第三話「隠された力」
入学から一週間が経った月曜日の午後、私たちは初めての魔法基礎実技の授業を迎えた。
体育館のような広い実技室に、クラス全員が集まっている。壁際には防護壁が張られ、床には魔力を吸収する特殊な素材が敷かれているという。初心者の魔法暴発に備えた設計らしい。
「では、出席番号順に、自分の属性の初級魔法を発現してもらいます」
担当の教師――魔法実技を専門とする若い男性教師が、淡々と説明した。
「火属性なら掌に灯を。水属性なら水鉄砲程度の水流を。土属性なら足元の地面をわずかに盛り上げる。風属性なら髪が揺れる程度の風を起こす。光属性、闇属性の人は、それぞれ掌に光球か影球を作ってください」
簡単そうに聞こえた。でも、私の手のひらは汗で湿っていた。
最初の生徒が前に出た。火属性だという彼は、深呼吸をして手を前に突き出した。数秒後、掌にろうそくの炎のような小さな火が灯った。
「良い。次」
一人、また一人と成功していく。水鉄砲のような水流を出す生徒、足元の床を少し盛り上げる生徒、前髪をそよそよと揺らす風を起こす生徒。みんな、初めてにしては上手だった。
そして、黒沢くんの番が来た。
彼は水属性だと申告した。ゆっくりと前に出て、両手を前に差し出す。
眉間に皺を寄せ、顔を歪めて、必死に集中している様子だった。額に汗が滲む。息が荒くなる。まるで重い荷物を持ち上げようとしているかのような、苦しそうな表情。
そして――指先から、ぽたり、ぽたりと、水滴が数粒垂れた。
それだけだった。
「ぷっ」
誰かが笑いを堪える音が聞こえた。
「黒沢、あれで精一杯?」「マジで弱すぎじゃね?」「水属性って一番簡単なのに」
教室のあちこちから、嘲笑が漏れる。
黒沢くんは何も言わず、俯いたまま列に戻った。その背中は丸まっていて、いかにも気弱そうに見えた。
でも、私は知っている。
中庭で見た、あの水の竜を。空中を優雅に舞った、あの完璧な制御を。
あれが「できない」人間が、こんな初歩的な魔法で苦労するはずがない。
彼は演じている。弱い自分を。
でも、なぜ?
「次、白鳥美月」
私の名前が呼ばれた。
足が震える。前に出て、教師の前に立つ。
「白鳥は……特異属性だったな。では、まず水属性から試してみよう。イメージするんだ。体内の魔力が手のひらに集まり、水という形で現れる様子を」
私は目を閉じて、集中した。
体の奥底に、確かに何かがある。温かくて、蠢くような感覚。それを手のひらへ、手のひらへと導いていく。
イメージする。水。冷たくて、透明で、流れる水。
手のひらが熱くなった。何かが生まれようとしている――。
目を開ける。
でも、そこには何もなかった。
手のひらには、わずかな湿気すら感じられない。
「もう一度、今度は火属性で」
再び試みる。今度は火をイメージする。燃える炎。暖かい光。
また、手のひらが熱くなる。確かに、何かが発現しようとしている感覚がある。
でも、やはり何も起こらない。
「風は?土は?」
何度も何度も試した。その度に、発現の兆しだけは感じられるのに、具現化しない。まるで、喉まで出かかった言葉が、どうしても声にならないような、もどかしさ。
「今日はここまでにしよう。白鳥は、まだ魔力のコントロールに慣れていないようだ。焦らず、少しずつ練習していけばいい」
教師は優しく言ってくれたが、その言葉が逆に胸に突き刺さった。
列に戻ると、周りの視線が痛かった。同情、困惑、そして少しの優越感――色々な感情が混ざった目で、私を見ている。
六つの属性すべてに反応する特異な魔法。
でも、ひとつも発現できない。
意味があるのだろうか、この力に。
授業が終わり、教室に戻る途中、ひなたが隣に並んだ。
「美月、気にしないで」
彼女は明るく言った。
「特異属性なんだもん。普通とは違うんだよ。きっと、発現の仕方も特別なんだよ」
「でも……」
「大丈夫。絶対できるようになるって。だって、研究員の人たちがあんなに興奮してたんでしょ?すごい才能があるってことじゃん」
ひなたの言葉は、心からのものだった。彼女には、嫉妬や嫌味が一切ない。
「ありがとう、ひなたちゃん」
「へへ、どういたしまして。あ、そうだ。今度お昼一緒に食べよ?」
「うん、ぜひ」
初めての友達ができた気がして、少しだけ心が軽くなった。
翌日の放課後、私は図書館へ向かった。
黒沢くんに薦められて借りた『現代特異属性論』を読み終えて、感想を伝えたかったのだ。そして、できれば昨日の実技の授業のことも聞いてみたかった。
図書館に入ると、予想通り彼がいた。奥の閲覧席で、分厚い本を読んでいる。
「黒沢くん」
声をかけると、彼は顔を上げて小さく微笑んだ。
「白鳥さん。本、読み終わった?」
「うん」
私は向かいの席に座った。
「すごく面白かった。特に、魔力の共鳴理論のところ。魔法って、単純に属性の力を出すだけじゃなくて、術者の精神状態とか、周囲の環境とも共鳴するんだね」
