第七話「日常の中で」
朝の光が教室の窓から差し込んでいる。
一時間目は数学。黒板には複雑な方程式が並び、教師が淡々と解説を続けている。
私はノートに数式を書き写しながら、時々隣の席に視線を向けた。
燈火くんは相変わらず猫背で、机に肘をついている。黒縁眼鏡の奥の瞳は半分閉じられていて、まるで今にも寝そうな様子だった。
でも、私は知っている。
彼は寝ているフリをしているだけで、実は授業の内容をしっかり理解していることを。
時々、わずかに目を開けて黒板を見ている。その視線は鋭く、一瞬で情報を読み取っているように見えた。
陰キャのフリ。
完璧に演じきっている。
私は思わず、口元だけで笑んだ。
二時間目は英語。教科書の長文読解をしている。
燈火くんは相変わらず机に突っ伏していたが、先生に当てられると淀みなく英文を読み上げた。その発音は、驚くほど流暢だった。
周りの生徒たちは少し驚いた顔をしていたが、すぐに授業に戻った。
燈火くんは再び机に突っ伏す。何事もなかったかのように。
三時間目は国語。古文の授業。
私は古文が少し苦手で、助詞の使い分けに苦戦していた。
ふと、燈火くんの方を見ると、彼は教科書の余白に何か書き込んでいた。
授業が終わった後、彼はそのページを少しだけ私の方に向けた。
そこには、私が分からなかった部分の現代語訳が、簡潔にメモされていた。
「ありがと……」
小さく呟くと、燈火くんは何も言わず、ただ小さく頷いた。
そして眼鏡の位置を直す。いつもの仕草。
私はまた、口元だけで笑んだ。
昼休みのチャイムが鳴った。
生徒たちが一斉に立ち上がり、廊下へと流れていく。お弁当を持ってくる生徒、学食へ向かう生徒、それぞれだ。
私は学食へ向かうことにした。
廊下は人で溢れていた。制服姿の生徒たち――男子は紺のブレザーとスラックス、女子は紺色のセーラー服にプリーツスカート。みんな、思い思いのスタイルで着こなしている。
ポニーテールにまとめた子、ショートカットの子、長い髪を三つ編みにしている子。
リボンをきっちり結んでいる子もいれば、少し緩めに結んでいる子もいる。
私は髪を下ろしたまま、リボンは中央でしっかりと結んでいる。母に「きちんとした印象」と言われたスタイルだ。
学食のカウンターに並ぶ。今日の日替わり定食は、ハンバーグと野菜炒め、ご飯と味噌汁。
「日替わり定食ひとつ、お願いします」
「はーい、少々お待ちください」
食堂のおばさんが元気よく返事をした。
トレーを受け取り、窓際の席に座る。外は晴れていて、中庭の木々が風に揺れていた。
「いただきます」
手を合わせてから、箸を取る。
ハンバーグを一口食べた瞬間――。
「ここ、いいか?」
低い声。
顔を上げると、燈火くんが立っていた。
同じく日替わり定食を乗せたトレーを持って、私の向かい側の席を指している。
「あ、うん。どうぞ」
燈火くんは無言で座り、何事もなかったかのように食事を始めた。
猫背で、黙々と箸を動かす姿は、いかにも地味な男子生徒に見える。
でも、私には分かる。
昨日の夜、固有魔法を見せてくれた彼。
魔獣を一撃で倒した彼。
優しく微笑んでくれた彼。
同じ人物だと。
思わず、クスッと笑ってしまった。
燈火くんが視線だけを私に向ける。眼鏡の奥の瞳が、「何?」と問いかけているようだった。
でも、何も言わない。
陰キャを演じ続けるつもりらしい。
私もそれに合わせて、普通に食事を続けた。
しばらくして――。
「お二人さん、ここ一緒してもいい?」
明るい声が響いた。
顔を上げると、ひなたが立っていた。ショートカットの髪をヘアピンで留めて、セーラー服のリボンを少し緩めに結んでいる。トレーには、カレーライスが乗っていた。
