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沈黙の推理者  作者: 最後に残った形
第9章

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第14章 第5話:口頭試問の朝


あらすじ:十二月。卒業論文の口頭試問が近づく中、智也は、この旅を通じて出会った全ての人たちのことを振り返る。木村刑事との最後の電話。サラからの近況報告。マーカスのチームの新たな動き。そして、本多先生と中川先生から届いた、それぞれの季節の便り。口頭試問の朝、智也は、田中陸斗の母親からの手紙を受け取る。その手紙に書かれていた一言が、この旅の今の意味を、静かに照らし出した。口頭試問を終えた後、智也は美優と並んで、冬の空の下を歩く。そこで、第十四章の、そしてこの長い旅の現在地が、静かに刻まれていく。


---


十二月の第一週。


冬が、本格的に来ていた。


朝の空気が、刃のように冷たかった。


キャンパスの木々は、すっかり葉を落とし、枯れた枝が、冬空に向かって伸びていた。


卒業論文の口頭試問まで、一週間だった。


智也は、図書館の奥の席に座り、論文を最後にもう一度、通して読んでいた。


試問に備えるためではなかった。


ただ、この論文が、何を言おうとしているのかを、今一度、自分の言葉で確認したかった。


序論の最初の一文から始めた。


「この研究は、一通の手紙から始まった」


読み進めるにつれて、論文の中に、この旅の人々が浮かんできた。


本多先生。中川先生。長谷川。田島。村上准教授。マーカス。サラ。木村刑事。美優。


そして、田中陸斗。


これほど多くの人々が、この一本の論文の中に、存在していた。


明示的に名前が出ている人もいれば、匿名化されている人もいた。


しかし、論文の言葉の一つ一つに、彼らの声が宿っていた。


その事実が、智也に、この論文が自分一人のものではないという感覚を与えていた。


読み終えた後、ノートに書いた。


**「この論文は、私一人では書けなかった。多くの人の声が、この論文を作った。それが、最も確かなことだ。」**


---


その週の水曜日、木村刑事から電話が来た。


「千葉さん、少し話せますか」


「もちろんです」


「報告というより、近況の共有です。プリズム・グロース・ファンドの件は、各国で手続きが粛々と進んでいます。年内か年明けに、最初の起訴が行われると思います」


「長い時間がかかりましたね」


「そうです。しかし、こういう規模の案件は、時間がかかるものです。一つ一つの手続きが、確実に積み重なっています」


「文部科学省の調査はどうですか」


「スタディナビについては、来年の春までに、調査の中間報告が出る見通しです。その報告を受けて、各学校への通知と、プラットフォームの設計改善の勧告が行われる予定です。勧告には、法的な強制力はありませんが、文部科学省の公式見解として出ることの意味は、大きい」


「プラットフォーム側は、どう反応していますか」


「今のところ、表立った反発はありません。ただし、水面下では、法的な対抗を検討しているという情報もあります。その動きが具体化すれば、また状況が変わるかもしれない」


「それは、長い戦いになるかもしれませんね」


「そうです。しかし、千葉さん、一つだけ言わせてください」


「何ですか」


「あなたたちが積み重ねてきた証拠と、論文と、書籍が、この戦いの基盤になっています。法的な手続きが時間をかかる中で、その基盤が揺らがないことが、最も重要です。千葉さんの論文が、来年、学術的な記録として残ることが、その基盤の一部になります」


