星梅鉢
やあ、よく来たね。なに、戦争中の話を聞かせてほしい? 可愛い孫の頼みだから、おじいちゃんは何でも教えてあげるけど、あまり楽しい話じゃないよ。
夏休みの宿題かあ。戦争が終わって七〇年も経つから、戦争を体験した年寄りも少なくなったのに、今でもそんな宿題があるんだね。
おじいちゃんだって戦争には行ってないよ。戦争が終わったのは小学生のとき、今のおまえと同じくらいだね。お爺ちゃんの兄さんたち――お前からすると大爺さんは戦争に行ったよ。一番上が海軍、この人は生きて帰ってきたけど、その下の二人は陸軍で戦死したよ。
海軍は格好いい? それは違う。海軍は今でも格好いいイメージがあるけど、とんでもない。国民がどんなに苦しかろうと自分たちの利益は守ろうとする、ろくでもない連中さ。
そういう話を聞きたいんじゃないね。学校の先生が求めているのは、戦中戦後の苦しい生活とか、戦争はこりごりとか、そういう話だね。そりゃ、酷いものだったよ。なにせ日本中、食べものがないんだ。
まあ、うちは百姓だから食べ物もあった方だし、ここは田舎だから空襲もなかったよ。
空襲が分からない? 飛行機から爆弾を落として人も家も焼いてしまうことだよ。アメリカのB二九爆撃機はそりゃあ、ものすごい性能でね。爆弾を九トンも詰めるんだ。そんなのが一度に何十、何百と押し寄せてくるから、空襲されたら大都市も焼け野原さ。一度に何万人って人が死んじゃうんだ。戦争が終わるころには日本国中が空襲にやられててね。アメリカは徹底してるから、大分市なんて小さな町でも二二回もやられたんだ。
爆弾――細かいことをいえば焼夷弾といって、人や家を燃やすための爆弾だ。ガソリンかけて火を付けられるようなもんで、生きたまま焼き殺されるんだ。ものすごい勢いで燃えるから、消そうとしても消せるもんじゃない。
ひどいって、それが戦争なんだ。
……泣かなくていいよ。だから戦争なんかやっちゃいけないんだ。
どうしてここは空襲されなかったかって? こんな田舎に爆弾落として壊すようなものはないよ。でもね、裏山に一度だけ爆弾が落ちたことがあるんだ。大分市への空襲が一番大規模だった昭和二十年七月一七日だ。
おじいちゃんはよく大丈夫だったって? ちょっと大変だったけど、自業自得と言うか……。
おじいちゃんが生きてて良かったって? おまえはいい子だねえ。よしよし、もう泣くんじゃない。うちの一族は図太いからね。ろくでもない時代でもしぶといんだ。
どういうことかと言われてもなあ。うーん、もう七〇年も昔のことだから、話してもいいかな。
大分大空襲の時に、ここにも爆弾が落ちたのはアメリカ軍が間違えたからとか爆弾が余ったからとか言われてるけど、そうじゃない。実はお爺ちゃんのお父さんと兄さん、お前からすると大爺ちゃんと大伯父さん、子供だったお爺ちゃんの三人のせいなんだ。他にも大爺ちゃんの親戚たちも関わっていたようだけど、今となっては細かいことは分からない。お爺ちゃんも子供だったからね。
こんなことがあったんだ……
昭和十九年七月、海軍大分基地。
大分航空隊は戦闘機の訓練を任務とした部隊だから直接戦闘する訳ではない。しかし戦局の悪化により苦しい任務を強いられるのは実戦部隊と同様、ある意味もっと酷かった。
太平洋戦争は航空戦力の消耗戦である。より多くの航空機を前線に送り出した方が勝利する。ことに防戦一方となった現在は敵機を打ち落とすための戦闘機が一機でも多く必要である。したがって戦闘機を操縦するパイロットの養成は最重点課題である。
ところがその実態は、お世辞にも順調とは云えない。元々が少数精鋭で組織された航空隊を、戦争で消耗が激しくなったから慌てて増やそうとしても、そう簡単にシステムを変えられるものではない。
採用枠を増やして訓練生を増やすことは出来ても、訓練する方の人員や資材が追いつかない。合格基準をゆるめて訓練期間を短縮するから、訓練生の技量はどんどん低下する。初等、中等の訓練を経て、大分基地に配属されるときには、実用機である零戦での訓練が可能なまでの技量が身についている。はずなのだが、実際には明らかに未熟な者が増えていく。それを何とか戦闘に参加できるまでに訓練しなければならないから、教える側の作業量は増大する。にもかかわらず、訓練基地の隊員は次々に引き抜かれて前線に廻される。自分が座っている椅子の脚を切るような人事だと分かっていても、苦しい戦局ではそうせざるを得ない。当然、残った隊員は過剰労働になる。
長引く戦争で無理な増産を重ねたツケで、資材の品質も低下している。必然的に事故が多発する。
「イナーシャ回せ!」
零戦のエンジン始動は手動だ。エンジン右に装備したイナーシャを整備員が力一杯ハンドルで回す。充分に弾みをつけたところで、操縦席のパイロットがスターター結合レバーを引いてエンジンが始動する。このときパイロットは、整備員の機体からの離脱を確認するのが鉄則だが……。
若い整備員が調子の悪いイナーシャーに手こずり、ようやく回転をあげてハンドルを外したとき、コクピットから声が響いた。
「コンタクト!」
「馬鹿野郎、まだ俺はいるんだ」
緊張しきった訓練生に逃げ場を失った整備員の悲鳴は届かない。こういうときに限って繊細な栄エンジンが一発で始動する。更に悪いことに、訓練生は操縦桿を足で巻き込むことを忘れていた。そうして機体を上昇姿勢にしないと、いきなり馬力のついた機体がつんのめってしまうのだ。
飛び出した機体は整備員を押し倒す。その先には勢いよく回り始めたプロペラがある。名もない整備員は死を覚悟した。
訓練中の事故だから戦死あつかいだな。いくばくかの金は出るから、親に金を残せるか。水飲み百姓の長男はとしては、海軍の整備兵ってのは、まあ、頑張った方かな。大して面白いこともなかったけど。
これまでの人生が走馬燈のように蘇る。
嫌だ。こんなつまらないことで死にたくない。国や海軍に貢献してない。いや、海軍は散々に俺をこき使っただけだ。人手不足で操縦教官の真似事までさせられた。本職の教官より教え方が上手いって訓練生の評判もいいんだ。なのに感謝の言葉もない。
俺はまだ、何もやっちゃいないんだ!
