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感謝を忘れてしまったんだね

作者: P4rn0s
掲載日:2026/03/04

夜のファミレスは、昼よりも静かで、妙に現実的だ。

窓に映る自分の顔が、どこか冷たく見える。


「今日はお願いね」


メニューを閉じながら、彼女はそう言った。

軽い声だった。長い間そうしてきた人の、迷いのない声音。


僕は財布に触れながら、笑わずに聞いた。


「どうして?」


「え?」


「なんで俺?」


彼女は一瞬だけ固まって、それから少し笑った。


「だって、そういうものでしょ」


その“そういう”の中身を、僕はずっと聞きたかった。


「じゃあさ、もし俺が、家のことは全部任せるって言ったら?」


彼女はすぐに顔を上げた。


「それは違うよ。今どきそんなの変でしょ」


「何が違うの?」


「だって対等じゃないじゃん」


対等。

都合よく使われる、便利な言葉だ。


「対等ってさ」


僕はゆっくり言った。


「自分の不利益になりそうな所では平等でいたいけど、

他人が損する部分は昔のままでいてほしい、ってこと?」


彼女の目つきが少し変わった。


「そんな言い方しなくてもよくない?」


「じゃあどういう言い方ならいい?」


彼女はストローをいじりながら、視線を落とした。


「別に寄生してるわけじゃないし」


「でも、前提がそうなってるよね」


空気が、少し硬くなる。


「私、今まで奢られなかったことないよ?」


「うん。俺も払ってた」


「じゃあいいじゃん」


「よくないから聞いてる」


彼女は少し黙ったあと、言った。


「だってさ、男の人のほうが基本的に稼ぐでしょ」


「それ、どこ基準?」


「一般論」


「その一般論って、古い役割分担と同じ構造じゃない?」


彼女は眉を寄せる。


「また理屈?」


「理屈じゃないよ。矛盾の話」


僕は続けた。


「縛られたくないって言う。

でも、支えられる前提は欲しい。それって都合よくない?」


彼女の声が少し強くなる。


「じゃあ割り勘にしたいってこと?」


「そういうことじゃない」


「じゃあ何?」


「“当然”をなくしたいだけ」


彼女は息を吐いた。


「めんどくさ」


その一言が、思ったより刺さった。


「めんどくさいよ。対等って」


僕は笑った。


「でもそれ、片側だけが負担してたら、

もっとめんどくさくなる」


彼女は腕を組む。


「そんなに嫌なら、最初から言えばよかったじゃん」


「言わなかったのは俺。

でも、それが普通みたいに固定されるのは違うと思う」


沈黙が落ちる。

周りの食器の音がやけに響く。


彼女はぽつりと言った。


「私、別に払えないわけじゃないよ」


「知ってる」


「でも、出してくれる人と付き合ってきたし」


「うん」


「それが安心だったし」


そこで初めて、本音が少し見えた。


「守られてる感じがするの」


僕は少しだけ言葉を選んだ。


「守るのはいいよ。でも、役割で固定されるのは違う」


彼女は顔を上げる。


「じゃあ今日は半分?」


試すような視線だった。


「今日は、じゃなくて、これからは話して決めたい」


彼女の口元が歪む。


「なんか冷めるね、そういうの」


「冷める?」


「好きならさ、気持ちよく出してくれればよくない?」


その言葉で、議論は感情に変わった。


理屈ではなく、期待の話になった。


「それ、愛情の証明なの?」


「そういうのもあるじゃん」


「じゃあ逆は? 俺が全部払わせたら、愛情ない?」


彼女は黙る。


しばらくして、小さく言った。


「……なんか、急にケチになったみたい」


それは反論ではなかった。

ただの拗ねだった。


僕は天井を見た。


勝ち負けの話じゃない。

けれど、この空気の中で理屈を押し通せば、

きっと関係が削れる。


レシートを手に取る。


「今日は、俺が出すよ」


彼女は何も言わなかった。

少しだけ安心した顔で、水を飲んだ。


勝ったのは、彼女でも僕でもない。

ただ、古い前提だけが、まだそこに残った。


店を出ると、夜風が冷たかった。

隣を歩く彼女は、少し機嫌を戻している。

僕は財布をポケットに押し込みながら思う。


守ることは嫌じゃない。

でも、当然だと思われた瞬間に、

それはもう優しさじゃなくなる。


それでも今夜は、

優しさのふりを選んだ。


静かな敗北みたいな気持ちだけが、

胸の奥に残っていた。

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