第5話 クラーケンは「イカ焼き」のためにある
魔王城での生活にも慣れ、居酒屋『エレノア』の経営も軌道に乗ってきたある日のこと。
私は厨房で、ランチ営業の仕込みをしていた。
今日の予定は『ドラゴン・ミートの生姜焼き』だ。
ドラゴン肉は筋張っているが、すりおろした『雷鳴玉ねぎ』に漬け込むと驚くほど柔らかくなることを発見したのだ。
鼻歌交じりに玉ねぎを刻んでいると――
ズズズズズ……ッ!
突如、城全体が激しく揺れた。
棚の皿がガシャンと音を立てる。
「きゃっ! 地震!?」
私が調理台にしがみつくと同時に、城内にけたたましい警報の鐘が鳴り響いた。
カンカンカンカンッ!!
「陛下! 大変です!!」
厨房にヴァルガスが血相を変えて飛び込んできた。
その後ろから、武装したゼッド様も現れる。
その表情は、居酒屋で見せる緩んだ顔ではなく、冷徹な魔王の顔だった。
「エレノア、無事か!」
「魔王様、一体何が?」
「『嘆きの海』からグラン・クラーケンが現れた。城壁を触手で破壊しようとしている」
グラン・クラーケン。
魔界の海に潜む、山のように巨大なイカの魔物だ。
その足一本で船を沈め、口から吐く墨は海を猛毒に変えるという。
「クラーケン……」
その名前を聞いた瞬間、私の脳裏にある映像がフラッシュバックした。
夏祭り。
屋台。
鉄板の上でジュージューと焼かれる、醤油色のアイツ。
そして、揚げたてサクサクのリング状のアイツ。
私の目が、キラーンと怪しく光った。
「ゼッド様。私も行きます」
「なっ、馬鹿を言うな! 危険すぎる! 奴はSランク級の魔物だぞ!」
「大丈夫です。戦うのは魔王様ですから。私は……その後の『後片付け』担当として同行します」
私はエプロンの紐を締め直し、愛用の包丁セットと巨大な鉄板(特注品)を亜空間収納に放り込んだ。
私の目には、もはやクラーケンが恐怖の対象ではなく、泳ぐ巨大食材にしか見えていなかった。
◇
城の裏手に広がる『嘆きの海』は、荒れ狂っていた。
ザパァァァン!!
黒い波間から、ぬらりと光る巨大な触手が何本も伸びている。
それは城壁よりも高く、先端には鋭い吸盤がびっしりと並んでいた。
中心には、不気味に光る巨大な単眼。
「グルルルルォォォォォ……!!」
耳をつんざくような咆哮。
兵士たちが恐怖に震えている。
「ひぃっ、あんな化け物、どうやって……」
「おしまいだ……城が潰される……」
しかし、魔王ゼッド様は一歩前に出ると、マントを翻した。
「騒ぐな。今の余は、満腹だ」
彼は右手を空に掲げた。
以前のようなガリガリの腕ではない。
私の料理で筋肉がついた、力強い腕だ。
「エレノアの飯で養ったこの魔力、貴様ごときイカ風情に負けるはずがない!!」
……セリフはちょっとアレだけど、魔力は凄まじかった。
彼の手のひらに、漆黒の雷が収束していく。
「消え失せろ! 『ヴォイド・サンダー』!!」
ドォォォォォォン!!
黒い稲妻が、海面を焼き尽くす勢いでクラーケンに直撃した。
閃光。
そして轟音。
「ギィィィヤァァァァァ……!」
断末魔と共に、巨大な巨体が海面に横たわった。
一撃だ。
さすが魔王様。完全復活している。
兵士たちが「うおおおお!」と歓声を上げる中、私はヴァルガスに指示を飛ばした。
「ヴァルガスさん! 兵士たちに指示して、あのイカを引き上げてください! 急いで! 鮮度が落ちちゃう!」
「は、はいっ!? いや、しかしあれは魔物で……」
「いいから! 今夜は宴会ですよ!」
◇
海岸に引き上げられたグラン・クラーケンは、近くで見ると圧倒的な大きさだった。
足一本が丸太より太い。
これなら、城の兵士全員分のお腹を満たせるだろう。
私は即席で海岸に調理場を設営した。
魔魔法で石を組んでかまどを作り、その上に特注の巨大鉄板を乗せる。
火魔法使いの兵士たちに火力を調整してもらい、準備は万端だ。
「まずは、この足からいくわよ!」
私は兵士たちに切り分けさせた巨大な足を、さらに輪切りにしていく。
その断面は白く透き通り、新鮮そのものだ。
メニューその1:『屋台風イカの姿焼き』
熱した鉄板に油を引く。
ジュワッ!
そこに、イカの切り身を豪快に並べる。
ジューーーーーッ!!
水分が蒸発し、凄まじい音が響き渡る。
海岸にいた兵士たちが、何事かと振り返る。
「タレを投入!」
醤油、酒、みりん、そしてたっぷりの生姜を混ぜた特製ダレを、鉄板の上から回しかける。
ジュワワワワワァァァァァ!!
