第十一話 消された記憶(上)
(零)
少女はこの上なく美しかった。
その美貌は幾世代にもわたる退嬰的な気風と忍び寄る衰亡というふたつの不幸によって裏打ちされていた。彼女はこの星の現実であり未来であった。
妖精のような可憐な容貌はいくつかの遺伝子の欠損を暗示し、歩むときは微かに足を引いていた。男は知らなかったが、奇形は子宮と大動脈にもおよび、子を孕むことは禁忌であった。
男は、彼を拾ったクムクンタル卿よりも遙かに高位の貴族の養子となり、やがて女王の正式な婚約者となった。
徴税人たちは歴代の王や女王たちと同じように少女の在位の短いことを願い、ここは沈黙を守った方が賢明と判断した。先代の女王も私生児を産み、その産みの苦しみのうちに崩じた。父親の正体はとうとう解らなかった。どうやら、その嗜好は引き継がれているようだった。
そう遠くない将来、我らの女王は神に召され、その血筋は絶えるのだ。哀れむべき少女のつかの間の道楽なのだから、ここは寛大に対処しよう。
彼らは破滅の芽を摘み取る手間を惜しんだ。怠惰と惰性による腐食が彼らの唯一の武器である保身能力すら麻痺させていることに気づく者はなかった。まもなく、彼らは判断の甘さを思い知ることになる。
そこかしこに男女の修道者が行き交う宮殿は、ゴシックの寺院を模していたが、尖塔や小尖塔に囲まれたその中庭に秘密の苑囿が隠されていた。
硝子の円蓋のなかの柔らかな木下闇で、番いの駒鳥が赤い胸をちらつかせ、人工のそよ風がアネモネの花弁をなぜる時、少年と少女は政務と聖務の合間の短い午後の一時を過ごした。
水辺のせせらぎも、湿り気を帯びた大気も、樹液と苔と腐葉土の入り交じった匂いも少年が初めて体験するものだった。
少年が金雀枝の枝の上の小さなトカゲに手を伸ばすと、トカゲは悠然と立ち去り、その反動で蜘蛛の巣につながれた玉露のネックレスが飛び散った。少女はちいさく笑い、少年は満ち足りていると感じ、その瞬間を切り取った絵を心の奥底に大切にしまい込んだ。
宮廷の図書館にはたくさんの書物があった。少女は、そのなかの一冊を手にして、一篇の詩を朗じてくれた。わすれられた古代の言葉で。
むかしの人は黒が美しいとは思わなかった。よし、
そう思っても、口に出して美しいとは言わなかった。
だが、当今では、黒が美の相続人になりあがり、
美のほうは、私生児めなどとあしざまに罵られている。
愛とはまるで両極の感情───、冷たい野心と策謀で胸を満たした少年は、一方で切に希った。いまこの刻のなかに永遠に閉じ込められたらいいのに、と。
(壱)
許された護衛は百騎だった。
凍土を捉えるクロム鋼の鉤爪を装蹄した氷馬、雪をはじく厚い体毛、特に編み込まれたながく美しいたてがみと蹄を覆うほどの長毛が特徴の改良種に、優雅に銃槍をかかげたタルクノエムの正規兵たる竜騎兵が騎乗する。
百の騎兵を前後の守りとして、翼をひろげた竜の形に鋳込まれ、双眸には乗主と同じく蒼玉が象嵌されたイリジウムのチャリオットが夜半の街道を疾駆していた。イルラギースは約束の座標に到着すると、美しい流線型をした御召車を降り立った。文民であることを強調するかような装飾過多な平服に毛皮が豪華に裏打ちされたマントを絡みつけて、慣れぬ寒さにあからさまに眉をひそめながら荒野での駆け引きに臨むのもこの男らしい。
騎上のひとり、サーマスが駆け寄り下馬した。
残りの九十九騎は、後方で遠巻きに方陣を組んだ。
御者にその場から後進するよう命じると、イルラギースは空を仰いだ。薄刃のような四日目の月はもう西の切り立った峰の向こうに消えていた。会談の相手は上空からやって来る。イルラギースは、自らの所在を示す発光銃を寒空の彼方の見えぬ敵に向けて放った。