「論文が、法的な戦いの基盤になるとは、書き始めた時には思っていませんでした」


「学術の力は、そういう形で現れます。直接の力ではなく、間接的な、しかし長期的な力として」


「分かりました。その力を信じて、続けます」


「千葉さん、口頭試問は、いつですか」


「来週です」


「うまくいくといいですね。いや、うまくいきます。あの論文は、本物ですから」


「ありがとうございます」


電話を切った後、智也は、木村刑事という人物のことを、しばらく考えた。


第一章から、この旅を側で見てきた人間。


進藤刑事の後を継いで、智也の問いを支え続けてきた人間。


その存在が、この旅にとって、どれだけ重要だったか。


ノートに書いた。


**「木村刑事。この旅の最初から、側にいてくれた人。法的な枠組みの中で、問いを支え続けてくれた。彼がいなければ、調査が社会的な変化に繋がらなかった。その感謝を、改めて感じる。」**


---


その週の金曜日、サラから近況の連絡が来た。


メッセージとともに、短い報告書が添付されていた。


「横断解析論文が、引用件数で、今年の認知科学分野のトップ10に入りました。また、スタンフォードのチームに、新しいメンバーが加わっています。名前を見て、驚くかもしれません」


添付の報告書を開くと、新メンバーの一覧があった。


その中に、「レナ・ホール」の名前があった。


智也は、その名前を見て、少しの間、動けなかった。


レナ・ホール。


第八章で証言し、EngageMax Analyticsの問題を明かした人物。


「本来の研究に戻ります」と言っていた人物。


その人物が、サラのチームで、認知的自律性を守るための研究を始めていた。


「これが、この旅の形の一つだ」


智也は、そう思った。


加担者から守り手へ。


その変化が、また一つ、具体的な形を持った。


サラへの返信を書いた。


「レナさんの参加を聞いて、とても嬉しいです。彼女の経験と知識が、チームに何をもたらすか、楽しみです。横断解析論文のトップ10入りも、おめでとうございます」


サラからの返信は、すぐに来た。


「レナは、最初の会議で、こう言いました。『私には、加担者としての経験がある。その経験が、対抗手段の設計において、最も重要な視点を与える』と。長谷川さんと同じことを言っていました。異なる形の被害と加担の経験が、同じ言葉に辿り着いた。それが、認知操作の問題の本質を示していると思います」


「被害者も、加担者も、同じ問いに辿り着く」


「そうです。その事実が、この問題の解決可能性を示しています。なぜなら、誰もが、本来は同じ方向を向いているから」


---


口頭試問の前週の土曜日、本多先生から手紙が届いた。


---


**千葉さん、**


**論文提出、お疲れ様でした。もうすぐ、口頭試問ですね。うまくいくことを、願っています。**


**最近の授業の様子を、簡単に報告します。**


**学期末に、学生たちに「この一学期で、最も印象に残った学びは何か、そしてなぜそれが印象に残ったのか」を書いてもらいました。**


**以前と比べて、「なぜ」の部分の記述が、豊かになっていると感じました。ただ「印象に残った」というだけでなく、「これが引っかかって、だからここが印象に残った」という形で、道筋を持った記述が増えていた。**


**これが、プラットフォームの変化によるものか、私の授業の変化によるものか、あるいは他の要因によるものかは、分かりません。ただ、変化があったことは、確かです。**


**その変化を、来学期も、丁寧に記録し続けます。**


**千葉さん、あなたのあとがきの一行が、私の授業を変えた。そして、授業の変化が、学生たちに何かをもたらしたかもしれない。その連鎖が、教育の本質かもしれないと、最近、思っています。**


**口頭試問、頑張ってください。**


**本多誠司**


---


その手紙を読んで、智也は、本多先生が、この一年で深く変わったことを感じた。


「なぜ」の部分の記述が豊かになった学生たち。


「道筋を持った記述が増えた」という観察。


それは、中川先生の高校で起きたことと、同じ変化だった。


問いかけが、人間の中から、道筋を引き出す。


そしてその道筋を持った記述が、次の問いを生む。


その連鎖が、教室の中で、静かに、しかし確かに起きていた。


中川先生からも、同じ日に、短いメッセージが届いた。


「千葉さん、口頭試問、頑張ってください。生徒たちが、今週も、道筋を書いていました。一人の生徒が、先生、道筋を書くのが楽しくなってきた、と言っていました。それを聞いて、今日の授業が、一番良い授業だったと思いました」