「よく理解できたね。あそこ、結構難しいのに」
彼は少し驚いたような顔をした。
「黒沢くんが選んでくれた本だから。分かりやすかったよ」
本当だった。専門書なのに、不思議と理解しやすかった。
「あの……相談があるんだけど」
私は意を決して切り出した。
「昨日の実技の授業のこと」
黒沢くんの表情が、わずかに変わった。
「魔法が、発現しなかったんだ。兆しは感じるのに、形にならなくて……」
「ああ、それは……」
彼は少し考えるような仕草をしてから、ノートを取り出した。
「多分、魔力の出力と指向性の問題だと思う」
「出力と指向性?」
「うん。白鳥さんの魔法は多重共鳴型だから、六つの属性すべてに魔力が分散しちゃう。つまり、一つの属性に集中させる力が足りないんだ」
彼はノートに簡単な図を描いた。
「普通の人は、ひとつの属性に百パーセントの魔力を注げる。でも白鳥さんは、六つに分かれるから、一つあたり約16パーセントくらいしか使えない」
「そんな……じゃあ、私は……」
「いや、逆に考えれば」
彼は図に矢印を書き加えた。
「六つを同時に使えば、総出力は普通の人の六倍になる。ただ、そのコントロールが難しいだけ」
その説明の的確さに、私は息を呑んだ。
「黒沢くんって……すごく詳しいんだね、魔法のこと」
「まあ、興味があって」
また、この言葉。でも、単なる興味でここまで詳しくなれるだろうか。
私は勇気を出して聞いた。
「黒沢くんの属性って……水属性なんだよね?」
彼の手が、一瞬だけ止まった。
「……うん」
「昨日の授業、大変そうだった」
「ああ、まあね」
彼は眼鏡の位置を直した。また、この仕草。
「でも、私……中庭で見たよ」
その言葉に、彼の体が硬直した。
「水の竜。すごく綺麗で、精密で……あれを作れる人が、初級魔法で苦労するなんて、おかしいって思った」
沈黙が降りた。
長い、長い沈黙。
やがて、黒沢くんは小さく息をついた。
「……見られてたんだ」
「ごめん、盗み見するつもりじゃ……」
「いや、いいんだ。どうせ、いずれ分かることだし」
彼は眼鏡を外し、目頭を押さえた。その仕草に、何か疲れたようなものを感じた。
「俺も、特異属性なんだ」
その告白に、私は息を呑んだ。
「でも白鳥さんとは違う。俺のは……出力が強大すぎる相克属性」
「相克……属性?」
「水と火、両方に適性がある。でも、それぞれの出力が常人の数十倍。だから、普通に魔法を使おうとすると……」
彼は拳を握りしめた。
「制御できないんだ。全力で抑えて、やっと水滴が出る程度。もし本気で発現させたら、この学校が水没するか、焼け野原になる」
私は言葉を失った。
強大すぎる力。それは祝福ではなく、呪いなのかもしれない。
「だから、隠してる。弱いフリをして、誰にも気づかれないように」
「それって……辛くないの?」
「慣れた」
彼は淡々と言った。でも、その目には深い孤独が宿っていた。
「ずっと、一人だった。この力を知ってるのは、学校の上層部と研究機関の一部だけ。友達も作れない。本当の自分を見せられない」
胸が締め付けられた。
彼は、ずっとこんな風に生きてきたのだろうか。
「でも……」
私は言った。
「私は知ってしまった。黒沢くんの本当の力」
彼は顔を上げた。
「怖くないの?」
「怖くない」
即答していた。
「むしろ……似てるかもって思った。私も、自分の力が分からなくて、不安で。でも、それを隠すんじゃなくて、向き合おうとしてるところが……」
言葉が続かなかった。何を言おうとしているのか、自分でもよく分からない。
黒沢くんは、小さく笑った。
「白鳥さん、優しいんだね」
「そんなこと……」
「いや、本当に。ありがとう」
その笑顔は、今まで見たどの表情よりも、穏やかだった。
図書館を出て、一緒に下校することになった。
夕暮れの校門を抜け、商店街の方へと歩く。黒沢くんは、いつもより少し饒舌だった。魔法理論のこと、学校のこと、他愛もない話。
でも、その時だった。
背筋に悪寒が走った。
何か、おかしい。
空気が、重い。まるで、目に見えない何かが、周囲を取り囲んでいるような感覚。
「黒沢くん……」
「ああ、気づいた?」
彼の声が、低くなった。さっきまでの柔らかさが消え、研ぎ澄まされた緊張感が宿っている。
「何か、いる」
「うん。多分……魔獣だ」
「魔獣……?」
教科書で読んだことがある。魔力の乱れから生まれる、攻撃性の高い生物。都市部では滅多に出現しないが、ゼロではない。
「白鳥さん、俺の後ろに」
黒沢くんが、私の前に立った。
その背中は、もう猫背ではなかった。
まっすぐで、頼もしくて――。
そして、周囲の空気が更に変わった。
何かが、近づいてくる。
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