闇空を閃光が染め上げると、ほどなくまばゆい光線を前哨として、一艇の飛行船が姿をあらわした。
ずんぐりとした機影は、前照灯で大地を捕捉しながら、待ち受ける者たちをじらすように、ふわふわと不安定さを増して地表に近づいてきた。やがて、尻餅をつくように着陸すると、ゴンドラからひとりの男が降船した。
投光器の照射を光輪のように背負った特徴ある影像が、全身をマントで覆った幅のある短躯が近づいてくる。歩くたびにぎしぎしと異様な機械音がした。
男の歩みのひと足ごとに、イルラギースの精神は、その深層においてぎりぎりとした名状しがたい嫌悪に囚われた。おもわず面を背けたのは、昼のごとき強い光が両眼を射るためだけではなかった。原始的な恐れにも似た感情のうねりは、しなやかで強靱な知性すら侵食していく。サーマスはイルラギースの微細な変化に知らぬ顔を装いながら、この巨頭会談の形勢を見守った。
「久しぶりだな、司祭」
イルラギースは、生来の不遜さでその貴公子然たる容貌を鎧うと、目前の相手への厭わしさを隠そうともしなかった。
「これは、執政官殿。わざわざ御足労くださるとは恐悦至極なことですな」
会談の場に、タルクノエムでもサイラスでもなく、わざわざダール・ヴィエーラを指定してきた男は、泰然たる態度をくずさず慇懃に言った。この宗教指導者であり革命家である男が、自らに有利な材料がなければわざわざ地下の魔宮から出てこないことをイルラギースは承知していた。今この時も、ナイトヴィジョンの仮面の下の醜貌は喜色にゆがみ、邪悪な魂は歓喜であふれていることだろう。
サイラスの司祭。十年前のクーデターでサイラスの実権を皇帝から奪い、その掌中に収めた男である。奇しくも、同じ年にイルラギースはタルクノエムの執政官に選出された。
イルラギースは、早々にこの男の正当性を認めてやった。むろん、誰が執政官であったとしても同じ結果だっただろう。タルクノエムの独立不羈の伝統などは表層的なものにすぎず、その都市機能の実態は、地下奥深くに存在する工業都市サイラスという大きな根幹に支えられていた。廃熱パイプの動脈はふたつの都市を複雑に循環しており、動力源すら相互に依存し合っていた。サイラスとの不即不離の関係があってこそ、近代都市としての形態が成り立っているのだ。
司祭は、どのような巧緻な仕掛けでタルクノエムとその執政官を絡めとろうとするのか。イルラギースに思い当たる失策はなかった。彼の手の及ばないところで何かが動いているのか。気乗りのしない相手だったが、イルラギースは司祭の思惑の核心を知りたかった。
その人工の瞳をまっすぐに見据えたとき、イルラギースはぞくりと体幹を走る悪寒を抑えきれなかった。柔らかな脳髄を直接切り刻まれたかのような不快感が皮膚の表層をなぜていく。
怯懦とは無縁の性質だった。しかるに、存在の根源から脅かすこの凍りつくほどの恐怖はどこから来るのか。山稜から彼を捕捉するレーザー銃の照準ではないことは確かだった。
司祭がフードをはずし、その容貌をより露わにすると、ヌークの瞳は逆光のなかで司祭の風貌を細部まで捉えた。剃りあげた頭部と角張った顔立ち。鷲鼻と強く結ばれた口許。すべてが強靱な意志の持ち主であることをしめす符号だった。目許にはナイトヴィジョンが装着されたままだったが、イルラギースは、その双眸が狡猾な捕食者そのままで、そのグロテスクさはいまも彼の一挙一動を走査するレーザーアイとさほど変わらないことを知っていた。
「このような妖魔や蛮族どもが跳梁する辺土にお呼び立てしたのは、他でもありません」
