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沈黙の推理者  作者: 最後に残った形
第9章

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第17章 第2話:広がる世界と、問いの根拠


あらすじ:五月。長谷川の「認知的拡張」研究が動き出す。山田教授との共同で、問いを持つ体験が子供の認知の広がりにどう影響するかを測定する研究が設計される。同時に、エレンのチームとの国際共同研究の枠組みが整い始め、日本とイギリスの比較研究が具体的な形を持ち始める。その過程で、智也は美優との対話の中で、自分が問いを持ち続ける「根拠」について、改めて問われる。なぜ、この旅を続けるのか。その答えが、今の智也の言葉で、初めて完全に言語化された。そして、田中陸斗の母親から、最後の手紙が届く。その手紙の中に、この旅全体への、静かな祝福があった。


---


五月の第一週。


連休が始まろうとしていた。


智也は、連休の前に、いくつかの連絡を済ませておこうとしていた。


まず、山田教授との会議があった。


「長谷川さんから、認知的拡張という概念の研究提案を受けました。一緒に設計しましょう」


山田教授は、その提案を、前向きに受け取っていた。


「認知的拡張の測定は、発達心理学でも重要な課題です。問いを持つ体験が、その拡張を促進するという仮説は、理論的に支持できます。ただし、測定方法が難しい」


「どういう意味ですか」


「認知的拡張は、主観的な体験と、客観的な認知の変化の両方を含みます。子供が『自分が広がる気がする』という体験を持っていることは、主観的なデータです。しかし、実際に認知の枠が広がっているかどうかは、別の測定が必要です」


「長谷川さんが提案する測定方法は、何ですか」


「複数の方法を組み合わせています。一つは、創造的思考課題。一つの問いに対して、どれだけ多様な方向から考えられるかを測定します。二つ目は、視点取得課題。他者の視点から状況を理解する能力を測定します。三つ目は、自己報告による体験の記述。子供自身が、問いを持った時の体験をどう語るかを分析します」


「それらを組み合わせることで、主観と客観の両方から、認知的拡張を測定できる」


「そうです。そして、まなびルームを使っている子供と、使っていない子供を比較することで、デジタル学習支援環境の影響を評価できます」


「研究の倫理審査申請を、準備します」


「お願いします。急ぎすぎず、しかし確実に進めましょう」


---


その日の午後、サラからメッセージが届いた。


「エレンのチームとの国際共同研究の枠組みが、整いました。正式な研究協定書を、今月中に署名する予定です。日本とイギリスの比較研究が、始まります」


「どのような研究になりますか」


「二つの軸があります。一つは、デジタル学習支援環境が質問行動に与える影響の、国際比較。日本とイギリスで、同じ方法で調査を行い、結果を比較します。もう一つは、文化的な要因の分析。引っかかりを守る文化が、国によってどのように異なるかを探ります」


「文化的な要因の分析が、特に重要ですね」


「そうです。日本とイギリスは、教育文化が異なります。日本では、正解を求める文化が強い。イギリスでは、議論を重視する文化がある。その違いが、引っかかりへの影響の仕方に、どう関わるかを探ります」


「文化が異なっても、同様の現象が起きているとすれば、それは、デジタル環境の設計の問題が、文化を超えて機能していることを示します」


「そうです。その発見は、国際的な政策立案への示唆になります」


「分かりました。日本側の研究チームの調整は、私が担います」


---


連休が明けた週の火曜日、美優との定例の対話があった。


電話で繋がると、美優が、いつもと少し違うトーンで言った。


「今日は、少し個人的なことを聞かせてください」


「何ですか」


「智也、なぜ、この旅を続けているのですか。今の言葉で、答えてほしい」


その問いが、智也を、少し驚かせた。


この問いを、これほど直接的に受けたことは、これまでなかった気がした。


「今の言葉で、答えてほしい」という部分が、特に。


智也は、しばらく考えた。


これまでの答えは、いつも、田中陸斗への引っかかりだった。


田中陸斗のお母さんへの約束だった。


問いを持つ人間を増やしたいという思いだった。


しかし、それらは全て、正しいけれど、完全ではなかった気がした。


何かが、足りていた。


「少し、考えさせてください」


「もちろん。急がなくていい」


智也は、窓の外を見た。


五月の空が、青く広がっていた。


なぜ、この旅を続けているのか。


その問いを、自分の内側で転がした。


「分かりました」


しばらくして、智也は言った。


「問いを持っている時、私は自分が正しい場所にいると感じます」


「正しい場所にいる」


「そうです。どこかの場所ではなく、どこかの状態に、いる感覚です。問いを持っている時、自分が最も自分らしい状態にある。その感覚が、旅を続ける根拠です」


「それは、第一章からそうでしたか」


「今、思い返すと、そうだったと思います。田中陸斗の死への引っかかりを感じた時、私は、自分が最も自分らしい状態にありました。何が正しいか分からない。でも、問いがある。その状態が、怖いけれど、同時に、最も充実している状態でした」