鈍い音がして、直径三メートルのプロペラが整備員を跳ね飛ばした。
一年後、昭和二十年七月。B二九はいいように日本中を爆撃し、都市も工場も焼け野原と化していた。もやは日本に戦争を続ける余力はない。にもかかわらず戦争は続いていた。
大分県大分郡西庄内村小野屋、現在の由布市庄内町。夜道を三台の牛車が行く。
夜中に郵便馬車が走ることは珍しくはないが、幌で覆われた荷物は郵便とは思えぬ重量があるらしく、砂利舗装さえない田舎道に轍を刻んでいく。
先頭を行く牛が荷台の重みに耐えかねたように、苦しげな鳴き声を上げる。牛を引く壮年の男は「よしよし」と牛の首をなでる。「もう少しだからな」
「おやじ、この辺は道が悪いんだ。ランプをつけようよ。」二番目の牛車を御す少年が前に声をかける。
「もったいない。月明かりで十分だ。」
「けち!」
「なんだと。そんなに暗けりゃ、目から火花出るほどちちまわしてやろうか。」
「とうさん、大きな声を出さないで。大丈夫、父さんは慣れてるから、付いていけば大丈夫だよ」
三番目の一番後で最も荷台がかさばっている牛車を御す青年が声をかける。
「玖珠の陸軍飛行場から運び出すのに、往復三日も仕事を休んでるんだ。これを入れるために納屋も改築したし、このうえ余計な金を掛けられるか」
「でも、この荷物には軍からの横流し品も入ってるよな。それを売りさばくんだろ?」
「馬鹿野郎、それこそ『大きな声を出すな』だ。金が入ったところでなあ……」
父親は言いかけたが、それきり黙って進む。少年と青年も父に続いて牛車を進める。
軍が当てにならないから自分たちでB二九を迎撃する。少年向けの空想小説でもやらない馬鹿げた企みだ。事故で死にかけたのが不憫だと、長男の提案に乗ってしまったのが運の尽き。金はいくらあっても足りやしない。
人家が近づいても灯火管制で周囲は暗い。三台の牛車は馬車道の外れの納屋に入っていった。
後に大分大空襲と呼ばれるB二九、三〇数機による大分市への爆撃の半月ほど前のことである。
母屋の脇にある納屋は、外見は百姓家にしては大きな納屋にしか見えないが、中は飛行機工場のようだ。玖珠の陸軍飛行場で分解した飛行機を牛車に分乗して庄内まで運び込み、納屋を改築した整備場で組み立てる。むろん、正規の軍務ではない。軍用機が百姓家に持ち込まれる自体があり得ない。
胴体と主翼をつなぎ合わせると、飛行機は全体像が見えてくる。
「これは海軍の飛行機じゃない」
「そうだ。陸軍の飛行場から持ってきただろ。一番新しい戦闘機、五式戦だ。しかも排気タービンを付けた新鋭機だ。これならB二九や護衛の戦闘機とも充分に戦える。」
「海軍の新しい戦闘機じゃ駄目なの? 」
少年はこの時代の子供にありがちな感覚で、スマートでハイカラな海軍にあこがれている。特に飛行機は海軍航空隊が格好いい。海軍航空隊に入隊した兄は少年の自慢だった。だが、その兄の考えは違った。
「紫電二二型か。繊細なエンジンが、近頃じゃまともに作れないんだ。整備も大変だしな。そこいくと、こいつはエンジンも機体強度も余裕があるから、排気タービンをかけても充分に動いてくれる。」
「審査や配備のどさくさで、ガメられたのがこいつだったってのが本音だろうが。」
「ま、その辺は親父の悪知恵に感謝するよ」
「人徳と言え」
五反百姓ならぬ、本人が言うにはそれより貧しい「三反百姓」。それだけでは食っていけないから郵便夫を始め、あれこれせこい商売をやって小銭を貯めた田舎のオヤジが、どういうコネで戦闘機をくすねる算段をしたのか。未だ兵役の二男、三男を持ち上げたり脅したりして情報を仕入れたあげく、自分が兵役中につかんだ少将だか大佐だかの不祥事をネタに、陸軍航空隊の中央を一年がかりで揺すってせしめたとか言ってるけど、どこまで本当なのやら。
「でも、ガソリンは海軍のだよ」
「このドラム缶、どこから持ってきた?」
「大分基地から、ちょっとね」
その父の気質を一番受け継いだらしい末子は、畑から盗んだミカンや柿を持っていって基地の整備兵と仲良くなったかと思えば、あれこれ怪しげな備蓄品をくすねてくる。海軍航空隊へのあこがれと、威張りくさった軍人への反発から盗れる物は盗ってくる悪たれとが、この少年の中でどう折り合いを付けているのやら。
ともかくも、この親子のとんでもない才覚で必要な物がそろっている。
「こりゃ、アメリカ製だ。戦争前に輸入したオクタン価100の有鉛ガソリンだ。」
「舶来品かあ。いい物なの?」
「ああ、世界一だ」
「機関砲はドイツ製だぞ。なんて言ったか?」
「マウザー砲。これも世界一だ。」
日本陸軍ではマウザー砲と言われたドイツ、マウザー社製の二〇ミリ機関銃はたしかに高性能である。初速が遅くて弾道が山なりになる上に、しばしば不発弾が筒内爆発する日本製と違い、弾道が直線で確実に作動するドイツ製の威力は絶大である。
しかし高い工作技術を必要とするため、弾丸すら日本では製造できない。そのため潜水艦で持ち帰った分しか弾丸がない。どの戦地でも最初に持ち込んだ弾丸を撃ち尽くしたらおしまいである。どこかに一つぐらいは残っているだろうとコネを伝って帳簿を調べさせたら、戦争が激しくなって管理者が何人も交代するうちに倉庫に眠っていた銃と弾丸一式が出てきた。