司祭はしゃがれた機械的な声で続けた。
「皇妃の所在はまだ判明しませんか。その進捗をとくりとこの荒野で確認したかった。すでにあなたに依頼してから半年が経つ」
「要望に添えず済まぬが、谷は広い」
イルラギースは両手を広げて肩をすくめてみせた。
「ほう、あなた方の情報網を持ってしても、ですか」
「我らの拠点は、ダール・ヴィエーラをつらぬくゲルムダール、ニョーク、オトスの街道沿い、特に我らの公館のある宿場と商いのある部族の都邑のみだ。辺境の部族のなかに分け入ることはできぬ」
予想された問いかけだった。探索に協力してやるのは、同盟者としての善意であり、徒骨に終わったとしても、無能扱いされる謂われはなかった。
「ならば、いずれかの辺境に匿われているということですな」
「あぁ、街道筋はいかがわしい宿も含めてすべて探索した。そこにはおらぬのだから、当然そういうことだろう」
四方に鋭い視線を走らせていたサーマスが、ちらりと主人を見やった。
「まあ、いいでしょう」
司祭は意味ありげに嗤った。
「実は、皇妃探索の過程で思わぬ副産物が判明しましてな」
「われらの探索隊の者がその任の半ばで斃されたのですが、その死にかかわるのが、悪名高きウズリンの妖術使い。この男は、諜者の死の直前、我々と接触を図ってきました」
獲物を舌なめずりして待ち構える捕食者のごとく、司祭の人工の瞳が嗜虐の喜びを帯びて光った。
「さて、この者が何ものかは先刻承知でしょう」
司祭は頸をかしげながら、イルラギースのいかなる表情も消えた青ざめた美貌を覗き込んだ。
「聞けば、谷の者ではなく、タルクノエムの高貴な家の出自とか。たしか、あなたの……」
「イムナン・サ・リのことを言っているのであれば、我々は十年以上前にやつを放逐した。もはやタルクノエムともリザイツェオーン家とも一切関わりはない」
捕食者のナイトヴィジョンの奥にある瞳をまっすぐ見据えて、イルラギースは一言一言を区切るように返した。
「どの家系にも跳ねっ返りのならず者はおりましょう。だが、あなたの異母弟がケスの生き残りのうちのひとりであるならば、話は違います。もうひとりの片割れ、ルー・シャディラを解き放つことに同意したのは、あれがただひとりの残党という前提があってこそ。それが崩れるとなると……」
「皇妃のことといい、いずれもサイラス内部の話だ。我々が関知することではない」
「しらを切るのはあまりお得意ではないようだ。あのふたりを引き合わせるのは危険すぎることは、あなたもご存じでしょう」
レーザーの瞳と銀光を放つ眼が闇のなかでまともにぶつかった。
「谷の連中がケスの一族を討ち滅ぼしたとき、見せしめとして世嗣の幼いふたりを晒刑に処した。飢えと渇き、なによりも太陽風の容赦ない照りつけのもと、あのようなちいさな身体では長くはもたないはずだった。皇妃がケスの娘をサイラスに連れ帰ったとき、生き残りはひとりという話だった。こちらも小僧が生き延びているとは夢にも思わず、小娘を手元におくことを黙認した」
「そのような昔話を蒸し返してどうする」
「件の妖術使いこそ、あのときの小僧の後の姿であることは先刻承知でしょう。同盟者たるタルクノエムが皇妃と通じて小僧を匿っていたとは。あなたは今もその男をひそかに支援している。彼奴は谷のわれらの拠点を次々とつぶしているというのに」
司祭は、これまでのおだやかな調子から豹変して鋭く言い放つと、怒気をはらんだ声で糾問した。
「こうなると、皇妃の件も本気で取り組んでいるのかはうたがわしい。違いますかな」
「何が所望なのか」
イルラギースは交渉を終結に向けた。
