恋をするんだ
電車のおかげ【番外編】と少々繋がっています。
暗証番号を入力していた指が、止まった。
液晶画面に3つならんだ「*」。
最後の1つを入力する前に、思考が真っ白になった。
今まで、何の躊躇もなく打ち込んでいたはずの4つの数字。
その意味を改めて思い知る。
コンビにのATMの前で、ひとりぼっちで切なくなった。
「ありえない…」
「…アホですいません」
本当に、自分でもアホだと思っている。現在進行形。
銀行口座の暗証番号を、好きな人の誕生日にするなんて、よくあること。
よくあることだけど。
「カード系ほとんどって、どんだけ好きだったのよ」
「そんだけ好きだったのよ」
彼氏でもないし。
告白もしていない。
若気のいたりでとっても好きになった人の誕生日。
ネタにしようと思ってツィートしたら、速攻で着信があった。
高校時代の女友達。
私と彼の馴れ初め?を一番近くで見ていた友人。
「あなたらしくて、いいけど。それに、アホだって言い切れるあなたが好きよ」
電話口の向こうで、苦笑しているのがわかる。
「ん~そうかねぇ」
もう、ずいぶん前の恋心だったのに。
憧れだって、理解していたはずなのに。
大学に進学して、地元を離れて。
他県で就職して、地元に帰る頻度も少なくなって。
逢う理由も、機会もなくなって。
だけど。
銀行口座の暗証番号も。
大学の学生証の暗証番号も。
携帯のロックナンバーも。
パスワードも。
クレジットカードの暗証番号も。
4桁の数字が必要なところには、必ず使った。
途中から、暗証番号といったらその4桁だって決まっていた。
何のためらいもなく。
正直。
そこにある感情を忘れていた。
なのに。
思い出してしまった。
結婚するという、知らせを受けたことによって。
職場の仲間たちと大型アミューズメントパークへ遊びに来ていたその日。
――崎本先生、結婚するんだって。
メールの着信。地元の友達からの報告。
画面の文字を読みながら、思わず「はぁ?」と声をあげた。
「どうしたんですか?」
職場の後輩が、場にそぐわぬ奇声をあげた私を見つめていた。
「あ、なんでもない。高校の恩師が結婚するんだってさ」
携帯の画面を見せながら、笑顔をつくろう。
「へぇ、おめでたいですね」
無邪気な後輩の世辞に、その時は乾いた笑いを返すのが精一杯だった。
ジェットコースターに乗りながら、絶叫した。
気持ちを落ち着かせないと、と妙に焦った。
結婚。
私が高校生だった時、34歳だったから、今年40歳。
結婚してもおかしくはない年齢だけど、結婚するなんて思ってもいなかった。
正直な話、想像ができなかった。
奥さんと死別して、ずっと一人だって言ってた。
呆れるくらい好きだった。
理想の塊だったから。
身長が高くて、高学歴で、黒髪で、メガネで。スマートで、男らしくて。
物理が好きになったのも、先生が物理教諭だったから。
なんて単純。
先生といえば、いつも遅くまで仕事をしているイメージしかなくて。
歴史オタクで。
洋楽が好きで。
女子生徒にモテてた。
特別な存在になりたがる生徒は多かったと思う。
私もその一人だった。
だけど。
先生だし。
ただの憧れだって、なんとなく言い聞かせていた。
卒業して6年。
結婚するんだって。
そうかって。
納得できるはずなのに。
納得するべきなのに。
思いのほか、へこんでいる自分に愕然とした。
結婚の相手が、卒業生だからだ。
同じ高校で、私と同じように先生を好きだった子だからだ。
「結婚のお祝いをさ、贈ろうかと思ったんだけど」
「えぇ!?やめときなよ。あなたからの贈り物なんて、受け取らないわよ」
「…」
やっぱりそうかしら、と思いつつ、私は反論する。
「だからこそ、贈ってみたくない?」
私は、それこそ本人でさえ気づくほどに彼が好きだった。
バレンタインにはチョコを渡したし。
体育祭ではマジックで「崎本先生LOVE」なんて、腕に落書きしていた。
先生に対するあたしの熱中ぶりは、周知の事実で。
職員室に顔をだすと、「あら、崎本先生に用事?」とまで声をかけられてしまうほど。
今更だけど。
恥ずかしい思い出だ。
そう。
思い出だと。