「とはいえ、一回しか攻撃できんぞ。日本中探しても、さすがに弾丸はもうこれしかない」
「零戦の二〇ミリ機銃なら大分基地に転がってると思うよ。機銃ごと積み替える?」
どこからそんな情報を得るのやら。
「二度目の出撃があればな。」
まず問題となるのは離陸だ。
「この納屋から馬車道を滑走路代わりにして飛び立つと言っても、一〇〇メートルもないぞ。無理だろ。」
「これで持ち上げる」
ロケットノズルが二本。人間爆弾・桜花の固形燃料ロケットだ。
「宇佐航空隊で組み立てる前のヤツをちょっとな。」と人差し指を鍵型に曲げてみせる。
「いいんだよ、どうせ桜花は出撃できない。無駄に転がってるんだから」
勝手な言いぐさだが、桜花が出撃できないのは事実である。簡単な構造の桜花は量産できても、それを搭載して目標まで飛んでいく母機の一式陸攻が足りない。やっと宇佐航空隊にそろえた一式陸攻は、出撃前に空襲でほとんど破壊されてしまった。
もし出撃したとしても、重たい桜花をつり下げてスピードの落ちた一式陸攻は米艦載機に簡単に撃墜されてしまう。母機が地上で撃破された方がまだ被害が少ないとも言える。
そんなこんなで、使いようのない桜花とその部品が宇佐基地に山積みになっている。使えないからといって、無断で持ち出していい訳はないが。
ともかくも、庄内の山村にロケットノズルが二本ある。これを主翼の爆弾架に左右一本ずつ牽下する。点火したら消えるまで全力で燃焼するだけの固形燃料式ロケットだから、爆弾か増層タンクを牽引するための金具で支えられるのか不安だが、胴体に固定する改造はさすがに手に余る。牽引具の補強でなんとか持たせるしかない。その改造のため、普通に爆弾をつるしたときと違い、通常のスイッチでの切り離しが出来なくなる。ロケット燃料を使い終わったら、牽引具に仕込んだ火薬式の爆発ボルトを吹き飛ばして分離する。
機体のエンジンとロケット二本を一度に全力運転すれば、戦闘機はほとんど滑走距離がなくても離陸するだろう。かなり荒っぽい発進だが、やれないことはない。
「でも着陸はどうするの? 航空母艦みたいにするの?」
「壊れた零戦の着艦フックを装着してみた。五式戦は零戦より機体は頑丈だから、着艦並みの衝撃にも耐えるさ。陸軍機で海軍機の着陸誘導灯の指示が使えるのかどうか、やってみなければ分からんが、まあ、大丈夫だろう。
それより、この馬車道に空母の甲板みたいな装備を用意するのが間に合うかな。離陸して戻ってくるまでに、着艦ワイヤー代わりのロープのテンションを調整しなきゃならない。さすがに空母用のワイヤードラムは手に入らないからな。」
「返ってくるのはまだ夜だろ。道の両側に松明を並べると、灯火管制でよく見えるから爆撃されちゃうよ。」
「敵機は別府湾から進入してくるから、大分で爆弾落としたらここまで飛んできても大丈夫さ。こんな田舎を狙いやしない。
ま、ここに降りられなければだめなら大分か玖珠の飛行場に降りてもいいし、いざとなったら別府湾に不時着するさ。もちろん機体は回収できないけど。」
「海に不時着して、お前は無事なのか?」
「不時着の教本は読んだことはある。やり方は分かってる。実際に海に降りたことはないけど、何とかなるだろ。海軍のやり方だけどな。
こいつは陸軍機だから、海軍機みたいに浮揚装置どころかパイロット用の浮き輪すらない。不時着したらすぐに逃げ出さないとやばいだろうな。まあ、別府湾ならフカがいる訳じゃないし、着水でひっくり返らなければ、なんとかなる。」
ぶっつけ本番以上の無茶をさらりと言う長男の口調に、父親の顔が引きつる。そもそも長男はB二九迎撃はおろか、戦闘経験もない。扱い慣れた零戦ならまだしも、操縦したことのない機体、しかも陸軍機。操縦系統配置も違えば計器板の表示も違う。慣れるために、暇さえあればコクピットに収まっているが、それで追いつくものか。
「今になって危険だからやめろと言う気かい、父さん」
「いや。」父は首を振った。
「いい機会だからな、俺の思うことを言っておく。
一昨年、お前が戦死したと聞いたときは文字通りひっくり返った。内地の、それも訓練基地の大分航空隊なら安全だと思ってた。しかし軍隊だからな、死ぬことはある。お国のためだから仕方ないと諦めた。
それがエンジン始動中のプロペラに巻き込まれたからだと聞いたときは、情けなくなったよ。そんなつまらないことのために長男を海軍にやったんじゃない。
後で聞いたんだが、珍しくはない事故なんだってな。酷いときはプロペラに体を切り刻まれるんだと。それに比べりゃ、まだマシな死に方だ。
ところが戦死は間違いで、生きて家に戻ってきた。ただし大怪我で、体中に包帯を巻かれて、意識もないままでな。死体のようなもんだった。
どのみち長くはない、このままロウソクが短くなって消えていくように死んでいくんだろうなと、そう思って毎日、お前の顔を眺めてたら、段々と考えが変わってきた。こんなになるまで国に尽くして、国はこの子に報いてくれたのか。