「初めから要望しているとおりです。皇妃の捕縛に、もう少し身を入れていただきたい。まさかとはおもいますが、皇妃と手を結んで、大地に眠る赤熱の大蛇を呼び覚まそうと企んでいる訳ではありますまい。意味するところは、文明の死。この一件に同盟の行く末が、あなた方の命運が懸かっているのですから」
眠れる赤熱の大蛇、すなわち岩漿の舌をちらつかせる地の底のマントルを再び目覚めさせる、それこそが天空の封印を解く鍵。だが、天と地にまつわる秘密の核心を突かれても、イルラギースは驚くべき自制心で瞬きすらしなかった。彼の本心を瀬踏みするかのような老獪な問いかけを怪訝さを装うことすらせず黙殺した。
「こちらの答えも変わらない。努力しよう」
「では、信じましょう。あなた方の誠意を」
司祭は鼻を鳴らして嗤った。
「それではひとつ情報を差し上げましょう。あのケスの娘は我らの掌中にあります。まず、約束通り老アルムントを弑しましたが、それはほんの小手試し。次の標的は、ポーメリアンの導師、キシアン・ナージ」
「ほう、予言者同士の潰し合いか。果たしてうまくいくかな」
執政官の瞳が揺らめいた。
「あなたもくれぐれも邪魔することは無きよう」
去り際、サイラス人は充分に嗜虐心をみたしたかのように、みにくい笑いを残していった。
(弐)
タルクノエムに帰還したのは、明け方近くだった。
第一の市門は、谷底の登城路の手前にある橋頭堡。千の銃槍で物々しく警備された鉄の砦、その門楼に伏す守護獣、猛々しい獅子と竜と雄牛のキメラを頭上に仰ぎゆくと、山腹のつづら折りを地上を目指して隊列は進んだ。
第二の市門は、地上にあり青銅。その重い扉にはタルクノエムの市章が、ラ・ウの瞳が刻印された有翼円盤が鋳造されていた。鏡面のように磨き上げれた扉がゆっくりと開かれると、剣の刃渡りさながらの細くながい空中回廊がオーロラの向こうでゆらめく天空の都市を目指してすっくりと延びていた。
第三の市門は、目が眩むほどの黄金。市壁の内部へと通じるその黄金の跳ね橋が下ろされると、女の顔と蛇の尾、鷲の羽を持つ二柱の巨像が一行にアーケイックな一瞥を投げてよこした。
白銀の馬車は螺旋の都市軸をそのまま駆け抜けた。
眼下には魔窟のごとき猥雑な路地、頭上には無数の聖なる尖塔。オーロラに抱かれた都市は、一方には救いがたい暴力と貧困、他方には贅を尽くした饗宴とロマンス、さらには背徳、策略、陰謀、恫喝とあまたの秘めごとを内包しつつ、それ自体がひとつの巨城として厳然と存在していた。
イルラギースは、統制府のある憂愁宮へ、目が覚めるような紺碧から鈍く褪せた灰青まで、あらゆる青の宝石や彩釉タイルが嵌め込まれた幾何学的抽象の神殿へ、まっすぐと向かった。がらんとした吹き抜けの階段広間の螺旋回廊を登り切ると、最上階にある執務室を抜けて、丸天井の明かり窓を囲むように宇宙の創世が柔らかなフレスコ画で描かれている私的な書斎、沈思の間にたどり着いた。
彼の存在を世界から覆い隠してくれるこの卵型の小部屋を彼は愛していた。部屋に満ちた寒々しく空疎な空気は、倦み疲れたあるじをふんわりと抱擁した。桃花心木の重い扉を閉ざすと、イルラギースはやっと人心地ついて、手すさびに書状を閲したり、目を通した証文に名書をくれてやったりした。
夕刻になって、やっと執務室を退出しようとしたところ、列柱の陰のひとつであるかのように佇んでいたサーマスが追いかけてきた。
呼び止められて、イルラギースはゆっくりと振り返った。やや疲れの色が浮かんでいたが、その目に迷いはなかった。
「今後の策はどうされるのですか」
「どうって」
表情のない貌が物憂げにサーマスを見返した。
