第12章 第4話:長谷川詩織の選択
あらすじ:夏の終わり、智也のもとに、長谷川詩織から連絡が届く。大学のゼミを退会してから半年が経った彼女は、ある決断をしていた。心理学部への転部を申請し、将来は認知操作の問題に取り組む研究者を目指すと言う。その話を聞きながら、智也は、被害者が次の世代の守り手になるという、この旅を通じて繰り返されてきたパターンを、改めて感じる。同時に、篠崎の法的手続きが一つの結論を迎えつつある中、智也は、篠崎から受け取った一通の手紙を読む。その手紙には、教育者としての篠崎の最後の問いが、書かれていた。
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八月の終わり。
夏の日差しが、少しずつ和らいでいた。
朝の空気に、秋の気配が混じり始めていた。
その朝、スマートフォンに、長谷川詩織からのメッセージが届いた。
「千葉さん、少し時間をもらえますか。報告があります」
「もちろんです」
その日の昼、図書館の近くのカフェで、二人は向かい合った。
長谷川は、前に会った時よりも、落ち着いた表情をしていた。
何か、決めた人間の顔だと、智也は思った。
「転部の申請を出しました」
長谷川は、最初に言った。
「心理学部へですか」
「そうです。来年度からの転部が、認められました」
「おめでとうございます。それは、どのような経緯で決めましたか」
「あのゼミでの体験が、ずっと頭にありました。考えたという記憶があるのに、道筋が残っていない、という感覚。その感覚が、何かを教えてくれている気がして、それを追いたいと思いました」
「認知操作の研究を目指すということですか」
「正確には、その対抗手段の研究です。西島先生の実験に参加してから、心理学的なアプローチからこの問題に取り組むことに、意味があると思うようになりました」
「西島先生は、転部について、何か言っていましたか」
「来年度から、研究室に受け入れてくれると言っていただきました」
「それは、素晴らしいですね」
長谷川は、少し照れたような表情をした。
「千葉さんのおかげです。あの時、ゼミでの体験を正直に話せたから、今があります」
「あなたが、自分で話す決断をしたのです。私は、聞いただけです」
「それが、大切だったんです」
二人は、しばらく、コーヒーを飲んだ。
「一つ、聞いていいですか」
長谷川が言った。
「何ですか」
「千葉さんは、この旅を、いつか終わりにしようと思っていますか」
智也は、その問いを、正直に受け止めた。
「終わりにしようとは、思っていません。ただし、形は変わり続けると思います。今は、大学生として調査を続けています。数年後は、また別の形になるかもしれない」
「形が変わっても、推理することは続ける」
「そうです。それが、私の在り方です」
「私も、形は違いますが、同じことをしたいと思っています。あのゼミでの体験が、私の出発点になりました」
「出発点が、被害の体験であることは、辛いことかもしれません」
「そうですね。でも、今は、その体験があったから、ここに来られたと思っています。辛いことが、意味に変わる瞬間が、あるんだと分かりました」
その言葉が、智也の心の中で、田中陸斗のことを呼び起こした。
一人の死が、智也の旅の出発点になった。
田島由美の被害が、彼女の将来の研究者としての原点になった。
長谷川のゼミでの体験が、今、彼女を新たな方向に向けた。
被害が、守り手を生む。
その連鎖が、この旅を通じて、繰り返されてきた。
「長谷川さん、一つだけ伝えさせてください」
「何ですか」
「田島由美さんという人を、知っていますか」
「名前は知っています。以前の章の事件で、情報を提供した人ですよね」
「そうです。彼女は今、心理学を学んでいます。将来、認知操作の問題に、専門家として取り組もうとしています」
「そうなんですね」
「長谷川さんと、いつか繋がる可能性があります。同じ問題に、異なる角度から向き合う二人として」
長谷川は、その言葉を聞いて、少し目を輝かせた。
「それは、楽しみです」
カフェを出た後、智也は大学に向かった。
その日の夕方、木村刑事から連絡が来た。
「篠崎の件で、一つ、報告があります」
「何ですか」
「検察が、篠崎に対する処分を決定しました。起訴猶予です。直接的な指示の証明が難しいこと、自発的な協力と謝罪の意思を評価したことが、理由です。ただし、民事的な責任については、別途、対応が続きます」
「起訴猶予、ですか」