どうした弾みか、家に帰って十日目に意識を取り戻したとき、俺は思った。この子は国に尽くして死んだ。生き返った二度目の命まで国にやる義理はない。まともに働ける体に戻るとも思えなかったしな。他にやりたいことがあるなら好きにさせてやろう、と。
動けるようになるのに一ヶ月。更に二ヶ月で奇跡的に歩けるようになった時も、考えは変わらなかった。海軍に戻ることはねえ。
それで、なんかほしい物があるかと聞いたら、戦闘機がほしいと言い出した。流石に面食らったが、好きにさせてやろうという気持ちは変わらなかった。」
青年が大きく息を吐く。ならば、自分も存念を語らねばなるまい。
「俺が海軍に入ったのも立派な理由じゃない。どうせ兵隊に取られるなら飯が美味い海軍の方がいい。整備兵なら鉄砲撃たなくてすむだろうと志願したら、なれた。飛行機は好きだからあれこれ教わってたら、門前の小僧なんとかで、あれこれ覚えた。人手不足をいいことに、重宝がられているうちにもぐりの搭乗員だか訓練教官の代用みたいになっちまった。平時ならあり得ないけど、なにせ戦争中でどこも人手不足だから、たいがいの無茶は通る。
正式な搭乗員じゃないけど、耳学問と工夫で覚えた俺の操縦はけっこう評判よかったんだぜ。教えたかが上手いって、ほめられたもんさ。給料は整備員のままで手当も付かなかったけどな。
器用貧乏はうちの一族の遺伝だな。そりゃいいんだ、飛行機をいじったり操縦するのは楽しいから。
けど、段々と海軍が嫌になってきた。宣伝と中身は大違いで、海軍は全然スマートでもハイカラでもない。将校は下士官や兵を奴隷みたいに扱うんだ。俺たちがどんなに頑張っても、いいことはみんな偉いさんのもの、失敗は下っ端の責任さ。
それでも戦争に勝つなら、まだ我慢できる。発表じゃ連戦連勝だが、そんなはずはない。この戦争は負け続けてるはずだ。そいつはアメ公が強いからじゃない。皇軍が間抜けで、失敗を認めない馬鹿どもが指揮してるからだ。挙げ句の果てに本土まで空襲されてるのに、ろくに迎撃もしない。本土決戦のための戦力温存? 冗談じゃない、その前に日本人は皆殺しにされちまう。
人間は死ぬときに一生が走馬燈のように蘇るって云うのは本当だな。プロペラに巻き込まれる瞬間、人生を思い起こして、いいように使われただけで、これで死ぬのは嫌だと思った。だから俺はもう海軍の言うことは聞かない。好きにやらせてもらう。その一念で医者が驚くほどの短期間で体も治した。戦闘機の準備には一年もかかったがな。」
「まったく、ちっとばかし頭がいいからって畑仕事もせずに勉強ばかりしてりゃ、口ばかり達者になりやがって。けどな、学問のない百姓でも、日本が勝ってるのに敵機がのうのうと爆弾を落としていくのは変だとは思う。お前の言うとおり、大本営発表は嘘だろうさ。俺たちは本当のことを知らされていないんだろうな。」
「戦況を知っていようがいまいが、負けているのに降伏するって選択肢がないんじゃ、日本は滅亡するまで戦うしかない。
そもそもの組織の成り立ちから間違ってる。海軍はアメリカに勝つ名目で予算を取って組織を拡大してきた。だから、いよいよ戦争が起こりそうになったとき、『勝てないから戦争できません』とは言えなくなった。勝てると言い続けていたら、それを信じて実情が分からなくなった連中が海軍にはウジャウジャいるしな。
俺も日本海軍は世界最強だと信じてたクチさ。仲間たちも皆そうだ。ところが、そうじゃないことは最初から分かってたんだ。
真珠湾攻撃の成功で基地中が盛り上がってたときに、面白くなさそうな顔をした大尉がいてな。普通なら口もきけないくらい階級が上なんだけど、この快挙にどうして暗い顔をしているのかが気になって尋ねたんだ。
大尉は黒板に計算を書きながら日本とアメリカの戦力差を説明してくれたよ。日本軍が勝ってアメリカの戦力が減る。そうするとアメリカは戦艦や空母をどんどん造る。日本も負けじと造るけど、工業力が10倍も違うから、どんなに戦争で日本が勝っても、やがてアメリカは何倍もの戦力を揃えてしまう。はっきり言ったよ『この戦争は負ける』と。
実際、戦局がどんどん悪くなってるのは訓練基地でも分かる。前線から訓練教官に赴任したパイロットの話じゃ、アメリカはどんどん戦力を増やしているのに、こちらは機材が足りなくなるし、訓練生の技量は落ちていくばかり。
それに、武器もアメリカの方が優秀だ。B二九な、あんな高性能機は日本では作れない。」
「また小賢しい理屈をたれやがる。そんな難しいことじゃねえ。俺が思うのは、一億総玉砕したあと、だれがこの田んぼで米を作るんだ?、ってことさ。」
父が指さした田は狭い。『ムシロ三枚、田が隠れる』と自嘲する、五反百姓にもなれぬ貧しい農家だ。喰うために、金を稼ぐためには何でもやった。いつの間にか金が人生の目的になり、親戚や近所からも煙たがられるほどになった。
それでも先祖代々、身を粉にして米を作ってきた田には、愛着以上の感情がある。この田を耕す者がいなくなり、荒れ果ててしまうのは嫌だ。
「ま、こんなこと特高の耳にでも入ったら殺されちまうから、外じゃ言えないがな。」