「道筋を書くのが楽しくなってきた」


考えることが楽しい、の次に、道筋を書くことが楽しい、という体験が生まれていた。


思考の記録の楽しさ。


それは、智也が推理ノートを書き続けてきた理由と、同じだった。


「この高校生は、推理ノートに似たものを始めている」


智也は、そう思って、少し笑った。


---


口頭試問の前日の夜、田中陸斗の母親から、手紙が届いた。


郵便受けを確認すると、見慣れた字の封書があった。


部屋に持ち帰り、封を開けた。


---


**千葉さんへ、**


**卒業論文の口頭試問が近いと、美優さんから聞きました。**


**お祝いを言うのは早いかもしれませんが、一つ、伝えておきたいことがあります。**


**今年の陸斗の命日に、私は、息子の墓の前で、一つのことを初めて感じました。**


**陸斗が死んだことが、何かに繋がった、という感覚です。**


**それまでは、陸斗の死は、ただの喪失でした。何の意味もない、理不尽な喪失。それが、今年は、少し違って感じられた。**


**あなたたちの活動が、多くの生徒たちの学ぶ環境を守ることに繋がっているということを、美優さんから聞いていたから、かもしれません。**


**陸斗が死んだことで、あなたの問いが始まった。その問いが、今、多くの子供たちの学ぶ力を守ることに向かっている。それが、事実かどうかは、私には判断できません。でも、そう感じることが、今年は、できました。**


**陸斗は、考えることが好きな子でした。図書館で、黙って本を読んでいる子でした。**


**その陸斗から始まった問いが、子供たちが考えることを楽しめる環境を守ることに向かっているとしたら、それは、陸斗に似合った、問いの使われ方だと思います。**


**千葉さん、論文の口頭試問、頑張ってください。そして、卒業後も、問いを続けてください。**


**田中恵子**


---


智也は、その手紙を、読み終えた後、しばらく動けなかった。


「陸斗は、考えることが好きな子でした」


その一文が、胸の奥に、静かに染みた。


考えることが好きな子供。


図書館で、黙って本を読んでいた子供。


その子供の死から、この旅が始まった。


その旅が、考えることが楽しいという体験を守ることに向かっていた。


「陸斗に似合った問いの使われ方」


田中陸斗の母親の言葉が、この旅全体の意味を、最も純粋な形で照らし出していた。


智也は、涙が出そうになるのを、ゆっくり息を吸い込んで、抑えた。


代わりに、ノートを開いて、書いた。


**「田中陸斗のお母さんから、手紙が来た。陸斗は、考えることが好きな子だったと、書かれていた。その陸斗から始まった問いが、考えることが楽しいという体験を守ることに向かっている。陸斗に似合った問いの使われ方、という言葉が、今夜の全てだ。」**


**「明日、口頭試問がある。しかし、今夜の私にとって、最も重要なことは、この手紙を受け取ったことだ。田中陸斗という人間が、この旅の始まりであり続けていること。それが、変わらずにある。」**


---


翌朝、口頭試問の日が来た。


智也は、いつもより少し早く起きた。


朝食を食べながら、論文の要旨を、頭の中で整理した。


何を問われても、正直に答える。


知らないことは、知らないと言う。


仮説として提示していることは、仮説だと言う。


確信していることは、確信の根拠とともに言う。


それだけを、心がけることにした。


大学に着いて、指定の部屋の前に立った。


扉の向こうで、審査委員たちが待っていた。


智也は、深く息を吸い込んだ。


田中陸斗の母親の言葉が、頭に浮かんだ。


「陸斗に似合った問いの使われ方」


その言葉を胸に、扉を開けた。


---


口頭試問は、一時間半、続いた。


審査委員は、指導教員を含む、三名だった。


序論の問いの立て方から始まり、先行研究との対話、データ分析の方法論、結論の射程まで、丁寧に問われた。


いくつかの問いは、智也が想定していなかった角度からのものだった。


しかし、その問いに、正直に向き合った。


知らないことは、知らないと言った。


