を抜いておいたからそんなに生臭くはないはずだ。もっともタルクノエムの腑抜けた連中は、下処理もそこそこに数日放っておいた獣の肉を野趣があるといって珍重するらしい。腐りかけたものをよろこんで食べる。あいつがひねくれているのは、そんな都会者だからだ」
半分独り言のようにゲイルはいった。
なるほどうまい餌を与えて俺たちを太らせて、やがてみずから腐臭を放つのをタルクノエムは待っているのか。さきほどイムナン・サ・リから聞いた話を思いだしながら、話の本筋とは別のことをナビヌーンは考えた。
「サ・リはどうだった」
「ああ、とりつく島もない男だ」
「ほう、タルクノエムの話でもしたのか。あいつには三人の兄がいて、いずれもたいそうな実力者らしいが、家族や故郷の話は鬼門なのだ」
少女は図星だろうと言いたげな顔をしたが、話はずっと深刻だった。タルクノエムの仲介者とやらに心当たりがあるのだろうか。
当の魔術師を待ったが、戻ってくる気配はなかった。
気がつくと、炉の端で少女はもう膝を抱えて座ったままの体勢で寝入っていた。ナビヌーンも急に疲れを感じた。目覚めると、どのような地獄が待っているのだろうか。若者は想像もできずに眠りにおちた。
当座の脱出のための得物をひととおり選ぶと、イムナン・サ・リは、妖鳥の死骸が横たわる部屋へ戻った。部屋の中で彼が腰に帯びていたはずの長短二振りの剣を探した。毛皮のしとねの下にそれらは投げ込まれていた。見つけると、男は心の底から安堵した。
短剣の鞘に刻まれたスノウクリスタルの紋様は、彼の人生のなかで唯一穏やかだった少年時代の記憶へと彼を誘う。
郷愁は、苦い現実をともなって立ち現れた。
なりふり構わず当座の利益に走ることだけが美徳であるあの地にあって、このような大仕掛けで巧緻な策謀をめぐらせる人間は、イルラギース、あなたしかいない。私がいま闘っている敵はあなたなのか。
かつて憧憬してやまなかった男の影を感じながら、魔術師はあやかしどもをしとめる仕掛けの総仕上げにかかった。
(弐)
「おふたりとも起きてください」
どこか苛立ちを含んだ魔術師の声で、ナビヌーンは目覚めた。
「もう夕刻です」
火床の火はいつのまにか消えていた。膝をかかえた不自然な形で寝入っていたので、ナビヌーンは身体のあちこちが痛かった。ゲイルはまだ寝ぼけ眼でうつらうつらしている。
「ほら、顔を洗っていらっしゃい」
少女はイムナン・サ・リに耳をつねられて、やっと目が覚めたらしい。
「うるさい。私にかまうな」
少女は、さっそく噛みついた。
「妖鳥どもを昨夜の部屋に呼び込みます。そのまえに少々仕掛けがしてありますので、部屋のなかにはいるころには猛り狂っているはずです。あなた方は中でなるべく引きつけて、混乱を煽ってください。頃合いをみて、私が合図します。三つ数えるうちに城壁側から脱出してください」
それだけいうと、すたすたと城の上階へ向かって行ってしまった。
ナビヌーンとゲイルは顔を見合わせるとあわてて追いかけた。
「待てよ。どういうことだ」
「どうって、あなたたちがすべきことは、先ほど言ったとおりです。しごく簡単な指示のはずですが、もう一度繰りかえしますか」
「それじゃあ、ぜんぜん解らねえぜ。もっとちゃんと話せ」
「その必要はありません。あなたたちはあやかしの相手の闘いにおいてはまったくの素人です。あなたたちの挙動から私の動きを見透かされたら元も子もありません。ありがたいことに、この城は攻めがたく守るに容易です。手順どおり動いてください」
魔術師は聞く耳を持たなかった。
「なにかご不安ですか、ナビヌーン殿。あなたの御身になにかあれば、こちらも煩わしいことになりますから、もちろん大切にお守りします。どうか、ご安心ください」
やはり、この男のいうことは信用ならないとナビヌーンは思った。