「だから長年溜め込んだ銭をはたいて、金儲けに使うつもりだったコネをつぶしてでも、俺を手伝ってる?」
飛行機の組み立てや整備に必要な工具や機材をそろえるため、、売っている物は買ってくる。買えない物は裏ルートで調達してくる。それらが百姓家の納屋にふさわしくない機械音を始終はき出している。不審に思った駐在や近所を黙らせるために使う金も安くはあるまい。
「そんなとこかな。で、お前が思うようにB公にケンカ売ったとして、一機でどれだけ落とせるんだ。無駄じゃねえかい。」
「そりゃそうなんだが。このまま黙ってやられっぱなしってのも面白くない。男の意地ってヤツだ。」
「そんな一文にもならねえモンのために命はるか。馬鹿馬鹿しい。」
「大ホラ吹きで言いだしたら聞かないのは血筋だろ?」
「お前は一族で一番の大馬鹿だ。器用貧乏なんて可愛いもんじゃない。けど、このままやられぱなしってのは、確かに面白くねえ。損得勘定抜きで、やってようろうじゃねえか。」
器用貧乏とは才覚があるのに報われない人を指す。器用貧乏の家系で最も才能に恵まれた青年は、長い日本史の中で一番異常な時代に、その才能を最も報われぬ形で昇華しようとしていた。
「話のついでと言っちゃなんだが、お前はどう思ってるんだ?」
「え、俺かい?」
末弟は目を丸くする。
「俺、兄ちゃんみたいに頭良くないし、親父のように金のため動くのも好きじゃない。二人の言ってることは学校の先生や他の大人と言ってる『お国のため』と違うし、何が正しいのか分からなくなった。
その前にさ、海軍航空隊の兄ちゃんは俺の自慢だった。俺は兄ちゃんほど頭がよくないから勉強もさせてもらえないし、海軍には入れそうにないから、なおさらね。だから兄ちゃんが戦死したと聞いたときは、海軍とかいっぺんにどうでもよくなった。
生きてると聞いたときは嬉しかったけど、元のように戦争に勝つんだって気分になれなくなった。
『欲しがりません勝つまでは』って、前は素直に我慢できてたのが、嫌になっちまった。けど、ここで兄ちゃんの手伝いをしてると面白いんだ。上手く言えないけど、なんかデカイことやってるって、ワクワクするんだ。
兄ちゃんは海軍を辞めて、死ぬのが嫌なのに戦闘機を盗んでまで勝手に戦争するのは変だと思う。けど、偉そうにふんずり返ってるだけでB二九を落とせない軍の連中に一泡吹かせてやるの、いいよ。だから、やろうよ。その、なんて言うんだろうな……」
言葉を探して焦るほど、物言いがハッキリしなくなる。父と兄は吹き出した。
五式戦の出撃準備が整うまで、あと僅か。
少年が納屋に入ると、五式戦は塗装をやり直していた。濃緑色だった機体上面は浅い緑色に塗り直されている。垂直尾翼の、本来は機体番号を、まれにパーソナルマーク描かれる場所には黒縁の六角形がある。
「兄ちゃん、これはどういう意味があるの?」
「人食い亀だ」
この家の近くにある小野屋の池には人を襲う巨大な亀が住むという。それを恐れた村人は亀を封じるために年に一度、祭を開く。亀が人を食うなど、無論ありもしない伝承に過ぎない。しかし荒唐無稽と馬鹿には出来ない。祭はいつ始まったのか分からぬほど昔から続いている。伝説は語り継がれること自体が地域を支える力となるのだ。
「出来て百年ぽっちの国のB二九なんぞ、長い伝統と文化を育んだ、いわば年の功で食いちぎってやる」
「『亀の甲より年の功』――駄洒落か。くだらねえ……」
「こういうのは気合いだ」
主翼や胴体の、本来なら国籍を示す箇所に描かれているのは、円の周りをやや大降りの五つの円が囲む梅花を図案化した紋章である。
「日の丸じゃない。日本の飛行機じゃない?」
「これは星梅鉢、我が家の家紋だ。この機は日本軍の所属ではない。我が家の男たちが我らの土地を守るために戦う、その意志を示す象徴だ。」
「わが一族の紋章……」
「そうだ、梅は菅原道真公を始祖とする家系を示す家紋だ。学問の神様の末裔が知力を尽くすして戦うのだ。
それにこの星梅鉢は前田利家も使ったと言われる。前田利家は石山本願寺と戦った春日井堤の戦いで、味方がみんな逃げても踏みとどまって戦ったんだ。我々にふさわしい。」
少年は高揚した。自らを鼓舞するためにパフォーマンスを打つ。馬鹿馬鹿しい理屈付けだろうと、それに乗ってしまえば効果は大きい。この兄はそれが分かっている。
あとにして思えば、前田家を持ち出すなら前田慶次郎の方が似合っていたが。慶次郎は利家の義理の甥に当たるが、人となりはまるで違う。利家が百万石の大大名にのしあがったのに対して、慶次郎は在野のカブキ者として知られている。権力にこびず、己の思うがままに生きた。その意気を示すため、様相は奇抜であったという。国籍マークすら付けず、個人の意地を貫く無名の一族が操るこの飛行機には、カブキ者こそ相応しい。
それはともかく、このとき少年はもっと大事な用があった。
「兄ちゃん、これを見てくれ」
鞄からビラを取り出して手渡す。意表化した爆撃機を下地に『七月十七日夜に大分市を爆撃します』と綺麗な楷書で印刷されている。十七日は明日だ。
「どこから持ってきた?」