わかっているのに。
「しかもさ、結婚相手の女、うちらより年下なんだってさ」
「年下って…」
「18歳。今年卒業したばかりよ?ストレートの黒髪で、眉は細くて、背は低い。結構かわいいらしい」
「うわ、情報ばっちり集めてるし。さすが地元」
「生徒会の会長だったらしいよ」
「生徒会で18歳?名前は?犯罪じゃん!」
「…なんかさぁ、知りたいような、知りたくないような」
「そこは知らないんだ。知ってすっきりしたくないの?」
「…そこまで興味ないし。あたしはすっきりしなくてもいいし」
そんなんじゃ。
ぜんぜんすっきりしない。
泣きたくなる。
こんな、こんなに悶々とするなんて。
「なんか、思い知らせてやりたい…」
「やめなよ~」
呆れた調子の静止。
「やだ。だって、なんかやなんだもん」
「お前は子供か」
「うちらより年上ならさ、まだ納得できるよ。でも、年下だなんて」
自分でも、なんでそんなところにこだわるのか判然としなかった。
単なる嫉妬で片付けられるほど、簡単な感情ではない。
先生が好きだったから、理想だったから。
まだ20年そこそこの人生だけど、先生以上に好きになった人はいない。
こんなに。
こんなに好きって気持ちが大きなものだったなんて。
悲しい。
◆ ◆ ◆
結局。
あたしは何もできないでいる。
銀行の暗証番号も、カードの暗証番号も変更できないでいる。
携帯に保存されていた写真のデータは消したのに。
電話番号とメールアドレスはデリートしていない。
未練といっていいのか。
「たらたらというのです」
「……」
今度は、あたしが電話していた。
一人でもやもやしているのが耐えられなくなった。
「もう、未練たらたら…」
「やろうと思えば、すぐできることでしょ?」
「そうなんですが」
「で?」
「でって?」
「それだけ?」
「……あたし、この前メアド変えたじゃん?」
「うん、そうね」
「でさー、お知らせメールって機能があってさー」
「はい、ストップ。わかった」
「まだ全部言ってない」
「いい、わかったから。どうせ、先生にも送っちゃったんでしょ」
「送っちゃったというかー、送れちゃったというかー」
「馬鹿。てゆうか、送るなよ」
そうなんだけど。
あたしも、かつては生徒会に入っていて、先生は顧問だったから、生徒会のメンバーはみんな先生の個人メアドを教えてもらっていて。
メアド、変わってなくて。
「なんか、思い知らせてやりたいというか。あたしとの思い出、少しくらい脳裏を横切らないかなとか黒い感情が芽生えて」
「自分で黒いとか自覚あるのね、あなた」
「あたしはあたしで、どんだけ運命の人だったか、理想の人だったか思い知っている」
「……」
「あ、今呆れたわね?」
「…早くちゃんとした恋、しな?」
なんだそれ。
あたしには、先生への憧れもちゃんとしてたんだ。
この、泣きたいような、空虚な感情がそれを物語っている。
もし、あたしも高校生のとき。
がんばっていたら。
恋から逃げずに、ちゃんと好きって気持ちをぶつけていたら。
何か変わっていただろうか。
「やだよぉ…」
「あー、泣くな、泣くな!」
苦しい。
胸が苦しい。
崎本先生の隣にいる、自分より若い女の姿を想像してしまう。
「ちゃんと告白できなかったよぉー」
「後悔先に立たずです」
きっと、自分より年上で、先生と出会った時期も早いのなら「負け」を認められた。
努力不足を凌駕する要因が、そこにあるから。
でも。
分かっている。
「ああぁーあっ」
携帯の受話口が涙で濡れる。
電話口から、友人の優しい声が聞こえる。
「あんたが彼氏だったらよかったのにー」
「バカか。あたしに性別変えろっての」
「若さがなんぼじゃー」
「あのね、あたしたちもまだ20代前半ですからね?十分若いわよ?」
くだらない。
こんなくだらない電話に付き合ってくれる友達がいて、よかった。
きっと。
一人では思いっきり泣けない。
「もっといい男と結婚してやるうー!ううう…」
「そうね。結婚式は呼んでね?」
「うううううううぅん」
「肯定か否定かわかんないから、それ」
きっと。
この「失恋」は糧になる。
糧にしてやる。
そう。
そう、決めた。