城の上層にたどり着くと、部屋には昨夜とおなじく炬火の灯がまばゆいばかりにともされていた。ジルガ・ロンガナンナの死骸はすっかり片付けられていた。黒く広がった血の染みだけが昨夜の惨劇の名残のようだった。だが、なにげなく窓辺に目をやると、ナビヌーンはその禍々しい光景に驚愕した。
女の生首が宙に浮かんで、ゆらゆらと揺らめいている。
苦悶の表情をうかべた女の首が、窓の桟にその黒い髪を結わえられて、炬火の焔を受けて浮かび上がっていた。
別の窓から外界を窺うと、首を切り離された屍は逆さに投げ出されており、段差のある城壁の途中に引っかかって無惨に晒されていた。
ナビヌーンは虫も殺さぬ風情の優男の残忍な仕業におもわず戦慄を覚えた。それに、城壁側から脱出といっても、眼下を覗き込むとほとんど垂直だった。
「あのチビどもにはこの程度の仕掛けで十分でしょう。あなたたちだって、同じような罠に引っかかったんですから」
背後でナビヌーンの心を見透かしたように、イムナン・サ・リが言ってのけた。
日が完全に落ちると、入れ違うように月が、細い弦月の姿で再び現れた。
「ほら、もう彼らのお出ましです」
魔術師の指し示した方角には、夜の闇がより黒く滲んだ点があった。その黒点はだんだんと広がってくる。
「では、この場は頼みましたよ」
振り返ると、もう魔術師の姿はなかった。
長い夜が今始まろうとしていた。
瞬く間に、あやかしの群が空に集き、黒雲となって近づいてきた。やがてひとつの生き物となって、城自体を喰らいつくそうとするかのように城壁を覆うだろう。
ジルガ・ロンガナンナの切りはなされた首と胴体をみつけると、赤ん坊ほどの大きさの妖鳥は狂ったように灯のともった部屋へ吸いよせられていく。
ばさり。
怪音をうならせながら、前哨のごとき先走ったあやかしが未知の敵の力を試すように、一匹、また一匹と部屋のなかに侵入してきた。
ナビヌーンとゲイルはそれぞれの得物、偃月刀と狩猟ナイフで叩き斬り、突き刺していく。
「おい、これだけの数どうするんだ」
「知らぬ、私に聞くな。ええい、これでは埒があかぬ」
ゲイルは壁から大妖鳥の血を吸ってなお鋭利な輝きを放つ鉈刀をはずした。
もはや、骨肉を叩き切る鈍い音だけがお互いの存在を確認する手段だった。
一方、イムナン・サ・リは、大斧を手に城壁の頂上にある物見の影にひっそりと姿を現した。
おのが首領の梟首をまえにして、怒気を含んだすさまじい叫び声と毒粉をまき散らすかのような引っ切りない羽ばたき。
まさに崖下に打ち寄せる怒濤のような忿怒と叫喚の地獄絵が眼下に逆巻いている。
金城鉄壁の守りを誇るギ・イェクの山城。
切り立った岩肌の奥深くに広がる迷宮の要塞は、城そのものが万軍に値する。魔術師は、その恩恵を最大限に受ける心づもりだった。
「今だ」
男は満身の力を込めて斧を振り下ろして、石落としの底板をつなぎ止めていた強靱な鉄鎖を解きはなった。
大小の石塊が煙を立ち上げながら一気に崩落した。轟々たる山津波にも似た鳴動を合図に、流血の一夜の序幕が切って落とされた。
突入を前にして城壁に押し合いながらへばりついていたため、突然の群雨のごとき石塊の投下に巻きこまれた妖鳥どもは相当な数であった。みるみるうちに、逃げ場もないまま骨肉を砕かれ撃ち落とされていった。
あやかしの群れは、思いもかけない石弓の攻撃で算を乱しての騒乱状態におちいった。
石塊の雨に撃ち落とされなかったものたちは、混乱をきわめながら、窓という窓を通って、死の迷宮のなかへ我先にと突入していった。
追い打ちをかけるように、男は今度は投石機をあやつり、混乱をきわめたあやかしの群れに撃ち込んでいく。ただ騒擾をいやますために。
「くっ、やりやがる」
窓から流れ込んでくる土煙にむせながらも、ナビヌーンは、魔術師の鮮やかな手並みにただ息を呑んだ。
だが、この数はさばききれん。どうすりゃいいんだ。