「先週、大分基地が艦載機に攻撃されたときにアメ公がばらまいたんだ。警官や憲兵が『見たヤツは非国民だ』って、泡くって集めたんだって。そう言われると隠し持つヤツもいるから。叔父さんが特高に引っ張られた友達が、内緒だぞって、自慢げに見せてくれたんだ。」
「それをもらってきたのか。誰にも見られなかっただろうな。その友達がお前を告げ口したりしないか?」
「こんな物持ってたら、お前も特高に引っ張られるぞ、って脅しといたから、大丈夫だよ。それより、これ、本当かな?」
「本当だろうな。アメリカは予告どおりに空襲して、自分たちの力を見せつけるつもりだ。もう日本には反撃する力がないと日本人に思い知らせて、厭戦気分をあおる作戦だ。」
「じゃあ、今までより激しい空襲になる?」
「好都合だ。いつ来るか分からない敵を待って消耗させられることがなくなった。なめたまねしたアメ公に目にもの見せてやる。」
「けど、明日だよ。準備が間に合うの?」
「大丈夫だ。お前が頑張ってくれてるからな。あとはロケットを取り付けて、最後の調整だけだ。」
七月一七日夜、空襲警報にサイレンが鳴り響く。
西部方面軍の通信を傍受した五式戦の無線機は、大型機が四国沖を九州方面に北上中であると言っている。
「来たな。準備は?」
「このロケットエンジンってやつ、取り付けにもう少しかかるぞ。左右のバランスを取って固定するのが難しいんだ。点火が一発勝負だから念入りにやらなきゃ。失敗したら二度と飛び立てないんだからな。爆発ボルトってのもぶっつけ本番だから慎重にやらにゃ。
ああ、お前はいい。出撃前に疲れてどうする。手を出さずに休んでいろ。」
「急いでくれ」
「大丈夫だ。敵機がくるまでまだ二、三時間はある。寝てろ」
とても眠れるものではない。じりじりと時間は過ぎる。
そうこうしているうちに、無線は敵機がいよいよ別府湾に進入してくると言っている。
「よし、できたぞ。」
コクピットに収まる。すでに電源は入っている。父がイナーシャを回す。本来は専用の起動車を使うのだが、さすがにそこまで調達できない。
プロペラの回転が勢いを得ているのを確認して、コクピットから伸ばした右手を回してエンジン始動を伝える。隊員が大勢いる軍隊じゃないのだから、やらなくてもいいのだけれど、決まった手順を踏むと気が落ち着くものた。
この作業中に死にかけた記憶が蘇るのを振り払う。大丈夫、陸軍機のエナーシャはプロペラの前のスピナーに装備されているから、正面を見ればハンドルを外した父がいないのは分かる。
「コナタクト!」。
スターター結合レーバーを引く。爆音とともに一発でエンジンが始動、プロペラが勢いよく回転し始める。よし、調子はいい。
計器はすべて正常のようだ。大丈夫、俺は冷静に機体を操作している。訓練の成果だ、どこに何があるのか把握できている。操縦桿とスロットルもしっくりと手になじむ。
ひとまず落ち着いたところでシートベルトを締める。何度やっても、陸軍式はどうしても慣れないが、やむを得ない。
納屋から馬車道に出る。誘導灯代わりの松明が風に揺れる。そのままスロットルを開いて速度を上げる。エンジンは快調。だがロケットを二本装備しただけ機体が重い。田舎の馬車道は凸凹で、窪に落ちるたびに機体が揺れる。人力でならしたぐらいでは均平にしきれないのだ。
かまわずエンジン全開、機外に伸ばしたコードがロケットエンジンにつながった点火ボタンを確認、思い切り押す。次の瞬間、ノズルから真っ赤な炎が吹き出し機体が一気に加速する。
加速で座席に押しつけられる。と同時に機体が右に引っ張られる。テストもなしで無理矢理取り付けたロケットエンジンが傾いたか。それとも粗製されたロケットだから左側に装着された方だけ推力が低いのか。
落ち着け。大丈夫、突風にあおられたようなものだ。荒海を行く空母からの発艦を思えば、この程度はどうと云うことはない。操縦桿を倒し、左フットバーを踏み込む。滑走路にするには狭い馬車道で、右の松明に主脚が接触しそうになりながら、機体を道中央に引き戻す。
操縦桿を前に倒す。外が暗いので周囲の様子からは分からないが、ロケットの推力で速度は上がっているはずだ。すぐに機体の尾部が持ち上がるのが体の傾きで分かる。
操縦桿を戻す。機体が水平になったところで、ようやく速度計を見る余裕が出来た。時速一八〇キロ、零戦なら充分以上に離陸速度に達している。暗闇の上に前方視界が悪い五式戦では確認できないが、もう滑走代わりの直線道に余裕はないはずだ。操縦桿を引く。
途端に地面からの震動が収まる。機体が浮き上がったのだ。
と思いきや、左主翼が揺れる。ロケットノズルが振動しているのだ。ロケットが主翼にぶつかるような衝撃が二度三度と繰り返され、更に振動が激しくなった刹那、金具が引きちぎられる不協和音とともに、左のロケットが機体から外れて飛び出した。何メートルも進まないうちにロケットはでたらめな軌跡を描いて反転、機体をかすめて後に飛び去る。ぶつからなくてよかったと思う暇などない。
右ロケットの片肺飛行になった五式戦は急激に右に引っ張られる。フットバーを蹴飛ばし、力一杯操縦桿を倒して姿勢を維持する。
