第四話「覚醒の刻」
空気が、凍りついた。
商店街の入り口、街灯の光が届かない路地の奥から、それは現れた。
最初に見えたのは、赤く光る二つの瞳。次に、黒い影のような巨大な体躯。四足歩行の獣のような姿だが、背中からは無数の棘が生えていて、まるで悪夢の中の生き物のようだった。
魔獣――。
教科書の中だけの存在だと思っていた。でも、今、それは確かにそこにいた。
「白鳥さん、動くな」
黒沢くんの声が、低く、静かに響いた。
彼は私の前に立ち、魔獣との間に壁を作るように両手を広げた。その背中からは、さっきまでの柔らかさが完全に消えていた。張り詰めた空気。研ぎ澄まされた意志。
魔獣が、低い唸り声を上げた。
グルルルル――。
地を這うような、腹の底に響く音。威嚇だ。獲物を前にした肉食獣の、本能的な威圧。
私は体が震えた。足が、まったく動かない。
でも、黒沢くんは違った。
彼の眼光が、鋭くなった。
ゆっくりと、黒縁眼鏡を外す。そして振り向きもせず、後ろの私に向かって差し出した。
「これ、預かって」
「え……」
震える手で、眼鏡を受け取る。
眼鏡を外した黒沢くんの顔を、私は初めて見た。普段は隠れていた瞳が、まっすぐに魔獣を捉えている。その目には、恐怖も迷いもなかった。
「来いよ」
黒沢くんが、静かに言った。
挑発。
いや、余裕。圧倒的な自信に裏打ちされた、余裕。
魔獣の瞳が、更に赤く輝いた。
グオオオオオッ!!
咆哮。
空気が震えた。魔獣の体が膨張し始める。筋肉が隆起し、背中の棘が一本一本太く鋭くなっていく。怒りに呼応するように、その姿が強大化していく。
禍々しい。
それ以外に言葉が見つからなかった。
私は身をすくめ、震えた。膝が笑って、立っているのがやっとだった。
対照的に、黒沢くんは背筋を伸ばし、堂々と立っていた。
黒沢くんって――いったい、何者なの?
この余裕は、何?この自信は、どこから来るの?
次の瞬間、魔獣が動いた。
速い。
獣の本能が研ぎ澄まされた、弾丸のような突進。地面を蹴る度に、アスファルトに亀裂が走る。鋭い牙を剥き出しにして、黒沢くんに襲いかかる。
私は思わず目を閉じかけた。
でも――。
ザアアアアッ!
水が噴き出す音。
目を開けると、黒沢くんの前に巨大な水の壁が出現していた。透明で、でも確かな質量を持った、厚さ数十センチはありそうな水の幕。
魔獣の牙が、その壁に激突した。
ガキイイインッ!
金属がぶつかり合うような甲高い音。
魔獣が弾き返された。地面を転がり、すぐに体勢を立て直す。
その瞳が、怒りに燃えていた。
自分の攻撃が通らない。それが、魔獣の本能を刺激したのだろう。
そして――魔獣の瞳が、一瞬だけすぼめられた。
その視線が、私を捉えた。
背筋が凍る。
魔獣は気づいたのだ。黒沢くんが、私を庇っていることに。弱点は、守るべき対象。
魔獣が再び動いた。
今度は単純な突進ではなく、俊敏なステップを刻みながら左右に移動する。フェイント。撹乱。そして、隙を見つけたら一気に――。
黒沢くんも応戦した。
水の刃を放つ。鞭のようにしなる水流で薙ぎ払う。氷の槍を作り出して投擲する。
どの攻撃も、教科書には載っていない高度な技術だった。
でも、黒沢くんは前に出られない。
私が、背後にいるから。
私が、足枷になっている。
攻防が一進一退を繰り返す。
魔獣の爪が地面を抉る。ガリガリガリッ!アスファルトが砕け散る。その破壊力――もし人間に当たれば、一撃で致命傷だ。
黒沢くんの水魔法が魔獣を押し返す。でも、決定打には至らない。
そして――。
魔獣が、大きく跳躍した。
黒沢くんの頭上を越えるような軌道。空中で体を捻り、後ろ足で蹴りを放つ――かに見えた。
フェイント。
黒沢くんの意識が、一瞬だけ上方に向いた。
その瞬間。
魔獣が空中で急激に方向転換し、横に飛んだ。
狙いは――私。
「美月!!」
黒沢くんの叫び声。
名前を、初めて呼ばれた。
でも、体が動かない。
魔獣の爪が、眼前に迫る。
四本の鋭い爪。
避けられない。
時間が、ゆっくりと流れた。
爪が、私のセーラー服に触れる。
バリリリリッ!
布が裂ける音。
でも――痛みはない。
なぜ?
