極道街
空腹に耐えかねて1人の男が入店した。初めて訪れるラーメン屋だ。他の客が入るのを待って、その後ろに付いて暖簾をくぐった。
中の人はまばらであり、厨房から漏れる湯気が誰もいないカウンター席を通り抜けていっていた。
男は一瞬案内されないのではないかと不安になったが、すぐに店員に出迎えられて安心した。ただし、その顔を見て思わず姿勢を正す。顔には穏やかな笑みがあるのに、その視線は凍てつくようだったのだ。
「2名様でしょうか。テーブル席にご案内いたします」
冷たい視線とは裏腹に、声や口調は柔らかな雰囲気である。常に見られているような嫌な感覚を除けば、好印象であるのに。男は密かに評価シートの星を1つ減らした。
そうは思いつつも、店員の発言は訂正せねばなるまい。なぜならこの男は、先に入った客の後ろにピタリとつけて入店したに過ぎないのだから。
「いえ、ここは別々でお願いします」
真後ろに人がいると思っていなかったのか、先に入った客はその声にビクッと肩を震わせた。ならば、店員の発言にもピンときていなかった違いない。
小さなドッキリを仕掛けた気分になって、男は小気味よくなった。その余韻に浸りながら、案内されたカウンター席に腰を下ろす。横をちらりと見ると、数席離れたところに先に入った客が座っていた。それを見てほんのり微笑を湛えると、視線を戻してメニュー表を探し始めた。
「あのぅ、メニュー表がないんですけど……」
男は店員に声を掛けた。その店員は、この店に1人しかいない。この人がこのラーメン屋の店主なのだろう。
男の声に、店主が静かにそちらへと顔を向ける。
「当店にはメニューがございません」
男は眉をひそめた。メニュー表が無い飲食店など、これまで見てきた店の中にあっただろうか。面倒そうなこの店ではなく1つ隣の店の方に入っておけば良かった、と自らの選択を後悔し始めた。
面倒であるというのは当たらずとも遠からず。店主が言うには、
「当店では、お客様にあった一杯をお出ししております」
言わば、完全に店側にお任せするオーダーメイド、ということだった。しかし、店主が男のためにどういうものを作るのか気になる自分もいる。店を出ようとしたものの、それを興味が上回った。
「それは、要望も聞いてもらえるのですか?」
「ええ、まあ、何かあるなら」
店主は曖昧に頷いたが、それは当たり前のことを聞かれて困惑したからに違いない。例えば醤油ベース、とリクエストをすると、麺や他のトッピングに関しては店主の気分次第になるのだろう。
ただ、何か特殊なものを入れないで欲しい。無駄に辛くされても、無駄にもやしを入れられても困る。ありきたりなもので構わない。だから、男はこうリクエストした。
「できれば普通でお願いします」
「普通、ですね」
店主は少し間を置いて小さく頷き、背を向けた。
台の向こうに調理に取り掛かった店主の姿が見えた。熱心に何かを切っている。何かが蒸発する音も聞こえる。しかし、不思議と食欲のそそられる匂いはしなかった。代わりに鼻に残る鉄臭さが男の辺りを漂った。
ふと男は先客の方を見た。数席離れているが、視界にはギリギリ入っていたつもりだ。しかし、先客の前にはいつの間にかどんぶりが置かれていた。箸は動かさず、そしてただじっと見下ろしている。湯気も立っていない。食べ終わったのだろうか、と男は様子を見に行きたくなった。
腰を上げたくなる衝動に駆られながらも店主の動きを眺めていると、そう時間も経たずにコトと目の前にどんぶりが置かれた。
「お待たせしました」
男は受け取って、その中を覗き込む。透き通ったスープで、具はない。汁を吸ってふやけたちぢれ麺が固まって、真ん中辺りに浮いているだけだった。
「これが?」
「はい、お客様に合った一杯です」
店主はにこりと笑う。面白い店だ、と男はつくづく思った。
そんなことよりも、まずは腹を満たさねばなるまい。スープを一口すする。味はしない。もはやただのお湯なのではないかと疑ったが、それとは対照的に手は止まることがなかった。
スープに見つめられているような気配がして、ふと箸を止めた。既に麺もスープも半分以上無くなっており、食欲はいつの間にか消え失せていた。
――やはりどこからか視線がある。
その主を探して振り向くが、誰もいない。気付けば客は男と男のすぐ前に入った先客と、2人だけになっていた。となると視線の主は店主か、と1人納得してどんぶりに向き直った。
「お気に召しませんか?」
「いや……」
今度は男が言葉を濁す番だった。腹が満たされたのだから、まさか味がしないと文句は言うまい。不味い訳でもあるまいし。
決意表明とでも言うべきか、男は一息でスープを飲み切った。そして残された麺をかき込む。それを見て店主は満足そうに頷いた。
「ご馳走様でした。ではお会計を……」
男は立ち上がろうとした。ポケットから財布を取り出しかけ――そしてまた引っ込める。
「お先にそちらのお客様を」
店主が手で指し示したのは先客の座っていた方向であった。先客は既に小さなカバンを持って立ち上がり、レジの前に移動していた。先客は少し首を回し、
「すみませんね」
とかすれた声で軽く礼をした。そして、音を立てないようにそっとトレイの上に小銭を乗せる。物静かな感じの人だなというのが、一連の行動を見ていた男の抱いた印象だった。
店主はお金を数え始める。しかし、幾度か取り出しては山に戻すのを繰り返した後、申し訳なさそうに言う。
「……すみません、少し足りないようで」
先客は困ったというように、静かに笑う。その顔はどこか引きつっていた。
「これでもいいですか?」
「構いませんよ」
「それでは」
そんな短いやり取りが交わされた後、先客は手に提げていたカバンから何かを取り出した。それがよく見えなかったのと、このやり取りの意図が読めないので、男はよく分からなくなって身を乗り出した。せめて何をするのか見ようとしたのだ。
スパッと乾いた硬い音がした。それなのに、先客は顔色一つ変えずに立っていた。
よく見えなくて良かった、と男は戦慄に襲われる中安堵した。先客の手に握られていた小型のナイフが店の照明に照らされて光っていた。
ナイフを直した後、先客はレジ台の上に小さな細長い塊を置き直した。
「これで足りますか?」
店主は一瞬も迷わずにそれを受け取る。
「ええ、十分でございます。十分過ぎるくらいです」
割に合わないですかね、なんて軽口を叩いて微笑みながら、店主は塊に白い布を被せて包んだ。それを見ていた男はもはや動くことができなかった。
血も見えない、悲鳴もない。もしかしたらそれは男の悪い妄想というだけなのかもしれない。それを裏付けるように、先客は何事もなかったかのように一礼をして暖簾をくぐった。
しかし、まぶたの裏に残るあのナイフのきらめきはどうにも忘れることができなかった。
静寂の中、店主が歩いてくる。足音が響く中男は慌てて財布の中身を確認する。1枚、2枚……と、1万円札が見えて、ほっと一息。これだけあれば、店主の言葉を借りるなら十分過ぎる、はずだ。
「ご安心ください。それで足りていますので」
耳元での囁き。店主はいつの間にか後ろに回っていた。
「それに、当店では金銭以外も承っております。万が一のときは、どうぞ」
店主の手が男の財布を持つ手の、すっかり冷たくなった小指に触れた。
―― 了 ――




