感謝を忘れてしまったんだね
夜のファミレスは、昼よりも静かで、妙に現実的だ。
窓に映る自分の顔が、どこか冷たく見える。
「今日はお願いね」
メニューを閉じながら、彼女はそう言った。
軽い声だった。長い間そうしてきた人の、迷いのない声音。
僕は財布に触れながら、笑わずに聞いた。
「どうして?」
「え?」
「なんで俺?」
彼女は一瞬だけ固まって、それから少し笑った。
「だって、そういうものでしょ」
その“そういう”の中身を、僕はずっと聞きたかった。
「じゃあさ、もし俺が、家のことは全部任せるって言ったら?」
彼女はすぐに顔を上げた。
「それは違うよ。今どきそんなの変でしょ」
「何が違うの?」
「だって対等じゃないじゃん」
対等。
都合よく使われる、便利な言葉だ。
「対等ってさ」
僕はゆっくり言った。
「自分の不利益になりそうな所では平等でいたいけど、
他人が損する部分は昔のままでいてほしい、ってこと?」
彼女の目つきが少し変わった。
「そんな言い方しなくてもよくない?」
「じゃあどういう言い方ならいい?」
彼女はストローをいじりながら、視線を落とした。
「別に寄生してるわけじゃないし」
「でも、前提がそうなってるよね」
空気が、少し硬くなる。
「私、今まで奢られなかったことないよ?」
「うん。俺も払ってた」
「じゃあいいじゃん」
「よくないから聞いてる」
彼女は少し黙ったあと、言った。
「だってさ、男の人のほうが基本的に稼ぐでしょ」
「それ、どこ基準?」
「一般論」
「その一般論って、古い役割分担と同じ構造じゃない?」
彼女は眉を寄せる。
「また理屈?」
「理屈じゃないよ。矛盾の話」
僕は続けた。
「縛られたくないって言う。
でも、支えられる前提は欲しい。それって都合よくない?」
彼女の声が少し強くなる。
「じゃあ割り勘にしたいってこと?」
「そういうことじゃない」
「じゃあ何?」
「“当然”をなくしたいだけ」
彼女は息を吐いた。
「めんどくさ」
その一言が、思ったより刺さった。
「めんどくさいよ。対等って」
僕は笑った。
「でもそれ、片側だけが負担してたら、
もっとめんどくさくなる」
彼女は腕を組む。
「そんなに嫌なら、最初から言えばよかったじゃん」
「言わなかったのは俺。
でも、それが普通みたいに固定されるのは違うと思う」
沈黙が落ちる。
周りの食器の音がやけに響く。
彼女はぽつりと言った。
「私、別に払えないわけじゃないよ」
「知ってる」
「でも、出してくれる人と付き合ってきたし」
「うん」
「それが安心だったし」
そこで初めて、本音が少し見えた。
「守られてる感じがするの」
僕は少しだけ言葉を選んだ。
「守るのはいいよ。でも、役割で固定されるのは違う」
彼女は顔を上げる。
「じゃあ今日は半分?」
試すような視線だった。
「今日は、じゃなくて、これからは話して決めたい」
彼女の口元が歪む。
「なんか冷めるね、そういうの」
「冷める?」
「好きならさ、気持ちよく出してくれればよくない?」
その言葉で、議論は感情に変わった。
理屈ではなく、期待の話になった。
「それ、愛情の証明なの?」
「そういうのもあるじゃん」
「じゃあ逆は? 俺が全部払わせたら、愛情ない?」
彼女は黙る。
しばらくして、小さく言った。
「……なんか、急にケチになったみたい」
それは反論ではなかった。
ただの拗ねだった。
僕は天井を見た。
勝ち負けの話じゃない。
けれど、この空気の中で理屈を押し通せば、
きっと関係が削れる。
レシートを手に取る。
「今日は、俺が出すよ」
彼女は何も言わなかった。
少しだけ安心した顔で、水を飲んだ。
勝ったのは、彼女でも僕でもない。
ただ、古い前提だけが、まだそこに残った。
店を出ると、夜風が冷たかった。
隣を歩く彼女は、少し機嫌を戻している。
僕は財布をポケットに押し込みながら思う。
守ることは嫌じゃない。
でも、当然だと思われた瞬間に、
それはもう優しさじゃなくなる。
それでも今夜は、
優しさのふりを選んだ。
静かな敗北みたいな気持ちだけが、
胸の奥に残っていた。