気づいた。
私の体が、後ろにスライドしていた。
風。
自分でも意識していなかった。でも、確かに発現していた。風属性の魔法。攻撃を受ける瞬間、本能的に体を後方へ移動させていた。
魔獣の爪は、セーラー服の上着だけを捉えた。
四本の爪痕。
胸の部分が、バッサリと開いた。
私は呆然と、自分の服を見下ろした。
黒沢くんが振り返った。
その瞳が、大きく見開かれた。
彼の視線の先――裂けたセーラー服から覗く、白いブラジャーと、その上に膨らむ双丘。
一瞬だけ、時が止まった。
そして――黒沢くんの表情が変わった。
怒り。
純粋な、燃えるような怒り。
「くそがあああああっ!!」
咆哮。
黒沢くんが右腕を振り下ろした。
その手から――。
光。
眩い、眩い光。
レーザー光線のような一筋の火線が、魔獣に向かって放たれた。
シュウウウウウウウッ!!
空気が焼ける音。
火線は魔獣の胴体を――真っ二つに斬った。
いや、斬ったのではない。焼き切ったのだ。
魔獣は声を上げる間もなく、炭化した。
そして、火線は止まらなかった。
魔獣の向こうの道路を、一直線に走る。
アスファルトが真っ赤に溶ける。グツグツと煮立ち、蒸気が上がる。街灯が一本、火線に触れて爆発した。
数秒後、火線は消えた。
後には、100メートル以上続く一直線の焼跡が残っていた。
静寂。
魔獣の死骸が、灰になって風に散っていく。
私は立ち尽くしていた。
何が起こったのか、理解が追いつかない。
裂けたセーラー服。
はだけた胸元。
でも、それすらも意識できないほど、目の前の光景が衝撃的だった。
足音。
黒沢くんが走り寄ってくる。
彼の顔が――見たことのない表情をしていた。
焦燥。後悔。そして、何か決意したような強さ。
私と向き合った瞬間、彼の視線が一瞬だけ下がった。
私の胸元。
形の良い、白く柔らかい双丘。レースのついた薄いブラジャーが、夕暮れの光の中で透けて見えていた。
黒沢くんの顔が、真っ赤になった。
「あっ……」
慌てて視線を逸らし、彼は自分の制服のブレザーを脱いだ。
「これ……」
ブレザーを私の肩に羽織らせる。温かい。彼の体温が残っている。
「ありがと……」
私は呟いた。
まだ、状況が理解できていなかった。
自分が襲われたこと。
服が裂けたこと。
胸が露になっていること。
そして、黒沢くんの圧倒的な力。
全てが、夢のようだった。
「済まなかった」
黒沢くんが、深く頭を下げた。
「俺が、もっと早く動いていれば……」
「え……?」
「白鳥さんを、危険な目に遭わせた。服も……その……」
彼の声が震えていた。
怒りではなく、自責。
「黒沢くん……」
私は、ようやく状況を理解し始めた。
自分の胸が露になっていたこと。
彼がそれを見てしまったこと。
でも、彼は私を守ろうとしていたこと。
そして――魔獣を、一瞬で消滅させるほどの力を持っていること。
「大丈夫……怪我はないから」
震える声で言った。
黒沢くんが顔を上げた。その瞳には、まだ後悔の色が残っていた。
「本当に?」
「うん……風の魔法で、避けられた。自分でも驚いたけど……体が勝手に動いた」
「そっか……良かった」
彼は安堵したように息をついた。
でも、すぐに周囲を警戒するように視線を巡らせた。
「ここにいるのは危険だ。他の魔獣が来るかもしれない。それに……」
彼は焼け焦げた道路を見た。
「これ、目立ちすぎた。すぐに警察か、魔法対策課が来る」
「魔法対策課……?」
「魔法犯罪や魔獣を扱う特殊部署。俺たちが高校生だって分かれば、色々面倒なことになる」
黒沢くんは私の手を取った。
「走れる?」
その手の温かさに、心臓が跳ねた。
「う、うん……」
「じゃあ、行こう」
私たちは走り出した。
彼のブレザーを羽織ったまま、裂けたセーラー服の下で揺れる胸を押さえながら。
商店街を抜け、住宅街に入り、ようやく人気のない公園で立ち止まった。
二人とも、息が上がっていた。
「もう……大丈夫だと思う」
黒沢くんが言った。
私は彼のブレザーを握りしめた。まだ、体の震えが止まらない。
恐怖。
驚愕。
そして――何か、名前のつけられない感情。
「白鳥さん」
黒沢くんが、優しく言った。
「今日のこと……誰にも言わないで」
「……うん」
「俺の力のこと。魔獣のこと。全部……秘密にしてほしい」
彼の瞳を見つめた。
そこには、孤独があった。
でも同時に、信頼もあった。
私を、信じてくれている。
「分かった。誰にも言わない」
「ありがとう」
彼は微笑んだ。
その笑顔は、今まで見た中で一番、本物に見えた。
夜風が吹いて、桜の花びらが舞った。
私は彼のブレザーの襟を引き寄せた。
温かい。
彼の匂いがする。
そして気づいた。
この感情が、何なのか。
でも、まだ言葉にはできなかった。
ただ、確かなことがひとつあった。
今日から、私と黒沢くんの距離は――
もう、元には戻らない。
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