序
女は、惨禍の痕を見据えた。
焚き殺された死骸が幾重にも折り重なっている。硝煙の燻りを追うように、凍えて乾いた大気のなかで、臓物がゆっくりと自らの肉体をむさぼるあまく饐えた匂いが世界を満たしていた。この峡谷のここかしこで数千余の一族が焼かれたのだ。赤い谷は、おびただしい血を吸って、深紅に燃えたっていた。
忌まわしい大災厄から此の方、フィンブルの冬を惑星にもたらした煙霧質は、周期的な嵐に巻き上げられて、いまだ空を赤く染め上げており、その中心に輝く太陽は、空の色とは対照的に蒼く冷たい光輪を放っていた。
女は空を覆う重金属の埃を超えて、主星から絶えず吹きつける死の光線を恐れない。羅のサンシールドの面紗を纏い、ゆるゆると歩んでいく。
黄みを帯びた胸許に隠された、光と闇の胚芽が溶け込む陰陽のタトゥーが、かつて彼女の属した世界を、今は亡きひとつの文明をひっそりと主張していた。
面紗からは黒く強い髪が独立した生き物のように零れている。その突き出した頬骨の曲線にそった切れ長の目から女の感情を読みとることは不可能だった。
女の足がふと止まる。
「なんという酷いことを」
女の口から初めて言葉がもれた。
女は見つけたのだ。
鎖につながれたまま、生きながら死の光線にさらされて地に倒れ伏した幼い少年と、少年の腕に抱かれたままかろうじて守られたちいさな少女を。彼らの不信に満ちた黒い瞳を。
この星での最後の企ては、無惨にも失敗に終わった。この子たちですら危険な存在だ。もはや速やかにすべての痕跡を消さねばならない。そして、汚染されたすべての生命体を封じ込め、この星と人類に関わるすべてを終わらせなければならない。
脳裏にカチカチと「声」が響くたびに、微かに胸が波打った。
……殲滅セヨ(トク)
……殲滅セヨ(トクン)
……殲滅セヨ(ドクンッ)
始めから何事もなかったようにこの星ごと消し去るのだ。
だが、自らと同じ黒い瞳の凝視を受けながら、女は密かに決意した。大いなる意志の代行者として約束された永遠の生を断ち切ってでも、初めておのれの運命に、与えられたプログラムに逆らうことを。
「光の子らよ。お前たちにこの星の命運を賭しましょう」
いまや迷いはするりと消え去った。
やがて、彼らの成長とともに、新しい物語が、この星、惑星「夜」とそこに住まう者たちのジェネシスが始まるだろう。この闇と冬に閉ざされた時代を終わらせるために。
そう、始まりは終わり。それはまたひとつの世界の終末譚でもある。すべての創世神話は、巨人や先神の滅びの歌のなかにうまれ、アポカリプスやラグナロク、あるいはカリ・ユガは、おしなべて再生の物語を孕んでいる。
そして、世界の根源である陰陽魚は、互いの尻尾を食みながら太極たる渾沌を循環する。
刻は、循環しながら螺旋に流れゆくのだ。
此方から彼方へ。
未済は、亨る。
不完全なまま終わる。終わりは、未完。
我々は、やっと河を渡りきるところで、尾を濡らしてしまった未熟な小狐。もう一度やり直さなければならない。
すでに人々の記憶から失われてしまった予言書の最終章を小声で唱えると、女はその胸許にゆっくりと手を当てた。
未済は、亨る。
小狐ほとんど済らんとして、その尾を濡らす。利するところなし。
物は窮まるべからず、故に之を受くるに未済を以てして終わる。