私は一瞬、燈火くんに視線を向けた。
彼は僅かに頷いた。
「ひなたちゃん、一緒に食べよ」
「やった!ありがとう」
ひなたは嬉しそうに席に着いた。
「美月、午前の授業どうだった?数学、難しくなかった?」
「うん、ちょっと難しかったね。二次関数のところ」
「だよねー。私、全然分かんなかった」
ひなたは大げさに肩をすくめた。
燈火くんは相変わらず黙々と食事を続けている。まるで、私たちの会話が聞こえていないかのように。
でも時々、わずかに口元が緩むのが見えた。聞いているのだ、ちゃんと。
「そういえば、ひなたちゃんは何属性の魔法が使えるの?」
私は尋ねた。
「私は土属性よ」
ひなたは誇らしげに答えた。
「地面を盛り上げたり、小さい石を動かしたりできるの。まだ初級だけどね」
「すごいね」
「美月は特異属性なんでしょ?どう、発現できた?」
その質問に、私は笑顔になった。
「実はね、昨日の夜、お風呂に入ってリラックスしてたら……掌から風を起こせたの!」
「えっ、マジで!?すごいじゃん!」
ひなたが目を輝かせた。
「ほんの少しだけだけどね。でも、初めて自分の意思で魔法が出せて、すごく嬉しかった」
「それ、絶対進歩だよ!美月、才能あるんじゃない?」
ひなたの言葉が嬉しくて、頬が熱くなった。
燈火くんは何も言わなかったが、箸を持つ手が一瞬だけ止まった。
昼休みが終わり、私たちは教室へと戻った。
廊下を三人で歩きながら、私は尋ねた。
「午後の授業って、何だっけ?」
隣を歩いていた燈火くんが、ボソッと答えた。
「魔法基礎実技」
その声を聞いて、ひなたが驚いたように目を見開いた。
「私、黒沢くんの声を初めて聴いたかも」
ひなたはクスクスと笑いながら、嬉しそうに燈火くんを見た。
燈火くんはつまらなそうに、視線を逸らしながら答えた。
「そりゃ、どうも」
その素っ気ない態度に、ひなたは少し面食らったようだったが、すぐに笑顔に戻った。
「黒沢くん、クールだね」
「別に」
短い返事。
私はその様子を見て、また口元だけで笑んだ。
午後、体育館のように広い実技室へ向かう。
燈火くんと並んで歩きながら、彼が前を向いたまま言った。
「風、出せたんだな」
私は彼の方に顔を向けた。
「うん、燈火くんのおかげで風を発現できたよ」
嬉しそうに答えると、燈火くんの口元がわずかに緩んだ。
「今日はその発現できた時のイメージでやれば大丈夫だから」
優しい声音だった。
授業中とは全く違う、柔らかくて温かい声。
「ありがとう」
私は微笑んだ。
実技室に入ると、既に何人かの生徒が準備運動をしていた。
担当教師が全員を集め、説明を始めた。
「今日も前回と同じように、順番に魔法を発現してもらいます。ただし、今回は少し長めに維持してください。持続時間も魔力制御の重要な要素です」
緊張が走る。
出席番号順に、生徒たちが前に出ていく。
最初の生徒――火属性の男子が、掌に炎を灯した。前回よりも明るく、安定している。十秒ほど維持して、消した。
「良い。次」
水属性の女子が、掌から水流を出した。前回は途切れ途切れだったが、今回は滑らかに流れている。彼女のポニーテールが揺れ、真剣な表情で集中していた。
一人、また一人と成功していく。
みんな、前回よりも上達していた。
そして――私の番が来た。
前に出る。
足が少し震えた。
深呼吸。
掌を前に出す。
お風呂で感じたイメージを思い出す。
リラックス。
温かい湯船。
体の力を抜いて。
魔力を、掌へ。
風をイメージする。
そよ風。
優しく、柔らかく――。
ふわり。
掌から、風が吹き出した。
微かだけど、確かに。
教師の前髪が、わずかに揺れた。
「やったじゃない、白鳥!」