その瞬間。
爆発的な香りの暴力が襲いかかった。
焦げた醤油の香ばしさ。
みりんの甘い香り。
それらがイカの焼ける匂いと混ざり合い、潮風に乗って戦場(だった場所)全体へ広がっていく。
「な、なんだこの匂いは……!?」
「さっきまで戦闘で死ぬかと思っていたのに、急に腹が減ってきたぞ……」
兵士たちが鼻をヒクヒクさせながら集まってくる。
「まだまだ! こっちでは揚げ物いくわよ!」
隣に用意した巨大鍋では、油が適温に達していた。
小麦粉と片栗粉、そして数種類のスパイスを混ぜた衣をまぶしたイカリングを、次々と投入する。
メニューその2:『サクサク・イカリングフライ』
シュワシュワシュワ……。
きつね色に揚がったリングを引き上げ、油を切る。
そして、ここに取り出したるは、私が夜なべして作った『悪魔のマヨネーズ』だ。
魔界の『コカトリスの卵』の黄身だけを使い、酢と油で乳化させた濃厚な一品。
そこに一味唐辛子を混ぜれば、最強のディップソースの完成だ。
「さあ、みんな並んで! 戦勝祝いのイカ祭りよ!」
私が声を上げると、最初は恐る恐るだった兵士たちが、一人、また一人と手を伸ばした。
まずは一人のオーク族の兵士が、イカ焼きを口にした。
「……!」
彼の小さな目がカッと見開かれる。
「う、うめええええええ!! なんだこれ!? このタレ! 噛むと汁が出る! 柔らかい!!」
その叫び声が合図だった。
「俺にもくれ!」
「こっちには揚げたやつを!」
あっという間に大行列ができた。
鉄板の前は戦場のような忙しさだ。
「エレノア、余の分は?」
後ろから、待ちきれない様子のゼッド様が顔を出した。
戦闘後の高揚感もあってか、瞳がギラギラしている。
「もちろん、特等席を用意してあります」
私は焼き立てのイカ焼き(一番柔らかい部分)と、揚げたてのリングフライを皿に盛り、冷えたビールと共に手渡した。
ゼッド様は、岩場に腰を下ろすと、イカ焼きにかぶりついた。
ガブッ。
弾力のある肉に歯が食い込む。
だが、決して硬くはない。
プツンと噛み切れる絶妙な食感。
「んんっ……!!」
口いっぱいに広がる醤油の焦げた風味。
噛むたびに溢れ出すイカの甘み。
「これは……酒泥棒だ……! この焦げた醤油の味だけで、酒が飲める!」
彼はビールをぐいっと煽り、次はイカリングを手に取った。
たっぷりとピリ辛マヨネーズをつけて。
サクッ。
「……ッ!! なんだこのソースは!!」
ゼッド様が驚愕の声を上げた。
「これが『マヨネーズ』です。カロリーの化身ですが、揚げ物との相性は世界一です」
「罪深い……! これは罪の味がするぞ! 酸味とコクが、油っこさを消し去り、旨味だけを増幅させている!」
ゼッド様の箸が止まらない。
周囲を見渡せば、ヴァルガスも両手にイカ焼きを持って幸せそうな顔をしているし、兵士たちは「エレノア様バンザイ!」「イカ最高!」と叫んでいる。
かつては恐怖の象徴だったクラーケンが、今やみんなを笑顔にするご馳走に変わっていた。
「……すごいな、其方は」
ふと、ゼッド様が呟いた。
夕日が海に沈み、空が茜色と群青色のグラデーションに染まっている。
「余は力で魔物を倒しただけだ。だが、其方はその魔物を『幸せ』に変えてしまった。……殺伐とした戦場を、こんな楽しい宴に変えられるのは、世界で其方だけだ」
彼は私の手についた煤を、優しく指で拭ってくれた。
その指先が熱くて、私は思わずドキッとしてしまう。
「私はただ、美味しいものが食べたいだけですよ」
照れ隠しにそう言うと、ゼッド様は優しく笑った。
「その『食欲』が、余とこの国を救っているのだ。……ありがとう、エレノア」
真っ直ぐな瞳で見つめられ、私は顔が赤くなるのを感じた。
鉄板の熱気のせいだけではないはずだ。
「あーもう! そんなこと言ってる間に焦げちゃいますよ! ほら、おかわりです!」
「おお、すまん。……マヨネーズ多めで頼む」
「はいはい」
宴は夜遅くまで続いた。
魔王城の海岸には、美味しそうな匂いと、楽しげな笑い声がいつまでも響いていた。
この一件で、私は兵士たちから『戦場の料理長』あるいは『食の聖女』と呼ばれるようになり、魔王様との距離もぐっと縮まった気がする。
だが、そんな幸せな日々の裏で。
人間界では、私を追放した元婚約者たちが、とんでもない事態を引き起こそうとしていたのだった。