大型の梟ほどの鳥の身体のうえに、悪意が形を成したかのような形相の女の顔を持つ、異形のあやかしどもの群れ。
もはやいかなる規律も統率もなく、猛りくるった有象無象の手合い。
若者は、西タルー族の戦士として頑是無き頃から手すさびに弓矢や刀剣をあたえられていたが、このような醜悪な敵とはいまだ戦ったことはなかった。
妖鳥どもは歯をむき出してキィーキィーと泣き叫びながら、その鈎爪で隙あらばと彼の金色にかがやく双眸を狙ってくる。
敵を倒すほどに、断ち切った肉から噴き出すどす黒い血だまりに足を取られ、なによりもその醜悪な臭気が耐え難かった。敵に対する嫌悪感とその圧倒的な数量が、ナビヌーンを疲弊させ、その腕を鈍らせた。
振り返ると、ゲイルは彼女自身が翼ある生き物であるかのように跳舞しながら、鉈刀を閃かせていた。あやかしどもを引きつけて続々と両断していく姿は、倦怠にはほど遠かった。
ちくしょう、どうして俺はこんなに無力なんだ。
怒りに任せて、懲りずに彼の顔に向かってくる妖鳥を叩き落とした。
若者に限界が近づいてきたそのとき、魔術師が部屋へ飛び込んできた。襲いかかるあやかしの群れのなかに身を踊らせて、その霜剣であざやかに斬りつけながら道を開いていく。
「いまです。三つ数えたら突破します」
……イチ、……ニ、……サンッ。ナビヌーンは、いわれたとおり心のうちで数えた。数を唱えるだけで精一杯で、飛びかかってくる妖鳥の攻撃を無心のうちになんとかすり抜け、窓辺にたどりついた。
ナビヌーンは、いつのまにか彼にぴったりと身を寄せたイムナン・サ・リに誘導されて窓のそとに飛び出した。
重力に身を任せて、城壁を滑るというよりもそのまま降下していく。ごつごつした横割れの段差に身体が引っかかるのがわかった。岩棚に打ちつけられながら滑り落ちる強い衝撃に肉体が悲鳴をあげた。
ナビヌーンは気がつくと、空いている手と両足をつかって岩棚の横割れを押さえこんで降下をとめたイムナン・サ・リの細い腕のなかにいた。
「あいつはどうした」
この西タルー族の若き武将は、イムナン・サ・リが少女ではなくて彼を庇ったことに後ろめたさを感じた。
「あのとおり、羽のはえたお方ですから、飛ぶがごとく駆けおりてもう着地していらっしゃいます」
耳許で涼しい声が答えた。
そのとき、頭上で複数の爆音が響いた。
「第二波がきます。急いで」
妖鳥どもの死骸を巻き込んだ石塊の山を踏み越えて、イムナン・サ・リに導かれるまま岩陰に身を潜めたとき、閃光が闇を引き裂き、つづいて城全体が炸裂するかのような爆音が大気をつんざいた。
小規模な爆発を繰り返して、やがては武器庫の完全なる爆砕を誘発するように、巧みに爆薬が仕掛けてあったのだ。そして、彼らは戦力ですらなく、あかやしどもを死の檻に誘き入れるための寄せ餌に過ぎなかったのだ。ナビヌーンはすべての事を終えてからそう思い当たった。
妖鳥どもの何匹かはふらふらと城のそとへと飛び出してきた。一見して無傷にみえたが高熱の煙で肺腑を焼かれているらしく、中空をしまりなく回転するとそのまま襤褸切れのように落下していった。
気がつけば、ゲイルが全身傷だらけの魔術師の隣にひっそりと身を寄せている。
「サ・リのばか……」
少女はイムナン・サ・リの胸に飛び込んでいった。
少女の腕が昨夜の創傷のうえに痛みを重ねた男の背中をかき抱き、無惨な爪痕が烙印された胸に顔をうずめた。ひと息ごとに岩肌に強かに打ちつけた骨身が痛むだろうに、男はされるがままになっていた。ナビヌーンは、少し離れた岩壁の洞につないでおいだ馬をつれにその場をあとにした。
イムナン・サ・リはゲイルの顔をあげさせると、その頬を両手でやさしく包み込んだ。少女の前にやわらかな含羞をおびて綻んだ瞳があった。男がそんなふうに微笑むのを少女ははじめて見た気がした。
「あなたが、ご無事でよかった」
少女の唇に静かに口づけた。