教師が嬉しそうに言った。
周りの生徒たちからも、拍手が起こった。
「すごい、美月!」
ひなたの声が聞こえた。
頬が熱くなる。
でも、嬉しかった。
列に戻る時、燈火くんと目が合った。
彼は小さく頷いた。その瞳には、誇らしげな光があった。
そして――燈火くんの番になった。
彼はゆっくりと前に出た。
猫背で、自信なさげな足取り。
掌を前に出し、眉間に皺を寄せる。
顔を顰めて、必死に集中しているように見える。
額に汗が滲む。
私は固唾を呑んで見つめた。
彼の真の姿を知っている。
本当は、どれほどの力を持っているか。
でも、今は――。
ポタリ。
指先から、水滴が一粒垂れた。
そして――。
ポタリ、ポタリ、ポタリ……。
前回は途切れ途切れだったのが、今回は連続して滴り落ちている。
そして、やがて細い線のように繋がった。
糸のような、細い水流。
でも、確かに流れている。
「黒沢、よく頑張った!」
教師が声をかけた。
「前回よりずっと良くなってる。この調子だ」
周りの生徒たちも拍手した。
「黒沢くん、すごいじゃん」「めっちゃ頑張ってたね」「あの集中力、見習いたい」
称賛の声。
燈火くんは照れたように頭を掻きながら、列に戻ってきた。
私の隣を通り過ぎる時、一瞬だけ目が合った。
その瞳には、少しだけ悪戯っぽい光があった。
まるで、「うまく演じられたでしょ?」と言っているような。
私は胸が温かくなるのを感じて、自然と笑顔になった。
授業が終わり、放課後。
私と燈火くんは、特異属性管理機構へと向かった。
いつもの裏通り。漆黒の建物。
中に入ると、柳瀬さんが待っていてくれた。
「いらっしゃい、二人とも」
「こんにちは、柳瀬さん」
私は丁寧にお辞儀をした。
「あの、今日はご挨拶だけなんですけど……後日、お父さんと一緒にお話を伺いに来ます」
柳瀬さんは優しく微笑んだ。
「慌てることはないんだよ、美月さん」
その声は、まるで孫を諭すような温かさがあった。
「魔法の訓練は、いつでも始められる。でも、一度始めたら、簡単には後戻りできない。だから、よく考えて決めてほしい」
「はい……」
「ご両親とも、しっかり話し合ってください。君の人生は、君だけのものではないから」
柳瀬さんの言葉は重かった。
でも、私の中に芽生えた決意は揺らがなかった。
燈火くんの隣で、一緒に戦えるようになりたい。
自分の魔法を理解したい。
固有魔法を使えるようになりたい。
その想いは、日に日に強くなっていた。
「分かりました。ちゃんと話し合います」
私は真剣に答えた。
柳瀬さんは満足そうに頷いた。
「では、今日はこれで。また来てください」
建物を出て、夕暮れの街を歩く。
燈火くんが隣を歩いている。
「今日、魔法発現できたね」
彼が言った。
「うん。燈火くんのアドバイスのおかげ」
「いや、美月が頑張ったからだよ」
その言葉が嬉しくて、少し照れくさかった。
「燈火くんも、上手だったよ。演技」
「バレバレ?」
「私には」
燈火くんが小さく笑った。
夕日が、二人の影を長く伸ばしていた。
こんな風に、普通の学校生活を送りながら。
でも、二人だけの秘密を共有しながら。
この日々が、かけがえのないものに思えた。
私は、隣を歩く燈火くんを見た。
彼も、私を見た。
目が合って、二人で笑った。
これから、どんな未来が待っているのか分からない。
でも、今は――。
この瞬間が、幸せだった。
お読みくださり有難うございます!!
この作品を気に入ってもらえましたら、下にある☆☆☆☆☆やブックマーク、スタンプで応援いただけると大変励みになります!!
読者の皆様からの応援が次へのモチベーションになります!!