「これまで通りだと、司祭の前でも宣言したはずだが。お前が動揺してどうするのだ」
「しかし、」
サーマスは躊躇いながらも言葉をつづけた。
「サ・リのことはどうなろうと自業自得だ。捨て置け」
その言葉の端にはかすかに苛立ちが含まれていた。
「それと皇妃の件だが、所在がわかっているからといって引き渡すつもりはない。適当に泳がせておけ」
そう、皇妃はもうすでに見つけたのだ。遠い北の果てで。いまやガムザノン全体がサーマスの監視下にあった。
「……キシアン・ナージ様は」
「ふっ、予言者におのれの身の危険を知らせる馬鹿がどこにいる。自分の身の始末くらいできよう」
「司祭は我々の思惑などわかっていない。やつを実態以上のものと恐れるな。揺さぶりの手にのるなど愚の骨頂。いずれにしてもすべてを静観するのだ」
まだなにか言いたげなサーマスを残して、イルラギースは迎えの馬車に乗った。
司祭との不快極まる会談で判明したことはただ一点。こちらの奥深くに内通者がいるということだ。イルラギースは暗澹たる物思いの淵に沈んでいった。
(参)
自宅へ戻ると、息子のサディウスが子守役のゾイエ女史とともに彼の帰還を待っていた。
「父上、ずいぶん長いお勤めごさいましたね」
父親譲りの真鍮色の髪をした少年は何か報告があるようすだった。目の辺りに亡き妻エフェルメの面影がある。
「ああ」
イルラギースは、その琥珀色の瞳を思わずのぞき込んでから視線をはずした。少年の誕生は、妻の死と分かちがたく結びついていた。思わずこぼれそうな嘆息を素っ気ない沈黙で覆い隠すと、名残惜しげな少年をそのまま退出させた。
所詮、良き父になどなれない。どう取り繕ろうが、あの父の二の舞だ。
彼の父は商人というより夢見がちな冒険家で、右腕のファーセルとともに新たな鉱脈を求めて谷の辺境に分け入っていた。その超然としたどことなく神さびた風貌は、王朝時代からの古き血脈の間欠たる遺産だったのか。もっとも面影を継いでいるとされるイルラギースだが、父に近しさはまったく感じなかった。
憂愁を帯びた深青色の瞳は嫡出の三人に、柔らかな黒い巻き毛は庶出の末子に残された。だが、残したのはそれだけ。煙るような柔和な眼差しに漂うのは、確たる拒絶と鷹揚たる無関心であり、すべてに我関せず焉たる男だった。
その父の代わりに、イルラギースは年少の頃からこの家の家長だった。父の突然の死とともに法学者としての自らの経歴をあっさりと捨てて、家業の宝石商を継いだ。
ふたりの弟にはそれぞれ好きな道を歩ませたが、すぐしたの弟が彼のあきらめたガルムの法学院に卒業後も残りたいと希望したときは素直にうれしかった。一方、彼らは完璧すぎる長兄に羨望と畏敬の入り混じった感情を抱いており、総じて彼を敬遠していた。
それでも、彼らはまだ良かった。少なくとも見かけは従順であり、生涯を通じて離反することはあり得ぬだろう。
一番手をかけた末の弟は、タルクノエムの淡い光のなかで慈しんで育てたはずの少年は、その人生のとば口に立つやいなや早々に彼を裏切って出ていった。結局、彼に対してとまどうほどの思慕を寄せていた少年は、その情念をうちに深く沈ませて自らが生まれてきた闇の世界に戻っていったのだ。
そして、初子の産褥がもとで死んだ最愛の妻は、その死の床にあった時でさえ、無言のうちに彼を責めていた。彼は何ものも愛していない、と。
イルラギースは、記憶のなかの琥珀色の瞳を強く想った。その喪失がいまも彼の一部で血を流し続けていることを彼女は決して理解しないだろう。
結局、私は何かが欠けた人間なのだろう。
外面の華やかさと相反して、イルラギースはもともと孤独癖があり、他者に胸襟を開くことなく生きてきた。