「問いが、存在の根拠になっている」


「そうです。問いがなくなれば、自分の一部が失われる感覚があります。だから、問いを守ることは、自分自身を守ることでもある。そして、問いを持つ人間を守ることは、その人の存在の根拠を守ることでもある」


美優は、しばらく沈黙した。


「それが、今の千葉智也の言葉ですね」


「そうです。第一章では、こんな言語化はできなかった。この旅を通じて、少しずつ、この言葉に近づいてきた」


「その言葉を、六冊目の書籍に使わせてください」


「六冊目、ですか」


「書こうと思っています。この旅の、より個人的な記録として。千葉智也という一人の推理者が、問いとどう向き合ってきたかを、一冊かけて書く」


「それは、私の伝記ですか」


「そうかもしれない。でも、伝記というより、問いの伝記。問いがどのように育ち、どのように広がり、どのように人を変えてきたかの記録」


「書いていただけるなら、光栄です」


「あなたの言葉で、もう一つだけ確認させてください。問いが、存在の根拠になっている。その問いが失われれば、存在の根拠が揺らぐ。だとすれば、認知操作の最も深いレベルでの害は、何ですか」


智也は、すぐに答えた。


「存在の根拠の喪失です。自分が最も自分らしくいられる状態を、奪われること。それが、認知操作の最も深いレベルでの害だと思います」


「それを、六冊目の核心に置きます」


「分かりました。必要な時は、何でも話します」


---


連休明けの週の終わり、田中陸斗の母親から、手紙が届いた。


封を開けると、便箋が一枚だけ、入っていた。


字が、いつもより、少し揺れていた。


---


**千葉さんへ、**


**陸斗の名前が、論文に載ったと教えてもらいました。ありがとうございました。**


**しばらく、返事が書けませんでした。気持ちの整理に、時間がかかりました。**


**一つだけ、書かせてください。**


**陸斗は、考えることが好きな子でした。でも、その考えを、誰かに伝えることが、苦手でした。いつも、一人で、黙って考えていました。**


**あの子の考えが、誰にも届かなかった、と思っていました。ずっと。**


**でも、違いました。**


**あの子の死が、問いを生んだ。その問いが、千葉さんに届いた。千葉さんを通じて、多くの人に届いた。**


**陸斗の考えは、届いていた。**


**形は変わったけれど、届いていた。**


**それが、今の私の、一番の気持ちです。**


**ありがとうございました。これからも、続けてください。**


**田中恵子**


---


智也は、その手紙を、読み終えた後、しばらく動けなかった。


「陸斗の考えは、届いていた」


その言葉が、静かに、深く、染みた。


一人で考えていた子供。


その考えが、誰にも届かなかったと思っていた母親。


しかし、その子供の死が問いを生み、問いが連鎖した。


連鎖の中に、陸斗の考えが宿っていた。


「形は変わったけれど、届いていた」


形は変わったけれど。


その言葉が、問いの連鎖の本質を、最も正確に表していた。


問いは、形を変えながら、届く。


元の形のままではなく、新しい問いとして、届く。


しかし、その新しい問いの中に、最初の問いの核が宿っている。


田中陸斗の死への引っかかりが、智也の問いになった。


智也の問いが、美優の書籍になった。


美優の書籍が、本多先生の勇気になった。


本多先生の論文が、中川先生を動かした。


中川先生の授業が、生徒を変えた。


その連鎖の全てに、田中陸斗の考えが宿っていた。


「形は変わったけれど、届いていた」


---


その夜、智也は、恵子さんへの返信を書いた。


「恵子さん、手紙をありがとうございました。陸斗さんの考えは、届いていた。その言葉が、今夜の全てです。形は変わったけれど、届いていた。その事実が、この旅の最も大切な答えの一つです。そして、陸斗さんの考えが届き続けることが、この旅を続ける根拠です。千葉智也」