直後に主脚を収納。最小限の油圧ポンプしか装備していいない零戦ならこう素早くは操作できない。グズグズしているうちに急激な加速の風圧で主脚を破損したかもしれない。
脚の抵抗が減った五式戦は更に加速する。普通に離陸していたのでは直線がつきた馬車道の街路樹に激突してしまうところを、五式戦は急角度で一気に上昇していく。ロケットの加速で機体が小刻みにきしむ。
ロケットはわずか九秒で燃料を使い果たす。機体の振動がふっと止まり、加速がなくなる。スイッチを確認してロケットエンジン強制排除のボタンを押す。ドンと軽い振動があって機体が軽くなるのが感じられる。取り付け具に仕掛けた火薬は正常に作動したようだ。落下するロケットエンジンと牽引具に引きずられて、コードとスイッチが機外に飛び出す。
なんとか飛び立てた。座席を下げ、キャノピーを閉めながら大きく息を吐く。
五式戦は大分市街地に向けて高度を上げていく。
大分市街地に近づくにつれ、市の西側で火災が大きくなっているのが見えてくる。県庁やトキハ百貨店はほとんどがコンクリート造りだから延焼を免れているようだが、木造の民家はなすすべもなく業火に飲まれていく。皮肉なことにその炎が、闇に紛れたB二九の銀色に輝く巨体を浮かび上がらせる。僅かな探照灯は、反撃できない日本軍を象徴するかのように心細い。
「まだ投弾していないヤツに仕掛ける」
気合いを入れるために口に出して言うやスロットルを全開。排気タービンがうなりを上げてエンジンの回転数が跳ね上がる。座席に押しつけられる程の加速で五式戦は一気にB二九の編隊に迫る。
編隊の上空まで駆け抜ける。敵機の前方上から急降下を掛けつつ攻撃するのだ。高速ですれ違うから射撃できる時間は数秒もないが、それだけ敵からの射撃も難しく、敵機の懐に入り込みやすい。後からゆっくりと近づいたら集中砲火を食らってしまう。
それより問題はB二九を護衛するために同行しているであろう敵の戦闘機だ。五式戦は敵の新鋭機にも充分対抗できると信じるものの、戦闘機に攻撃を邪魔されたらB二九を取り逃がしてしまう。
暗闇なので確証はないが、小型機の姿は見えない。敵はもはや戦闘機の護衛すら不要なほど、日本軍は弱体化したと考えているのか。
「とここん馬鹿にしやがって」。高い代償を払わしてやる。
五式戦は上空でくるりと裏返る。背面飛行のままダイブに入る。急降下だとこの方が機体が浮き上がらなくて攻撃しやすいのだ。視界のB二九がぐんぐんと大きくなる。
曳航弾が光の尾を引いて飛んでくる。今にも自分の眼前に飛び込んできそうに見える恐怖を押さえ込む。爆撃機の旋回機銃など、高速で迫る戦闘機にそうそう命中するものではない。
B二九の機体が照準器にとらえられる。まだ撃てない。機体が巨大だから惑わされるけれど、まだ距離がある。時速千キロ近い相対速度で接近しているはずなのに、敵機が近づくのにひどく時間がかかるように感じる。その間にも敵弾はいくつも飛んでくる。
敵機が照準器からはみ出すほどに迫るまで我慢する。これで五〇メートルに接近だ。発射ボタンを押す。機首の一二.七ミリと翼内の二〇ミリの計四丁から一斉に銃弾が放たれる。マウザー砲は二〇ミリの大口径とは思えないほど真っ直ぐな弾道を描く。曳航弾がB二九のエンジンに吸い込まれていく。命中だ。だがその効果を確認する暇はない。そのまま進めば衝突してしまう。
五式戦は突っ込みは鋭いが、舵の利きは零戦にはかなわない。機をひねり、敵機脇を抜けるつもりが、思うほど進路が曲がらない。主翼が接触したかと思えるほど際どい位置ですれ違う。
冷や汗をぬぐう暇はない。とたんに今度は後から銃撃され、曳航弾が自機を追い越していく。敵も冷静にこちらを捕捉している。迂闊な機動をすればかえって命中する。そのまま降下だ。
射線から逃れたところで、反転、上昇。攻撃したB二九はエンジンから火を噴いている。ガクンと高度が落ちる。よし、撃墜には至らなかったが十分だ。
地上の火災はますます激しく、後続のB二九を映し出している。もう一撃できる。
五式戦は上昇、高速を生かしてもう一度B二九に接近する。惚れ惚れするほどの加速と上昇能力だ。他の日本機ではこうはいかないだろう。
今度は後下から攻撃だ。被弾の恐れは増すが、もう一度前方に回り込んでいたら、いくら加速に優れた五式戦といえど、その間に敵機は投弾を済ませて離脱してしまう。レーダーを装備しない五式戦で夜の闇に紛れた敵機を補足するのは不可能だ。
エンジン全開でB二九に迫る。爆弾庫を開いていくのが見える。仲間が攻撃を受けても待避せず、爆撃を続けようというのか。敵ながら見事な敢闘精神だが、そうはさせない。
五式戦は突進する。爆撃コースに入って敵機は速度を保っているはずなのに、距離はじりじりとしか詰まらない。その間にも敵機は盛んに銃撃してくる。機体が振動する。命中したか擦ったのか。
回避したくなるのを懸命にこらえる。ここで逃げたらかえって被弾する。五式戦はしゃにむに前進する。頃合いよし、全門一斉射撃。曳航弾が真っ直ぐにエンジンに突き刺さる。が、命中を喜ぶ暇はない。まごまごしていると空中衝突だ。操縦桿を一杯に引き、敵機の脇をすり抜ける。今度は大丈夫と思ったが、やはり際どい。