司祭の台頭をめぐるサイラスの動乱はひとつの転機だった。いずれ、軽佻浮薄を国是とするタルクノエムですら、終末を渇望する狂人たちの巻き起こす濁流に呑みこまれるだろう。言いしれぬ喪失感のうちにありながらも、鋭利な頭脳を持つ男はそう直感した。
折しも、父ギランの突然の逝去で権力の座は空白状態にあった。腐乱と因習の中枢に身を投じることに迷いはなかった。
末弟の出奔、それにつづく妻の死、そして、法学家としての密やかな野心との決別。
終わりのみえぬ凶夢のうちにあって、失うものはもはや何もなかった。
彼は権謀術数が渦巻く、熟れて落ちる直前の商都を盤上としたパワーゲームに興じた。爾来、冷ややかな激情をもって、爛熟した権力の最深部に君臨してきた。
感傷に沈み込みながら、書斎に足を踏み入れたそのとき。
イルラギースは異変を感じ、現実に否応なく引き戻された。いたるところに検められた形跡が残されていた。確かに何ものかの手が入っていた。これまでもふと意識に引っかかることはあったが、これほどわかりやすくはなかった。
「ゾイエを呼べ」
執事に命じた。
ゾイエは、サディウスのために義父アルムロスから紹介を受けた才媛だった。やがて、覚悟を決めたのか、口許を堅く結んだやせた背の高い女が入ってきた。
「悪いが、暇を取ってもらう。理由は説明せずともよかろう」
「お言葉ですが、あまり賢い選択とは思えません」
穏便にすませるつもりだったが、思いがけない返答に嫌な予感がした。書斎のあきらかな異変は、当事者からの警告だった。何が彼女を翻意させたのか。
「何故だ」
「私なら、あなたを守ることができるからです」
きりりとした声がまっすぐに答えた。イルラギースは、理由を聞かねばならなくなった。
ゾイエは、間諜としての役割をさらりとこなしたが、イルラギースの殺害を命じられて、その任を放棄することにしたのだ。アルムロスに並ならぬ恩義はあったが、それより遙かにみずからの信義に忠実だった。
アルムロスは、愛娘の死後、サイラスで崇められているオメガ神を信奉した。救世主すら失われた終末色の強い教えに傾倒し、サイラスとのつながりが強くなった。そこまでは、イルラギースも承知していた。アルムロスも、どこまでこちらの情報を流せばよいのか心得ていたはずだった。
サ・リの件が伝わり、超えてはならない一線を越えたのか。そこまで傷が深かったのか。
アルムロスは、あれを娘の不幸に終わった結婚の原因と決めつけているのだろう。
エフェルメとイムナン・サ・リ。彼らは、似ていた。彼らの暗い同盟は、やがてすべてを巻き込んで破局へと突き進んでいった……。
「何故、現実から目をそむけるのです。あなたらしくない。私が刺客であるうちに、手をほどこさねば。タルクノエムは、終末を求める狂信者たちに呑み込まれてしまうでしょう」
ゾイエの目に理性と真摯なきらめきをみた。真偽を見極めるにはそれで良しとした。いつにもまして疲れていた。詳細は後々サーマスに探らせればよい。
「悪いが、暇を出すことには変わりがない」
イルラギースは、感情のない声で言った。
「アルムロスの館に帰るのだ。サディウスとともに。あちらの動きを報告するのだ」
こちらの疑いをつゆとも気づかせてはならない。あの男とて、サディウスには手を出さないはずだ。
「そして、全力でサディウスを守ってくれ」
その愛息まで巻き込んだ密命のあまりの非情さにゾイエは一瞬身を凍らせた。
イルラギースはゾイエを退出させると、急に力がぬけてゆるゆると寝椅子に横臥した。
額に腕先を当てながら、これまでに失ったものたちのことを思った。