手紙を封筒に入れた。


切手を貼った。


ポストに向かいながら、智也は、田中陸斗のことを思った。


考えることが好きだった子。


一人で、黙って考えていた子。


その子の考えが、今、世界に広がっている。


「陸斗さん、あなたの考えは、届いています」


智也は、夜の空に向かって、心の中で語りかけた。


星が、一つ、光った。


それが答えではないことを、智也は知っていた。


しかし、その光を見て、前を向く力が、また一つ、増えた。


ノートを開いて、最後の一行を書いた。


**「陸斗さんの考えは、届いていた。形は変わったけれど。その言葉が、今夜の全てだ。問いを持ち続けることが、届かなかった考えを届けることかもしれない。その確信が、今夜、より深くなった。」**


窓の外に、五月の夜空が広がっていた。


星が、いくつも、輝いていた。


それぞれが、遠い場所から届いている光だった。


問いも、そうだった。


遠い場所から、時間をかけて、届いている。


届いた時、誰かの引っかかりを生む。


その引っかかりが、新しい問いになる。


その連鎖が、夜空の星々のように、広がっていく。


推理者の旅は、今日も続いていた。


一歩一歩、丁寧に。


信頼できる仲間と共に。


そして、次の問いへと向かって。


---

第17章 第2話「広がる世界と、問いの根拠」完


---


翌朝、長谷川から連絡が来た。


「千葉さん、認知的拡張の研究設計が、少し進みました。山田教授と昨日、追加の議論をしました。一つ、重要なことを確認しました」


「何ですか」


「認知的拡張の体験が最も強く起きるのは、問いに対して、すぐに答えが与えられない状況だということです。答えが保留された状態で、問いと向き合い続ける時間が、認知を広げる。その時間が、デジタル学習支援アプリによって短縮されている可能性があります」


「答えが保留された状態で向き合う時間」


「そうです。その時間を、研究者は『認知的緊張の期間』と呼ぶことがあります。問いが解決されていない状態が続く時の、脳の活性化された状態です。その状態が、新しい結びつきを生み、認知の枠を広げます」


「答えがすぐに手に入れば、その緊張が生まれない」


「そうです。だから、答えの即時性が問題なのです。利便性を上げるために答えをすぐに渡すことが、認知的緊張の機会を奪っている。それが、認知的拡張の阻害に繋がる可能性があります」


「以前、エデュイノベーションの西川さんに伝えた、答えの即時性の問題と、同じ問題の別の側面ですね」


「そうです。技術的な観点から指摘した問題が、発達心理学の観点からも裏付けられています。異なる視点から、同じ問題が見えている。それが、研究の確実性を高めます」


「論文の方向が、明確になってきましたね」


「はい。来月中に、研究設計書を完成させ、倫理審査に申請します。もし、千葉さんからのアドバイスがあれば、ぜひ聞かせてください」


「一つだけ」


「何ですか」


「研究の中で、認知的緊張の期間の体験を、子供たちが自分の言葉で語れる機会を作ってください。篠原先生の教室の子供が、『自分がどんどん広がる気がする』と言ったように、その主観的な体験の言葉が、研究を人間的にします」


「分かりました。子供の言葉を記録することを、研究の重要な要素として入れます」


「それが、この旅全体の形と、一致します。データだけでなく、人の声を大切にする」


「田中陸斗さんの死から始まった旅が、小学生の声を大切にする研究に繋がっている。その連鎖を、私は誇りに思います」


「私も、そう思います」


---


その夜、美優から短いメッセージが届いた。


「六冊目の書籍の最初の一文が、決まりました」


「どんな一文ですか」


「『問いを持っている時、私は自分が最も自分らしい状態にある』という言葉。千葉智也の言葉から、始めます」


「私の言葉が、書籍の最初の一文になるのですか」


「あなたが言語化したことが、この書籍のテーマの核心だから。問いが、存在の根拠になっている。その事実を、一冊かけて書きます」


「ありがとうございます」


「お礼は要りません。あなたが先を歩いてくれるから、私は書ける。それが、私たちの形です」


「続けましょう。一緒に」


「続けましょう」


電話が終わった後、智也は、窓の外の夜空を、しばらく見ていた。


星が、変わらず輝いていた。


明日も、問いは続く。


旅は続く。


その事実が、今夜も、前を向く力を与えてくれた。


**「田中陸斗さん。あなたの考えは、届いていた。これからも、届き続ける。その事実を、今夜も、確認した。」**


一行を書いて、ノートを閉じた。


五月の夜が、静かに深まっていった。


推理者の旅は、今日も続いていた。


一歩一歩、丁寧に。


信頼できる仲間と共に。


そして、次の問いへと向かって。


---

第17章 第2話「広がる世界と、問いの根拠」完


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