一気に上空へ駆け上がる。排気タービンが快調に回り、高度がぐんぐんと上がっていく。
もう一撃掛けられる。そのまま宙返りして背面飛行のまま降下する。敵機は前方下、エンジンから火を噴いている。よし、あの炎が目標だ。
急降下で手負いのB二九に迫る。距離五〇メートルで射撃開始。今度も命中、と思いきや、翼内機関砲の射撃がやんだ。弾切れだ。短時間の戦闘で何秒も撃っていないように思うのに、実際には引き金を長く引きすぎたのだろう。一門あたり一二〇発しかない弾丸を撃ち尽くしてしまった。
躊躇している暇はない。機種の一三ミリ機銃だけで攻撃を続ける。が、その火線は明らかに弱い。命中しているはずなのに効果が見られない。
と、その瞬間、敵機がふっと浮き上がった。投弾だ。爆弾を捨てて逃げる気になったのだ。タイミングが狂った。機体をひねって離脱。巨大な垂直尾翼を危ういとことで回避して後方にすり抜ける。
十分ではないにしてもかなりの有効弾を与えたはずだ。B二九は火災を大きくしながら、よたよたと降下していく。これならば帰投できまい。
とはいえ、こちらもこれまでのようだ。敵機の編隊は爆撃を終え全速で離脱にかかっているだろう。それを再捕捉するのは無理だ。
水平飛行に戻した機体が振動している。先ほどの被弾が無理な機動で深刻なダメージになっているのかもしれない。二〇ミリ機関砲の残弾もない。悔しいが一機でできる迎撃はここまでだ。
現在位置は庄内あたりか。滑走路代わりの馬車道に掲げるはずのたいまつの列は見えない。そのあたりだと思えるところは、先ほどのB二九が落とした焼夷弾で燃えている。偶然にしてはできすぎだが、自分たちの「基地」がやられたか。
仕方がない、大分に降りよう。あの火災の向こうが大分基地だ。
こんな訳で、庄内町に爆弾、正確に言うと焼夷弾が落ちたんだ。なに、ほとんどが山に落ちたから、死人は出なかったよ。
裏山が丸裸になって大損だって、大爺ちゃんは後々まで怒ってたけどね。
大叔父さんかい? 上空から見たとおり、B二九の焼夷弾で家の前の馬車道も燃え上がって、着陸用のワイヤーや松明も焼けてしまった。大伯父さんの飛行機が着陸できなくなったんだ。
大伯父さんは大分基地の飛行場に降りようとしたんだけど、真っ暗だったそうだ。B二九をやっつけるどころか、その前の攻撃でボロボロにやられてるから、隠れてやり過ごそうとしたんだね。おまけに近づくと敵機と勘違いされて攻撃されたって。
しょうがないから別府湾に不時着して、岸まで泳いだそうだ。海への不時着は危険だから、失敗して死んでしまうパイロットもかなりいるそうだけど、そこは器用貧乏だから、何とか無傷で不時着させたらしい。
爆撃のあとを歩いて、次の日に返ってきたよ。てっきり撃墜されて死んだものだと思っていた大伯父さんがひょっこり顔を出したから、大爺ちゃんの驚きようといったら。
大伯父さんは玄関で意識を失ってね。精も根も尽きるって、ああいうのをいうんだと思ったよ。文字通り命がけで戦ったって生き残ったんだからね。何日か起き上がれなかったよ。
その後どうなったのかって? どうもなりはしない。一ヶ月後に終戦だ。周りの大人は日本が負けて泣いてたけど、大伯父さんは淡々としてたよ。随分前から日本が負けると思ってたから、馬鹿な戦争がやっと終わったと思ったんじゃないかな。
勝てるはずのない戦争で人も物も無駄に失われていくのに腹が立って仕方がなかったのを、最後はやりたい放題やったから、自分の中ではケリがついてたんだろうね。
戦後は飢え死にする人が沢山でるくらい食料がなくて、そりゃあ、酷い時代だったよ。けど、庶民はたくましいというか、うちの一族は図々しいというか。生き残った連中はしたたかに生き抜いたんだ。飛行機の組み立てや整備用にそろえた機材で、戦後は自動車修理工場を始めてね。器用貧乏のうえに、田舎でお客さんは少ないから儲からなかったけど、けっこう喰っていけたよ。
この話はこれでおしまい。
ああ、もう一つあった。アメリカ軍の記録に、大分大空襲のB二九が人間爆弾・桜花で攻撃されたってあるのは、大伯父さんの飛行機のロケットの炎を見間違えたのさ。抵抗はないと思っていたら攻撃されたもんで、B二九の乗組員も気が動転したんだろうね。おじいちゃんたちはちょっとだけ気分が良かったな。
もっとも、本当のことは言えなかったけどね。なにせ民間人が勝手に戦争したら、問答無用で死刑だもの。今だから話せるのさ。
なに、それよりお爺ちゃんたちは無茶苦茶で泥棒ばっかりしてるから、こんなの書けない? そりゃまあ、今のお金にしたら億単位を盗んでるかなあ。けど、大爺ちゃんは財産を使ったし、大伯父さんは命がけで戦ったんだから。
なんだい、その疑わしそうな目は。本当だぞ。嘘だと思うなら納屋の奥に行ってごらん。大伯父さんが離陸に使って、暴走して飛び出したロケットが今も床に突き刺さってるよ。記念にそのままにしてるのさ。
もっとも七〇年も前の固形火薬式ロケットノズルは、ボロボロになった水道管と見分けが付かないけどね。(了)