「法的には、グレーゾーンに近い。しかし、行政的な措置として、ミライ・エデュケーション・グループのエデュポータルへの関与について、文部科学省が調査を行うことになりました。そちらの方が、実質的な影響は大きいかもしれません」
「分かりました。ありがとうございます」
その夜、自宅に帰ると、郵便受けに封筒が入っていた。
差出人は、篠崎誠一郎だった。
手書きの封筒だった。
智也は、封を開けた。
中には、便箋が三枚、入っていた。
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**千葉智也様**
**先日は、面会の場を設けていただき、ありがとうございました。田中陸斗さんのお母様との対話は、私にとって、これまでの人生で最も重いものでした。**
**検察の判断が出ましたが、法的な結論よりも、あなたとの対話の中で感じたことが、私の中に残っています。**
**あなたは、私の教育への問いを、否定しませんでした。子供たちをより良く育てたいという願いを、間違っているとは言わなかった。ただ、その願いを実現するための方法が、誤っていたと伝えてくれた。**
**その伝え方が、私には、一番届きました。**
**教育者として、残りの時間で何ができるかを、今、考えています。一つ、あなたに聞きたいことがあります。**
**「より良い思考を育てる」という目標を持ちながら、同意なく認知に介入しない教育は、可能だと思いますか。**
**この問いへの答えを、あなたの言葉で、いつか聞かせてください。急ぎません。あなたが考え続ける中で、答えが見つかった時に。**
**篠崎誠一郎**
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智也は、その手紙を、三度読んだ。
「より良い思考を育てながら、同意なく認知に介入しない教育は、可能か」
その問いは、この旅全体を貫く問いと、同じ方向を向いていた。
しかし、篠崎の問いには、教育者としての具体性があった。
抽象的な哲学の問いではなく、教室という具体的な場での問いだった。
智也は、すぐには答えられないと思った。
しかし、考え続けることはできた。
その夜、美優に、手紙のことを話した。
「篠崎から手紙が来ました。一つの問いが書かれていました」
「どんな問い?」
「より良い思考を育てながら、同意なく認知に介入しない教育は、可能か、という問いです」
美優は、しばらく考えた後、言った。
「それは、この旅全体の問いを、教育という文脈に置き換えたものね」
「そうです」
「答えはあると思う?」
「あると思います。ただし、まだ言葉にできていません」
「どんな方向に、答えがある気がしますか」
「同意そのものを教育の中心に置くことではないか、と思っています。認知に介入することと、同意なく介入することは、違う。学ぶ者が、何を学ぶかを選び、どのように学ぶかを理解した上で学ぶ環境を作ることが、教育の本質かもしれません。その意味で、透明性が、鍵になると思っています」
「それは、篠崎への答えになりますか」
「一部は、なるかもしれません。ただし、完全な答えは、まだ先にある気がします」
「いつか、篠崎に送りましょう。急がなくていいと、彼も言っているんでしょう」
「そうです。考え続ける中で、見つかった時に」
「それが、推理者らしいわね」
「そうでしょうか」
「答えを急がない。でも、考えることをやめない。それが、あなたの在り方だから」
その夜、ノートに智也は書いた。
**「長谷川が転部を決めた。心理学部で、認知操作の対抗手段を研究する道へ。被害が守り手を生む。この旅で繰り返されてきたパターンが、また一つ、形になった。」**
**「篠崎から手紙が来た。一つの問いが書かれていた。より良い思考を育てながら、同意なく認知に介入しない教育は、可能か。この問いへの答えを、考え続ける。急がない。しかし、考えることをやめない。」**
**「答えの方向として、今思うことを書いておく。同意そのものを教育の中心に置くこと。学ぶ者が、何を学ぶかを選び、どのように学ぶかを理解した上で学ぶ環境を作ること。透明性が、鍵になる。」**
**「ただし、これは途中の考えだ。答えは、まだ先にある。それが、推理者の在り方でもある。」**
夏の終わりの夜が、静かに流れていた。
窓の外に、月が見えた。
その光が、穏やかに、地面を照らしていた。
長い夏が、終わろうとしていた。
しかし、問いは、続いていた。
そして、それが、智也に、前に進む力を与えていた。
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第12章 第4話「長谷川詩織の選択」完