「その点については、本研究の範囲外になりますが、今後の課題として重要だと認識しています」


という言い方を、何度かした。


試問が終わり、審査委員が一時退室した後、智也は、静かに待った。


十分ほどして、指導教員が戻ってきた。


「合格です。論文の主張の明確さと、自己批判的な姿勢が、審査委員全員から評価されました」


「ありがとうございます」


「一つだけ、審査委員からのコメントを伝えます。『この論文は、研究者の個人的な経験と学術的な厳密さが、珍しい形で両立している。その在り方が、論文の独自性になっている』という言葉がありました」


「その両立を、先生が求めてくださったおかげです」


「いいえ、あなた自身がその在り方を選んだ。私は、形式を整えただけです」


---


試問が終わって、大学を出ると、美優が待っていた。


「どうだった?」


「合格でした」


「おめでとう」


美優は、静かに、しかし確かに、笑った。


その笑い方が、第一章の最初に声をかけてくれた時と、何かが違って、何かが同じだった。


「少し、歩きませんか」


「そうしましょう」


二人は、冬の大学のキャンパスを歩いた。


枯れた木々の間を、冬の光が差し込んでいた。


その光が、冬らしく、鋭く、しかし温かかった。


「論文が、完成して、試問も終わった。今、何を感じていますか」


美優が聞いた。


智也は、少し考えてから、答えた。


「終わりではなく、区切りを感じています。この論文は、一つの形です。しかし、問いは続きます」


「卒業後も、続けますか」


「続けます。形は変わるかもしれないけれど、問いを追うことは、続けます」


「それが、あなたの答えですね」


「はい」


二人は、しばらく、枯れ木の並ぶ道を歩いた。


どちらも、特に急いでいなかった。


ただ、並んで歩いていた。


その歩き方が、この旅全体の形に似ていた気がした。


急がず、しかし確実に、前に向かっている。


「一つだけ、聞いていいですか」


美優が言った。


「何ですか」


「この旅を一言で言うとしたら、何と言いますか」


智也は、歩きながら、考えた。


多くの言葉が、浮かんでは消えた。


そして、一つの言葉が残った。


「問いの連鎖」


「それだけですか」


「それで、十分だと思います。問いの連鎖が続く限り、旅は続く。そして、問いの連鎖は、続きます。田中陸斗から始まった問いが、今も連鎖している。これからも、連鎖し続ける。それが、この旅の全てです」


美優は、その言葉を、静かに受け取った。


しばらく沈黙した後、言った。


「四冊目の書籍の最後の章を、『問いの連鎖』にします。あなたの一言が、タイトルになった」


「それは、美優さんの書籍のタイトルとして、正しい気がします」


「あなたのあとがきも、その章に入れてほしい。最後の章のあとがきとして」


「書きます」


「では、また一緒に作りましょう」


「はい」


二人は、キャンパスを出て、街の中に入った。


冬の街が、年末の空気を帯び始めていた。


どこかで、クリスマスの音楽が聞こえた。


その音楽が、この季節らしく、しかし、智也には少し遠く感じられた。


智也の頭の中には、田中陸斗の母親の手紙の言葉が、まだ残っていた。


「陸斗に似合った問いの使われ方」


その言葉が、ここまでの全ての問いを、一つに括っていた。


考えることが好きな子の死から始まった問いが、考えることが楽しいという体験を守ることに向かっている。


その連鎖が、この旅の核心だった。


そして、その連鎖は、まだ続いていた。


ノートを、翌朝開いた時、智也は、最後に一行書いた。


**「口頭試問、合格。美優と、冬のキャンパスを歩いた。問いの連鎖は、続く。それが、全てだ。」**


**「推理者の旅は、今日も続いている。」**


窓の外に、冬の朝の光が差し込んでいた。


鋭く、しかし確かな光だった。


その光の中で、次の問いが、静かに待っていた。


---

第14章 第5話「口頭試問の朝」完


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